エクステンドドリーマー

神宮司亮介

エクステンドドリーマー

「シュウの夢って何?」

 ミツキは、右隣でポケットの中に手を突っ込んで歩くシュウに尋ねる。自然な栗色の髪が、太陽の光に反射する。

「オレ? お父さんが消防士だし、人助けの仕事には憧れてるよ」

 そう言って、消防士が放水をする動作の真似をシュウはし始める。

「相変わらず、シュウは子供だな」

 ミツキの左隣にいるゴウが、シュウの行動を見て鼻で笑う。片目を覆う程、長く伸びる黒い前髪が風に揺れる。

「へへっ! だってオレたちまだ十四だぜ! 子供じゃんか!」

 シュウは鼻を擦る。綺麗な白い歯が顔を覗かせた。

「十四でも、将来をちゃんと考えなければいけない時期に違いはない。シュウだって、もう少し真面目に勉強しろよ」

 真ん中のミツキを置いてきぼりにして、シュウとゴウは言い合いを始める。いつもながらの光景に、ミツキは苦笑いするしかない。

「オレがどんな夢見たっていいだろ!」

「僕は友人として君のことを心配しているんだ。十四にもなってヒーローに憧れているなんて、恥ずかしいと思わないのかい?」

「どこが恥ずかしいんだよ! 困っている人を助け、悪をやっつける、かっこいいじゃないか!」

「ヒーローなんてエゴの塊じゃないか。所詮自分たちの正義を押しつけているだけだ」

 いつから二人はこうなってしまったのだろうか。ミツキは寂しく思いつつも、賑やかな二人の声に幸せを感じる。成長期に入り始めた二人は一足先に大きくなっていたミツキの背に追いつき、今にも抜かそうとしている。女の子のような高い声も落ち着きはじめ、特にゴウは男らしい声に変わりつつあった。

「小学生の頃だったら、力で鎮められたのになあ……」

 二人には聞こえているのかわからない。ただ、二人が凄いのは、ミツキが何かをボソッと呟くだけで、こちらを向いてくれることだ。シュウの大きい瞳と、ゴウの細く鋭い瞳。両方が、ミツキを捉えている。

「何か言った?」

「何か言ったか?」

 ミツキははにかむ。こんな二人が、好きだ。

「何にも言ってないけど?」

 三人は右側に公園のある十字路を迎えたところでそれぞれ別れる。ミツキは左に曲がり、少し先にあるマンション。ゴウは右に曲がり、しばらく進んだところにある大きな屋敷。そして、シュウは真っ直ぐ行った所にある住宅街。そこにそれぞれ三人の帰る場所がある。今日も三人はここで別れ、三人は手を振って、それぞれの帰路に就く。

 シュウは夕暮れの空を見て、帰りを急いだ。もうすぐ六時。テレビの前を妹に占領される前に、シュウにはテレビの前を陣取る必要があった。学校指定の黒い長ズボンが、汗で濡れていく。

 一つ横断歩道を渡り、住宅街へ入るシュウ。ここまではいつも通りの帰り道。何一つ変わることのない、平和な町だ。それは逆に、無個性な町ともいえる。似たつくりのポスト。同じ色の屋根と家のデザイン。一台は車を停めることを前提に作られたガレージ。そんなことには気にも留めず、シュウは走った。

「待って」

 すると、突然背後から、小さな男の子の声がシュウの足を止める。悲痛な叫びに近い、待って、の言葉。シュウは恐れることなく振り返る。

 そこには、真っ黒い影が人の形をして、座り込んでいた。シュウが気付いた時、空の色は美しい橙から、瘴気に満ちたような紫色に変化していた。息を吸うだけで肺がやられてしまいそうな。

「な、何が起こってるんだ……。というか、君は……」

「キミの心、とっても美味しそうだから、食べていい?」

 え、シュウが戸惑っている隙に、影はシュウの足元に這い寄って、ぐるぐると巻き付いた。

「うわっ……な、なんだこれ!」

 汚れた白いスニーカーとズボンが巻き込まれる。皮膚に食い込むようなそれの力によって、足に痛みが走る。シュウは顔を歪めた。

「これからもっと痛くするよ! そして、キミの心を、ボクのものにするんだ!」

 影は太腿、大腿部を伝わり、ついに腰回りまでを覆い尽くす。影は筋肉や血を吸うような感覚。足の力が抜けそうになる。

「……何だかわかんねえけど、人の心を勝手に奪おうとすんな!」

 シュウは今一度、足の裏に力を入れる。何としても、地面から足を離してはいけない。直感がそう教えてくれている。

「どうして諦めないの? 諦める方が早いのに」

 影が言う。

「でも、諦めたら嫌なことだってあるんだよ! それが今なんだ! わかんねえけど、お前の好きにさせるもんか!」

 シュウの目が影を注視する。そこから光線でも出ているかのように、鋭く。

 ズボンから裾がはみ出たカッターシャツ、教科書の入ったショルダーバックが風で揺れた。ただ、それは普通の風ではない。シュウを取り巻くように吹き上がっている。影がそれを見てたじろいだ。

「わわわ……ま、まさか、お前……」

 シュウは胸を押さえる。痛むのではない。心臓から流れ出る生命の源が、何倍も力を増してシュウの身体全体へと行き渡っていく。

「何だ、これ……力が……湧いてくる……」

 身体の奥底からどんどん湧き上がる力。今まで感じたことのない温もり。

「光野集……あなたにこの力を捧ぐわ」

 どこからともなく舞い降りてきた声。シュウは目の前を眩い光に包まれる。

 違うものが肌に触れる感覚。だが、嫌ではない。むしろ、感情が昂る。広い空の果てまで飛んで行けそうな、分厚い壁を破っていけそうな、無限の力が、溢れる。

 光が治まって、シュウは目を開く。明らかに今までの自分とは違う。シュウは首元に手を置いた。柔らかいものに触れた手が、そこにあった白いカッターシャツの存在を忘れてしまった。

「……オレ、この格好……もしかして」

 少し赤みがかった茶色い髪は、鮮やかな金色に染まる。白いスーツの胸のあたりには青い石が埋め込まれており、そこから赤い筋が四本、四肢の先端まで伸びている。正義の象徴のように、首に巻かれたマフラーが膝のあたりまで垂れ、空気の中を泳いでいた。腰に巻かれたベルトの部分には、銃が装備されている。

「エクステンド……レッド……」

 エクステンドレッド。それは、シュウが毎週楽しみに見ているアニメのタイトル。シュウと同年代の少年が、地球を侵略しようとする怪物と戦うアニメ。帰りを急いでいたのは、間もなくエクステンドレッドが放映される時間帯だ。また、漫画が原作で、もちろんシュウは小学生の頃から愛読している。

 そして今、シュウの姿は、主人公が変身した時の姿そのもの。顔が違う以外は、ほぼ同じ。

 事態は飲み込めていないがはしゃぐシュウに、両耳を塞ぐ、線のないヘッドフォン型の通信機から、声が流れた。

「聞こえる? 光野集」

 大人の女の声。顔はわからないが気品があり、理知的な人物像を描かせる。

「だ、誰?」

「話は後よ、まずは、目の前の敵をさっさと片付けなさい」

 通信機を押さえシュウは問うが、女は軽くそれをあしらって、指示を出す。影が人の形を崩し、黒い塊となって蠢いている。

「キミが選ばれたのか……ふふ……面白い。でも、ボクに勝てるかな?」

 影の色が抜け、目の前にはシュウより少し小さいくらいの少年が現れる。灰色の髪に、整った顔立ち。日本人ではなく、白人の血が入っていることはわかる。お金持ちのお屋敷のお坊ちゃん、という言葉が似合う服装。少し顔を覗かせる足首が、子供らしさを演出している。それを、シュウは知っていた。

「もしかして、ヴァニッシュ!?」

 名前を呼ばれた少年は、頷いた。

「ご名答だね……キミの宿敵さ。エクステンドレッドのね」

 影が変化した少年、ヴァニッシュ。それは、同じ作品に登場するエクステンドレッドの敵キャラクターだ。黒幕に操られ、主人公に襲い掛かる様は狂気に満ち溢れている。電気の力を操ることが出来、作中では何度も主人公を窮地に追いやった。そんな強敵が、今目の前にいる。

「どうだい、キミが得た力と争うのにこの姿はとても似合っているだろう?」

 殺気とは、こういうものなんだな、ということを、シュウはひしひしと感じる。武者震いと言ってしまいたくなる程に、身体が震える。

「ふふ、じゃあ、ショーの始まりだ!」

「来る!」

 通信機に女の声が流れ込む。シュウは前を見て、腕を構えた。

 ヴァニッシュは指を鳴らす。パチン、毒々しい町に響く音が、雲を割って空を引き裂いた。そこから光の鉄槌が落ちる。雷だ。

 上からの攻撃、シュウは反応出来ず、雷の餌食になる。

「うわあああ!」

 虚像の痛みを、実際に感じた感想。身体全体がナイフで切り裂かれていくようだ。シュウは足をしっかり地面につけて、電流の波を耐える。攻撃が治まった後も痛みは中々消えない。

「どう? 痛いでしょ? でも、耐えちゃうなんてすごいなあ」

 余裕の表情で、ヴァニッシュは身体が痺れているシュウの元へ近付いていく。シュウは前に一歩踏み出す。倒れたら負けだ、という意思が、シュウを突き動かす。

「集、貴方が見てきたもの、その通りにやればいいわ。これが貴方の描いたもの。貴方が心の中で描き続ける理想よ」

 シュウを落ち着かせてくれる女の声。決して自分は今、一人でないということがわかって、不安が消えていく。

「誰だかわかんないけど、わかったよ! オレ、やってみる!」

 シュウは歯を見せる。ヴァニッシュは攻撃を受けても尚笑っていられるシュウに、少し恐れをなす。緑色の瞳が、細くぎらついた。

「何をするつもりなの? ボクに刃向ったって、そう簡単に勝てるわけが……」

「そうだとしても、オレは戦う。オレの心を、勝手に奪われてたまるもんか!」

 シュウは空に向けて掌を掲げる。掌に収まる光球が生まれ、それは大きな剣の形になる。シュウはそれを握り締める。

 刃先をヴァニッシュの胸のあたりへ向ける。そして、心の奥で夢見ていた言葉を吐き出した。

「深い闇を斬り裂く光の刃、セイクリッド・ジャッジメント!」

 ヴァニッシュの目から見たシュウの姿は、恐ろしい程に輝いていた。どこか締まりのない顔も引き締まっていて、その姿に、思わず手を伸ばす。

 違う、ヴァニッシュは拳を握りしめる。

 シュウは一直線にヴァニッシュの懐へ飛び込み、力いっぱい振り下ろした。

「うおおおおお!」

 煌めく刃を振り下ろせば、光弾がアスファルトを裂いて遠くまで放たれた。轟音が辺りを包む。

 そこに、ヴァニッシュの姿はない。シュウはガッツポーズをしかけたが、ここで女の声が入った。

「集、敵を逃がしたわ。まあ、最初の戦いにしては上出来だったわ」

 え、とシュウは声を洩らす。

 それと同時に力が抜け、シュウはその場にへたり込んだ。

「い、息が……」

 何の前触れもなく早くなる呼吸。シュウは苦しくなる胸を押さえる。

「落ち着いて、集。決して、この世界から目を離さないで。夢を、理想を、受け入れるのよ」

 まるで、隣で背中をさすってくれているようで、女の声は心強かった。

 しかし、シュウはありがとう、と言おうとして意識を失った。視界が暗くなる瞬間は、あっという間だった。



 その日から、シュウは何時以来かわからない風邪をこじらせたのか、熱が出たために二日ほど学校を休むことになった。

シュウが二日も学校を休んだことは、クラスの中では割と重大ニュースの中に位置づけられた。小学校の頃から病気を一切せず、遅刻もない。皆勤賞を続けて来たシュウが二日も休むということは、にわかには信じ難いことであった。

「びっくりしちゃった。シュウが学校休むなんて」

 その日の帰り道。ミツキの右側にゴウの肩が、左側にシュウの肩がある。ミツキは変わらない日々が戻って来たことが、嬉しかった。

「ホントに大丈夫なの?」

 ミツキは心配ではある。シュウは何もない、と言うが、今までにこんなことはなかったこともあり、動揺は隠せない。

「大丈夫だって、それより、二人共お見舞い来てくれてありがとう! オレ嬉しかったよ!」

 シュウはそんな心配を吹っ飛ばしてくれるように、ニッコリと笑う。二人は、シュウのお見舞いに来てくれた。ベッドの中には居たものの、元気で顔色もよく、普段と変わらないシュウの姿に拍子抜けしてしまったのは、ミツキとゴウの秘密だ。

「そ、そう? なら、良かったかな」

 ミツキは両手で持った通学鞄を揺らす。少し膨らんだセーラー服の胸のあたりに、シュウは目をやった。

「オレたち、変わってるようで、そんなに変わってないな」

 ショルダーバッグを腰から背中に回し、シュウは呟く。外面は皆小さいころに比べて変化は著しいが、内面はそれほどだな、シュウは思った。

「それはシュウだけだろう?」

 黒いリュックを背負ったゴウが言う。鼻につく様な話し方。確かにゴウは変わっているなと、シュウは頷く。

「かもなあ」

「いつもみたいに突っかかって来ないと、僕も心配だな」

 シュウの反応にゴウは頭を掻く。普段ならどんなことでも突っかかってくるというのに、今日は大人しい。シュウの代わりだと言わんばかりに、強い風が三人の間を吹き抜ける。

「ゴウも心配してくれてんのか? そっちの方が心配だぜ」

 シュウは歯を見せて笑う。ゴウは照れ臭そうに、シュウから顔を背けた。

「そ、そういうのじゃないからな」

「そういうのって……ゴウも変だよ」

 二人のギクシャクしたやりとり。ミツキは左右を見て、言った。

「全部、急にぶっ倒れるシュウが悪いんだ」

 ゴウは呟く。シュウとミツキは互いに顔を見合わせて笑う。

「相変わらず、素直じゃないんだから」

 三人の帰り道はあっという間に終点に辿り着く。十字路に立つ三人の影が傾いている。

「そうだ、次の日曜日、どっか遊びに行かない?」

 別れ際に、ミツキは二人を誘った。もちろん、二人は頷く。

「ホント? オレなら大丈夫だぜ!」

「別に日曜日なら大丈夫だよ」

 ミツキは手を叩く。膝下まで垂れるスカートがふわり、浮かんだ。

「またメールする! あ、ゴウには電話かけるね! じゃあ、また明日!」

 綺麗な、色白の肌。長細い腕が車のワイパーのように左右に振れる。

「うん、また明日!」

「じゃあね」

 この日、シュウとゴウは二人、ミツキの背中が小さくなって、見えなくなるまでその姿を眺めていた。きっと明日も会えるはずなのに、互いに胸がざわついた。

「シュウのせいだよ。こうやって、当たり前だった日々が、そうじゃなくなるんじゃないかって、不安になること」

 前髪を掻き上げ、ゴウは言った。

絡み合う電線。夕焼けに混ざる雲の色は、灰色を落としている。ハトでもカラスでもない鳥が茜色を吐き出す天球に向かって飛んでいる。

「……ごめん。心配かけて」

「……だから、別にお前を心配しているわけじゃないからな。僕はミツキが、気になるだけだ」

 ゴウはシュウに背を向ける。このまま帰るのかとシュウは思ったが、ゴウは立ち止まったままだった。シュウは何かを思い出して、鞄を開ける。

「そういや、忘れてた。ゴウがやりたいって言ってたゲーム、持って来たよ」

 そう言って、シュウは白いカバーに入った携帯ゲーム機を渡す。

「中にソフトも入ってるから。返すのはいつでもいいからさ」

 渡されたものを見て、ゴウは受け取ることを躊躇った。

「ゲーム機ごとなんて……そんな、おじいちゃんに見つかったら」

「大丈夫だって! それに、ゲームとかアニメとか漫画とかダメ、ってさ、ゴウのおじいちゃんが頭固過ぎるんだって」

 家の事情も知らないで、ゴウは思った。もし、これが見つかったら、没収されるんだよ。わかっているのか、そう言いたかった。

 ただ、掌に乗せられた重みは心地の良いものであった。ずっと我慢していたのだ。この感触が、手の中に馴染むことを。

「……わかった」

「へへ、感想待ってるぜ!」

 鼻を擦って、シュウは能天気に笑っている。ゴウはそんなシュウを見ることが出来なかった。ふと足元に目線を移す。塗装されたアスファルトが、シュウとゴウの間で、色を変えていた。



 荘厳と目の前に立ち塞がる門を開け、ゴウはその中にある家へ帰る。大倉、と書かれた木の表札は、黒く焦げたようになっている。

「ただいま」

 この時間に家に居るのは、一人しかいない。ゴウは溜息を吐く。

 革靴を横に並べ、ゴウはそそくさと二階へ上がろうとする。

「待ちなさい」

 そんなゴウを呼び止める声が、廊下から聞こえる。白い靴下を履いている足が止まった。

 小さい中庭を挟んだ向こう側に、ゴウの祖父である、キヨマサの姿が見える。平成も二十四年経ったこの時代でも尚着物を愛用している。深緑のそれと、黒い帯がゴウの視界に入った瞬間、思わずそちらから顔を背けた。

「ゴウ、ちょっと来なさい」

 階段を上がろうとしているゴウの後ろ。キヨマサは腕を組みゴウの前に起ち塞がっている。側頭部に残された白髪交じりの頭髪。鼻の下と顎に髭を蓄えている。もう七十を過ぎたとは思えない程、肩幅が大きく、筋肉質の身体。威圧感がゴウの垂れる髪を突き抜けて、瞳の奥を抉る。

「おじいちゃん……」

「ゴウ、また買ったのか」

 キヨマサが片手に持っていた本は、見たことのある帯に包まれていた。

「こういうものは、教育上良くないと言っているだろう! 何度言ったらわかる!」

 怒号が飛び交う家の中に、父と母の姿はない。どちらも学校の教師をしている。帰ってくるのはどちらも夜だ。

「おじいちゃんは考え方が古臭いんだ。僕以外の頭の良い子だって漫画の一冊や二冊持っているのに!」

 このやり取りはもう何度目だろう。どうしても欲しくなって、少ないお小遣いを貯めて買った漫画を奪われたのは。

「こんなものを読んでいる暇があったら新聞を読みなさい」

 馬鹿の一つ覚えのように言われる言葉。この家には自由がない。 立派な教師になるために生まれてきたらしいが、ゴウの夢は教師ではない。そのことを伝えても、この家では通用しない。

 ゴウは奥歯を噛みしめるだけだった。漫画を奪い返す努力はせず、ただまた一冊、自分の元から消えていく勇者の物語を憂うだけだ。

 自分の部屋に帰ったゴウは、恐る恐る鞄からゲーム機を取り出す。やはり、これは明日返そう。無機質な茶色い木の机に置いたままにしたりして、見つかってしまえばシュウに申し訳ない。いつか心置きなく出来る日まで、ゴウは鞄に入れ直し、代わりに教科書とノートを取り出す。大きさと授業の時間順に整理されたそれらは、しっかりと勉学の為に使用されている机の上に置かれる。毎日の復習は欠かせない。

 本棚に詰め込まれた参考書と図鑑の数々。娯楽が一切排除された部屋。それでも、ゴウは耐えている。学校が、好きだからだ。

 両親の説得もあり、なんとか公立の中学への進学が出来た。キヨマサはそんな両親の考え方にも不満があるらしい。今のご時世、私学で高い教育を受ける方が良いに決まっている、と。その部分はしっかりと流行に乗っている。その代わり、今までは大目に見られていた漫画やゲームは没収されてしまった。もちろんテレビを見る暇はない。音楽も聞かない。大人との会話について行けても、周囲の流行について行けない。

 それでも良かった。漫画やゲームなんかよりも、大切なものがある。そこから切り離されたくなかった。

誰よりも、ゴウはシュウのことを、親友だと思っている。小学校に入学した当時、なかなか友達が出来なかったゴウに手を差し伸べてくれたのが、シュウだからだ。

「結果を出せばいいんだ」

それが、魔法の言葉だった。塾の時間を気にしつつ、ゴウは勉強の海へ飛び込んだ。



「シュウ君どうだった?」

「うん、元気そうだった!」

 ミツキは夕飯を作る母親のユズキの隣で手伝いをしている。使った食器をミツキが洗っている傍で、ユズキは夕飯のカレーを煮込んでいる。

「でも、いつもより元気なかったかも」

「そうなの? 確かに、シュウ君は学校休んだりしないもんね」

 味を確認し、笑顔でうなずくユズキは、野菜たっぷりの甘みが詰まった、香ばしい香りと共に尋ねる。ミツキは蛇口を止め、母に言った。

「多分、明日は大雨! それくらい、元気ない気がする」

「あら、じゃあミツキがシュウくんを元気づけてあげないとね」

 髪を後ろで一つに束ねて、ユズキは凛とした表情でミツキに言った。そんな母と似た後ろ姿のミツキは小さく頷く。

 食器洗いが終わり、ミツキはリビングでカレーの完成を待つ。その間に、ミツキはシュウへメールを送る。どこに遊びに行きたいか。何時に集まるか。このメールを作るのに時間はそうかからないはずだが、ミツキは中々、シュウにメールを送れない。書いては消し、書いては消しを繰り返す。綺麗に伸ばしてある爪がボタンに引っかかって、指が止まる。

 そろそろ、自分の気持ちに素直にならなきゃな、とミツキは思う。長い間シュウに抱く想いは伝えられないままだ。

「シュウは、気付いてるのかな……」

 多分、気付いてないよね、と自分でつっこんでしまうのが、悲しい。鈍感な男子を好きになったら大変だよ、と女友達に言われたことを、実感する。

「……早く、明日にならないかなあ」

 当たり障りのない文面で、ミツキはシュウにメールを送った。深くついた溜息に、ユズキは「青春ね」と言う。

「お母さん……そうやって茶化さないで。とっても悩んでることなんだから」

「存分に悩みなさいね。楽しいわよ、恋は」

 テーブルにカレーが置かれる。量が多いものが自分のカレーなのかと思ったが、ユズキはそちらの方に座った。

「あれ、お母さん、そんなに食べる方だっけ」

 少し前から気にはなっていたが、今まで少食気味だったユズキがここ最近食べる量を増やしている。決して不健康にはあたらないので、心配ではないが。

「最近お腹すいちゃって。ミツキも成長期なんだし沢山食べなさい」

「えー。あんまり太りたくないなあ」

 でも、ユズキが作るカレーはとてもおいしいから、いつもおかわりをしてしまう。席について、手を合わせ、いただきます、の合図とともに、スプーンでカレーをすくった。

「もうおかわりするって予約しとくね!」



「見込んだ通りね、二戦目でそんなに戦えるなら十分よ」

 ミツキがシュウに思いを馳せている頃、シュウはまた戦っていた。相手は前回のヴァニッシュではなく、また別の少年だった。酷く憔悴し、憎しみをむき出しにし、獣の姿となってシュウに襲って来たのだ。

「前回は相手が悪かっただけよ。酷く心をすり減らしていたようだけど」

 相変わらず姿を見せず、女はシュウに話しかけている。

「お陰様で皆勤賞の夢が……って、まあそういうのはいいとして、一つ聞きたいことがある」

 相変わらず毒々しい空を眺めながらシュウは尋ねる。

「顔を、見せてくれよ」

 操り人形のような扱いを受けている感覚に陥り、シュウの中では猜疑心を抱きつつあった。それに、この世界が一体何なのか、シュウにはまだ見当もついていない。だから、そのことも含めてシュウは知りたい、と思った。

「そうね、それに、集に与えた力のこともそろそろ教えてあげないと」

 カツ、シュウの後ろで、ヒールが弾む音が鳴る。

 ベージュ色の髪が、腰のあたりまで垂れている。OLのような出で立ちではあるが、服に収まり切らない胸の為に、上部のスーツとシャツのボタンが開いている。モデルばりの細長い足が、こちらに歩いてくる。シュウは緊張する。昂っていた脈動が落ち着いたと思えば、制服姿のシュウに戻っていた。

「貴方の、真っ直ぐな心。それが、この世界を変えられる。私はそう思って、貴方にこの力を与えたのよ」

 彼女の言っている意味が、シュウにはわからない。それ以上に、その美しい容姿に戸惑っている。目のやり場に困っているシュウを見て、女は笑った。

「あら、私の身体がそんなに気になっちゃうかしら……」

「あ、い、いえ、決してそんなことは」

「ふふ、正直者は嘘が下手ね。目が泳いでるわ」

 女は口角を上げる。ルージュの口紅が女の妖艶さをより引き立てている。

「……夢の世界へようこそ」

 オドオドしているシュウを尻目に、女は唐突に言った。シュウはその言葉に気付くも、思わず首を傾げる。

「夢の世界……それって……」

「平行世界みたいなものかしら。貴方たちが普段生活している世界とは別の、ね」

 フィクションの世界にのみ許された設定だとばかり思っていた世界。シュウの目の前に広がっている世界は、まさしくそれだった。

「まあ、前回のときはいきなり厄介な敵に遭遇しちゃったから、あっさり倒されてしまうんじゃないかって思ったわ」

 淡々と語る女は、細い腕を、制服姿のシュウの身体に伸ばす。冷たく張り付いた腕が、心地よい。

「そして、貴方の戦う姿が、今の貴方自身の夢。大事にしなさい」

 しなやかに波打つ細い指。シュウの胸の辺りから、下の方へと流れ落ちていく。服越しに感じるものが、思春期のシュウを内側から熱くさせた。

「え、あ、あの……えっと、オ、オレが、どうして襲われるのか教えてくれよ」

 緊張の面持ちでシュウは女に尋ねる。すると、大きな胸が顔にぶつかって、胸が詰まった。

「……集には、人を引き寄せる力がある。まるで、太陽のようね。だから、心を失った者は、貴方のような人間を憎むわ。眩し過ぎるのよ、貴方の持つ光が」

 女の言っていることは、彼女の視点からの発言であるために今一つ真意が読み取れない。シュウは自分が憧れのヒーローの姿になったことや、虚ろな少年に襲われること、この世界のこと、それぞれ分けて詳しく教えてもらいたかった。容姿に比べて、説明力は乏しい。

「オ、オレはとにかく、戦えばいいのか?」

「うーん、戦うというより、救ってあげて。心を失くした者たちの闇を、照らしてあげて」

 シュウは頷くことしか出来なかった。

「じゃあ、これ以上は集の身体に負担がかかっちゃうから、そろそろ『夢装』を解きましょう。じゃあ、またね、集」

「ちょ、何だよそれ!」

 最後に叫んだ言葉は、女には届かない。ハッと気が付けば、シュウは家の前に立っていた。徐々に夕暮れが空を包みつつあるが、帰る時間としては問題ない。

 だが、シュウの頭の中は疑問に包まれる。今、身の回りに起こっている異変に、思考が追いつかない。

「オレ、これからどうなるんだろ……」

 ポツリ漏らした言葉に、シュウは今、不安を感じた。

 家に帰ってもすぐ部屋に籠り、窓から町が夜に変わっていく様をぼんやりと眺めていた。気を紛らわすためにゲームでもと思ったが、生憎今やりたいと思っているゲームはゴウに貸してしまった。

 憂鬱な気分の中、シュウはついこの前に、ゴウに言われた言葉を思い出す。

『僕は友人として君のことを心配しているんだ。十四にもなってヒーローに憧れているなんて、恥ずかしいと思わないのかい?』

「オレの憧れかあ……」

 シュウにとっての憧れのヒーロー。真っ先に思い浮かぶのは、父親の背中だった。シュウにとっての誇りであって、目標。

 まるで、そんなシュウの心を悟ったかのように、ノックが鳴る。

「何しみったれてんだ! もうすぐご飯だぞ!」

 シュウが許可を出したわけでもないのに、ドアは開く。ジャージにTシャツという、だらしない部屋着姿で父親のタケオが、そこに立っている。

「お父さん……何で勝手に入ってくんだよ!」

「鍵かけてない部屋なら入っていいってことなんだよ」

 理由になっていない理由を述べて、タケオは窓際に佇んでいるシュウの元へ行く。樫の木のような手が、シュウの肩に置かれた。

「学校で嫌なことでもあったか? それとも、まだ具合が悪いのか? 言わないと、伝わるもんも伝わんねえぞ」

 言葉遣いに比べて、言い方はとても柔らかった。それがシュウの胸に響くと、シュウは思わず、瞼を閉じる。

「まあ……言いたくないことも、男にはあるもんだよな」

「……お父さん」

「そうしょげるなって。人生そんなときだってあるさ。でも、食うもんはちゃんと食ってないとな。下で待ってるぞ」

 そして、タケオはシュウの頭を撫でた。ゴシゴシと、撫でるというよりは、擦りつける勢いに近いが、それでもシュウは嬉しかった。

 消防士という職業は、子供の頃は男の子が憧れる職業の一つだ。防災訓練で学校に消防士が来て、校庭で消火訓練をする時の盛り上がり。そして、その中に自分の父親がいるとしたら、どんなに嬉しいことだろうか。橙の服は、ヒーロースーツのように映り、ホースから放たれる水流は、悪を滅する光線のようだった。

 昔から特撮が好きだったシュウは、人助けをするという職業に憧れている。警察や自衛隊、SPなど、テレビで紹介されるような職業はどれもシュウの目にはかっこよく映っている。

 その中でも、タケオの職業である消防士には強い興味があった。逞しい肉体は窮地から人を救うためにある、タケオはそう言って、常に鍛錬を欠かさない。それでいて、家族のことも愛してくれる。重い荷物は全て持ってくれ、休みの日は家事を手伝っている。授業参観も来られる時は必ず来てくれるから、シュウは消防士として、そして何より父として、タケオのことを誇りに思っている。キャッチボールが上手くなったこと、食べ物に好き嫌いがないこと、友達に意地悪をしてはいけないこと。本当に色々なことを教えてもらった。

 そんな父の手の温もりが、まだ頭の中に残っている。

「やるしか、ないよな」

 シュウは瞼を開く。藍色の空が、目の前に広がっていた。くよくよしてられないと、シュウは部屋を出る。誰も居なくなった空っぽの部屋にタイミング悪く、ミツキからのメールが届いた。



 翌日、シュウはゴウに朝早く呼び出される。朝は起きるタイミングがバラバラなため、三人一緒に学校へ行くことはない。

「やっぱりこれ、返すよ」

ゴウはシュウに貸してもらったゲーム機を返そうとする。

「え、やってないんだろ?」

「でも、見つかったらいけないから」

 見つかってしまえば、きっとこのゲームは帰って来なくなる。それは絶対に嫌だ。そんなことになるくらいなら、ゲームはしなくてもいい。ゴウはそう決心する。

「僕の家が厳しいこと、シュウも知ってるよね。だから……」

 ゴウは厳しい表情でシュウに伝える。しかし、シュウはゲーム機を受け取ろうとはしない。小学生の少年少女がランドセルを背負って学校へ向かっている道路の端で、二人の少年は立ち止まったままだ。

「いいって。隠れてやればいいじゃんか」

 事情を分かってくれないシュウに、ゴウは糸を切った。

「僕はシュウのことを想って言ってやっているんだ! それがどうしてわからない!」

 ゴウだって、我慢はしたくないが、しなければならない事情がある。それをわかってくれないシュウに、ゴウはついに怒りをぶつける。

「僕はシュウみたいに呑気に生きていくわけにはいかないんだ!」

 ゴウは無理矢理ゲームをシュウの手に持たせ、学校の方へと走って行った。ゴウの手の温もりがそこに残っていて、シュウは彼の背中が消えていくまで、そちらの方をぼんやりと眺めていることしか出来なかった。

 その日、シュウとゴウは一度も話さなかった。ゴウは普段から特に変わらないポーカーフェイスを保っているが、シュウは太陽の如く明るい笑顔を雲の中に隠していた。それを何も知らないミツキは、ちゃんと見ていた。昨日よりもますますシュウの元気がなくなっていることを。

 その日のホームルームが終了し、授業が全て終わる。ゴウは帰り支度をすぐに終わらせてしまって、シュウの方には目もくれずに帰って行った。

「シュウ、帰ろう」

 教室からぞろぞろと流れ出るクラスメイトの波を見つめているシュウの肩を、ミツキはポンと叩いた。シュウはそれに驚いて、ミツキの方を見た。ホッと息を吐くシュウは、どこか小さくミツキの瞳の中に映っていた。

 つい先日、ゴウと二人で帰ったばかりだというのに、今度はシュウと二人きりで帰ることになるとは思っていなかった。学生の群れが車の行き交う忙しい道路の端を歩いている中、シュウとミツキも例に漏れず、気休め程度の白線の中を歩いていた。

「ちょっと機嫌が悪かっただけだって」

 ミツキはまだまだ浮かない顔をしているシュウを励ます。だが、ゴウに言われたことのイメージが中々大きいのか、シュウはまだ、その視線を地面に落としたままだった。先程まで降っていた雨で濡れているアスファルトは、熱が逃げていく香りを吐き出している。

「……ありがとう、ミツキ。だよなあ、あんまり考えてたって仕方ないか」

 ミツキにはシュウの言葉が雨上がりの天気と重なって聞こえた。まだ晴れ渡ったとは言えない、それでも雨は収まった、そんな空模様のような。

「そうだよ! いつもみたいに元気なシュウでいてほしいからさ!」

 考える、なんて言葉は、シュウに似合っていない。ミツキは思っている。真っ直ぐに突っ走って、自分やゴウを巻き込んでいく、それがシュウらしさ。行き過ぎた時は、二人がシュウのストッパーになる。ミツキが描く、三人の関係だ。

「ほら、前にシュウが猫を助けた時だって、私たちは見てるだけだったけど、シュウは助けに行ったことがあったでしょ。私たちじゃ出来ないことを、シュウはやっちゃうの。ゴウだって、そんなシュウが、好きなんだよ」

 二人でお見舞いに行った前の会話は、よく覚えている。ゴウがポツリと漏らした言葉は、きっと真実だ。

「アイツがいないと、世界から太陽が消えたような感じだ」

 そう言った後、ミツキが笑ったことに対し、顔を赤くしてゴウは「シュウには言うなよ」と釘を刺した。勿論、ミツキはシュウにそのことを言うつもりはない。

「だから、元気出して」

 ニュアンスとしては、ミツキやゴウの為に元気を出して、とも取れなくない言葉。しかし、シュウは顔を上げて、ミツキに白い歯を見せる。

「ああ、そうだな!」

 二人しかいないいつもの交差点。シュウは昨日タケオに言われたことも思い出す。煮詰まったままでいるのは、性に合わない。

「希望の光が輝く限り、オレの命は色褪せない! だな!」

 エクステンドレッドの、決め台詞とポーズを真似て見せるシュウ。ミツキはそこに、本物が居るような気がした。

「うん! 正義は、必ず勝つんでしょ!」

「ああ! 必ずな!」

 ささやかな日常には似合わない言葉を交わす。ただ、シュウにとってもミツキにとっても、これが当たり前の日常だ。



「良いお友達ね」

 ミツキと別れてすぐ、次元を割るようにあの女が姿を現した。

「わっ! き、急にどうしたんだよ!」

 ショウは驚いて尻餅をついた。アスファルトに打ち付けられた臀部がジリジリと痛む。

「また、彼らが集の心を奪いに来たのよ」

 女はそう言うと、集の頬に手を伸ばす。成長期の少年の肌は、瑞々しい。

「じ、じゃあ、戦わなきゃな!」

 シュウは真っ直ぐな瞳で女の顔を見る。そこで、シュウは一つ、聞き忘れていたことを思い出す。

「そういや、名前は?」

 シュウに尋ねられると、女は束ねた髪を振り、煙草を吸うように息を飲み込んだ。

「ないわ。名前なんて」

 名前なんてない、女の発言に、シュウは耳を疑った。怪しく空を包む雲が近くなっても、シュウは女をずっと見ていた。

「とにかく、この戦いが終われば、また話してあげるから。さあ、行きなさい、貴方の光で、彼らを救ってあげるのよ」

 女の手が、シュウの胸に置かれる。眩い光に包まれて、シュウはまた、変身する。憧れのヒーローになったシュウは、一つ拳を握った。

 住宅地の一角にある公園にシュウは向かう。三人が別れる交差点の所にあるだだっ広いだけの公園とは違い、滑り台やブランコなど、遊具が揃っている。

女曰く、そこにターゲットがいるらしい。言われるがままにマントを靡かせ、シュウは大地を蹴り飛ばた。

 普段は子供たちでにぎわっている公園も、流石にこの一瞬ばかりは静まり返っている。歩道に溢れている自転車もない。

一先ず、シュウは中に入っていこうとする。すると、公園の周囲に生い茂る木々が、ざわざわと揺れ始めた。シュウは立ち止まり、攻撃の構えを取る。

「お兄ちゃんも、こっちにおいでよ」

 公園の方に気を取られていたシュウは、自分の真後ろに少年が居ることに遅れて気付く。慌てて振り返り、シュウは問う。

「……キ、キミはどうしたの、何か、嫌なことでもあったのか?」

 見た目は小学校高学年の少年。短い黒髪に、膝が見えるズボンは、子供らしい服装。ただ、頬に残る涙の跡が、痛々しくシュウの目に映った。

「お兄ちゃんは、いいなあ。家族も、友達も、あったかくて」

 よろよろと歩く少年。その瞳が、赤く輝き出す。

「集、安易に戦ってはダメよ。前も言ったけど、貴方に与えた力は、心を失った者を救う力。その手で、彼の心を、闇の底から引きずり出すのよ」

 シュウは頷く。そして、拳をまた、強く握った。

「毎日、毎日、勉強ばっかで、友達もいなくて……ボクはどうしたらいいの……ねえ、教えて、教えてよ!」

 少年の叫びが、シュウの胸に突き刺さる。

 その叫びは、聞いたことがあった。

「実は、オレにもそんな友達がいるんだ。その子もおじいちゃんがすごく厳しくて、むしろ、何でオレたちと同じ学校に通ってるんだろうって思うくらいなんだけどさ……でも、そいつは変わったんだ!」

 こういう時に、ミツキやゴウなら、的確に、その場に合った言葉を言ってくれる。上手く言葉が見つからないことが、シュウには歯がゆくて仕方がない。それでも、シュウの胸の奥にたぎる思いを真っ直ぐに伝えることしか出来ないと、シュウは少年の目をじっと見つめ、続けた。

「教室でずっと一人で、それじゃ寂しいだろって、オレが伸ばした手を、最初は取ってくれなかった……でも、今じゃ、オレの親友なんだ! キミだって、本当に友達が欲しいなら、手を伸ばさないと、何も掴めないぞ!」

「ボクのことなんて何も知らないくせに! ボクはお父さんの跡を継いで、立派なお医者さんにならなくちゃいけないんだ……でも、ボクは野球がしたいんだ……お医者さんなんてなりたくない!」

「じゃあ、何でそんな大事な想いをオレなんかにぶつけてるんだよ! キミがそれを伝えなきゃならないのは、オレじゃないだろ!」

 シュウは息を切らして、少年の心へと叫びを突き刺した。すると、少年は黒い光に包まれる。そして、黒い装束に身を纏った。赤と青のオッドアイが、シュウを羨望の眼差しで見つめている。

「来るわよ。ここからは存分に戦いなさい。シュウが思い描く戦い方で、ね」

 女の指示に、シュウは頷く。

「それでも無理なら、オレがキミの友達になってやるよ!」

 女の指示とは裏腹に、シュウは両腕を大きく広げる。こっちに来いと、言わんばかりに。少年は銀髪を揺らして、シュウに指を差す。少年の影がシュウの足元に伸びると、地面から波のように黒い影が押し寄せる。

「そんなんで来ないで、自分からぶつかって来いよ! 遠いところから叫んだって、気付かれなかったら意味ねえんだから!」

 影はそのままシュウの身体に巻き付いた。締め付けられる痛みに歯を食いしばり、シュウは訴えかける。

「くっ……何逃げてんだよ!」

 少年の指が震え始める。シュウの声が、少しずつ少年の心の奥に届く。影が緩むのを感じ取ると、シュウは力いっぱいに影を振り払う。あっさり解放されたシュウは、掌を空に向けて掲げた。

「なら、オレの精一杯をぶつけてやる! キミの壁を、ぶち壊すために!」

 剣を手にしたシュウは、緊迫した場面に関わらず、おどけて笑った。

「そしたら、友達になろう!」

 少年に、もう戦意はなかった。トドメを差す前に、姿が元に戻る。元に戻った少年は、目こそ腫れていたが、笑ってくれていた。

「もう、キミの闇は晴れたぜ! 諦めるなよ、まだまだオレたち子供だろ!」

シュウが鼻を擦りながら言う。少年は、涙を流しながら笑っている。憎悪をむき出しにしていた先程までとは違う。こんなにも、笑顔は、明るいのに。

「ありがとう……ボク、頑張るよ……お兄ちゃん」

 少年の姿が、どんどん透明に変わっていく。まるで、この世界から消えてしまうかのように。シュウは手を振る。また会えると良いな、そう付け足した。最後は、砂のように細かい光が、空へ散って行った。

「元気でな……」

 そう呟いて、シュウは変身を解く。元の自分に戻り、隣に降り立つ女が、シュウの方を向いた。

「もっと、知りたいんでしょう、この世界のことを」

 シュウは頷く。

「何も知らない世界で戦い続けるのは、不安なんだ」

「それもそうね。でも、あまり話さないで、って言われているの」

 女は長く、鋭いナイフのような人差し指でシュウの唇に蓋をした。

「だ、だふぇに」

「それは言えないわ」

 でも、と女は続けた。

「人は、誰もが夢を見る。例えば……あの少年は、こんな姿になりたいのよ」

 女が指を鳴らす。すると、シュウの前に突然、人の姿が浮かび上がる。恐らく、少年の憧れている、野球選手。見た目はアイドルのようにかっこいいが、キャッチャーとしてピッチャーをリードし、チームの司令塔として活躍している選手だ。

「彼が憧れている人物。そして、夢。ただ、彼の中ではこれは叶わないものだってわかっている。そんな夢さえも、彼は奪われそうになっていたのよ」

「だ、だふぇに」

「夢喰い、私たちはそう呼んでいるの」

 女はまた、指を鳴らす。野球選手の姿が変わり、シュウが今までに相対した少年たちが現れる。

「夢喰いは人の夢を己の欲望のままに喰い尽くしていくわ。そして、夢を奪われ、心を失った人間も夢喰いになる。連鎖的に、夢喰いは増えていくの」

 シュウはどこか、ゾンビを思い浮かべる。映画やゲームの中に出てくるような。

「厳密には、夢喰いは例外を除いて、夢を失いかけそうな人間の心を喰らう。未来を見失いそうな人間に取り入って、この世界の色に染めてしまうの。そして、心を失った人間は、その存在をも失ってしまう。まるで、初めからそこに存在していなかったかのようにね。まあ大体は、存在が失われてしまう前に、自ら命を絶ったり、原因不明の死に方をしたりするから、勝手に消えてしまうのだけどね」

 シュウは口を開けたまま、ボンヤリと頷くしかなかった。

「ただ、問題なのは、その対象が、子供たちに広がっていること。今までは、こんなことなかったわ。まあ、少なくとも貴方には夢があるでしょう? 消防士になりたいのではなくって」

「あ、うん……お父さんみたいな、消防士に」

「でもね、みんな夢を持たなくなった。というか、持ちにくくなった。お陰様で、虚ろな人間の心がこっちの世界に滞留し始めているわ。ここままだと、加速度的に、心の消失が進んでいくわ」

 心の消失。母親に教えてもらったことを、シュウは思い出す。心を亡くすと書いて、忘、という漢字が完成すると。

「色んなことを忘れていく世の中よね、今は。でも、忘れていることにも気付かないの」

 忘れていく。気付かない間に忘れていく。女はシュウの頭を撫でる。忘れないように、忘れないようにと念じているようだ。

「貴方をこの世界へ連れて来たのは、貴方の力が、必ずこの世界を晴らしてくれると思ったから……。純粋で、ひたむきで、穢れのない貴方の心なら、救えると思ったからよ。私たちには、その心がないから……それにしても、十四にもなってヒーローに憧れる子供なんて、久々に見たわ」

 シュウは少し恥ずかしくなる。

「べ、別にいいじゃねえかよ」

「ふふ、でも、もう少ししたら、オタクだって気持ち悪がられるかもよ、好きな女の子に」

「う、うっせえな! それに、あいつは、絶対そんなこと言わねえし」

「……そう。まあ、せいぜい儚い夢を、持ち続けられるだけ持ち続けなさい。集、私は、貴方を信じているわ」

 その声は、とても美しく、それでいて、壊れそうだった。シュウが言葉を返そうとすると、もうそこには、女の姿はなかった。それどころか、元の世界へ戻っていた。

 割と、空は曇っている。シュウは大きく、息を吐いた。



「たまには一緒に風呂に入るか!」

 その日の夕食が終わった後、シュウはタケオに尋ねられる。初めは渋っていたシュウであったが、結局折れて、一緒に入ることとなった。

「お前とこうして風呂入るのも久々だなあ!」

 息子とこうしてお風呂に入ることはそうそうないため、湯船に入ったタケオは、実に幸せそうな表情だ。シュウは遅れて湯船に入る。お湯が溢れ、二人がいる湯船の中は窮屈になった。

「父さんの身体って、やっぱデカイなあ」

 透明の先にあるタケオの身体。鎧のように身を守っている筋肉は、いつ見てもシュウの憧れになる。

「シュウもいつかは父さんみたいになれるさ! それにしても、消防士になりたいなんて、今風じゃないな」

 シュウの頭を撫でながら、タケオはそう言った。シュウは父の言葉に首を捻る。

「今風じゃない……って?」

「今時、医者とかじゃない限り、人を助ける職業に就きたいとかって思う子供が減ってる気がしてな。親も危ない職業には就かせたくないだろうし」

 同僚からの話ではあるが、どこの家の子供も、大学には行かせてどこかに就職できればいいという将来設計が立てられているらしい。悪いとは思わないが、つまらなさは感じる。

「まあ、シュウのテストの点数じゃあ、良い大学には行けないよなあ」

「バ、バカにすんなよ! オレだって頑張ってるんだぞ!」

「頑張って学年のど真ん中か……父さんはクラスで一番取ったことあるんだぞ」

「くっそお……でも、オレ運動出来るし!」

 シュウはガッツポーズをする。頼もしいなと、タケオは笑った。

「でも、消防士になるには学力だって必要なんだぞ? 試験があったりするんだ」

「マジかよ……」

 つい数秒前は勇ましい恰好を見せていたが、勉強も必要だと聞いて落胆するシュウ。表情をコロコロ変える息子の姿が愛らしく、タケオの目に映る。

「勉強も頑張らないとな!」

 タケオは先に湯船から上がる。下唇を出して不貞腐れているシュウの頭をポンと叩く。シュウの跳ね上がっている髪がお湯でしなった。

 その髪を、シュウは洗う。シャンプーが白く泡立ち、茶髪を隠す。湯船の中から、タケオは成長を感じていた。

 小学校何年生までかは忘れたが、シャンプーハットをしないと頭を洗えない時期があった。友達に知られると恥ずかしいぞ、とまだ一緒にお風呂へ入っていた時期に茶化すと、何時だって目をつぶったまま、「わかってるよ!」と言い返してきた。

 ささやかな反撃が可愛かったものの、それが終わる頃には共にお風呂という習慣が無くなった。父親としては嬉しくもあり、寂しくもあった。

「大きくなったな」

 忙しく手を動かしているシュウに、タケオは言う。どこを基準にして大きくなったのかはシュウにはわからないが、「そう?」と返す。返答には興味を持っていないのか、シャワーの水を出す。お湯に変わる数秒前の冷水に、シュウの身体がビクッと震えた。

「でも、いつまでもその心は忘れるなよ」

 温水が泡を流していく。シュウはシャワーの音の中でも、タケオが言ったことを、ちゃんと聞いていた。

「その心、って?」

 シャンプーを洗い流した髪が、襟足にかかる。シュウはシャワーを止め、タケオの方を向き、問う。

「目標は持て。でも、夢は追うな」

 難しい。べらんめえで、何事もハッキリ、わかりやすくものを言う父親には似合わない、難しい言葉。

「どういうことだよ……」

 真剣な眼差し。思わずシュウは目を逸らす。

「正義のヒーローは、現実にいない方が良い。ここで空を自由に飛んでるくらいが良いんだよ」

 トントン、タケオは胸に拳を当てる。心。きっと、こことは、その場所を指している。

 シュウは、今の自分の心情を全て悟られているような気になる。薄々感じる、現実と理想との乖離。正義とは何なのかを少ない頭で考え、煮詰まる。

「夢って、何なんだろう」

 ボソッと、シュウが呟く。蛇口から零れ落ちる水滴の音。静かになった部屋に、湯気が天井を知って、逃げ道を探した。

「夢は、いつか消えるもんだ」

 その湯気が立ち消えるように、夢も消える。酷く冷たいなと、シュウは思う。

「でもな、忘れんな。そして、教えてやれ。お前の、その心をな」

 ただ、それに続いて現れた言葉は、迷っているシュウの心の中で弾け飛ぶ。

「お父さん……」

 弱気な顔が、姿を現す。シュウは恥ずかしくなって、腕で目を隠した。

「泣け! 存分に泣け! でも、泣いたらしっかり笑え、な」

 湯船から身体を出して、タケオはシュウの身体を海から掬い上げるように抱き締めた。お風呂にいるせいなのか、シュウは火照った身体がより熱く、指先まで広がっていくのを感じた。



 タイル張りの、冷たいお風呂の中。ゴウは曇った鏡越しの自分を見つめていた。今朝シュウに言ってしまったことがまだ頭の中に残っている。

 幼稚園時代から内気で、中々友達を作れなかったゴウ。小学校に入ってもクラスに溶け込めずにいたが、そんなゴウに初めて出来た友達が、シュウだ。クラスでも人気者で、独りぼっちではなかったにも関わらず、手を差し伸べてくれたのだ。

 ただ、初めの時は、シュウの手は取らなかった。友達なんて必要ない、と年齢には相応しくないことを言っていた。それでもシュウは、ゴウのことを諦めなかった。

「友達は、多い方が絶対いいって!」

 耳にタコが出来る程、シュウには言われた。あの頃に比べると丸くはなっているが、友達はさほど増えていない。その癖、数少ない友達のシュウには強く当たる。

「謝ったら、許してくれるだろうか」

 シュウなら、謝れば許してくれる、どこか傲りがあった。次に会えばきっと、何事もないように接することが出来ると思っていた。

 お風呂から上がり、自分の部屋へ行こうとするゴウ。しかし、廊下でゴウを待ち構える人影に、ゴウは思わず顔を背けた。

「ゴウ、話がある。私の部屋に来なさい」

 キヨマサが行く先に立ち塞がっている。言おうとしていることを悟ったゴウは、今まで我慢してきたものが、一気に溢れ出した。

「僕はもう、おじいちゃんの言いなりにはなりたくない。おじいちゃんはすごく賢い学校の先生だったのかもしれないけど、僕はおじいちゃんみたいな先生に勉強は教わりたくない!」

 娯楽は我慢しろと言われる。それに、なりたい夢も捨てろと言われる。星が好きだから、宇宙飛行士になりたいという夢がある。それを、家系だからという理由だけで、教師になりなさいと言われ続けてきた。

 言わなければ伝わらない。我慢して良い子を演じているままではいけない。ゴウは自分の抱く夢を語ろうとした。

 頬に痛みが走る。身体がよろけ、ゴウは廊下の壁にぶつかった。

「子供のくせに生意気なことを言いおって!」

 打たれた痛みが、じんわりと顔中に広がっていく。ゴウはキヨマサの方を睨みつける。反抗的な態度がキヨマサの怒りのボルテージをさらに上げていく。

 騒ぎに気付いたゴウの父と母が駆けつけると、キヨマサはゴウに紙を突きつける。

「なんだこの順位は。十位にも入っていないじゃないか!」

夏休み明けのテストの順位。点数は五科目で四三七点であったが、順位は一一番。それにキヨマサは立腹したのだ。

父と母がキヨマサの身体を取り押さえる。それでもキヨマサは頭に血がのぼったままだ。

「もう、もう僕はこんな家に居たくない! おじいちゃんなんか大嫌いだ!」

 それはゴウも同じだった。もう厳しくされることはうんざりだった。父と母の心配そうな声に耳を傾けることなく、ゴウは外へと飛び出していった。

 きっとすぐにお父さんが追いかけてくる。お母さんも来てくれるかもしれない。ゴウはわかっていた。だから、出来るだけ遠くへ逃げたかった。

「ねえ、キミ、ボクの声、聞こえる?」

 その最中、今まであれ程前に進んでいた足が何かに縛られるように止まった。更に、聞いたことのない、少年の声が聞こえる。

「だ、誰」

「キミ、夢は?」

 夢、その言葉でゴウはあからさまに嫌な顔をする。

「僕には、夢なんてない」

「嘘だよね? キミは宇宙飛行士になりたくって、毎晩星空を眺めながら、なりたいって願ってるじゃないか」

「そ、それは!」

「それに、本当は真っ直ぐで熱い心を持った、キミの親友に憧れていることだって知ってるよ」

 気が付けば、周囲は街灯が消え、紫色の重たい雲がのさばった空が広がっている。そして、ゴウの目の前には、白人の少年が立っていた。

「ど、どうしてそんなに僕のことを……」

「ふふ、キミ、人の夢、奪いたくなることってない?」

 少年は妖しげな笑みを浮かべて、ゴウの元へ歩み寄る。ゴウの中では、目前の少年が、そして今存在しているこの空間が普通ではないことを悟っていた。しかし、恐怖なのか足が動かない。

「本当は、キミだってヒーローに憧れてるんでしょ?」

 心の奥に閉じ込めた想いが、どんどん外に放り出されていく。ゴウが二度と見ないと決めていた夢がどんどん、掘り返されていく。

「宇宙飛行士という、叶えたい夢。ヒーローになりたいって叶わない夢。両方とも、見たいよね?」

 ゴウは、たまらず首を縦に振った。従ってはいけない気はしていた。しかし、意識がどんどん少年の方に引き寄せられていく。

「ボクの名前はヴァニッシュ。さあ、キミもボクと一緒に、夢を狩りに行こうよ」

 ヴァニッシュが差し出す手。小さい、未来の詰まった掌をゴウは掴みたくなる。

「僕は……僕は……」

 ヴァニッシュは笑みを浮かべる。

「ボク、キミの夢を叶える方法を知ってるんだ」



 湯気にもちもちの肌が包まれる。ミツキは湯船に浸かって、日曜日の予定を考えていた。

「ゴウからはまだ連絡ないしなあ……どうしよう」

 三人全員が揃わなければ、行く必要はないとミツキは考えている。だから、ゴウが行かないのなら、自分も、シュウも行く必要がなくなる。ゴウが行くなら、行先はどこだっていい。

 まだまだ成長途中の胸を触る。小さいことはまだ仕方ないにしても、いずれは大きくなってほしいとは思っている。

「ま、まあ、シュウは小さくても良いって言ってくれてるけどね」

 誰も聞いてはいないが、壁に反響して帰ってくる声にミツキは頷く。

 お風呂から上がり、ドライヤーをかけ、リビングへ戻ろうとする。

「お母さん、お風呂上がったから次……」

 髪を乾かすのに使っていたピンク色のタオルを、ミツキは落とした。

「お母さん!」

 リビングで胸を押さえ、苦悶の表情を浮かべているユズキが、ミツキの目に飛び込む。

「だ、大丈夫だから……」

「全然大丈夫じゃないよ! そうだ、救急車呼ぶから!」

 ミツキは混乱する中でも、急いで電話を手に取る。

 こんな時、お父さんが居れば。ミツキの中に浮かび上がる、懐かしい父親の姿。しかし、ここにミツキの父親は居ない。

 電話の受話器を取った手が、震える。ボタンを押す指が、震える。いち、いち、きゅう。ゆっくりと声に出して、ボタンを押す。普段は何気ないボタンのプッシュ音が、ホラー映画やドラマのBGMで使われそうな不協和音に聞こえた。

 すぐに到着した救急車に乗り込み、近くの病院へ向かう。救急車の中で、ミツキはずっと、ユズキの手を握る。ユズキも朦朧とする意識の中で、しっかりとその手を握り返し続けた。

幸い、ユズキの命に別状はなかった。ただ、暫く入院し、検査をする必要があると、医師からは告げられてしまった。

 その日は親戚の車で家まで送ってもらった。しかし、家に帰っても家に居るのは一人だけ。ミツキは空っぽの家の中で、明かりを消せなかった。

 そして、ミツキはもう父親でなくなった、父の携帯電話に何度も電話をかける。もちろん、父がその電話を取ることはない。それでも、父の声がこの耳に届くことを、信じていた。

 整理された、いつでも友達を呼べる家がこんなにも孤独に感じるとは、ミツキは思わなかった。心が明るくなるようにと選んだオレンジのカーテンも、テーブルに飾ってある一輪の花も、ミツキの心を照らしてはくれない。

 夜だから出ないのだと言い聞かせ、ミツキは受話器を置く。親戚の家に一緒に行けば良かったかもしれないとは思ったが、哀れな目で見られるのは、嫌だった。車の中でだって、一人は辛いでしょう、とは言ってくれた。ただ、こんな時に父親がいないなんてねえ、その一言を聞いた時に、ミツキは一人の方が良いと決心した。

「離婚したって、私のお母さんと、お父さんは、いつまでも家族だもん……」

 世間の目はいつだって冷たい。ミツキは目を腕で覆い隠し、泣いた。



「マジかよ……大丈夫か?」

 翌日、朝からミツキは、シュウをマンションに呼び出す。エントランス前の小さな広場で、ミツキは事の次第を話すと、シュウは心配してくれた。

「お母さんまで居なくなったら、私、どうしよう……」

 Tシャツの裾を握り締め、ミツキは腫らした瞳でシュウに訴えかける。シュウはそんなミツキの手を、そっと握る。

「お医者さんを信じるしかねえだろ! お母さんが何もないことを信じようぜ!」

 温かいシュウの手。深い闇の中に引き摺り込まれそうになっていたミツキの心が、その手によって引き戻される。ひとりじゃないと、信じられる。

 ミツキの両親が離婚し、名字が変わった時、友達の態度が変わった時期があった。きっと、それぞれの親がミツキとあまり関わらないよう、子供に吹きこんでいたのだろう。離婚の原因は知らされていなかったが、やれ父親が別の女の人に手を出しただの、会社で事件を起こしただの、とんでもない噂が流れていた。また、ユズキのことを悪く言う、友達の親の話を聞くこともあり、一時期ミツキは、人間不信になりかけた時期があった。

「オレたち、別に何があったって気にしねえぞ!」

 ただ、シュウは違った。塞ぎ込むミツキのことをいつだって励ましてくれた。ミツキに浴びせられる罵声を、シュウは盾になって受け止めてくれた。

「名字が変わってもミツキはミツキだろ! オレたちの友達ってことに変わりはねえよ! だから、あんま落ち込むなよ、な」

 今と全く変わらない、屈託のない笑顔。表と裏のない、ありのままの表情が、ミツキの氷を溶かしたのだ。

 そんなシュウは、今日もまた、ミツキの心を照らしてくれた。それが、すごく嬉しい、はずだった。

 羨ましい。シュウが羨ましい。幸せな家族に囲まれ、羨ましい。どうして、シュウの家には、あんなにも頼れるお父さんが居て、自分の家族には居ないのか。わからない。その理由が、聞きたい。今まで言えなかった想いが、鍵のかかった部屋から扉を破って溢れ出す。

「……シュウには、シュウにはわからないよ、私がどれだけ苦しんで来たかなんて」

「……え」

「シュウには、私がどれだけ苦しんで来たかわかんないでしょ! シュウの家は皆幸せそうでいいけどね、私は、私は……っ!」

 自分から呼び出しておいて最低だ、ミツキは情けなくなって、シュウに背を向ける。

「そっか。ごめんな、ミツキの気持ち、ちゃんとわかってやれてなくて」

 それでも、シュウは、ミツキを責めなかった。この優しさが、辛い。どうせなら、叱ってほしい。わがままを言う自分のことを、怒ってほしい。

 振り返って、ミツキはシュウの胸に飛び込んだ。しっかりとシュウは受け止めてくれる。

「ごめん、シュウ……私、酷いこと言っちゃった……」

「気にすんなって! それに、ミツキだって、その……オレのこと、いつも心配してくれてるし」

 ミツキは首を振る。そして、少しホッとした。一睡も出来ていないミツキは、そのままシュウの胸に顔を埋めて、眠ってしまいたくなる。

「ありがとう……ありがとう……シュウ」

 その時、ミツキの携帯電話が鳴った。ミツキを連れて病院へ行く親戚の車が、間もなくやって来るのだろう。

「あ、シュウ……私、もう行かなくちゃ」

 名残惜しそうにシュウの胸から顔をあげ、ミツキは目の周りを拭く。普段は綺麗な髪が、今日はボサボサのままだった。

「わかった。またミツキのとこのお母さんが元気になったら、三人でどっか行くか!」

 ミツキはシュウの言葉に、髪を揺らした。シュウは親指を立てて、白い歯を見せた。



 結局、日曜日の予定は潰れた。何もない休日が終わり、また退屈で、楽しい一週間が始まる。シュウはそう思っていた。

 月曜日、ミツキとゴウは、学校を休んだ。ミツキが休む理由は何となくわかった。ただ、ゴウが休むのは中々珍しいことだった。出席点が大事だからという理由で、多少体調が悪くても学校を休まないのだ。

 授業が終わると、シュウはまず、ゴウの家へ行こうとする。担任から貰った手紙を届けるというのが主な役目だが、ゴウのことが心配なのは、言うまでもない。

 いつもの交差点を右に曲がり、もうすぐゴウの家に着く、シュウが足を踏み込んだ、その時だった。

「待って」

 シュウの前に、女が立ち塞がった。シュウは慌てて止まろうとするが、勢い余って女の身体にぶつかってしまう。しかし、シュウを女は簡単に受け止めた。

「いってて……ね、姉さん、何だよ急に」

 姉さん、そう呼ばれた女は疑問符を浮かべ、シュウに問う。

「ね、姉さんとは、私のことか」

「ああ! 名前がないと呼びづらいし、大人のお姉さんって感じだから、オレはアンタのことを姉さんと呼ぶって決めたんだ!」

「そ、そう。で、そんなことはどうでもよくって、集、ちょっと面倒なことになりそうなの、良く聞いて」

 いつもの重たい空が、今日は鈍色に浸かっている。辺りを見回しても、少し不気味な雰囲気が増しているようにシュウは感じた。

「ヴァニッシュが、動き始めた。恐らく、集を狙っている」

 そう言って、女はシュウから目線を奥にやる。シュウは振り返った。ずっと前からそこに居たかのように、ヴァニッシュが立っていた。

「流石だねえ……。でも、ボクの邪魔はもうしないでほしいなあ」

「私は人間の夢には興味なんてないわ。報酬さえもらえればいいの」

「ふーん。そのわりに、彼には肩入れしてるみたいじゃん」

 女とヴァニッシュは、互いを知っているのか、シュウの知らない言葉を交えながら火花を散らしている。シュウは互いの方をキョロキョロと見る。

「もういい加減に、夢を持った人間の心を奪うのはやめなさい。貴方のような夢喰いのせいで、世界のバランスが狂い始めているというのに」

「だって、夢のない空っぽの心なんて食べても美味しくないじゃんか……それよりか、甘い甘い果実の詰まった心を種も残さず喰い尽くしたい!」

 ヴァニッシュは不敵な笑みを浮かべ、シュウに纏わりつくよう近付いてくる。

「だから、キミみたいな少年の夢を、心を、ボクのものにしたいんだ……」

 狂っているとしか、シュウは思えない。拳を握り、シュウはヴァニッシュに殴りかかろうとする。

 しかし、気が付けばヴァニッシュはシュウの後ろに居た。

「その身体で勝てるわけがないじゃん、早く夢装してよ」

 また、聞き慣れない言葉。シュウは女を睨むように見た。

「……全ては、あの子をぶっ叩いてからでも、遅くないわよね、集」

「……ああ。だから、オレに力をくれ!」

 女はシュウの元へ行く。女の掌が、シュウの胸に置かれた。

「厚い雲を振り払う太陽よ、このオレに、世界を照らす力を!」

 確かに、シュウは消防士になりたい。タケオのような、男らしい人間になりたい。ただ、なれないとわかっていても、ヒーローにはずっと、憧れていた。地球を守るために戦うヒーローがかっこよくて、なれるものならなりたいと、夢見ていた。

「集、わかった?」

 女の言葉が、流れ込む。シュウは頷いた。

「……なんとなく」

「叶えたい夢は誰だって持つわ。でも、叶えられない夢を持ち続けることは、そうそう出来ないわ。だから、私は集を選んだ」

 選ばれた理由は、そういうことらしい。シュウには関係ないこと。だが、嬉しいこと。

 シュウは、一つ息を吐いた。父の言葉を思い出す。心の中に閉じ込めていたヒーローは今、この掌の中にある。

「……いいや、聞くの」

「え?」

「オレ、理由とか、どうでもいいかなって。オレは、ヒーローになりたかった。そして今、オレはヒーローになる。それだけだよ」

 閉じた目を、シュウは開いた。

「エクステンドレッド、参上!」

 赤いマフラーは正義の印。金色に染まった髪は、百獣の王と暗い星を照らす太陽がモチーフだ。

「そうでなくっちゃね……夢装出来るのは、夢喰いと選ばれた人間だけ。ボクもこの姿が気に入ってるんだ……」

 そう言うと、ヴァニッシュは腕を広げる。すると、彼とシュウの周りを黒い空間が包んだ。

「さあ、キミは……ボクに勝てるかな?」

 眩しいわけではなかったが、深い闇にシュウは腕で目を塞ぐ。背中から人がのしかかる様な重圧。シュウはこの先に何が待っているかを想像する。一筋縄でいかないことはわかっていた。

 恐る恐る、シュウはヴァニッシュの方を見る。そこには、先程まであった町がない。あるのは、足元に描かれた幾何学模様と、どこまでが壁なのかがわからない黒。

「ふふ、もう、キミに勝ち目はないんだけどね」

 シュウの背後で、ヴァニッシュは宙に浮いた状態で足を組んでいた。黒いマントをいつの間にか羽織っている。

「ど、どういうことだよ!」

 シュウが叫ぶ。ヴァニッシュは地上に降り立ち、シュウの後ろを指差した。

 慌ててそちらを振り向く。

「ミツキ! ゴウ!」

 目を黒い布で隠され、手と足を縛り付けられた状態で椅子に座らせられている二人。シュウは呼びかけるが、反応はない。

「ふふ、二人の心は、今ボクが持っている。でも、キミの心に比べたらこんなもの、取るに足らないものさ」

 二人を見て、シュウの怒りのボルテージは上がっていく。自分が痛い目を見ることに関しては仕方のないことだと割り切っている。だが、関係のない二人を巻き込むことは許し難い。

「二人を、二人を解放しろ! こいつらは関係ねえだろ!」

 シュウは激怒する。高笑いするヴァニッシュは、こう言い放った。

「いいよ、でも、もしキミがボクに少しでも抗うなら、二人の心、握り潰しちゃうよ?」

 ヴァニッシュの掌に浮かぶ、小さな二つの光球。シュウはそれを見て、戦慄する。このままでは、こちらからは攻撃など一切出来ない。

「さあ、早く差し出してよ。キミの全てを!」

「……それは、それは、出来ない!」

「……まあ、そう簡単に差し出されるとは思ってないよ……力づくで奪うまで!」

 ヴァニッシュは宙に浮く。指をシュウへ向けると、ヴァニッシュの周りにレイピアが出現する。そして、シュウ目掛けて無数のレイピアが飛んでいく。シュウは一本一本、当たらないよう避けていくが、数の多さに翻弄される。傍で床に突き刺さるレイピアの跡を見ると、刺さればひとたまりもないことが良くわかる。こんな身体なら、簡単に貫かれてしまうに違いない。

「集、今は辛抱して。きっといつか隙が出来る。その時を見計らって、闇の奥から彼の心を救い出すのよ」

 シュウは頷く。この力は、敵を倒すためのものではない。誰かを救うためにあるのだと、言い聞かせるように。

「ふふ、流石だね……強い心が、キミの力を大きくさせているんだよ! でもね、キミのその心が、この二人を惑わせていると気付いていないのかい?」

「どういうことだよ!」

 シュウは今まで腰にあったまま使っていなかった銃を構える。いつでも撃てるようにと、狙いを定める。

「ふふ、今日こうして二人をこの世界に招くには、そう時間はかからなかった。ゴウくんは先週の金曜日の夜だったかな。ミツキちゃんは昨日かなあ? すごく辛そうだったから、心を奪うのは簡単だったよ!」

 何でも自らの手で掌握出来るとでも言わんばかりに、ヴァニッシュは白い歯を見せる。シュウはこれが気に入らない。

「……そんな簡単に、心が奪われてたまるもんか!」

 トリガーを引いて、一発ぶちかましてやりたい。シュウはヴァニッシュを見る。だが、撃ったらこの心を潰しちゃうよ、と彼の顔に書いている。それだけに、撃てない。

「それじゃ玩具と同じじゃないか……。撃ってみてよ」

「くっ……撃てるわけがねえだろ……くそっ!」

 シュウが予想通り銃を降ろしたのを見て、ヴァニッシュは所詮そんなものかと嘲り笑う。

「だよね。じゃあ、もうキミはボクを倒せないってことだね! ボクが何したって、反抗して来ないってことだよね!」

 そう言うと、ヴァニッシュは突然姿を消す。辺りを見回しても、生気を失ったミツキとゴウの姿しか、シュウの目には映らない。

「どこ行ったんだよ! 出て来いよ!」

 と、シュウが言ってすぐ、肩に手が触れられる感触を覚える。後ろを向くと、ヴァニッシュが居る。もたもたしているシュウに嫌気がさしているのか、退屈そうに言い放った。

「大したことないんだな、夢見てる奴って」

 冷酷に放たれた一言の後にやって来たのは、激しい電流の波だった。初めてヴァニッシュと戦った時に受けた雷とは非にならない威力。身体中が鋭い刃物で切り付けられているのか、貫かれてしまっているのか、よくわからない。耐える、耐えられない、の次元ではない。

 ヴァニッシュの手が離れると、シュウはその場に膝をついた。身体の痛み以上に、希望が薄れていく、色褪せていく恐怖に襲われる。

「へへ、これくらいじゃ諦められそうにないよね……。もっと、もっと、欲しい!」

 今度は、ヴァニッシュの周りに光球が浮かび上がる。

「脳天まで痺れさせてあげるよ!」

 一点、シュウに向けられた人差し指。それに従って、シュウ目掛けて光球が発射される。膝をついたままのシュウは、その攻撃をまともに喰らった。衝撃波で吹き飛ばされ、何回も転がった身体が止まった頃、シュウの視界は歪んで見えた。

「くっそ……オレは負けられないってのに……っ!」

 それでも、シュウは立ち上がろうとする。こんなところで突っ伏したまま終わるわけにはいかない。

「……まだ立ち上がるの? どうしてさ」

 獲物を追い詰めるように、ヴァニッシュはシュウの方へと一歩ずつ、近付いていく。

「オレの……オレの親友を見捨ててくたばるなんて出来ねえよ!」

「いいじゃない、キミの心さえボクに譲ってくれれば」

「それもさせねえ……オレたちは……三人じゃなきゃ、ダメなんだよ!」

 しゃんと立ちあがって、シュウは白い歯を見せる。

 ヴァニッシュは動揺し始める。思い通りに行かないこと。そして、シュウの不屈の精神に。

「……いいよね、キミは。あんなに素敵な友達に出会えてさ」

 ポロリ、零した言葉。女が反応する。

「来たわ、閉ざされた心が開くかもしれない」

「わかった、姉さん。オレ、行くよ!」

 シュウは重たい足を上げて、ヴァニッシュの元へ向かう。

「何で、何で立ってるんだよ! 何で倒れてないんだよ!」

 ヴァニッシュの周りに浮かんだ光球が、次々とシュウに向かって発射される。しかし、シュウはそれを拳一つで壊していく。

「オレは、オレは、諦めない!」

 そのまま、走り抜けて。女の声が、シュウを包む。

 そのまま、走り抜けて。彼を、夢から醒めさせるのよ。

 シュウは目を見開く。

「オレが、変えてみせる!」

 狂気をどこかに置き忘れたヴァニッシュが、目前に迫る。衝突することを恐れず、シュウは地面を蹴る。泥に足を突っ込むような感覚が、シュウを襲った。

 場面が、突然切り替わる。暗い、黒い闇の中にいたはずのシュウの世界は、カラフルに染め変えられていく。七色の光が通り過ぎ、柔らかな光が天の方へ舞い上がった。

 地面に足が付くと、そこから綿毛のようなものがふわっと舞った。心地よい場所に、シュウはやって来たなあと思う。

「シュウ、ここがどこだか、わかる?」

 女が問う。もちろん、シュウはわからないので首を振る。

「そうよね。実はここ、ヴァニッシュの心の中よ」

「……え、えええええ!」

 そう言われ、シュウは大声を出して驚く。あんな奴の、心の中のイメージとは思えない。あの暗い世界が、ヴァニッシュの心を象徴していると信じ込んでいた。

「夢喰いは、人間として生きていた頃の心を失う。それは即ち、心があったことを忘れているということ。だから、心があったことを思い出すことが出来れば、夢喰いをこの世界から解放することが出来る。それが出来るのは、夢を追い続ける人間、ドリーマーだけなの」

 そんなシュウの元へ、小さな人影が歩いてくる。

 焦げ茶色の肌。透き通る碧い瞳。白いカッターシャツに、チェック柄のズボン。少年の姿が、シュウの瞳に映る。

 シュウは、彼を知っていた。

「レヴィン?」

 シュウの声に、レヴィン、と呼ばれた少年が、手を振り返す。当時よりも声は低くなっているが、それでも幼さは残っている。。

「シュウ、久しぶり」

 笑顔で駆け寄ってくるレヴィン。見た目に反し、日本語が達者な彼はアメリカ人の父親と日本人の母親から生まれた。仕事の都合で日本に住むこととなり、シュウとは小学三年生の時、同じクラスになったことがある。しかし、一学期が終わるとすぐに転校してしまったため、特にシュウと交流があるわけではなかった。

「ぼくの心、開けてくれたんだ」

 レヴィンはシュウに告げる。愛嬌のある笑顔を見せて。

「レヴィン、お前」

「ぼく、心を失ったんだ。それから、ぼくの世界はずっと、ここで閉じこもったままさ」

 ヴァニッシュと名乗っていた頃とは、全てが違う。人を呪い、貶めてやろうという狂気は、全く感じない。閉じこもったままとは言っても、この場所での生活を楽しんでいるようにさえ思える。

「……ぼくは、辛かった。肌の色だけで虐められる日々。お父さんはお仕事が忙しいから、ぼくの苦しみを理解してくれないし、お母さんも体調を崩してたから、迷惑をかけられないなって思って、ずっと我慢してたんだ」

 レヴィンが言うことは、シュウも知っている。同じクラスの期間はわずかだったが、周囲の一部からの目は冷たかった。落した消しゴムを拾ってあげようとするだけで汚らしいと言わんばかりの目を突きつけられたり、靴を隠されたりすることがしばしば起っていた。

「黒人は、裸足でも生活できるだろ、って、そういうことを言いたかったんだろうね」

 皮肉っぽく、レヴィンは言った。シュウは首を振る。

「そんな奴ら、許してちゃいけないよ」

 今度は、レヴィンが首を振る。

「でも、きみは、きみと、きみの友達は、ぼくを助けてくれたでしょう? 靴が無くなったら、探してくれた。ちょっと悪口を言われたら、庇ってくれた。それだけで、助かったんだ」

 風が吹き抜けるように、思い出す記憶。

 隠された靴を共に探したこと。鯉を飼っていた池で見つけたこともあった。肌の色で差別するのは良くないとも、叫んでいた。

「でも、結局転校先じゃ、きみたちみたいな子に出会えなくて。中学に行っても変わらないままで……そしたら、夢喰いに、食べられちゃった。ぼくの心は」

 自重するように、レヴィンは言う。

「ヴァニッシュくんは、シュウくんに救われるんだよね」

 シュウは顔を赤くする。エクステンドレッドの主人公の名前も、シュウだ。

「きみなら、助けてくれると思った。まるで、漫画みたいだ」

 シュウは照れくさくなって、目線を逸らした。恥ずかしがらなくていいよと、レヴィンはフォローしてくれた。

「これで、心置きなく、終わることが出来るよ」

 レヴィンの身体が、徐々に透けていく。シュウは目を疑った。

「夢喰いは、もう人間には戻れない……。ぼくは、死ぬしかないんだ」

「え……嘘だろ! 待てよ、今こうして生きてるじゃないか! どうして!」

「それは、この世界の理さ。ぼくももう、いくつもの心を奪ってしまった。それはすなわち、命を奪ったことと、同義になる。ぼくには生きる資格がないんだ」

「わけわかんねえよ! レヴィンは誰も殺してない! 何で、どうしてお前が……」

 その時、細い腕がシュウの身体を包んだ。

 レヴィンが、シュウをそっと、抱き締める。

「この世界は、いや、この星は、理不尽なことばかりだ。だから、どんな壁をも越えられる人間じゃないと、きっといつか心を失ってしまう。人間が他の動物と違うのは、ここでしょ? その特別が失われたら、ぼくたちのアイデンティティはどこにあるの?」

 難しいことは、シュウには全然わからない。ただ、今にも消えゆくレヴィンの存在に、シュウは涙を流すほかなかった。

「わかんねえよ! オレは、この世界がわかんねえよ!」

 どうでもよくなった。憧れのヒーローになれたと舞い上がっていたが、こうして目の前の存在を助けられない無力さが、希望を奪って行く。歯を食いしばって、それでも、涙は零れ落ちる。

「……シュウくん。ありがとう。じゃあね」

 感覚が、一瞬にして失われる。そこに、レヴィンの姿はもうなかった。

 そして、居なくなったレヴィンの代わりに、一つの大きな光球が現れる。視界が霞んでしっかり見えなかったシュウは、迷わずそれに、触れた。



 ミツキとゴウは、無事だった。それはシュウにとっても嬉しいことだった。

「ごめんね、シュウ! 私、ちょっとどうかしてた……」

 制服姿のシュウにミツキは抱き着いた。土曜日に見た服と変わっていない様子から、大体の予想はついた。

「仕方ないって。辛い時は、誰でもあるんだし」

 その隣で、ゴウは情けなさそうに俯いていた。

「ゴウ! いい加減顔上げろよ!」

 ゴウがいなければ張り合いがないだろ、そう言いたそうに、白い歯を見せて、ゴウに言う。

「……シュウ」

「無事帰って来れたんだし。終わりよければ全てよしって言うだろ!」

 あくまでも気楽な物言いのシュウに、ゴウは顔を上げる。きりりと鋭い目で、睨みつける。

「僕もミツキも、結局はあいつの口車に……いや、最後まで、シュウを信じきれなかったせいだ!」

 拳を震わせ、胸の内を打ち明けたゴウに、シュウは微笑みかける。

「あの日、ゴウが……ヴァニッシュの手を取らなかったのは知ってる。ミツキが突っぱねたのも見た。それだけで嬉しかったよ。月曜日のあれは、仕方ないって。むしろ、嬉しかった」

 ゴウは、あの夜、ヴァニッシュの手を取らなかった。どうしてボクと一緒に来ないの、と尋ねられて、ゴウは言い放った。

「夢が無くなっても、僕には、友達が……親友がいる。それだけで構わない」

 そして、ミツキも。ユズキが甲状腺の病気にかかったとの診断を受けたばかりだった。しっかりと治療すれば大丈夫だとは言われたものの、ユズキがいなくなることを考えると、胸が苦しくなって仕方がなかった。

 そんなミツキにつけこむように、ヴァニッシュが現れる。ゴウの時と同じように、ミツキの心を奪おうとしたが、結局ミツキも首を振った。

「でも、私には心を許せる友達が……親友がいるから」

 あの光球の中に、その時の記憶が眠っていた。シュウはそこで一部始終を知ることとなる。

「シュウと、自分の心、どっち取るかって言われて、二人共オレを取るなんて、馬鹿だよ……」

 シュウは嬉しくて、泣いた。これ以上泣けないと思っていたのに、泣いてしまった。

 だが、シュウはもう一つ、問わなければならないことがあった。

 ごめんな、と言って、ミツキを離す。そして、シュウは後ろで立っている女に、顔を向ける。

「……あいつらは、死ぬのか」

 ごめんなさい。女は言った。

「シュウが救った三人の魂は、もう、元には戻らない」

 ミツキとゴウがきょとんとした表情で二人を見る。

「……いや、姉さんは気遣ってくれたんだろ。生き返らないって言ったら、オレがきっと、この力を使わなくなるんじゃないかって」

 女は頷く。酷く申し訳なさそうな顔をする女に、シュウは言った。笑顔で。

「でも、オレは信じてるよ。あいつらとどこかで会えるって」



 あれから暫くが経って、それぞれが平穏な日常を取り戻しつつあった。ミツキは、母のユズキの体調が順調に回復していることが何よりも嬉しいと言っている。また、離婚した父親からの連絡があり、一度会いに来てくれる約束を取り付けたらしい。

 ゴウは相変わらずだが、強いて言うなら、今まで取り上げられていた漫画を返してもらうことが出来た。まだまだ厳しいキヨマサの目はあるが、そのあたりは結果でしっかり見返してやると、ゴウは意気込んでいる。

 この日、シュウはミツキとゴウ、そして父であるタケオと、野球観戦に来ていた。タケオが家族分のチケットを購入したのだが、母と弟の都合が合わず、代わりにミツキとゴウを呼ぶことになったのだ。

「シュウはともかく、ミツキちゃんやゴウ君は、野球に興味あったっけ」

 タケオが聞くと、ミツキは少し、と答え、ゴウは興味はあるが最近はあまり見ていないと答えた。タケオは強引に誘って申し訳なかったかなあと呟く。

「でも、野球の楽しさはオレが常に伝えてるしな!」

「それはシュウの自己満足だろ?」

「あ、言ったな! ゴウだって結構食いついてくるじゃん」

「それは……二人共何もシュウの話に答えないようじゃかわいそうだと思って」

 そう言って、シュウとゴウはミツキを挟んで野球観戦を前に口論を始める。その光景を、ミツキとタケオは苦笑いしていた。

「それよりも、このバッジ可愛いですね」

「ああ、これはここの主力選手が好きだって公言したゲームとのコラボなんだってさ。俺は知らないんだけどそっちの女の子可愛いな」

「ですよね! 名前わかんないんですけど……眼帯してる女の子って珍しいですよね」

 二人が争っている中、ミツキとタケオは観戦者全員が貰えるピンバッジのことについて話し始める。その話をそれぞれ隣で聞くシュウとゴウが、揃って言った。

「そいつは男だ!」

そうこうしているうちに、グラウンドに現れる選手の群れ。横断幕が掲げられ、好きな選手の名前が叫ばれる。あの少年が好きなキャッチャーは今日も試合に出場するようだ。打率はリーグトップで、初めての首位打者のタイトルを目指している。あの少年が生きているとすれば、この活躍をさぞかし喜んでいるに違いない。

試合も間もなく始まりそうなところで、シュウはトイレを忘れていたことに気付く。

「あ、トイレ行ってくる」

 シュウは慌てて、席を立つ。観戦中にトイレが行きたくなったら嫌だからだ。

 シュウは通路に出て、球場の内部へシュウは戻ろうとする。

「お父さん、野球なんて久しぶりだね!」

 シュウの隣を、一組の家族が通り過ぎる。

 シュウは足を止めた。この声を、知っている。座席の方へ向かう時に、少年の横顔が見えた。焦げ茶色の、肌。

「まさか、な」

 シュウはそんなことよりと、急いでトイレへ向かう。



 ***



「任務完了しました」

 真っ白な、澱みのない部屋に、シュウに力を与えた女が、姿を現す。

「ご苦労だった。報酬は何にする」

 知性的な男の声が降りかかる。それに対し、女は答えた。

「いつものことです。私は、何も要りません」

「……君はいつだってそうだ。願えば君だって、生き返ることが出来るというのに」

 女は首を振る。

「いいです、私は。まあ、気が向けば」

 男は「わかった」と言った。女はその場所を後にする。



「流石、お前の息子だな。真っ直ぐで、僕たちが惑わされるくらいだ」

 一人残された男が呟く。誰もいなくなった部屋に、その姿を現す。一般的なサラリーマンのスーツ姿ではあるが、重要な職務を任されていそうな雰囲気が、綺麗に伸びる背筋から溢れる。

「不思議な夢を見させてくれてありがとう。君は、きっと夢を叶えられる」

 人間と同じ、肌色の掌にどこからともなく現れる紙。びっしりと文字が埋まったそれの一番下に、ポッカリ空いた空白。

 男は胸ポケットから万年筆を取り出すと、その空欄に、さらさらと文字を書き足した。

「光野集、彼には夢を叶える価値のある人間であると判断する」

 パッと、紙は消える。男は瞼を閉じた。

「次は、誰にしようか。誰の夢を、覗いてみようかな」



「やっべ、試合始まる!」

 トイレから慌てて、シュウは飛び出す。思ったよりも列が長く、時間を費やしてしまった。

 売店から漂う香りに気を惹かれそうになりながらも、シュウは元いた席に慌てて向かう。

 レプリカのユニフォームや背番号入りのTシャツを着た人の群れに、一人、仕事帰り姿にしては野球観戦に来手いる印象を受けない女の姿が見える。

 シュウは視界に入った女の姿に、思わず足を止める。

 女はシュウの方をじっと見つめてくる。シュウは首を傾げる。

「どっかで、会ったこと……あったっけ」

 シュウには覚えがなかった。だが、初めて会った気はしなかった。

 外の歓声に、シュウは我に返る。

「わ、始まった!」

 女の隣を、シュウは駆け抜ける。何も、繋がりがなかったのだと、証明された瞬間。隣を駈けて行く少年を見て、女は笑う。

「ありがとう、私のヒーロー」

 ふっと消える姿。それは、まるで夢の様だった。



***



「出たな! 怪人め! 悪さをするのはやめろ!」

「誰だ小僧……この星は人間のせいで崩壊寸前なのだ……貴様みたいな小僧に何がわかる!」

「わかんねえよ! でも、オレは人を傷付けるお前らが許せねえ! だから戦う!」

「戦う……貴様のような人間風情が……」

「オレを舐めたらケガするぞ! って、ケガじゃ済まねえけどな!」

「……ん、その腕輪は、まさか!」

「行くぞ怪人! お前なんかぶっ倒してやる! アブソリュートギア、起動! レッドソウル、インサート!」

「まさか、お前は、エクステンドレッドか!」

「ああ、そうさ! 熱き太陽の心を胸に、エクステンドレッド、ここに参上! みんなの平和を邪魔する奴は、オレが全部叩きのめしてやるぜ!」



 夕方六時二十分頃の、光野家の光景。

 大体その時間帯はリビングのおっきなテレビを、シュウが占拠しているわけで。

「いけ! そこ! おい何で隙を作るんだよ!」

 歯を噛みしめるシュウ。ちなみにエクステンドレッドに扮する方のシュウは現在十二歳だ。

 お決まりの劣勢展開からお決まりの逆転勝ち。大きなお姉さま方が戦闘シーンに何かを見出している頃、シュウは片手を上げてまるで自分が怪物に勝ったかのようなガッツポーズを見せる。

「やられた……ぐぬう」

「へへっ! 今日も晴天級に熱い戦いだったぜ!」

 怪物が大げさに爆発して消え、シュウが決め台詞にしてはなんともしっくりこない言葉を叫ぶ。テレビの前に居るシュウも、それに同調して拳を掲げている。

 ピンポーン。インターホンが鳴る。今日は誰も家に居ないため、シュウが出なければならない。ブルーレイレコーダーが仕事をしているのを確認すると、シュウは渋々インターホンに出る。

「光野ですけど」

「回覧板です」

 シュウは急いで玄関へ向かう。ドアを開けた先に、待っている人物の顔も知らずに。

「今日もご苦労様。シュウちゃんにはご褒美してあげなくちゃね」

 テレビに映る、妖艶な女性の姿。

「また会ったわね、集」

 まるで同じ姿が、玄関の向こうで、待っていた。

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エクステンドドリーマー 神宮司亮介 @zweihander30

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