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 それからラーラは、家中の窓や扉を開けて回った。風の通り道を作ってやると、風に乗って淀んだ空気が流れていくのがわかった。掃き掃除に、拭き掃除、早く台所の掃除に取り掛かりたかったが、まずは家で過ごせるように環境を整えるのが先決だった。

 家の匂いの元であった薬品類は、鍵付きのボックスに入れて診察室の隅に置くことにした。もう使う予定はないのだから捨ててしまうのが一番よかったが、何となく憚られた。

 家中がすっかり綺麗になると、次はいよいよ台所の番だ。

 この時代、上流階級の家や都会以外、つまりは地方の庶民の家は寝室と居間の二部屋で構成されているのが普通だった。ラーラの家もその例に漏れず、先ほど回った母親の仕事場以外は、すべての部屋を家族全員で共有していた。

 家の中は暖炉の火を有効活用するため、調理暖炉を中心とした家造りになっていることが多い。

 暖房用の暖炉と料理用の暖炉が分けられていることはまだまだ珍しかった時代である。人々は暖炉で起こした火で家を暖め、身体を清める湯を沸かし、料理を作った。

 居間の中央に石を積み上げただけ、という簡素な炉を使っている家も少なくなかったが、ラーラの家は壁際にしっかりとした暖炉が備え付けられていた。

 料理嫌いだった母のおかげか、痛んではいるものの、比較的綺麗だった。これなら簡単な補修を行うだけですぐに使えそうだった。

「でも調理場がお客さまから丸見えってのは、いただけないわねえ」

 暖炉の前に立ったラーラが、部屋全体を見回しながら呟いた。ラーラとしては、お客との距離が近くなるのは喜ばしいことだったが、いくらなんでも近すぎる。これでは生活感が丸出しだった。

「母君の診察室を使うのは? 食材は薬品庫に置くといい」

「それもいいんだけど、できれはお客さまの顔を見ながら料理をお出ししたいのよ。調理場で料理を作って運ぶなら、宮廷とそう変わらないわ」

 ラーラの言葉にシグルドがぎょっと目を見開き、激しく反応した。

「変わらないだって! ラーラ、すべてのことが違うじゃないか。狭い調理場や前時代的な設備、ありきたりな食材、食べに訪れる人の装いや身分、何もかもが違うっていうのに、変わらないだって!」

 シグルドは唾を飛ばさん勢いで、早口で捲し立てた。猫のときならいざ知らず、人間のときの彼が、このように取り乱すのは珍しいことだった。変わらないと言ったことが、余程シグルドの神経を逆なでたらしい。

「勘違いしないで。私が言いたのは、お客さまの反応が伝わらないってことよ。美味しいと言っても、その意味は色々あるわ。私が気になるのは、最高の一皿を出せたかどうかってことよ」

「また例の美味しい料理の条件とやらかい」

 シグルドはほとほと呆れたと言った様子で、答えた。

「僕は気が進まないね。ラーラは良い面ばかり目についているみたいだけど、客との距離が近いということは、それだけ店の品位が下がることにも繋がる。ラーラ、君も言っていただろう。料理の味を決めるのは、料理人の腕だけじゃないって。料理人の顔が見えるなんて、大衆食堂や酒場みたいなものだ。客も期待はしてこない。腹を膨らますために来るだけで、それなりの味だと思って来る。最初からそんな気持ちで来た客を、その気にさせるのは至難の業だ」

「まるで恋人を口説き落とすみたいね」

「ラーラ、その通りだよ! 料理の味がもちろん一番大事だ。大事だけど、見た目や第一印象で、料理の評価はほぼ決まると言っても過言ではない。人の味覚とは不思議なもので、高級な店で出せば、高級な味に。雑多な店で出せば、同じ料理でも大味になる」

「だからお客さまとの距離は遠くして、特別感を出したほうがいいと」

「僕は君の料理が、軽んじられるなんて納得できないよ。僕は君の作る、手の込んだ料理に惚れたんだ。君の料理は宮廷に相応しい細やかな配慮の行き届いた料理だった。この料理の作った人は、とても繊細な感性の持ち主だと感動した」

 シグルドはラーラを覗き込むように、視線を合わせた。

「そしてそれは君に出会って確信に変わった」

 歯の浮くようなセリフとは、このことだ。シグルドは前回の失敗を踏まえ、ラーラに触れこそしないものの、情熱的な身振りで、懸命にラーラに料理の魅力を伝えようとした。

「ずいぶんと評価してくれるのねえ」

「君は原点であるオーガストのママのラスクを思い出すため、故郷に戻ってきたんじゃないのかい。僕にはまったく理解できないが、宮廷にはないものが、この家にはあるのだろう。君の求める最高の一皿、客だって同じものを求めるはずだ。それをそこらにある食堂や酒場みたいな雰囲気の中で出せるとは思えないよ」

 シグルドは台所の天板を指で叩いた。石で出来た天板からは、固い音が返ってきた。

「それに、食堂や酒場なんてものは、どこに行ったってある。この町にもあるだろう。まず、目新しさがないんだ。こんな小さな町に開いているような店は、酒飲みの常連のために開いているような店だろう。君の店もきっとそうなる。その他大勢の店に、君の料理や店は埋もれてしまうはずだ」

「それなんだけど、私のお店は一組限定の完全予約制にしようと思うの。もちろんある程度、調理場は隠すつもりだけど、これなら見えてもそんなに問題じゃないはずだわ。私は作っている最中の音や香りも楽しんで貰いたいのよ」

「完全予約制か。悪くはないけど、そんなことをすれば一皿の値段は跳ね上がるんじゃないのかい? 最高の一皿と言っても、それをこんな田舎で出すような人間がいるとは思えないけど」

「もちろんそれだけじゃ採算が取れないから、予約のない日は普通に食堂を開いたり、ここでジャムやハム、チーズなんかの加工品を作ったりして、販売も考えているわ。商売人との繋がりもできるし、加工品を買った人には、店の宣伝になるんじゃないかと思ってね。予約が入ったときだけ、貸し切りにしようと思うの」

「つまりは食堂や販売がメインで、君の店はそのついでってことかい?」

「ついでって言い方は好きじゃないけど、まあ、そうなるわね。現実問題、そんなに予約が入るとは思えないし、だからと言って、シグルドの言うようなお店を開くのが、私の目的でもない。だったらこうするのが、一番いいと思うの」

「君の作るジャムは好きだ。甘さが控えめで、素材の良さをよく引き出している。パンだけじゃなくて、ソースなどの料理にも合う。売れるだろうけど、僕たちはジャムやチーズを売りにここへ来たわけじゃない。会員制や予約制の店は、本来なら上流階級の人間しか相手にしない店だ。田舎じゃ、存在すら知らない人間もいるだろう。サービスに釣り合わない金額を提示されれば、人は警戒するはずだよ。僕だったら、怪しむ」

「そこまでは、考えてなかったわ」

 ラーラは口に手を当て、目から鱗といった様子で答えた。

「そこまでして、君は君の理想を体現しようというのかい」

「シグルドの言う非日常感はとても大事よ。せっかく私の店に来てくれたんだもの。最高のおもてなしをお客さまに提供したい。でもそれだけだと駄目なの。私の原点はオーガストのママのラスクだもの。あのとき感じた温かい雰囲気、ほっとするような気持ち。それをお客さまにも感じてもらいたいの」

 ラーラは熱弁した。

 ここはラーラの家だ。意見を押し通すことは簡単だったが、シグルド相手にそれはしたくなかった。

 彼はラーラの料理の一番の理解者だった。シグルドの意見は、ラーラの料理の良さを最大限に引き出そうとした結果だった。

「客との距離を近くするのは、その雰囲気づくりのためだと」

「人は本音なんて、中々見せないものよ。店主との距離が遠ければ尚更よ。シグルドの考えるお店もとても素敵だけど、心に高い壁を作ってしまうものよ」

 シグルドは頭を押さえた。

「ラーラ。君って子は、普段あまり我が儘を言わないのに、こうと決めたら動かない頑固さがある」

 シグルドは、ラーラの瞳を覗き込んだ。ラーラは一瞬たじろいた。

 シグルドはこうして、ただ黙って、女性を見つめることがある。目で口説くのだ、と彼は言っていた。

 ラーラが黙っていると、シグルドは眉を下げ、悲しそうな顔になる。

 お願いだよ、ラーラ。

 ラーラには、そう言っているように聞こえた。まるで雨に濡れた子犬だ。いつも自信たっぷりなシグルドからは、想像できない姿だった。

「そんな顔をしても、駄目よ。きちんと話し合いをしましょう。泣き落としなんかで解決したら、後で絶対揉め事の種になるわ」

「話し合いって言っても、もう君の中では明確な構想が出来上がっているみたいじゃないか。僕の意志なんて入る隙間がない」

「そんなことはないわ。よりよい店づくりのために、意見を出し合うことは重要なことだもの」

「いいんじゃない」

「あら。ずいぶんとあっさり賛成してくれるのね」

 ラーラは拍子抜けした。

「僕の好みではないけれど、店としてはしっかりとしたコンセプトが出来上がっているよ。僕は君の幼馴染みたいに、片っ端から否定しているわけじゃないさ。道理の通っているものならば、受け入れる。それにどんな店になろうとも、詰まるところ出されるのは君の料理だ。お客はみんな君の料理の虜になるはずさ」

「そうだといいんだけど」

「人を惹きつける魅力とは、誰にでも与えられるものじゃないものだ。たくさんの女性を虜にしてきたこの僕を魅了したんだ。自信を持っていい」

 ラーラの目が細くなる。

 褒められるのは、苦手だ。だけど料理のことなら別だった。

 わかり辛いとよく言われるが、ラーラはシグルドの言葉に喜びを隠せないでいた。

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