1ー5

 そのあと一週間ほどかけて、ラーラは家の修復に努めた。何しろ十年以上も離れていたのである。家は荒れ放題、痛み放題であった。

 しかし家の要とも言える、柱や梁が無事であったのは幸いだった。

 店をはじめるに当たって、ラーラは別に家を借りることも考えていたのに、しっかりと形を保っていたのは、奇跡に近かった。

 多分であるが、オーガストが一年に何回かは様子を見に来てくれたのであろう。家の窓を開けて空気を交換したり、積もった埃を掃除してくれたりしたのだと思う。庭に生えていた雑草も家の周りだけは、引き抜かれたのか、周囲より草丈が低かった。

 だからだろうか。庭に比べて、家の中は綺麗なものであった。

 所々ガタが来てはいるものの、まるで出ていったまま時が止まったかのようにしんと静まりかえっていた。

 ラーラは渋い顔で、空間を睨み付けた。ここにいると、少女であったあの時の気持ちが蘇るようであった。

「おや、ラーラの母君は、何か商売でもしていたのかい?」

 それが家に足を踏み入れたシグルドの第一声だった。

 家の中は、独特の匂いが充満していた。つんとするような刺激臭が最初に来たと思うと、シナモンやバニラを思わせるような甘い香りに包まれる。

 ラーラには慣れた匂いだったが、確かに普通の家庭ではしない匂いだった。

「獣医だったのよ。羊や牛の家畜専門の。匂いの正体は、ここ」

 ラーラはそう言うと、居間から続く扉を開いた。

 部屋にはずらりと棚が並べられ、ハーブや薬の入った瓶、それに分厚い本などがひしめくように置かれていた。隅に置かれた机には、書類が乱雑に積み重ねられていた。

 ラーラの言うように、先ほど感じた匂いが部屋に踏み入れた途端、強くなった。

 シグルドはポケットからハンカチを取り出すと、鼻に当てた。

「ここは薬品庫ね。診察に必要な器具や資料を置いていたの。それで、こっちが診察室」

 そう言って、ラーラは薬品庫から続く別の扉を開けた。中は広い土間になっており、反対側の壁には開口部が大きく取られた、両開きの引き戸が付けられていた。

「こっちの扉は外に繋がっているの。家畜たちはここから入れて、診察するわ」

 部屋の隅には、小さな診察台が置かれていた。隣には棚があり、バケツやブラシなど家畜のための道具が置かれていた。

 ラーラは診察台に近付くと、表面を一度手で摩った。埃が舞い、傷だらけの板目が顔を出す。

「鶏や羊なんかは、この診察台に乗せて治療をするの。この町は酪農で生計を立てているから、重宝されていたみたい」

「ラーラも診ることはできるのかい?」

「そりゃ、母の仕事を見て育ったから、少しわね。でも母みたいにはできないわ。母が亡くなったとき、私に診療所を続けてほしいって声もあったんだけど、断ったの。怖かったのよ。母と比べられることが」

「最初なんだ。誰にでも失敗は付きものだ」

「わかっている。町の人だって、すぐに母の代わりが務まるとは、思っていなかったと思う。誰かがやってくれれば。そんな軽い気持ちだったと思うわ。でも私にとっては、重荷だった。みんなの期待に応えられないことが」

 シグルドが興味深そうにこちらを見ていた。少し面白がっているようだった。話し過ぎたみたいだ。

 ラーラは憑物でも払うように、首を振った。

「家に帰ると、駄目ね。昔のことばかり思い出すわ」

「宮廷で働いていたときのように、真面目な子だったみたいだね。期待に応えられないと悩むなんて、かわいいじゃないか」

「あのときはまだ子どもだったのよ。今なら、適当にやり過ごしたはずよ」

 ラーラは首の筋を伸ばすように、ゆっくりと左右に倒した。

「まずこの匂いをなんとかしましょう。これじゃあ、お客さんを呼べないわ」

「同感だね。匂いは味覚に大いに関係する」

 ラーラは診察台から離れると、引き戸に近付いた。戸の横に付いた鍵を回し、錠を外す。

 片方の扉を手で引っ張るが、ガタガタと揺れるだで、びくともしなかった。

 長年使っていなかったからか、扉の滑りが悪い。ラーラが腰を入れて踏ん張っていると、シグルドが手を貸してくれた。がたんと大きな音を立てて、扉が動き出す。

 隙間から太陽の光が差し込み、部屋を照らす。

「どうも」

「どうしたんだい?」

 ラーラがまじまじと顔を凝視するので、シグルドが不可解な顔をした。

「いえ、猫だ。猫だと思っていたけど、やっぱり男の人ね。簡単に扉を開けちゃうんだもの。私に付いていくと言われたときは、びっくりしたけど、あなたを連れて来てよかったわ。男手が必要なことって、たくさんあるもの」

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