第10話 ラブラドールの足には、水辺で捕獲した獲物の回収に適した水かきがついています。
「アリョーナのシャンプーをお願いしたいんだけど、週末で空いてる時間はあるかな?」
水曜日、お店に池崎さんから電話があった。
アリョーナ、“別宅” から戻ってきたんだ。
「ちょっとお待ちくださいね。……えっと、日曜日の16時からなら空いてます」
「じゃ、その時間にお願いします」
そんないつも通りの事務的なやりとりの後で、池崎さんが付け加えた。
「今日は仕事早めに切り上げられそうだから、18時ごろには散歩に行ってると思うよ」
わざわざ教えてくれた!!
「あ、はいっ! わかりました! お店の予約入ってないんで、私も行けると思います!」
声が弾みまくってしまう。
電話越しにも気づかれてるんじゃないかと思うとちょっと恥ずかしい。
ほんとは夕方にミニチュアダックスのシャンプーが一件入ってるけれど、カットなしだしお泊まりの子もいないから、お母さん一人で大丈夫なはず!
母に手を合わせて、看板犬のチョコ太郎と一緒に早めにお店を上がらせてもらった。
梅雨入り前の夕方は日もだいぶ伸びて、18時の公園はオレンジ色の半透明のレイヤーを被せたように温かい色に染まっている。
キョロキョロと横に長い公園の敷地を見渡すと、100メートルほど奥に入った満開の藤棚のそばに、池崎さんとアリョーナを見つけた。
「こんにちは!」
アリョーナを見つけて駆け出すチョコ太郎に引っ張られるように駆け寄る。
ほんとは私の方がチョコ太郎より早く走って駆け寄りたいくらい!
今の逸る気持ちなら、俊足のアリョーナにすら勝てるかもしれない!
「こんにちは」
ほんの少しアーモンドアイを細める池崎さん。
アリョーナがふさふさの尻尾をゆっくりと揺らして私達を歓迎してくれる。
「お散歩のタイミング、教えてくれてありがとうございました!」
私がそう言うと、池崎さんは少し苦笑いのような表情になって「こないだは中途半端に伝えてしまったからね」と頬をかいた。
チョコ太郎とアリョーナが並んで歩くのに合わせて、私達も並んでゆっくり歩き出す。
西日が池崎さんの柔らかい髪を撫でるように差し込んで、鼻の高い端正な横顔のシルエットを濃く映す。
その刹那的な美しさを目に焼き付けたくて、私はアリョーナに視線を送る軌道を遠回りさせて彼の横顔を盗み見る。
もっと堂々と池崎さんを見つめられるようになりたいな。
思いを伝えたら、見つめることを許してもらえるだろうか。
そんなことを考えながら、ぽつりぽつりと思いついた会話を交わす。
トリミングに来るワンちゃん達のこと。
サークルのおばさま達のこと。
池崎さんのお仕事のこと。
時にチョコ太郎やアリョーナの様子を伺いながら、すれ違う犬連れの人達と挨拶を交わしながら、夕闇に染まっていく川沿いの遊歩道を歩いていく。
聞いたら答えてくれるかな──。
「あの、こないだ話してたアリョーナの別宅って……」
言いかけたとき。
「
後ろから男の人の声がした。
振り向くと、黒いラブラドールに引っ張られるように、半袖Tシャツ姿の男性が駆け寄ってきた。
「やあ、
池崎さんが親しげに応答したその人は、がっしりした肩、厚い胸板、隆々とした腕が逞しい、いかにも体育会系といった人だった。
夕闇にもわかるほど日焼けした顔に、屈託なくこぼれる白い前歯が眩しい。
イケメンではあるけれど、池崎さんとはベクトルが正反対のイケメンだ。
「最近散歩で合わなかったっすね。
アリョーナに会えなくて、ルークが寂しがってましたよ」
黒ラブのルークという子がアリョーナに近づいて細い尻尾を振り、チョコ太郎にも鼻先を近づける。
チョコ太郎も大型犬二匹に挟まれながら、負けじと堂々と振る舞っている。
「こんにちは!あ、もうこんばんはかな?」
体育会系の彼が私に人懐こい笑顔を向けてきた。
「こんばんは」と私が返すと、池崎さんが彼を紹介してくれた。
「彼、この公園でよく会う散歩仲間なんだ。
伊勢山征嗣くん」
「え? 伊勢山って……」
「そう。サークルの伊勢山さんの息子さん」
「あっ! そうなんですか!」
こないだの伊勢山さんの話を思い出す。
私と同い年の一番上の息子さんがライフセービングをやってるって言ってたな。
年齢的にも見た目的にも、彼がその人なんだろう。
「あ、じゃあ彼女も編み物やってるんすか!
いやぁ、馨さん、可愛いカノジョ連れてるなぁって、声掛けちゃ悪いかなってちょっと思ったんすよね!」
やだぁ!可愛いカノジョだって!
「彼女はアリョーナの通ってるドッグサロンのトリマーさんで、サークルメンバーでもあるんだ」
私が照れかけたのに、即座に事実を述べて暗に否定する池崎さん。
ちょっとだけがっかりしつつも、池崎さんの紹介を受けて、ぺこりと頭を下げながら自己紹介した。
「成田瑚湖です。お母さまにはお世話になってます」
征嗣くんが屈託ない笑顔を向ける。
「可愛いなぁ!
ココちゃんっていうの?
犬みたいだね!」
──犬みたい……?
“瑚湖ってほんと犬みたいだよな。
察してほしくて冷たくしてるのに健気すぎて、愛情を押し付けてくるのが俺には辛い──”
フラッシュバックした、前カレの言葉。
一瞬、心臓が凍ったかと思うくらい体が固まった。
「トリマーさんなんだ! ルークはいつも家で洗ってるけど、今度ココちゃんにお願いしようかな!」
人懐こくのぞき込まれて我に返る。
「あ、ぜひ……」
「じゃ、この後トレーニングあるんで、また!
ココちゃん、今度俺ともデートしてね!」
征嗣くんは言いたいことだけ言って、嵐のように去っていった。
走り去る彼を取り残されたように見送る私達。
「気にしなくていいよ」
ふいに池崎さんが口に出した。
「え……っ?」
「犬みたいに可愛い名前だ、って言いたかったんだと思うよ、彼」
アーモンドアイを細めて微笑む池崎さん。
私のわずかな反応を読み取ってくれていたんだ──。
「……ココちゃん?」
自分がどんな顔をしていたかわからない。
けれど、池崎さんの穏やかな笑顔の前で、取り繕いたくないって思った。
「わかってます。
……けど、トラウマなんです。
“犬みたいだ” って言葉。
前カレに、犬みたいに愛情を押し付けてきて辛いって──」
「……」
池崎さんの右手が、私に向かって伸びてきた。
ぽん、
と、大きな手のひらが私の頭の上にのる。
「僕はそんな犬が大好きだよ。
大きな愛をまっすぐに向けてくれる、その素直さが大好きだ」
アリョーナに向けるような、本気の笑顔を向けてくれる。
頭の上から、池崎さんの温かくて優しい気持ちが私の体にゆっくりと降りてくる。
私のことを “大好きだ” って言ってくれているようで、満たされた気持ちが切ないくらいこみ上げてくる。
「ふぇ……」
涙と一緒に、堪えきれない声が出た。
池崎さんがくすっと笑う。
「ココちゃんの気持ちを受け止めてくれる
ぽん、ぽん、
頭の上の手のひらが二回はずむ。
それからアリョーナを促すと、再びゆっくりと歩き始める。
涙で滲む池崎さんの背中は夕闇に儚く溶けていきそうで、すぐに見えなくなってしまいそうで。
私は見失いたくなくて、熱くなった瞼に力を入れて、瞬きもせずに見つめ続けた。
あなたならいいのに。
その気持ちを受け止めてくれるのが。
あなたならいいのに──。
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