第6話
灰ヶ峰椿姫の力を借りて、やっとのことで隠れ家に到着した。
場所までは何とか行きついたのだけど、そこからくだんの隠れ家を見つけるのに少し苦労した。
隠れ家はビル街の中にあるビジネスホテルだった。イーノックさんから貰った鍵はどうやらホテルの部屋の鍵らしい。だが何号室だ? この鍵には部屋番号が表記されていない。地図の描かれた紙切れを見ても、部屋番号らしきものは記されていなかった。
ビジネスホテルまで来たはいいがそこからどうすればいいのかわからず立ち尽くしていたら、突然にスマートフォンに着信。通話ボタンをタップすれば、通話が開始され、スピーカーから声が流れ出す。
『そろそろ着いたか? ホテルに』
その声はイーノック=トンプソンのものだった。
「イーノックさん? え? 大丈夫だったんですか?」
大丈夫だろうとは思っていたが、つい訊きたくなって俺はそんなことを言う。
『祓魔師は市民共同体に所属する人間には手を出せない。君たちが逃げたら、すぐにアジトから去っていたよ。俺に何の危害も加えずに』
「そうですか」
『で、もうホテルに着いたか?』
「はい」
『では、一つ、言っておかなければならないことがあったから言う。ホテルに着いたら、フロントに俺の遣いだと言え。たぶんあっちはそれだけで理解する』
「えーと、あなた、何者?」
『それは秘密さ』
電話越しでニヤリとイーノックさんが笑った気がした。
『とにかく、隠れ家に着いて時間が来たらとっととあっちに帰った方がいい。そこが祓魔師たちにばれるのも時間の問題だろうし。何気に奴らの捜査能力は侮れない』
「わかりました」
『では、幸運を祈ってるよ。俺ができるのはここまでだ』
そこで電話は切れた。
「誰から?」と夢果が訊いてくる。
「イーノックさんから。隠れ家の場所を教えてもらった。行くぞ」
俺はホテルのフロントに向かう。そこで「イーノック=トンプソンの遣いです」と言うと、フロントのおねえさんが男性のホテルマンを連れてきて、彼が言う。
「一一一一号室になります。鍵はお持ちですか?」
「はい」
「では、ごゆっくりどうぞ」
ホテルマンに一礼される。俺はフロントから離れて、夢果と灰ヶ峰と共に一一一一号室へ向かう。
一一一一号室はホテルの最上階にあった。エレベーターに乗って最上階まで行って、一一一一号室の前に立つ。
貰った鍵をカギ穴に挿し込む。ちゃんと挿せた。回す。がちゃんと音がした。部屋の中に入る。
部屋の中にはベッドが二つあり、シャワールーム、トイレ、テレビなどもあり、よくあるビジネスホテルの一室であった。
やっと落ち着けると思ったら、俺は大きく息を吐いていた。安堵の息だ。
時刻を確認する。夜の十一時。俺たちをここへ送ったのはドウェイン=スコットという悪魔憑きだった。彼の力は二十四時間に一回しか使えないので、次に使えるのは今から一時間三十分後の零時三十分頃となる。当然ながら帰りも彼の力を借りる。
「一時間と三十分経ったらあっちに連絡して、帰るから」俺は灰ヶ峰椿姫に言う。
「お前もこれで追われることもないし、肩身の狭い思いもしない」
「あ、ありがとうございます」という灰ヶ峰はこちらに目を合わせない。
灰ヶ峰のこれはただの性格なのだろうか。ただおとなしく、ただ内気なだけなのだろうか。俺にはどうにも萎縮しているような感じがする。どうにも接するのが難しい。灰ヶ峰の反応の薄さに俺は思わず頭を掻く。
「大丈夫だよ」と優しい声音が聞こえた。夢果だ。
「怖いんだよね? 椿姫ちゃん。うっかり眼を合わせて、わたしたちのこと殺しちゃうんじゃないかって」
「……」
灰ヶ峰椿姫に憑いている悪魔はエレシュキガルというもので、それに憑かれた灰ヶ峰の異能は見つめた者を殺すというもの。しかし、その能力は直視しなければ効果を得ないという話だ。だから彼女は眼鏡をしている。眼鏡をしている以上は人の眼を見ても大丈夫なはずだが。
「どこに怖がる必要が……? 眼鏡してるから大丈夫なんじゃないの?」
俺は首を傾げる。よくわからない。
「夜刀にはわからないよ。夜刀はあれこれ気にするタイプじゃないから。でも、気にする人っていうのはとことん気にしちゃうんだよ。いくら眼鏡を掛けているからって言っても、それでも椿姫ちゃんはすでにその能力で人を死なせているんだから、その事実が彼女を恐怖に陥れているんだよ。そもそも椿姫ちゃんは今までただの人間だったんだよ。人を殺すとか、そういうのに無縁の。そんな子がいきなり悪魔憑きになって人まで死なせちゃって……通常の精神状態を保っていられると思う?」
俺は、悪魔憑き保護協会に入ってから、何度か悪魔憑きを保護し、祓魔師とも対峙した。戦闘もしたし、その中で祓魔師を殺したことも……ある。俺はもう慣れている。殺すということに慣れている。いや、気にしていないのだ。だって俺は気にするタイプじゃないから。
そして、夢果の言う通りであった。
ついこの間までただの人間で、ただの善人で、何事もなく幸福な生活をしていて、それがいきなり破壊されて、それでなおも平常な精神状態を保っていることはできないだろう。灰ヶ峰の態度はきっと当然のものなのだ。だが、俺は彼女ではないからやはり彼女の気持ちを計り知ることはできない。
ここで気の利いた言葉でもかけてやれられればいいけれど、どうやら俺にはそんな才はないらしい。
「気の利いたことくらい言えないの、夜刀?」といじわるに夢果が言った。
「悪かったな。何事も気にしないタイプの俺は気も利かないタイプなんだよ」
「ぶっ……」
「へ?」と二人して変な声を出す。笑った? 灰ヶ峰椿姫が笑った。
灰ヶ峰はくつくつと何がおかしいのか肩を震わす。
俺は夢果と顔を近づけこそこそと小声で話す。
「どうしたんだ?」
「知らないよ。夜刀がなんか言ったんじゃないの?」
「何を?」
「だから何かを。超絶面白い駄洒落とか……って、あ、もしかして」
夢果が灰ヶ峰に向き直り、訊く。
「もしかして、さっきが夜刀が言った気にしないタイプじゃない俺は気が利くタイプじゃないってのがツボった?」
「待て待て夢果。あれは駄洒落じゃないぞ。それにたいして上手い言い回しでもないし」
「でもツボったんでしょ?」
こくりと頷く灰ヶ峰。
「……」
やはりというかなんというか、地上の世界の住人は笑いのツボがおかしいらしい。全然、笑える言い回しじゃないだろ。あれ。むしろ寒いと一言貶していただいた方がこちらとしてはマシなレベルである。
でもまあ、灰ヶ峰椿姫が笑った。これは俺を安堵させた。ずっと笑わず沈痛な面持ちをしていた彼女。だから、笑ってくれてよかったと思った。いくら平常な精神状態を保っていないと言っても、騒ぎ立てるほどのものではないらしい。
「あ、あの」とひとしきり笑った灰ヶ峰が言う。「……名前、なんて言うの?」
「え、言わなかったっけ?」
「言ってない」
そうだったか。灰ヶ峰と初めて言葉を交わしたときのことを思い出してみる。君のことは責任もって天空集住地に連れて行くから云々、みたいなことを俺は言った気がする。名前は……そう言えば、名乗っていないかもしれない。
「わたし、春海夢果だよ」と明るい声で夢果が言った。「ちなみに憑いている悪魔はサキュバスだったりするよ」
夢果が名乗ったので、俺もそれに倣い名乗る。
「黒瀬夜刀。憑いている悪魔は――アバドンってやつ」
言えば、灰ヶ峰は「あばどん?」と首を傾げた。
俺は灰ヶ峰に俺の悪魔の説明をする。
「アバドンは奈落の主と言われる悪魔でね、馬に似ていて金の冠を被っていて、翼とサソリの尾を持っている。そして、サソリの尾の毒針に刺された者は死さえ許されない五か月間の痛みを与える」
「あ、だから、斬られた人たちはあんなに苦しんで」
合点がいったようで、灰ヶ峰は納得の表情をした。
アバドンに襲われた者は死さえ許されない痛みに苦しむ。俺が振るう刀は、つまるところアバドンのサソリの尾の毒針であり、それに斬られた者はアバドンの逸話と同じく死さえ許されない痛みに襲われるのだ。別にバッサリ斬る必要はない。小さな傷をつける程度でいい。それだけでも激しい痛みに襲われる。それが俺の悪魔憑きとしての異能力だ。
「ねえ、」と灰ヶ峰が口を開く。「その、あなたたちは悪魔憑きになって、それで幸せなの?」
突然に、変な質問をしてくる。
「幸せ……ではないかな」俺は言った。「だってこちとら迫害を受けている身だし。さすがにいじめられて幸せですなんて言う奴はいない」
「でも、あなたたちは落ち込んでなんていない」
「そりゃまあ、俺たち基本的には天空集住地に暮らしているし。あそこは悪魔憑きしかいないから、息苦しさを感じない。だからまあ普通でいられるのかな」
「大丈夫だよ」と夢果が言う。「天空集住地は別に怖い場所じゃないよ。椿姫ちゃんをきっと受け入れてくれる」
「そうですか?」
「うん。だからね、あと少しの辛抱。もう少し我慢すれば、こんな肩身の狭い思いをしなくて済むからね」
言って、夢果は灰ヶ峰の肩に手を置いた。大丈夫だよ、心配しないで、そんな笑みを浮かべて。
ただの人間の悪魔憑きに対する扱いは酷いものがある。学校でよくあるいじめの現場、それを世界規模で繰り広げているようなものだ。
悪魔憑きは異能力を得る。異能力は超自然的な力で、それを持つ人間は人間の枠から外れてしまう。人間のできることは限られているのに、異能力はその限界を軽々と超える。だから、悪魔憑きは異端である。人間は自分とは違うものを嫌い、そういうものを排除する生き物だ。
人間は社会的なのだ。同じものを寄せ集めて社会という集団を構築したがる生き物なのだ。悪魔憑きは異能を持つがゆえに人間ではない。自分と同じではない。つまり、社会の一員として認められない。にも拘らず、悪魔憑きは人間の形をしていて人間みたいに言葉を話し、思考をする。人間からすれば面白くないのだ。言葉を話し、思考するのは人間にだけに許された特権。それを侵した非人間である悪魔憑きは異端者であり、異端者である以上は排除しなくてはいけない。
世界を牛耳るのは人間であるべき。人間以上の存在が世界にいてはならない。そんな驕りが、悪魔憑きの迫害へと繋がった。
灰ヶ峰椿姫は悪魔憑きになった。ただの人間であれば彼女は社会の一員として、変哲もない生活を送り続けることができたのだろう。しかし、悪魔憑きになった。この地上の世界の常識では悪魔憑きは人間ではない。だから排除/駆除しなくていけない。灰ヶ峰からしてみれば、今まで普通に接してくれた人たちがいきなり掌を返してゴキブリみたいに扱いだしたように見えるだろう。
友達も。
学校の先生も。
両親も。
灰ヶ峰が悪魔憑きだと判明した途端に、人間ではなく害虫として扱い始めたのだ。きっとそうなのだろう。
想像しても、あまり気分のいいものではない。
そもそも《悪魔憑きは人間ではない》という理屈は地上の世界に住む人間側の理屈に過ぎないのだ。悪魔憑きの側からすれば、悪魔憑きはただ悪魔に憑かれ異能を得ただけの人間なのだ。
この世はすべて屁理屈だ。そんなイーノックさんの言葉を思い出した。まったくその通りだ。
それじゃあ、と俺は思う。
そんな屁理屈を抜きにすれば、きっと残るのは真理だ。ならば、真理として、人間とはいったい何なのだろう?
何の力もない言葉を話し、思考をする生き物が人間なのか?
悪魔に憑かれ、異能を得た生き物が人間なのか?
それともまったく別の何かが人間にはあるのか。言葉を話すでもない、思考をするでもない、異能力を揮うでもない、まったく別の価値/意味が人間にはあるのだろうか。
「人間って何なんだろう」
ぽつり、と呟いたのは灰ヶ峰椿姫だった。
「私、悪魔憑きになって、変な力を得たけど、けど、それだけで、ほかは何にも変わってないんですよね。なのに、それなのに、周りの人たちは態度を一八〇度変えて、私を迫害した。私は異能を得ただけなんですよ。本質的には、人間の本質的には変わっていないはずなんです。ナイフで刺されれば血は出ますし、普通に死にます。なのに、周りは私を人間とは見てくれない。私は人間なのに、誰も私を人間として認めてはくれない。異能力一つで、人間は人間の枠から外れるものなんですか?」
灰ヶ峰も似たようなことを考えていたらしい。
人間とは何だろう?
この命題に俺は答えられない。わからないからだ。気にするべきでない。気にしたところで答えが出ないから、考えても結局考えるのをやめてしまう。だからやはりわからないのだ。
わからないから答えられない。
言えることはイーノックさんのあの言葉。それだけ。
「この世はすべて屁理屈なんだよ。言えるのはそれだけだ」
「要するにわからないってことだね」
夢果が付け足すように言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます