第2話

 街の中心から西へ二十キロ弱行った地域、畑や、昔ながらの古い家屋などが建ち並ぶ、この辺りは戦火を免れていたので、まるで時が止まったような、とても穏やかな場所だった。そこに吉田が暮していたアパートはあった。


 冨田ミヨと野口は、吉田が生きているという仮定で、とりあえず、吉田の家族には内緒で吉田の消息を探ることにした。二人は吉田の携帯電話が冨田ミヨのマンションの郵便受けに直接投げ込まれていたことを考え、吉田は彼らの住む地域に近い場所に滞在していると想定し、吉田が住んでいたアパートに何か手がかりがあると踏んだ。二人とも吉田のアパートには何度も通っており、冬にはよく三人で一緒にこのアパートで鍋をつついたりした。


 野口と冨田ミヨはそんな思い出話を来る道中、話しながら来た。最寄りの駅を降り、近道である畦道を通り抜けると、小学校の裏手に吉田のアパートはあった。築三〇年は経とうかという古い鉄筋コンクリートの二階建てで、剥き出しになった鉄の階段を上った二階の二〇三号室に吉田は住んでいた。今、部屋は空いているそうだ。あらかじめ、冨田ミヨは知り合いである大家に連絡を取り、彼女の立ち合いのもとなら部屋を見せてもらえる約束を取り付けていた。


 野口たちが到着して大家に連絡すると、五分後に赤い軽自動車がやって来て、アパートの手前にある砂利の敷き詰められた駐車場に駐車した。車の運転席から五十代後半から六十代前後に見える白髪の女性が降りて、野口たちの方に小走りに向かって来た。

「どうも、どうも、お待たせ」そう言いながら、彼女はそそくさとアパートの階段を上り始めた。

「わざわざありがとうございます」

 冨田ミヨはそう返しながら、大家の後に続いた。慌てて野口もその後ろからついて行った。鉄製の階段は赤錆がひどく、緑色の塗装がすっかり剥がれ落ち、残った塗装がまるで後から飛び散ったようにこびり付いていた。


 そろりそろりと階段を上り二階に上がると、コンクリートの通路が横たわっていた。左手に部屋が並び、二〇三号室は全部で四部屋ある奥の一つ手前の部屋だった。古い外装に比べて、塗りたての赤い鉄製の扉は変に目立っていた。大家が回転式のドアノブの下の鍵穴に鍵を挿し込んで鍵を開け、ドアノブを回してドアを開けると、ムッとした空気が中から吹き出した。


 簡素な脱靴場に四段の木製の下駄箱があり、その奥の左手にワンコンロの台所、右手にユニットバス、その間の通路を抜けると六畳半のフローリングの居間がある。何度も来たことがあるのに、荷物一つない、空き部屋となったその部屋はまるで自分と全く何の繋がりもない、異空間のように野口には見えた。


「じゃあ、私は車に戻ってるんで終わったら声掛けてね、ここじゃ暑くて敵わないわ」

 そう言って大家は部屋に入らず、階段を下って行った。

「さて」

 そう冨田ミヨは呟いて、部屋の奥にある窓を開け放ち、狭いベランダに出た。細やかな乾いた風が部屋を通り抜け、夏の匂いが空っぽの部屋に満ちた。野口は玄関にある四段の下駄箱を眺めた。薄いベニア板の仕切りは手前がささくれていた。


「昨日さ、佐々木と飲んでてさ、あいつ酒弱いのに来る前にビール三缶空けて来たの。何があったか知らないけどさ、うちでも安くてクソまずいワイン空けてさ、帰るときに下駄箱で吐いちゃってさあ…慌てて中の靴出して洗ったけど、ゲロって匂い取れねえのな」


 野口は吉田がそんな話をしていたことを思い出した。


「野口くん、ちょっとこっち来て」

 ベランダの方から冨田ミヨが叫んだ。野口ははっとして、ベランダに向かった。

「これ、何かな?」

 冨田ミヨの右手の平の上には小さな黒いコンピューターチップが乗っていた。野口はそれを右手の人差し指と親指の先で挟み、繁々と眺めた。

「SDカードかな?」

 野口は呟きながら、チップを裏返した。五角形の黒い薄いプラスティック製の体面に、細く小さな金属板がバーコード状に並んでいる。

「これに入るかな?」

 冨田ミヨは自身のスマートフォンを野口の前に掲げた。隣国の国民的企業の最新モデルだった。白い機体に大きな液晶で非常に薄く軽量化された、あらゆる要求に応えたような携帯電話だ。冨田ミヨはそのスマートフォンに黄色いプラスティックのカバーを被せていた。冨田ミヨは、スマートフォンのSDカードの差し込み口を野口の方に見せた。

「でも、スマホが壊れてしまうかもしれないよ」

 野口は冨田ミヨのスマートフォンを受け取り、差し込めるかサイズを確認しながら言った。

「これくらいしか手掛かりは無さそうだし、携帯は変えたばかりだから保険で修理できるし、大丈夫だよ」

 冨田ミヨはそう言って、野口からスマートフォンと黒いチップを取り上げて、チップを差し込み口に挿入した。

「入った! やっぱりSDカードみたい」

 冨田ミヨはスマートフォンの電源ボタンを押し、電源を入れた。

「壊れなかったよ」

 冨田ミヨはスマートフォンの立ち上がる液晶画面を見せて野口に言った。そしてすぐに自分の方に戻し、スマートフォンの液晶をその長く細い人差し指でなぞった。

「これって……」

 冨田ミヨは野口の方にスマートフォンの液晶を向けた。そこには何枚かの写真の画像ファイルが映っていた。


 写真は全部で八枚あった。五枚はどごか海外の国らしい場所を移したもので、二枚は誰か、野口も冨田ミヨも見覚えのない人物と吉田が肩を組んでカメラの方を見て笑っているもの( 二枚とも同じ構図だが、背景も一緒に写っている人物も違う )、もう一枚はブレが酷く、全く何を撮った写真なのか判別できなかった。


 野口と冨田ミヨはお互いの住む街の最寄り駅で別れた。野口はそこから歩いて丘を登り、二十分程かけて八畳、1DKの野口の住むアパートに帰った。アパートに着くと、とりあえず汗でベタついた衣服を全て脱ぎ、洗濯機に放り込んだ。そのままバスタオルを箪笥から引っ張り出し、ユニットバスでシャワーを浴びた。バスタオルで雑に体を拭き、黒いボクサーパンツだけを箪笥からだし、履いた。頭からバスタオルをたらした格好で、古い型のノートパソコンを置いたデスクの前に黒い皮の丸いクッションの乗った椅子を置き、腰を下ろした。そしてパソコンを立ち上げ、SDカードのデータを自分のパソコンに移した。そのデータファイルをパソコンの画像編集ソフトで引き延ばし、プリントアウトし、八枚全てを部屋の白い壁に撮影された日付けの古い順に左から並べて、画鋲で張り付けた。


 一番古い日付けは四年前のものだった。壁の対にあるセミダブルのベッドに横になり、右の肘をベッドの上の布団につき、右手で頭を支えながらぼんやりと、その並べられた写真のコピーを眺めた。


「和真っていい名前だよな、“カズマ”って響きは格好いいし、真の和だもんな。センスいい。おまえの両親がつけたの?」

「うん。親父がね、若いときから決めてたんだって。男が生まれたら、カズマって付けるって。でも、一頭の馬で、“一馬”って考えてたんだよ。母親が和真って文字を提案したみたい」

「愛を感じるよな、そのストーリー」

「何だよ、それ?( 笑 )」

 吉田は笑っていた。


 野口はいつの間にか眠ってしまっていた。彼らが大学の軽音サークルの新歓コンパで出会ってすぐ、大学の構内にある、文系のキャンパスに近い第二学生食堂で話した夢を見ていた。今となっては、記憶か単なる夢か、正直ハッキリしなかった。


 野口はベッドから起き上がり、再びデスクの上のノートパソコンに向かった。failbookという世界一の会員数を誇る、SNSに写真を添付し、情報を求める旨を書き込んだ。本名、年齢、職業、住所、趣味、家族構成から交友関係に至るまで、インターネットにより世界中に拡散している。野口は特に世界に発信したい生活など送ってはいないが、吉田に勝手にページを作られた。それ以来、全く更新していなかったが、こんなことでこのSNSを利用するなんて、あいつはここまで計算していたのか、と思い、野口はパソコンの前で苦笑いした。


 それから思い出したように、failbookの友人検索欄で冨田ミヨを検索してみた。四件のヒットの冒頭に冨田ミヨと思われるページがあった。他の三件はプロフィールに顔写真が貼られてあったが、年代も体型も全く見知らぬものだった。そのページのプロフィール写真はダブルレインボーズ、二本の虹だった。野口はそのページにアクセスしたが、そこは友人以外には公開されない様、ロックされていた。野口は冨田ミヨのページに友人申請を送った。それから、先程、別れ際に聞いた携帯電話の番号に電話をかけた。冨田ミヨは三回目のコールで電話に出た。

「もしもし? 野口くん?」

「あ、もしもし、うん。あの、さっきfailbookで友人申請したからさ、承認してくれるかな? あの写真、シェアできるから」

「もう上げたんだ、仕事早いねぇ。わかった。スマホでできるから、今やるよ。じゃあ、切るね」

「うん、よろしく」

 電話を切ると、再び野口はノートパソコンに向かい、failbookのページを確認した。フレンドのロゴに通知を知らせる1の数字が赤く表示され、そこをクリックすると野口の友人申請が冨田ミヨに承認された旨の報告が表示されていた。野口は冨田ミヨのページに飛んだ。冨田ミヨのページは野口のそれとは大違いで、英語ベースで頻繁に写真やらリンクが投稿され、それに対するコメントも多くて、まるでシャッター商店街とカップルやファミリーで賑わう、ショッピングモールのように違う様相だった。


 野口は冨田ミヨの略歴を見て驚いた。冨田ミヨは野口も知る、海外の超名門大学の理工学部を卒業し、現在は外資の研究機関に勤務しているようだ。野口は英語は全く苦手だか、それくらいは何とか理解できた。野口とはまるで住む世界が違う。


「へえ」

 野口は一人で呟いた。それから、写真のファイルを冨田ミヨのページに送った。野口は暫く冨田ミヨの学生時代の写真を閲覧した。冨田ミヨは、十代の頃から全く変わっていなかった。化粧の感じも体型も、服装も派手でもなく、地味でもなく、一貫した自然さを感じる。野口にはそれが逆に不自然に感じた。唯一変遷を確認できたのは、髪型くらいだった。腰あたりまであるロングヘアから、耳もすっかり出たベリーショート、マッシュルームボブ、耳まわりの刈り上げられた、パンキッシュなヘアスタイル……どれも彼女の整った顔立ちにはよく似合っていた。まるで髪型まで、自然に着こなしているようだ。


「徹底した自然体……」


 野口は感じた違和感を何とか言葉にしようとしたが、その言葉も野口の感じたそれとは一致しなかった。再び野口のfailbookのページにnotice、お知らせのマークが点灯した。早速、冨田ミヨが野口の投稿した写真をrepublished 、再公開と呼ばれる、他人のページを自分の友達に再拡散する投稿が彼女の英文が付け加えられ、為されていた。野口はインターネットの真価である、自分の投稿が冨田ミヨを通じて世界に拡散される実感を初めて感じた。とにかく、今はこれ以上できることはない。


 野口は部屋の奥にある、簡素な備え付きキッチンに行きキッチン棚から駅近くの喫茶店で買っている銀色の包みに入った、ブレンドのコーヒー豆を、食器棚から白い陶器のコーヒードリッパーと紙フィルター、黒いコーヒーカップをそれぞれ取り出し、電気ケトルに2リットルのペットボトルに入った天然水を注ぎ、電源を入れ湯を沸かす。野口のアパートはオール電化でガスコンロがない。お湯を沸かすには、これが一番早い。コーヒーカップの上にドリッパーを置き、紙フィルターを敷き計量スプーンでブレンド豆を掬い、紙フィルターの上に注ぐ。電気ケトルのお湯が沸くと、ソケットから外し、ドリッパーの上から外から内に向かって回すようにお湯を注ぐ。


 コーヒーが落ちるのを少し待つ間、部屋の真ん中にある木製のロウテーブルの上に読みかけて置いてある、村上龍の『ポップアートのある部屋』という短編集の文庫本を手に取り、読む。理由はないが、コーヒーとポップアートはとても相性が良いと野口は思っている。だからこの本を読んでいるわけではないが。そういえば、村上龍の小説にコーヒー豆をコーヒーミルで挽いている主人公がいたな、と野口は本を読みながら思い出した。

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