第9話 ラブラドール・レトリバーは、元来レトリーバー(獲物を回収 (Retrieve) する犬)と呼ばれる狩猟犬の一種でした。
「……たのよぉ!
それで息子の態度に頭にきたから、次の日のお弁当で仕返しをしたわけ!」
「どんな仕返しをしたんですか?」
「お弁当箱いっぱいに白飯だけをぎゅうぎゅうに詰めてやったわよ」
「確かに、白米オンリーは結構ダメージ大きいですね」
【手編みサークル トリコテ】の活動日。
池崎さんは商談があって遅れるらしく、私は伊勢山さんというおばさまにつかまって話し相手をさせられている。
伊勢山さんのところは三人息子だそうで、一番上の息子さんが私と同い年らしい。
それで、息子さん達の代わりに母親の愚痴を聞いているというわけだ。
「まったく、うちの末息子ときたら、高二なのにまだ反抗期を抜けなくて困るのよぉ。
一番上はやっと大学卒業して戻ってきたと思ったら、ライフセービングとかいうスポーツにハマってて、オーストラリアに修行に行きたいだなんて言い出すしねぇ」
「へぇー。目標があってすごいですね」
「私はライフセービングのことよく知らないんだけど、学生時代に全日本選手権で優勝したらしいのよ。
それで警備会社にスカウトされて就職できたのはいいんだけど、会社のサポートもあってしょっちゅう遠征に行ったりしてねぇ。
女の子はいいわよねぇ。瑚湖ちゃんみたいにお母さんと一緒にお店やったりしてくれるもの」
「私はたまたま犬が好きだったのと、母が店を経営していたからですよ」
「瑚湖ちゃんみたいな良い子が彼女になってくれたら、あの子も落ち着いてくれるかしらねぇ」
「あははー。どうでしょうねえ」
「今度ほんとにうちの息子に会ってみない?
母親のあたしが言うのもなんだけど、なかなかのイケメンよ?」
「あははー」
とりあえず笑って受け流しとこ。
ちょっとでも興味を示そうものなら、ほんとにセッティングされかねないもの。
ロの字形に並べられたテーブルに糸玉を乗せ、おばさま方は編み針を動かしながらそれぞれのおしゃべりに花を咲かせている。
早く池崎さん来ないかなぁ……。
先週火曜日に偶然公園で会ってから十日。
夕方以降にトリミングの予約が入っていない日に三回ほど公園に行ってみたけれど、池崎さんには会えずじまいだった。
仕事が忙しいんだろうか。
それとも、アリョーナが体調崩してるとか?
わざわざお散歩の時間を教えてくれたわけだし、まさか避けられてるってことはないよね……?
ガチャリと会議室の扉が開いて、スーツ姿の池崎さんが入ってきた。
「遅くなってすみません」
「先生、聞きたいところあったのよ~」
「私も! 編み図でわからないところがあって……」
おばさま方が席に着いたばかりの池崎さんの元にわらわらと集まる。
仕事から直接来た様子で少し疲れていそうなのに、そして表情はいつものごとく口角を微妙に上げるだけのアルカイックスマイルなのに、池崎さんはおばさま方の質問に一つ一つ丁寧に答えている。
クールで一見近寄りがたいけれど、穏やかで優しい。
そして、本気の笑顔のときにはその優しさが前面に出る。
少しだけ距離が縮まった中でわかった、池崎さんの一部分。
もっと知りたい。
もっと近づきたい。
もっともっと、池崎さんと一緒にいたい!
「ココちゃん、お待たせ。
袖ぐりの減らし目のところを教えるんだったよね」
おばさま方の質問に一通り答えた後で、池崎さんは先日の散歩で話したことをフォローしてくれた。
ちゃんと覚えていてくれたんだ!
「はい。お願いします」
私が編みかけのセーターの前身頃を持っていくと、棒針を引き受けた池崎さんの指が器用に動き始める。
「まず、一段目は端三目を編んでから一目をこうやって減らす。左側の袖ぐり部分も残り四目のところを減らしてね。二段目はそのまま編んで、三段目でまた一目減らして……」
細くて長い指が、編み針と糸を押さえながら器用に動く。
男の人が編み物をしているところを見たことがなかったけれど、繊細に動く指はなんだかちょっとセクシーだ。
綺麗に切りそろえられた爪は縦長で、指を曲げると出っ張る拳のでこぼこが男っぽく骨ばっていて……。
トクトクと早まる鼓動と顔までこみ上げてくる熱っぽさを感じながら、ひたすら池崎さんの手に見入ってしまう。
「……と、ここまではわかったかな?」
池崎さんに確認されて、ハッと意識が戻る。
「あ、えっと……。すみません! もう一度お願いします!」
「ええっ!? じゃあもう編んじゃったから、説明だけするよ? まず一段目は……」
ちょっと呆れた様子を見せた後で、再び丁寧に説明してくれる。
やっぱり池崎さんは穏やかで優しい人だ。
私の中で、池崎さんは……。
素敵な人。
から、
好きな人。
に、
変わりつつあるのかもしれない──。
🐶
「お疲れさまでしたー」
会議室の片付けと掃除まで終えて、20時半にコミュニティセンターを出る。
白い
「あのっ! 今週夕方公園に行ったんですけど、池崎さんとアリョーナに会えなくて……。
アリョーナ、体調悪かったりしますか?」
少しでも会えるチャンスを増やしたい!
会えなかった理由を聞きたくなった。
車のドアを開けた池崎さんが、ああ、と何かを思い出したように視線を泳がせる。
「そうか、こないだ伝え忘れてたね。
今、アリョーナはうちにいないんだ。
来週半ばに戻ってくるから、そしたら公園に散歩も行くし、シャンプーもお願いするよ」
「え? アリョーナ、今どこにいるんですか?」
予想外の答えに驚きつつ尋ね返すと、池崎さんは暗がりの中でアルカイックスマイルを見せた。
「別宅だよ」
それだけ言うと、「それじゃ、お疲れさま」と言葉を残して、池崎さんは車に乗り込んだ。
エンジンをかけライトをつけると、運転席で軽く片手を上げて車を出す。
別宅……って、どういうことなんだろう?
私は自転車のハンドルを握って立ち尽くしたまま、池崎さんの車を見送った。
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