第4話

 部活を辞めたことでできた時間をバイトのシフトに充てようと計画したが、「勉強するか休むかどちらかにしておけ」という両親の鶴の一声によって頓挫した。叔父貴に相談しても「忙しいときだけは頼むかもしれんが、まずは親の言うことをちゃんと聞け」ということでシフト倍増作戦は完全な失敗に終わったのであった。


「ってわけで、忙しかったら言って下さい」


 平日の放課後。俺はシフトが入ってるわけでも無いのにバイト先の喫茶店に客として訪れてカウンターに座り、コーヒーを注文した。


「お前、バイト先で客として遊びに来てリラックスできるって一種の才能だぞ」


 店長が呆れながら呟く。が、なんだかんだでコーヒーと一緒に従業員向けの賄いをオマケしてくれるのでありがたい。賞味期限間近の見切り品だったりするが。


「……まあ……良いんじゃないですか……。こっちとしては助かるし……」


 女性にしては妙に陰鬱でしゃがれた声が聞こえてきた。

 バックヤードからこの店のエプロンを着た女性が現れる。黒田先輩だ。

 本来彼女の背は高いのだが、猫背であまり大きいような印象がない。更に前髪が長く目がよく見えないので、なんとも言えない暗さが漂っている。


「あ、黒田先輩。お疲れ様です」

「ひさしぶり……最近、シフト合わなかったしね……」

「そっすね」


 俺が志望する最寄りの国立大学に通うニ年生で、少々引きこもり気味の女の子だ。生来の暗さを直すために飲食業のバイトを探してここに行き着いたが、まだまだ改善の道のりは遠く見える。客が居るときはもう少し明るいのだが、気安く話せる人に対しては大体こんな感じだった。決して悪い人ではないのだが。


「でも今日は、暇かもね……。天気悪いし……」

「ですね……。ちょっとカウンター借りて勉強してます。手伝うことあればいつでも言って下さい」


 と、カウンターの一番奥の席を陣取る。忙しくなったときにいつでも仕事に入れるようにしておこう。


「良いから勉強してろ。伝票整理してっから、なんかあったら呼べよ」


 と、店長が言ってバックヤードへと下がった。

 店には俺と黒田先輩だけが取り残される。夕方のこの時間にお客さんが居ないのは寂しいな。午後6時頃になればぼちぼち人は増えてくるのではあるが。


「…………ところで、井上くん」

「なんでしょう、先輩」

「風のうわさで聞いたんだけど……彼女ができたって……?」

「風のうわさも何も、店長から聞いたんですよね。事実ですよ」

「……リア充だ……うわあ」


 黒田先輩はなんとも名状しがたい微妙な目で見てくる。たぶん妬ましいとか一抜けしやがってといった感じの感情表現なのだろう。


「うわあって言われると地味に傷つくんですが」

「あーあ……蓮君は引きこもりの素質あると思ってたのにな……」

「引きこもりって素質の問題なんですか」


 そういうマイナスの才能とか要らないんですけど。


「顔見てみたい……今度、私がシフト入ってるとき連れてきて……あ、いや、やっぱり良いや……リア充オーラきつい……」

「そんな日光に怯える吸血鬼みたいなこと言わなくても。ていうか俺も見せびらかすような真似もしたくないですし」

「…………見られるの苦痛?」

「少なくとも俺はそうですね。やいのやいの言われたらイラッとしますし」

「ほら、引きこもりの素質がある……他人の目が怖い性格でしょ……」

「それは……ありますね」


 どうも俺は、他人から声をかけられると嘲笑や攻撃じゃあるまいなと警戒してしまう性格になってしまった。


「でも残念……彼女ができるくらいなら……大丈夫」

「なんでですか?」

「自分に近い立場の人の目が怖いものだよ……彼女の目が平気なら……なんてことない」


 それを言われて、俺はふと思った。あの人に正面から見られると怖いな。

 陸上部の皆といるときは快活だが真面目で、まさしく規範的な人物だった。御法川先輩と二人きりのときは、部活中の姿からは想像できない不思議なペシミズムがある。気分屋の猫のようでもあり、獲物をいたぶる猫のようでもある、そんな気まぐれな闇を何故か俺だけに見せてくれる。

 あれ、待てよ。そう考えると御法川先輩も友達いないんじゃないか? 陸上部の面々と和気藹々と話しているように見えるが、俺に言い放つような毒舌や皮肉を言ってるようには見えない。というか見せていたら慕ってくる人間は減っているだろうと思う。

 ……友達がいないのに恋人が居るって、お互いにメンヘラ一直線になりそうで怖いな。もっともあくまで恋人「役」であって、ずるずる深みに陥るということは無いとは思うのだが。


「うっわ……彼女のこと考えてる……リア充だ……」

「あの、そういう話題振ったの黒田先輩ですからね?」


 そんな雑談をしながら店で勉強を進めたが、夕方になるとサラリーマンの客が増えて結局小一時間ほど働くことになった。手伝ってくれと言われた程度で内心嬉しくなってしまう自分は安上がりだなとしみじみ感じた。


***


 土曜日の午前10時過ぎ。

 珍しく御法川先輩が脱力した顔で喫茶店のテーブルに突っ伏していた。


「あの、大丈夫ですか」


 と語りかけても無反応だ。書きかけのノートを見れば、途中まで綺麗だった字が途中からミミズがのたうちまわったような筆跡なり、そして途中で途絶えた。ここからわかる事実は一つ。


「起きましょう」

「ん、ああ、おはよう」

「別に寝るなとは言いませんが、寝るくらいなら休んでから再開した方が良くないですか?」

「キミこそバイトしてて良いのか」

「まあ中間テストの範囲ならやりましたので」


 土曜日の午前中というこの時間、本来ならば先輩は陸上部の練習に勤しんでいるはずだが今日に限っては違う。来週の中間テストを控えて部活動は全て休むよう学校側からお達しがでていた。御法川先輩は家にいても集中できないという理由でこの喫茶店に顔を出してきたわけだが、いきなり寝ないでほしい。


「全く、これだから優等生は」

「少なくとも先輩よりは問題児扱いですけど」


 少なくともいざこざがあった後で赤点というのはちょっと避けたいんです。部活も辞めたので勉強時間も確保できたし。


「むしろ先輩がそんな苦労してる方が意外でした」


 これは本音である。先輩はなんでもそつなくこなすイメージがあったが、テスト絡みの話す内に数学や物理化学は大の苦手であることが今日初めてわかった。暗記問題や論述問題は得意らしく国語や地理歴史、そして生物といった科目はそれなりの水準で取っているが、その他の理数系科目に足を引っ張られているようだ。


「体育会系の部活をしてる人間というのは、部活を引退した三年夏以降の追い上げが凄いんだぜ」

「それはよく聞きますが、帰宅部の人間を煽るための言葉であって本人が誇るところではなくないですか?」

「細かいことを気にする男だな。彼氏ならちょいちょいっと私に教えるくらいのことをやってのけたまえ」

「いや三年生の問題なんて……って、これ、数学2Bじゃないですか」

「私は国立文系クラスだからな。数学3Cのめんどくさい積分や行列みたいな弱肉強食の世界に飛び込むほど蛮勇じゃない」

「理系が蛮族みたいな言い方やめて下さい」

「私にとっては数式も棍棒も同じものに見えるよ」


 シニカルな言葉を流して先輩の参考書をひょいと奪い取る。


「俺もそこまで詳しいわけじゃないですけど……」


 と、書きかけのノートに、恐らく躓いているであろう答えを書く……これ標準レベルのベクトルの問題だと思うんだが。


「ええと、できましたけど」

「……合ってる」


 先輩が参考書の答えと見比べながら、押し殺すような声で呟いた。一年上の先輩に数学で勝っても嬉しくない。というか気まずい。先輩も苦虫を噛み潰したような顔をしているし。


「悔しい顔するくらいなら俺じゃなくて陸上部で勉強会とかしたほう良くないですか?」

「いやだ」

「なんでですか」

「あいつらガチで心配して参考書プレゼントしようとしたり個人授業を計画してくるから困る」

「愛されてますねぇ……」

「蓮、お前今呆れただろう」


 いえ、そんなことはありますけれど。


「実際、沖達のグループは私を完璧超人か何かだと思ってるフシがあってな……。今日も勉強を教えてくれと請われたが、面倒でここに逃げてきたというわけだ」

「どんだけ先輩のこと好きなんですか」

「一年の頃、色々と面倒を見てやったしな……まあ、才能が開花するのは楽しかったよ。沖が陸上を始めたのは高校に入ってからだというのにぐんぐんと実力が伸びていった。今はちょっと伸び悩んでいるが、すぐに私を追い越すだろう」

「へぇー……じゃあ沖のコーチでもあるわけですね」


 実力があるとは思っていたが、ずいぶん買われているんだな。


「大したことはしてないんだがなぁ……」

「慕われてるのは面倒ですか?」

「慕われるだけならば良いさ。だが派閥みたいな扱いは困る」

「派閥ですか……」


 我が校の陸上部には2つの派閥がある。練習熱心な御法川先輩を中心としたグループと、部長を中心としたエンジョイ勢というか、あまり大会の成績を重視してないグループだ。去年までは大部分が今の部長と同じ方針に賛同しており、良く言えば和気藹々とした、悪く言えばだらしない感じの部で、バイト兼業の俺がなんとかやっていける余地もあった。だが去年の三年生が卒業し、今は御法川先輩を中心としたより上位を目指す雰囲気のメンバーが部を主体的に動かしている。というか沖達があまり部長の指示を聞かずに御法川先輩を担いでいるものだから部長がお飾りになっている。そんなちょっとした変化の積み重ねによって俺の練習のサボリが咎められ、何故か高田が俺を殴るような事態に発展してしまった。高田も、言うなれば御法川派と言えたのかもしれない。しかし部活内の派閥なんて言っても所詮は学生だ。名簿や血判状があるわけでもなし。ふわっとした人間の好き嫌いを乱暴にタグ付けした程度のものに過ぎない。辞めたきゃいつでも辞められる程度の属性にリーダーなんて居ないし、ましてや責任などあろうはずもないと思うんだが。あるいは責任が無い故に所在がないのかもしれない。


「言っておきますけど、高田の件は責任を感じることはないですよ。人間が三人集まれば派閥ができるって言うじゃないですか。どこでもあることなわけです」

「どこにでもあるからといって私が受け入れるべきかどうかは別の話だし、起きたことが無かったことになるわけでもない」

「まあ……それはそうですが」

「思うところもあるしな……正直ちょっと、距離を置きたい」


 慕っている先輩に冷淡にされる部員達が可哀想だ、とは全く思わない。別に俺を助けなかったことや高田を止めなかったことは構わない。他人のいざこざに首を突っ込む酔狂人なんてそうそう居やしないし俺自身第三者だったとして助けられるとも思わない。手助けはしたいが下手に藪をつつくと悪化するのではないかと思って静観していた善良な人間も居ることだろう。だが、高田に俺が金を持っていることを吹聴した人間や、俺が高田に良いようにやられてほくそ笑んでいた人間は居たので、そいつらは存分に後味の悪さを味わってほしいとは思っている。

 そういう俺の本音を慮ってくれているのではないか、そんな思考が一瞬頭によぎった。あるいは俺を慮ることで、先輩自身の何かが癒されるのかもしれない。つまりは、同情ではないだろうか。


「走るのは好きだし、部のメンバー一人一人は嫌いじゃない。でも人間が集まると得体の知れない力が動く。良い方に動けば素晴らしいが、悪い方に動いたときは怖いものだよ。……一致団結だとかチームワークだとか、そういう見栄えの良いはずのものがえげつないことをしでかしてしまう」

「上に立つ人の辛さですねぇ」

「他人事みたいだな」


 同情かどうかは尋ねなかった。同情でこうして先輩が味方で居てくれるなら全然構わないし違うと言われたらこちらの立つ瀬がない。恥ずかしすぎる。


「そもそも俺はもう部活辞めてるんですよ。つまり、外に出てしまえばそのえげつないパワーも及ばないというわけでしてね」

「……そうするしかなかったんだろうか」

「俺は納得しています。だからまあ、気に病まないでくださいよ」

「なんで私が慰められてるんだ、あべこべじゃないか」


 御法川先輩はそう言って、自嘲気味に微笑む。

 他の人間だったなら、「もう嫌なら部活やめたら?」とも言えたのだが、御法川先輩は本人の言う通り走るのが好きで、大会に向けて激しい練習をこなしている。ここでやめろというのは酷な話だろう。


「……大会が終われば引退ですし、もうちょっとの辛抱ですよ」

「うん」


 そんなつきなみなことしか俺は言えなかった。

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