第23話 艶やかな漆黒の長毛が美しく、優しく愛嬌のある風貌が人気の大型犬バーニーズマウンテンドッグは、二千年以上前からアルプスの厳しい気候の中で人と共に暮らしてきた歴史ある犬種です。

「ライフセービングの大会?」

「そう! 来週うちの県で大会が開催されるんだよ。いい機会だから、ぜひ瑚湖ちゃんに応援に来てもらいたいなって思って」


 ルークのシャンプーのために来店した征嗣くんが、日焼けした顔に白い歯を見せてにこにこと微笑む。


「ただ、大会は週末開催になるんだ。

 瑚湖ちゃんはお店が忙しいと思うし、無理にとは言えないんだけどさ」


 仕事のことを考えてくれているからか、珍しく遠慮がちな征嗣くん。

 ドッグラン事件のときにはランニングしながらマキシやキャシーの捜索に協力してくれたし、応援に行ってあげたい気持ちはあるけれど……。


「来週末なら、まだそんなに予約も入っていないから大丈夫!

 征嗣くんの応援に行ってあげなさいよ」

 トリミングを終えた母が、ブラックタンのロングコートチワワを抱っこしながらトリミングルームから出てきた。


「こないだデートしてもらったんでしょ? そのお礼も兼ねて……」

「えっ?デート?」

「お母さん! それは誤解だよ! あのときは優希とちょっと遠出しただけだからっ」


 先日池崎さんとデートをしたことを、母は征嗣くんと出かけたのだと誤解したままだった!

 思わず優希の名前を出して必死でごまかす。


「そうだったの? ずいぶんお洒落してたから、てっきりデートだと思ったのに……」

「久しぶりに犬無しで遠出したからだよ!

 それよりいいの? 週末にお母さん一人になっちゃうけれど」

「予約の数を調整すれば大丈夫よ。9月に入ればカットのお客さんも落ち着くしね」


 またも加勢する母の言葉を受けて、征嗣くんは途端にぶんぶんと尻尾を振り出した。


「じゃあ、応援に行こうかな。

 一人じゃつまらないから、優希も誘っていい?」


 微笑むと、征嗣くんはより一層高速に尻尾を振り出し、「やったぁー! 優希ちゃんも来てくれるなら、ぜひ!」と喜んだ。


 🐶


「貴重な週末の休みを瑚湖に捧げたんだから、今度何かおごってよねー」


 母と私が共用しているコンパクトカーの助手席で、優希が眠そうにあくびする。

 海沿いの国道を走らせながら、私は「付き合ってくれてありがとね」とお礼を言いつつ、先日の池崎さんとのデートを回想していた。


 この道は、マークポーターズへ向かうときに池崎さんの車で通った道だ。


 キラキラの一日はあっという間だったけれど、たくさんの話ができて、池崎さんの好きな食べ物や服のブランドを知ることができて、宝物が沢山できた。

 アルカイックスマイルが常の池崎さんが、スイッチが入ると笑い上戸になるっていうのも発見だったなぁ。

 思い出すだけで口元が緩んで幸せな気持ちになる。


“また、ね”


 あの言葉に、期待してもいいんだろうか。


 お礼のLINEを交わして以来、用もないのになんだか連絡しづらいし、お散歩でも会えていない。

 それでも、あのデートで少しは距離を縮めることができたんじゃないだろうか。

 取り付く島になんとかたどり着けたのだとしたら、今後私は池崎大陸を目指せるだろうか――。


 海岸沿いを湾曲する道路の緩やかなカーブの先を見据えながら、少しずつ開けていきそうな未来を思っていたときに、優希が弾んだ声をあげた。


「そういえば瑚湖からLINEが来て驚いたよ!

“池崎さんとデートする” って宿題、ちゃんとクリアしたじゃない!」

「うん、まあね! すっごく楽しかったよ!

 ただ、事件解決のお礼のデートってことだったから、次につなげられるかどうかはまだわからないけど」

「……そうかぁ」


 あれ? いつもの畳み掛けるようなテンションで乗ってこないなぁ。


 優希は相槌を打ったきり、コンビニで買ったカフェラテのストローをくわえたまま窓の外の景色を眺めている。


「急に黙ってどうしたの?

 優希のことだから、“じゃあ次の宿題は……” って畳み掛けて来るかと思ったんだけど」

 私がいたずらっぽく言うと、優希はストローから口を離した。


「それなんだけどさ……。

 次につながるかわかんないって聞いて、やっぱりなって思ったんだよね……」


「え?……どういうこと?」


「こないだ私も池崎さんに会って、確かに素敵な人だけど、ありゃあアプローチするの大変だなって思ったんだ。

 瑚湖の気持ちに気づいてるくせに、敢えて距離を置いてるように見えたんだよね。

 変に期待を持たせたり、傷つけないようにしてる、みたいな感じ」


「……」


 優希は鋭い。

 私の必死のアプローチは、いつも池崎さんのかぶせてくる言葉に遮られて、言葉になる前に押し戻されている。


「こないだのデートが単純にご褒美なんだとしたら、次につながる可能性ははっきり言ってかなり低いと思うよ」


 親友から告げられた客観的事実に、淡い期待でふんわりと柔らかくなっていた心が途端にきゅうっと縮こまる。

 やっぱりそうなんだろうか。

 フィヨルドを持つ大陸に近づくのは無理なんだろうか。


「その点、伊勢山くんは瑚湖への好意丸出しじゃん? 尻尾をぶんぶん振ってるのが見えるくらいにさ。

 明るくて裏表なくて良い人そうだし」


 話の方向が見えてきて、心がざわつき始める。

 私もカフェラテに片手を伸ばし、一口飲み込んで親友の言葉に耳を傾ける。


「瑚湖はもっと打算的になってもいいと思うよ。

 恋愛は、付き合い出してからの方がパワーがいるもの。

 確実に自分を好きでいてくれる相手を選べば、その先の苦労も少なくてすむと思うよ」


 優希の言葉は優しいナイフだ。

 鋭すぎて、痛みをあまり感じさせないまま、私の心を深く突き刺す。





 前カレに振られた理由──


“瑚湖の気持ちが重すぎて辛い”





 あれは、“好き” の重さがあまりに違いすぎた結果の別れだった。

 その理由は未だに私の心の中に息を潜めて隠れていて、隙あらば外へ現れて私を傷つける。


 仮にこの前のデートで取り付く島にたどり着けたとしても、池崎さんとの思いの強さがアンバランスなのは明らかだ。


 私はまた同じ轍を踏んでしまうのだろうか。


 その点征嗣くんは──


 もし私が征嗣くんを好きになれれば──





 でも


 今、私が好きなのは──





「別に今、伊勢山くんのことを池崎さん以上に好きにならなくても大丈夫だよ。

 付き合ってみれば相手の良さを知って好きになれると思うから。

 私も健太郎に対してはそんな感じだったし」


 私の心を見透かしたように、優希が言葉をつなげた。


 そういう選択肢を “打算的” だと言うのだろうか。

 私にそんな “打算” はできるんだろうか。


 あのデートで、もっともっと池崎さんを好きになってしまったのに──


「ま、瑚湖には他にも選択肢があるんだよってこと。

 瑚湖が進みたい道ならば、どっちを選んでも私は応援するし」




 私の幸せを思いながら紡がれる親友の優しさに、返す言葉が見つからない。



 池崎さんへの思いは、カーブを描くこの道路のようになかなか視界が開けない。

 続く道の先は行き止まりかもしれないし、険しい道かもしれない。





 カーブの先に、私の幸せはあるんだろうか。





 アスファルトで固められた大きな弧の先を見つめながら、私はハンドルをぎゅっと握りしめた。

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