ワンダーポップ・ワンダーランド

神宮司亮介

ワンダーポップ・ワンダーランド


 ――命の更新を、開始します。



 ピピピ、ピピピ、時計が泣いた。哲は長細い腕を伸ばして、目覚まし時計の頭を叩く。ボタンが押し込まれ、時計は大人しくなった。

 とある日の、とある平凡な朝。穏やかな外の世界とは違い、忙しく過ぎていく朝のひと時は学生にとっての戦争だ。

「おはよ……ふぁああ……ねみい」

 ブラウスと黒いセーターを着て、紺色のズボンを履いた哲は、眠気眼を引っ提げて階段を降りてくる。リビングには哲が来るのを待ちわびているように、父、母、妹の家族三人が席についていた。

「お兄ちゃん、時間は大丈夫?!」

 妹のあかりは、丸い瞳を鋭く哲の方に向けて来る。髪の色に溶け込んだピン止めで前髪を揃え、肩の辺りで揺れる黒が無邪気に笑っている。

 哲は世話焼きなあかりに座らされ、癖毛気味な髪を掻いて「待たせてごめん」と笑う。目の前には、トーストとスクランブルエッグが牛乳と共に置かれていた。

「さっさと食べて、学校行っちゃいなさい! 遅刻したら許さないんだから!」

 そう言って、哲の母は保温ケースに入った弁当箱を朝食の傍に置いてくれた。台所からの香りを想像すると、豚の生姜焼きが待ち構えている。

「いつもありがとう、お母さん!」

「何言ってんの、早く食べちゃいなさい!」

「まあまあ。哲はいつも優しいな。お母さんのこと、ちゃんと気遣ってくれて」

「お父さんまでもう。恥ずかしいじゃない」

 朝から良い雰囲気の両親を尻目に、哲は朝食を口の中へかき込んだ。普通の高校生なら今日は春休みなのだが、哲には特別講義というものが入っていた。朝から夕方までみっちり勉強しなければならないのは憂鬱だが、一日をボンヤリ過ごすよりはよっぽど充実する一日になる。

 テレビの画面に映っている天気予報の解説もそこそこに、哲は席を立つ。

「ヤベエ、時間! 行ってくる!」

「行ってらっしゃい! あ、今日何の日かわかってるよね?」

「わかってるよ! 行ってきます!」

 あかりに訊ねられた答えをしっかりと頭に残し、哲はリビングの扉を閉めた。

 三月二六日の朝は、青青しい空が世界を征服している。まだ寒さが残っている息を吐いて、颯爽と自転車を走らせる。緩やかな下り坂でマフラーが揺れ、ズボンの裾の方から風が吹き抜ける。

 今日は、あかりの誕生日だ。一四歳の誕生日だ。

 あかりは元気な女の子で、頭が良く、友達想いで優しい。何よりも、兄である哲のことを大好きだと言ってくれることが嬉しい。だから、この日は気分が良かった。帰ればきっと、幸せが待っている。テーブルの上に並べられた美味しい料理は湯気が立っていて、それぞれの口の中へ運ばれることを期待しているはずだ。

そして、そんな場所へ誕生日ケーキを届けるのが、今日の哲の役目である。授業は早くて五時に終わる。行きつけのケーキ屋さんに予約を入れてはいるので、財布でも無くさない限りはその使命を果たすことが出来る。

 期待が脳髄を支配すると、普段は退屈な授業が特急の勢いで過ぎていく。難しい数式の羅列、歴史が積み重なった文章、異国の会話のキャッチボール。純白のノートが闇に落ちていく。

 夕刻のサインが窓の外でちらつき始めた頃、教壇に立っている教師が「今日はこれで終わりです」と告げる。もちろん、哲は友達が寄ってくることを見越して、颯爽と教室を後にした。

 錆びた銀色を着飾った愛車を哲は走らせる。学校の近くにある商店街にある子洒落たケーキ屋で目的のものを受け取り、しっかりと固定された前カゴに入れる。カゴにちょうど、ケーキの箱は収まった。

 半透明のビニール袋を揺らして、哲は自転車をゆっくりと漕いでいく。黄昏時の空は明るく、そして寂しげな色を広げている。

哲はふと、腕時計に目をやる。まだ五時半にもなっていないが、慌てて携帯電話を取り出す。気付いていなかったが、メールが入っていた。

『六時頃、到着いたします』

 こうしちゃいられないと、メールの中身を見た哲はケーキを崩してしまわない程度の勢いをつけて、帰路に就いた。

 紫の風が夕暮れを撫でていく。電線が雲を切り取って、暫しの眠りに就こうとする太陽を見守っている。その下で灰色を敷き詰めたアスファルトの上、哲は自転車をこいで走る。カシャラン、カシャラン、オイルをさしてくれと泣いている。

 メールの時間より幾分早く、哲は家の前に就く。傍には黒い目立つ色のトラックが停まっていた。疑問に思った哲は、塀の向こうにある玄関の方を見る。そこには、黒いスーツ姿の男が佇んでいた。男は哲に気付くと、黒縁の眼鏡越しに映っている切れ長の目を閉じ、軽く礼をした。

「お帰りなさいませ、国吉哲様。お待ちしておりました」

 落ち着いた雰囲気を漂わせ、男は哲の方をじっと見つめてくる。胸の奥が射抜かれそうな鋭さを感じ、哲は思わず目を逸らしてしまう。

 ニヤリ、不気味に笑う男のことを、哲は覚えていなかったわけではなかった。家の前に止められているトラックも、忘れてはいなかった。現実から目を逸らしていることは、自明であった。

「間もなくですね。ただいまから、引き揚げ作業に入ります」

 男は玄関扉の取っ手を握る。哲の帰りを待っていたドアは、鍵がかかっている素振りも見せず、簡単に開いてしまった。トラックから二名の男が現れる。同じ黒いスーツ姿の彼らは、無駄に背筋を伸ばして家へと勝手に上がった。哲は呆然と、その様をただ眺めているだけだった。



「契約書の書面通り、期間は一年と定められているはずです」

 朝食が並んでいたテーブルには、一枚の紙が置かれている。哲はそれをただただ見つめている。

「わかってるよ……」

 普段と変わらず照らしてくれている筈の照明さえ、哲は薄暗く感じていた。今朝、父が座っていた席にいる男の方を見ることは出来ない。

「私共としては、国吉様に良いサービスを提供できたと自負しております」

 使命を全うした達成感のようなものが、男の笑みからは溢れている。哲は唇を噤んだ。

「何で、何で俺の家族は死んだんだよ!」

 哲は、瞳から溢れ出す涙を止められなかった。向こうにいる男は平静を保っている。

「仕方がありません。事故は偶然……」

「偶然って何だよ! 偶然人が死んだら、割り切れって言うのかよ! 偶然だからもっと辛いんだよ!」

 身を乗り出して、哲は男に激昂する。八つ当たりの対象が間違っていることはわかっていた。それでも哲は昂る感情を抑えることが出来なかった。

「心中は御察しします。しかし、我々に死というものは必ず付き纏ってきます。そのために、我々がいるのです」

 声色を変えることなく、男は毅然とした態度で哲と接する。哲は何も言い返すことが出来ず、またテーブルを叩いた。

「我々『リライブ』では、今後も国吉様のサポートを続けていきたいと思っております」

 哲は、そう言った男の胸元を見る。名札に書かれた「196」の文字を見て、余計に悲しくなった。

「では、次の仕事がありますので、ここで失礼させていただきます。あかり様の機能を一旦停止しておりますので、胸の辺りのボタンをもう一度押してください。残り時間は少ないですが。また時間が来ましたら、お伺いいたします」

 最後の最後まで、男はにこやかな笑顔を崩すことなく家を去っていった。代わる様にやって来た配送車の音が、窓を叩いた。



 去年の同じ時期に、哲の家族は死んだ。その時、哲はバイトの最中だった。

三人はお昼を外で食べるために、車に乗っていたらしい。

 交差点で信号無視の車がぶつかって来て、対向車のトラックに衝突したらしい。

 トラックの運転手は「俺が悪い」と泣いていたらしい。

 でも、信号無視の車は逃走したらしい。

 運転席の父と助手席の母は即死だったらしい。

 そして、あかりは誕生日を迎えると共に、息を引き取った。意識が戻らない生命体を目の前に、哲は何度も叫んだ。それでも、願いは叶わなかった。

 はずだった。

 通夜を済ませた日の夜だ。一度家に帰りなさいと親戚に言われ、失意の中家に帰ったことを、哲は覚えている。人が死んだ時は、ドラマのワンシーンのごとく声をあげて泣くものだと思っていた。しかし、実際は自然と瞳から溢れ出す雫が頬を伝うだけで、心はどこか遠くへ飛んでいた。

 家の前に着くと、見たことのないトラックが停まっていた。黒い車体は怪しく、また、トラックという存在が哲には忌まわしく感じられた。哲が家の前まで足を運ぶと、トラックから一人の男が降りて来た。

「お待ちしておりました。国吉哲様」

 見たこともない、黒いスーツに身を包んだ男は夜の闇に溶けこまない笑みを浮かべる。

「だ、誰ですか」

「もし、貴方の家族が生き返ると言うなら、どうしますか?」

 いきなりの一言に、哲は動揺する。見ず知らずの人間がどうして、家族の事情を知っているのか。今すぐにでも逃げ出したくなる。

「お金は必要ありません。国吉様のご期待には沿えると思います」

 そんなものは必要ない。そう言ってしまえたら、楽だったかもしれない。しかし男の言葉は、大切な存在を失った哲の心を埋めるには十分であった。

「本当ですか」

 男は頷く。それと同時に、トラックの扉が開く。こうなることを見越していたかのように、黒スーツの男たちが、父を、母を、そしてあかりを、運び込んでいく。

「先程、お金は必要ないと言いました。しかし、私共も慈善事業ではありませんので、代償を支払ってもらおうと思います」

 三人の身体が運び込まれたところで、男は哲にある選択を迫った。ただでさえ憔悴していた哲には重く、苦しいものとなった。

「今後、国吉様の一生をご家族と過ごされる場合、大きな代償が必要となります。言ってしまえば、これまで国吉様がご家族と共有なさった記憶を持たない状態で、国吉様へご提供するということになります。単に適当な家族をレンタルする、という形になってしまうかもしれません」

 男の宣告は、希望と絶望の二つを兼ね備えていた。家族が生き返るという何よりの希望と引き換えに、これまでの期間の出来事をリセットする。この選択を選べば、家の向こうで待っているのは、国吉哲という存在を知らない人たち、ということになる。

「そんな、家族の記憶を代償になんて!」

「ですが、これは規定によって定められているものなのです」

 渋い表情を男は見せる。しかし、何か閃いたように、眼鏡越しの瞳が動く。

「これは、特別なのですが」

 哲は藁にもすがる思いで、男の言葉を待った。

「一年限定という形であれば、代償は非常に少なくて済みますよ。むしろ、国吉様のご希望に沿った形でご提供出来ると思います」

 哲は、迷いなく言った。

「お願いします! 家族と……一生でなくていいから、一緒に過ごしたいんです!」

 

 

 あかりは自室で眠っていた。まるで死んだように。

 いくら兄妹だからといって、胸の辺りを見るのには抵抗がある。服をまくり上げ、みぞおちの部分にある、ボタンの様には見えない黒子を発見する。この一年間、あかりはこの存在に気付かなかったのだろうか。

 パソコンの起動と同様に、五秒間の長押しをする。特にボタンを押しこんでいる感触はない。しかし、五秒経つとわかることは、心臓の音が響き出すことだ。さっと服を直して、哲は偶然部屋に入って来た兄、という設定を演じ始める。

 ゆっくりと、あかりの目が開く。その目は、少し泣いているような気がした。

「おはよう」

 兄としての最大限の優しい声をかける。あかりは身体を起こして、息を吐いた。

「もう、無理しなくていいよ」

 あかりの声は、そんな兄の優しさを越えていた。今にも泣き出しそうな顔をしているのに、励まされている自分が情けない、哲は感じる。

 そして気付いたことは、泣いていたのは哲の方だった。

「私、知ってたんだ。もう、大分前に。お兄ちゃんの部屋で、見つけちゃったんだ。私の事」

 哲は慌てて自分の部屋に戻る。学習机の、一番下の引き出しの、それも更に奥の、道具箱。恐る恐る蓋を開け、一枚の封筒を取り出した。

「知ってるよ。私。私がここに来る前の事。お兄ちゃんが交わした契約の事。私が生きていられる期間。全部、知ってるよ」

 息を荒げ、慌てふためく兄の姿を尻目に、あかりはただ、立ち尽くしていた。

「私は、家族の前では素直になれなかったんだってね。でも、今は全然そうじゃない。お母さんだってそう。本当は、料理が出来ないのに、今のお母さんは料理上手だった。お父さんもね。寡黙だったのに、よく話すようになった。これが、一年間の契約だったんでしょ?」

 知られていたら、隠す意味がなかった。哲は封筒を真っ二つに引き千切った。何回も何回も。重ねすぎて、千切れなくなるまで。

「何で死んだんだよ! 何で、何で俺の家族が死ななきゃなんねえんだよ!」

 大声で叫び、哲は紙を宙に投げた。喉が粉々になっても構わないと言わんばかりに、叫び続けた。紙吹雪が舞い降りる。あかりは兄の姿を見て、心の奥が痛くなった。

「あかりは家族の前だと冷たいし、お母さんの料理はあんまり美味しくないし、お父さんは何も喋んねえし、でも、やっぱり、あの家族じゃないと……俺の家族じゃ……ねえんだよ」

 今のあかりの存在を否定する発言ではあった。しかし、あかりは特に哲を責めることはしない。すっかり暗くなってしまった部屋の中で、兄の女々しい泣き声だけが、響き続けた。

 暫くして落ち着いた哲は、リビングのテレビの前に居た。隣にはあかりも座っている。買って来たケーキを食べながら、テレビを見る、普通の日常だ。

「やっと最終巻が買えて、良かった」

 哲は、BDのパッケージを手に持っていた。

『オレは、別に世界を守ろうとか、そんなんじゃないんだ! ただ、お前を救いたいだけなんだ! わかってくれよ!』

 茶色い髪を揺らす、少年の熱い雄叫びが聞こえる。二人が見ているのは、「ワンダーポップ・ワンダーランド」というアニメ作品だ。

 哲は、あかりがアニメに興味を持っていないと勝手に思い込んでいた。あかりの口からアニメの話を聞いたことは一切なかったし、そのことを知った時は身内ながら孤独から解放された気分になった。

 花に包まれた世界「ブーケニア」を舞台にした、少年エイトの物語。「ワンダーポップ」という、ブーケニアを司る花を狙う「ニーマン」との戦いを描いたファンタジー作品だ。見た目の雰囲気こそ明るいが、そこに内包されている命のメッセージが強く、アニメ自体の評価は高かった。

「あいつに、見せてやりたくって」

 あいつ、とは呼ばれていないあかりは、微笑んだ。

「私は、あんまり興味なかったから」

 哲は頷く。誰の前でも素直な妹になってくれたのは嬉しかった。しかし、趣向はすっかり変わってしまった。まるで、哲が妹に勝手に抱いていたイメージそのもの。生前のあかりが隠していたグッズは、全て哲のものとして処理されることとなった。

「この一年間の契約は、俺の理想を一つ叶えるって話だった。でも、やっぱりそんな、良い話ばっかりじゃなかった」

 哲は淡々と語る。あかりは淡々とそれを聴くだけだ。

「お母さんは、ずっと働いてたってこともあって料理が上手じゃない。だから、ちょっとは上手くなってほしいって思ってた。新しいお母さんは、料理が、上手くなってた。でも、スーパーの惣菜が増えた。家事は、そんなに好きじゃなくなってたんだ。お父さんは話す機会が多くなったけど、秘密を簡単にバラすようになった。相談とか、あんまり言ってほしくないこととか、全部。あかりも、家族の前では普通に接してくれるようになった。けど、ケンカはしなくなったし、張り合いがなくなったかもな」

 あかりは、家族の居る場所ではとても冷たい性格だった。しかし、仲が悪いわけではない。二人きりになると、気の強さに垣間見える可愛さを見せてくれる。ケンカは多かったが、賑やかな関係は嫌いではなかった。

「俺、勘違いしてた。一つ変わるっていうのは、全部変わることに似てるんだなって」

 テレビの向こうが話を続けているのに、哲は静かな部屋の中に居る感覚を保っていた。溢れる感情が、また雫となって流れる。

「俺のイメージしてたのと、全然、違ってたんだ」

 吐き出した感情が、胸を傷付ける。哲は顔をあげた。テレビの向こうは、最後の戦いを続けている。

『私が居なくなったら、この世界は、救われる!』

 透明の繭に包まれた、一人の少女。黒い闇に沈んだ赤い瞳は、泣いている。まだまだ幼い裸体を抱えて、虹色の筋が何本もエイトを目がけて襲いかかる。既に満身創痍だったエイトの身体を何か所も貫いた。

『……っ、レインのバカ! お前が居なきゃ、オレがこの世界を守る理由無くなるだろ!』

 それでも、エイトは倒れない。剥き出しになった肌に流れる赤い血が、代わりに泣いている。

『オレにはこの世界も、レインも、両方居ないと意味ないんだよ! たとえ、お前がこの世界にとっての毒であったとしても、オレはレインと一緒じゃなきゃ嫌なんだよ!』

『私だって! でも、私が居たら、ワンダーポップの花は枯れちゃう……ワンダーポップが枯れたら、この世界だけじゃない……これからの世界も、もう生まれなくなっちゃう……だから、私が、私が……』

 レイン、という少女は桃色の髪を揺らして、止められない力を爆発させる。奇妙な形をした、毒々しい花々に閉じ込められた二人は、一進一退の攻防を行っていた。

「この話な、ざっくり言うと、薬を撒いて、花畑を壊しに来た人間が敵なんだ。エイトたちにしたら、ニーマンなんていう存在は永遠に近いんだろうな。それでいて、悪、なんだろうな」

 物語の終盤まで、主人公のエイトとヒロインのレインは共に戦い続けた。ワンダーポップの花から授けられた槍一本で戦うエイトと、風を操ってサポートするレインの強さは、幼いながらもニーマンにとっては脅威だった。

 しかし、ニーマンを統べる謎の青年、セヴァンの手によってレインは捕えられてしまい、謎の毒に冒されてしまう。セヴァンの力の前にあっさり敗れてしまったエイトは、誰も足を踏み入れようとしなかった禁断の領域「花の宮殿」に世界とレインを救うために向かったのであった。



あかりは、最後にこれを見た日、哲に言った言葉がある。

 セヴァンとの戦いに勝利し、新しい世界の創造を止めるように言ったエイト。しかし、突きつけられた選択は、今までの世界を守るためにレインを殺してしまうか、レインを守るためにニーマンの野望である「ブーケニア」の種子化(天体における超新星爆発に近い現象)を飲み込み、この世界の消滅を見過ごすか、というものだった。

「お兄ちゃんがエイトの立場だったら、どっちを取る?」

 あかりは余韻を残した状態で言う。ピン止めのない前髪が、瞳を隠していた。ちょうど、レインが繭に取り込まれ、ワンダーポップの花を枯らせてしまうような力を生成している最中だった。

「俺は……うーん」

「だよね、迷うよね」

 晩ご飯の時には尖がっていたあかりが、柔らかい声で言った。所詮作り物の話だというのに、大切な人を失うかどうかの瀬戸際に立たされている気がした。

「死にたくないな、私は」

 こう言った一週間後に、あかりはこの世界から居なくなってしまった。後部座席に乗っていたとはいえ、最後まで生き続けたあかりは、きっと死を、恐れていた。

「でも、私は欲張りだから。両方欲しいかな」



 セヴァンは言う。「新しい世界」の創造の為には、犠牲が必要だと。エイトたちの生きる「ブーケニア」を含めた幾つかの世界を一つにする必要があると。その為には、世界の柱として、天を裂くほどに悠然と咲き誇るワンダーポップの花を枯らし、一つの種子に還元する必要があると。

 だが、世界はそれを拒んだ。ワンダーポップはエイトに力を与え、毒に冒されたレインの浄化を試みる。しかし、レインの中に巣食った毒は、浄化の力を遥かに超えていた。

「なあ」

 哲は真っ赤になった顔をあかりに見せる。みっともない表情をしているとはわかっていながら、ありのままの姿を見せる。

「あかりなら、どうする。自分と、世界、どっちを取る?」

 物語は進んでいく。このまま、奇跡は起こる。作られた世界の話だと分かっていながら、その奇跡に心は揺さぶられる。哲は話が終わってしまう前に、どうしてもこのことが聞きたかった。

「私は……」

 すっかり忘れられていたケーキを、あかりは一口食べる。イチゴを最初に食べる生前のあかりとは違い、今のあかりは、イチゴを残している。哲はそのこともちゃんと見ていた。

「別に、言えなかったら良いんだ」

 哲もそれを見て、ケーキを食べる。甘ったるい生クリームも、今日ばかりは大人しく舌の上で溶けていった。

「欲張りだから、どっちも」

 その時だけ、悪戯な妹の笑い方に、あかりの顔が映った。



「ありがとうございます」

 深夜〇時を過ぎる。今度こそ目を覚まさなかったあかりは、白い布に包まれ、運ばれていった。

「どうでしたか、新しい家族との一年間は」

 男が言う。別件の仕事の帰りだからか、少し声が疲れている。

「新しいも何も、俺の、大切な家族に変わりありません。そのことにさっき、やっと気付きました」

 男は頷く。実に、幸せという言葉が似合う笑顔だ。

「私共も国吉様にサービスを提供でき、光栄に思っております」「そ、それはどういう……」

「国吉様は、新しい家族にも、優しく接してくれましたよね。多いんです。話が違うと言って、契約を破棄しようとする人が」

 思わず、数時間前の出来事を思い出す。ビリビリに破り裂いた紙の山が脳裏に焼き付いて離れない。

「こちらでデータを集積しましたが、ご両親の精神分析の結果、ダメージはほぼ見られませんでした」

 哲は首を傾げる。聞かされていなかったことを突然話されるので、戸惑いは隠せない。

「一か月も経てば、生前のご家族とのギャップについて行けなくなり、契約を途中で打ち切りたいというご要望を出される方が大勢居らっしゃいます。その中で国吉様は私共のサービスを受けて下さった。これ程幸せなことはございません」

 男はそう言うと、鞄から新しい書類を出す。

「もし、私共と契約を更新していただけるなら、今度こそ、国吉様の家族を、ご提供したいと思っております」

 端から見れば、良い話なのかもしれない。家族が帰って来る。こんな幸せなことはないだろう。だが、本来なら帰って来ることのない命だ。そこに手を伸ばしてもいいのんだろうか。哲は唇を噛んだ。

「俺は……その」

「……いつでも、構いません」

「え」

「サービスを提供させていただくタイミングや期間は全て、国吉様のお気持ちで構いません。もちろん、契約をして頂かなくても結構です」

 男はそう言うと、空気に溶けるようにその場から去ろうとする。哲は慌てて呼び止める。

「待ってくれ! その、あの……」

「貴方が描いていた普通の家族。それは、あくまでもイメージです。実際には、隠れたマイナス面が現れてきます。お母様は料理が苦手と聞いておりましたが、家事は好きだったそうで。世の中には料理が上手でも、家事が嫌いな人が大勢います。お父様は寡黙でいらっしゃったようですが、ここぞという時に一家をまとめてくれる大きな存在だったと把握しております。ただのお喋りは、時に円満な関係を壊します」

 男は続けた。

「あかり様は、ご家族の前でも自然に話されることが多くなりましたね。ただ、大事なのは、お二人だけの時間がどれほど濃いのかだと、私は思っております。誠に勝手ではございますが、一般的な女子中学生という設定を付与させて頂きました」

 この一年間のあかりは、哲がイメージしていた女子中学生そのものだった。何度も口論になるのは面倒だったし、仲良く過ごしていたかっただけだ。

 その、仲良く、の意味を、哲は思い知った。単に、穏やかに築かれる関係は、必要なかったのだ。

「では、これからの人生が素晴らしいものになる様に、願っております。また、いつか。どこかで逢いましょう」

 そう言って、男は家を去って行った。何も言えなくなって、哲はずっと、頭を下げたまま、泣いた。



『ワンダーポップの花が……』

『ああ、これからきっと、種を蒔くんだ。新しい世界を……沢山な』

 桃色の花びらが、純白の綿毛をつけて、大空に放っている。ワンダーポップの花が、新しい世界を生み出す瞬間を、エイトとレインは目の当たりにする。

『これで良かったのかな』

『わかんねえよ。でも、オレはこの世界を守りたかった。レインと、ずっと一緒に居られる世界をな。それに、オレはセヴァンたちの言うことも、間違ってなかったと思う。世界は、当たり前なんかじゃないんだって』

『エイト……ホント、お人好しなんだから』

『それはレインもだろ』

 今までは、町に咲き誇る美しい花を育てるだけで構わなかった世界。しかし、エイトはワンダーポップという聖なる花に、世界中の花を守る使命を託されてしまった。

『まあ、オレが居たら、この世界は安心だな!』

『……もうっ、エイトのバカ!』

 レインはエイトの身体を抱き締める。背中の羽根がふわりと揺れた。

『うわっ!? な、なんだよ急に!』

『なんで諦めないのよ! 普通……諦めるでしょ!? 今までよりずっと……好きになっちゃうじゃん!』

『な、何恥ずかしいこと言ってんだよ! ってか泣くなよ!』

『怖かった……もう、私の事、離さないで……お願い』

『しゃあねえな……オレはこれから、レインのものだ。好きにしろよ』

 ワンダーポップは、新たな命を蒔いた。その下で、勝利を勝ち取った少年と少女は、小さな身体を抱き締め合った。二度と、離れてしまわないように。悲しい想いをしなくて済むように、と。



「長坂さんはさ、僕の話信じてくれますか?」

 あれから、一年が経った。大学の入学も決まり、春休みはバイト三昧の日々だ。この日は夜のバイトを終え、同じ時間にアップする大学生と少し話を交わしていた。

「別に。俺、そういう話は驚かないんで」

 普通は驚かれるか、呆れられるが、この人にはそういう対応をされることがないので、哲はどんどん話してしまう。

「長坂さんも、家族は大事にしてくださいね」

「賑やか過ぎて、大事にするってレベルじゃないな、うちは」

 こうして、人の家族のことも大変そうだなと、笑えるようになった。この一年で家族への想いはいい意味で落ち着いた。

 他愛ない話で盛り上がって、哲は家に帰る。片手には、店で貰ったケーキの箱が入った袋をぶら下げている。二度ある事は三度あるというが、そうとは限らないらしい。家の前には誰も居ない。部屋の明かりもついていない。一人ぼっちの家に帰って来た。

 鍵を開けて、自宅に戻る。誰も居ない、寂しい家の中だ。

「ただいま。あかり、お母さん、お父さん」

 家族四人が揃った写真。皆が笑っている、幸せな写真。

 一人、哲はケーキを食べる。生クリームのたっぷりついたイチゴを食べ、口の中に広がる甘酸っぱさに浸る。余ったケーキは、それぞれが座っていた席に置いた。朝起きれば無くなっているような、そんな気がした。

 自分の部屋に戻ると、棚の中にあったワンダーポップ・ワンダーランドのBDのパッケージに手を伸ばす。ふと、あの話をもう一度見たくなったのだ。あの日以来、一年もこの棚には触れなかった。触れたく、なかった。

 パッケージを開き、ディスクを取ろうとした時、特典のブックレットの上に白い紙が挟まっていることに気が付いた。哲は首を捻って、初めて見た紙を取ると、徐に開いた。



『お兄ちゃんが、私のお兄ちゃんで、幸せでした』



 ――命の更新を、終了します。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ワンダーポップ・ワンダーランド 神宮司亮介 @zweihander30

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ