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 ラーラは店の壁にかけられた時計を見た。

 太陽が空の真上にのぼりはじめる時間だった。ラーラはカウンターに置いてあるポットに水を入れると、かまどの上で温めはじめた。

 朝の時間の客足は少ない。店には出窓で丸くなっているシグルドと、この時間の常連となっている老人が一人いるだけだった。

 シグルドの耳がぴくりと動いた。お客の来訪だ。

 人間であるラーラは何も聞こえなかったが、猫である彼は些細な音にでも反応する。

 遅れて、入り口にかけておいた鐘が音を立てて、扉が開いた。

 首にかけていたタオルで汗を拭きながら、オーガストが顔を見せた。

「いらっしゃい」

 ラーラは彼の定位置となっている窓側の席へ手招きした。

 オーガストが腰を降ろすと、側の出窓で丸くなっていたシグルドが不快そうに尻尾を揺らした。

 店を開店するまで、人型で手伝ってくれていたシグルドであったが、近頃は専ら猫の姿でいる。シグルド曰く、猫型のほうが身軽だから、だそうだ。

 軽々と高いところや、木などに登り降りしているところを見ると、確かにそれも頷ける。

 しかし本当のところは、かけられた魔法の作用によるものではないかと、ラーラは思っていた。無意識の内に、猫の身体が楽なように感じてしまっているのだ。

 オーガストはカウンターの入り口側に座っている老人を、横目でちらりと一瞥した。

 テーブルに置かれた皿はからになっており、老人は食後の飲み物を取っているところであった。手に持ったカップには珈琲が、半分ほど残っていた。

 オーガストは、上目でラーラの様子を覗った。

「チキンサンドでいいかしら? 飲み物は、エール?」

「いや、珈琲でいい」

 オーガストの言葉に、窓際にいたシグルドが反応した。顔を持ち上げ、満足そうに目を細める。オーガストの他に人がいなければ、それみたことか! と、勝ち誇ったように声を上げていたことだろう。

 ラーラの町では、大麦で作るエールが常飲されていた。

 珈琲は一部の人々の間でのみ、流布されているものだった。珈琲はエールに比べて、入れる手間がかかるし、何より仕入れ値がかかる。

 しかし店では、シグルドたっての希望で、珈琲もメニューに加えていた。

 ラーラが店で提供するまで、町では珈琲を飲んだことのある人間は誰もいなかった。名前すら知らなかった者も多かったはずだ。

 無論、この得体の知れない飲み物に抵抗を示す人間も多かった。メニューには載せているが、売れないという状況が続いた。

 見た目や苦みのある味もあってか、オーガストに泥水とまで言われる始末だった。

 もちろん通常の値段設定では注文が入るはずがなかったので、仕入れ値ギリギリの値段でラーラは提供することにした。

 すると珍しさもあってか、試しに、と頼んでいく人が増えたのだ。根気よく売り続けたのが功を奏した。

 今では珈琲を入れるラーラの店は、町ではちょっとした名物になりつつある。都会でしか飲めない珈琲が出されると、近頃では近隣の町からも人が来るようになったぐらいだ。

 オーガストもそういう町民の一人だった。はじめこそエールを頼んでいたオーガストであったが、この頃は珈琲を頼むことが増えている。

 それがシグルドは嬉しくてたまらないのだろう。

 ラーラは作業台の上に置かれた機械に珈琲豆を入れると、上に付いたハンドルをゆっくりと回しはじめた。ごりごりと豆の潰れる音がして、珈琲の匂いが店に広がった。

「いい匂いだな」

 オーガストが言った。

「最初見たときは、こんなもの絶対に飲めないと思ったものだが、最近じゃこれを飲まないと、早朝の仕事が終わった気がしない」

 ラーラは豆を挽き終えると、作業台の下に作られた収納棚から、四角い器を取り出した。中には水が張られ、何枚ものリネンの布が浸されている。

 この水は朝夕の二回、取り換える。リネンを乾燥はご禁物だ。乾燥させてしまうと、布に残った珈琲の油分が酸化し、次回入れるときに珈琲の味を落としてしまうからだ。だからこうして乾燥を防ぐために、リネンは常に水に漬けておく。

 珈琲を入れるのは、エールと違いとても手間がかかる。

 ラーラは一枚リネンを摘まんで取り出すと、素手でぎゅっと水を絞った。リネンを乾いた布巾で挟んで水気を切る。

 そのあとラーラはスタンドと呼ばれる太目の針金でできた円柱型の器具の上に、リネンを乗せた。上の円と下の円を三つの針金で支える形となっており、下の円がやや大きめに作られていた。

 リネンの下には、短い注ぎ口の付いた広口のサーバーが置かれており、ここに珈琲が落ちる仕組みになっている。

 ラーラはスタンドに被せたリネンを指で押し込みくぼみを作ると、そこに先ほど砕いた珈琲豆をスプーンで流し入れた。

 珈琲の入ったリネンごとスタンドを持ち上げると、軽く振っておく。粉の表面を平らにならしたあと、元の場所に戻しておく。

 ラーラは後ろを振り向くと、かまどで温めておいた細口のポットを素手で触った。よく温まっている。

 ラーラはポットからお湯を乗せるように、少量注ぎ入れた。粉の表面が膨らみ、香りが強くなる。

 この香りを楽しむのも、珈琲の醍醐味だった。

 しばらくそのままにしておくと、サーバーの中にポタポタとお湯が落ちるのが見えた。この作業が珈琲を美味しく入れるコツだ。

 ラーラはポットを傾けた。丁度粉の中心に当たるように、真上からお湯を落としていく。はじめに粉が被るぐらいのお湯を注ぎ入れ、そのあとはお湯の落ちる速度に合わせて、緩やかにお湯を足していく。小さな渦巻きを描くように、慎重にポットの口を動かしていった。

 ここで注意することは、リネンに直接お湯をかけてしまわないことだ。

 珈琲にお湯が行き届くと、ぽつぽつと泡が膨らんでくる。この泡は、挽き立ての新鮮な豆ほどよく膨らむ。

 リネンの中の珈琲もまるでムースのように、膨れ上がっていた。

 サーバーの半分よりやや上のところで、ラーラはお湯を止めた。

 ぽたぽたと、リネンからはまだ珈琲が垂れていたが、近くにあった小皿に素早くラーラはリネンを移し替えた。

 もったいないが、これも珈琲を美味しく入れるためだった。最後に垂れるこの滴には、珈琲の雑味が入っている。それをサーバーに入れてしまわないためだった。

 ラーラはサーバーに蓋をすると、珈琲用のカップに先ほど入れた珈琲を注いだ。

 ソーサーを手に持ち、オーガストの前に置く。

「お待たせ致しました」

 オーガストは簡単に食前の祈りを捧げると、カップを口元まで運んだ。一口口に入れると、ほっとしたように、一息ついた。

 静かな時間が店には流れていた。

 こんなとき、ラーラは珈琲をメニューに加えたことを正解だったと思う。売り上げにはほとんどならないが、エールではこの雰囲気を出せなかっただろうから。

 ラーラはオーガストと同じくこの時間の常連となっている老人の元へ向かった。カップを覗くと、残りわずかとなっていた。

「お替わりはいかがですか?」

 ラーラの言葉に老人が頷き、カップを差し出した。毎回は難しいが、こんな風にお客の注文が重なったときは、サービスで出している。

 ラーラは立てかけてあった木製の鍋敷きを出すと、その上に空になったサーバーを置いた。

 そのあとすぐにオーガストのチキンサンドに取り掛かった。

 店では毎日日替わりで、サンドイッチとケーキを出している。他のメニューも注文が入れば作るが、昼間の時間帯はほとんどこの二つが出ることが多かった。

 本日のパンはライ麦で作ったライ麦パンだ。店に出すこのサンドイッチ用のパンも、ラーラは毎日替えるようにしていた。

 ライ麦パンは、小麦のパンと違って、色が黒いのが特徴だ。酸味があり、噛みごたえのある硬めのパンだ。

 ラーラはこれをスライスすると、チキンソテー、レタスを挟み、ソースをかけた。今日はヨーグルトを使ったさっぱりしたソースを合わせてみる。最後に上からパンを乗せ、食べやすいように半分に切れば完成だ。

 ラーラは完成したサンドイッチを皿に盛り付け、オーガストに出した。

 両手で潰すように持つと、オーガストは大口を開けた。噛み砕くと、レタスのシャキシャキとした音がする。

「ごちそうさん」

 老人が礼を言うと、席を立った。ポケットからチャラチャラと音を出しながら、小銭を取り出す。老人はテーブルに一旦出すと、小銭を広げて勘定をはじめた。

 オーガストの頼んだ日替わりサンドと珈琲をこの老人も頼んでいた。日替わりのサンドとケーキは飲み物と合わせると、十クロネ硬貨一枚で済むセットになっている。

 一枚で済むようにしたのは、人手の少ないラーラの店でも素早く計算できるようにした配慮だった。発案者はもちろんシグルドだ。

 客のほうも計算の手間がなくお得感があるから、この二つのセットを頼むようになっている。

 しかしこの日は老人の持ち合わせがなかったようで、硬貨を広げて十クロネになるよう計算していた。

 ラーラの国では、一番小さな貨幣が一ロネ硬貨となっていた。それが十枚集まると、十ロネ硬貨、十ロネ硬貨を十枚集めると、一クロネ硬貨となる。

 パン一つがだいたい二クロネ硬貨程なので、オーガストたちが食べたこのセットは、パン五つ分と考えるといい。

 朝食や昼食に使う値段としては、妥当な料金だった。

 老人は、十ロネ硬貨や一クロネ硬貨をごちゃ混ぜにして、差し出した。

 ラーラは指で一枚ずつ素早く硬貨を確認する。ぴったりと十クロネ硬貨分、硬貨は確認できた。

「いつもありがとうございます。またいらして下さい」

 ラーラは勘定を済ませると、礼を述べた。

 それまで窓際で寝そべっていたシグルドが顔を上げて、低い声で鳴いた。

 笑顔だ、笑顔!

 肉球の付いた手で頬を持ち上げ、合図している。

 会計のときぐらい笑顔を見せたほうがいい。そのほうがまた来ようと思えるから。

 ラーラはそう何度もシグルドに、叱責されていた。

 ラーラはにっこりと笑って見せたが、どうにもシグルドの反応が良くなかった。どうやら笑顔が引きつっているようだ。

 老人は会計を済ませると、店を出ていった。

 シグルドやオーガストなど、気心の知れた仲なら笑顔もそう難しくないのだが、常連相手でも笑顔はまだまだ難しい。

 言い訳がましくなるのだが、性格的に元々笑うことも少ない上に、宮廷では給仕は係りの者が担当しているので、外に出ることは一切なかった。料理人として、笑顔は要求されていなかったのだ。

 無論、陽気な料理人もいたが、ラーラはそういったタイプとは無縁だった。

 老人が店を出ていったあと、ラーラにどっと疲れが襲ってきた。

 料理のほうは順調だが、接客はまだまだ課題が山積みのようだ。

 ラーラはやり残していたリネンの手入れに、取り掛かった。

 珈琲用のリネンに乾燥は禁物なので、手が空けばすぐに手入れをしなければならない。

 ラーラは小皿に移し替えておいたリネンを取ると、中に残っていた珈琲の粉を捨てた。

 流し台に立てかけて置いていた桶に水を溜めると、その中でリネンを洗う。リネンに残った粉を掻き出すように、しっかりと指の腹で落とす。粉を落とした後は、軽く絞り、水を張った別の容器に入れて保管しておく。これで手入れは完了だ。

 明日のことを考えて、ラーラの店はそれほど夜遅くまでは開いていないのだが、昼から夜になるに連れて客足が増えていく。

 そのため客足の少ない午前中の時間帯にすることは、まだまだたくさんあった。

 宮廷でもそうであったが、ラーラの料理人としての朝は早かった。日の出前に起き、暗い中作業に取り掛かる。

 湯を沸かし、調理道具の手入れからはじまって、野菜の皮むきなどの仕込みの作業に移っていく。そうこうしている内に、あっという間に店を開く時間になる。

 ラーラはいつでも気軽に立ち寄ってほしいという思いから、店を開く時間を通常より長めに取っていた。

 ラーラのように料理人一人や家族で経営している店は、通常昼や夜と、時間帯を決めて営業することが多かった。そうしなければ、お客を裁ききれないのだ。

 無論ラーラの店をそうなれば、時間や日にちを限定しなければならないだろうが、営業時間に作業をすることで対応していきたいと思っていた。

 常連の客がはけたあと取り掛かるのは、ランチとディナー用のスープ作りであった。

 とは言っても、夜の時間帯にやってくるのは、ほとんど酒飲みのお客なので、売れるのはほぼ昼の時間帯であったが。

「ラーラ、お前、本当にこれでいいと思っている?」

 スープ用のじゃがいもをラーラが取って、皮を剥きはじめようとしたときだった。窓辺で寝そべっていたシグルドが顔を上げた。イライラしているのか、尻尾がふらふらと揺れている。

「これじゃあ、普通の料理屋だ」

 ラーラはシグルドの話を聞きながら、器用に皮むきをはじめた。

 シグルドの言いたいことはわかる。

 店を開いて、それなりの時間が経つが、当初予定していた特別な依頼は一向にやってくる気配がない。

 やってくるのは町の常連ばかり。目新しい顔を見なくなったシグルドは、焦りを隠せないでいるのだ。

「毎日、毎日やることと言えば、皿洗いや料理の仕込み。その料理だって、普通の家庭料理が中心だ。こんなのラーラじゃなくたって、誰だってできることじゃないか。田舎にあるただの料理屋だ。こんなことじゃラーラの期待していた客なんて、やって来るはずがない」

「そんなすぐには無理よ。これから口コミでこのお店を知ってもらえれば、いずれはやって来るわ」

 料理の下ごしらえに、調理器具の手入れ、皿洗いに食材の仕入れ。

 確かにラーラのしていることは、シグルドの言うように普通の料理屋がすることだった。

 しかしラーラにとっては、変わらない日常だった。宮廷でも自分の店でも料理人のすることはいつでも同じだ。見た目が派手な料理もこうした地道な作業の上に成り立っている。

 むしろずっと皿洗いや皮むきばかりさせられていた宮廷時代よりも、こうしてお客に料理を出せる現在のほうが充実しているように感じるぐらいだった。

 しかし宮廷で娯楽に慣れたシグルドにとっては酷くつまらないものに映るのであろう。

「なあ、特別な客って、何だ」

 食事を終えたオーガストが、手に付いたパンくずを払いつつ、会話に割り込んできた。シグルドとラーラは、思わず顔を見合わせる。

「ラーラがこの店をはじめた理由だよ。心に触れる料理を作りたいって」

 先に答えたのはシグルドだった。続いてラーラが言葉を被せる。

「決まった料理じゃなくて、お客さまの依頼で色々な料理に挑戦したいと思っているの。どんな料理でも、できる限り対応するわ。ねえ、オーガスト。誰か料理を作ってほしい人はいないかしら」

 オーガストは唸った。

「料理ねえ」

「そんな大げさなものじゃなくていいの。食べたい料理があるけど、作り方がわからないとか、誰かの誕生日をお祝いしたいとか。本当に簡単なものでいいの」

 オーガストはしばらく考え込んだあと、ゆっくりと頷いた。

「わかった。探してみる」

 オーガストが依頼者を連れ立ってやって来たのは、それから五日目のことだった。

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ラーラの料理屋さん 鋭縞みい @tatejimanoneko

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