第13話


「まったくジェーンたら、そういうお話があるんだったら、早めに言ってもらわないと。私たちにも準備ってものがあるんだから」

 白パンをちぎって、ジェーンの母は言った。レモンのジャムをたっぷりすくうと、それに乗せ、口を塞ぐように放り込んだ。自家製レモンジャムは、オズウォルト一家の大好物だ。食卓から切らしたことは一度たりとてない。一口二口噛んで、ジェーンの母は今度のは少し水っぽいわねと評した。そんな母に、

「私だって知らなかったんだ!」

とジェーンは声を荒げて返した。両親は顔を見合わせる。ジェーンはひたすらオムレツを口に運んだ。何だか久しぶりに食事をしているようだ。王宮では、豪勢な食事が並べられていたが、全く味もメニューも覚えていない。

「何はともあれ気をつけなさい、ジェーン」

オズウォルト卿が口を開く。

「今までのようにはいかないよ。先王は暗殺されたと言われ続けているし、陛下自身もその二の舞になるんじゃないかという噂が、この田舎にも届いている。そうしたらお前の命だって危うい。私たちだって、そんな危険なところにお前を送りたくないが……」

 ジェーンは卵を飲み込んだ。

「私は王妃にはなりません!」

 オズウォルト卿は溜息をついた。

「やれやれ、陛下もどうしてこの子を選んだものやら……」

 言って、濃いブドウジュースを飲み干す。口ひげについた紫を、丁寧に拭いた。

「私だって聞きたい」

 ジェーンは母と同じように、白パンをちぎってジャムをつけると、口に放り込んだ。そして、確かにちょっと水っぽい、とこぼした。

「ジェーン」

 呼ばれてジェーンはパンを置く。見ると、オズウォルト卿はナイフもフォークも置いてじっとこちらを見ていた。ジェーンは姿勢を正す。

「陛下がおまえをお選びになったということは、おまえを見込んでのことだ。王妃という肩書きに惑わされずに、おまえらしくいなさい。陛下はおそらくそれをお望みだろう」

 ジェーンは皿に目を落とす。みずみずしい苺が盛られている。

「――遠乗りに行ってきます」

 よろめくように立ち上がったジェーンを、両親は心配そうに見送った。



 空が広い。

 ジェーンは大きく息を吐いた。なんと安心する光景だろう。こんなにもぽっかりと、抜けたような空があるのは。都会の空は狭くていけないと、ジェーンは思い出すことさえ忌々しげに呟いた。結局、エリックの許可を得ないまま、勝手に王宮を抜けてきてしまった。もともと荷物は少なかったので、身一つでとんで帰ってきたのだ。ジェーンは顔を手で覆う。耳元で木の枝を風が打つ音が聞こえた。なんと安心するさざめきだろう。幼い頃から、変わらないものがここにある。

 初めてレイチェルに会ったのは、十を越えた年だった。ジェーンは懐かしい音に、幼い頃を思い出す。彼女はいつも、ステュアートの名に群がる取り巻きと一緒で、ジェーンの視界にはなかなか入ってこなかった。

 初めて言葉を交わしたのは、テレサに仕えるようになってから。彼女はジェーンを見ると、驚いたように顔を強ばらせた。突然のことだ。

「何か、私の顔についているか?」

 手の甲で頬をぬぐうと、レイチェルはおずおずと口を開いた。

「あの、あなたは馬に乗るの?」

「ああ、これからトーマスの馬を借りようと思ってたんだけど」

 ちらちらと遠慮がちにジェーンを見るレイチェルに、ジェーンは大いに勘違いをした。

「なんだ、馬に乗りたいのか? それなら一緒に行こう」

 レイチェルがはいともいいえとも言わないうちに、ジェーンは手を取った。レイチェルは少し戸惑っているふうだったが、そのままついてきた。普段うんざりするほどいる取り巻きが、そういえばいなかったなと、気づいたのはだいぶ経ってからだった。それからというもの、レイチェルはジェーンが馬に乗るときには、理由にかかわらずついてきた。そんなことが何度も続いて。そして、よく晴れた初夏の日。熱を帯び始めた風の流れる中、レイチェルとの関係に転機が訪れた。

 練習場で待っていたトーマスは、慣れた馬を連れてきていた。ジェーンは慣れた様子で近づこうとする。その袖を、レイチェルが突然強い力で引いた。足を止めて、ジェーンが振り返る。と同時にトーマスの馬が突如嘶いた。上体をのけぞらせて、何かを振り払うかのように、馬は暴れる。周囲にいたトーマスの従者が、抑えにかかり、ジェーンはレイチェルを庇うようにして素早く遠ざかった。騒ぎが落ち着いてから、ジェーンはレイチェルに改めて礼を言った。

「ありがとう。あそこで止めてもらってなかったら、今頃私は大怪我をしてたかもしれない」

 レイチェルは気恥ずかしそうにほほえんだ。

「よかった」

「レイチェルは私の恩人だ」

 そう言って、ジェーンは騎士が貴婦人の前でするように跪く真似をする。レイチェルは、おおげさよと笑った。でも、とレイチェルは続ける。

「ジェーンが騎士で」

「それじゃ、レイチェルが王妃」

 悪戯っぽく笑って、でも本気のような眼差しで。

それからというもの、ジェーンが冗談めかして騎士のように振る舞うと、レイチェルもそれに応える貴婦人を演じてくれた。正直、それはジェーンにとって心地よかった。そこでは、自分の望みが許されるような気がして。

 その後、いくつか季節が巡って。そのうちにジェーンの中では、それが当たり前のようになっていた。騎士と貴婦人。レイチェルとだったら、なれる気がした。化かし合いが日常茶飯事の王宮内で、心をさらけ出せる相手の、なんと少ないことか。いつしか、お互いがなくてはならない存在になっていた。

そして、それが決定的になったのは、あの噂が立つ原因となった事件。

その日、朝からレイチェルはどこかそわそわしていた。どうかしたのか、と問うジェーンに、レイチェルはしばらく悩んでいたようだったが、意を決して口を開いた。

「力を、貸してくれない? テレサ様に危険が及ぶかもしれないの」

 何をいきなり、と思いつつも、ジェーンは先を促す。するとレイチェルは、そのうち薔薇園を散策するかもしれない。もしそうなったら、テレサ様が蛇に襲われる可能性があると言いだした。

「どうしてそんなことが言えるんだ」

 ジェーンの問いに、レイチェルはまたも逡巡して、それからようやく答えた。

「あのね、私、時々白昼夢のようなものを見るの。そして、その光景が実際に未来に起こることがあるの。確実じゃないわ。何でもないことならいい。でも、もし本当にテレサ様が襲われるようなことがあったら……」

 ジェーンは黙って聞いていた。レイチェルは嘘をつくような人間ではない。それはジェーンもよく知っている。しかし、話は突飛すぎる。さすがのジェーンも、妄信的には信じがたい。それでも、真剣に訴えるレイチェルの姿に、グレイ夫人に掛け合ってみよう、と肩を叩いた。

そして、実際にテレサを筆頭に、テレサに仕える少女たちで薔薇園を散策する予定があるという情報を掴むと、二人で注進しに行った。レイチェルが蛇のような姿を見た、と。しかしそれは、聞き入れられず、結果テレサの前に蛇が姿を現した。大事には至らなかったものの、その一部始終を見ていた者から情報が漏れたらしく、翌日には噂が駆け巡っていた。レイチェルは妖精が見える、その力を使って、テレサの災難を的中させたのだと。

 異質なものを、人は容赦なく排除する。それが良いものであったとしても。

 噂の影響で、それまでレイチェルを取り巻いていた少女たちの輪が、ひとつまたひとつと減っていく。ステュアート候の圧力で、すぐに噂はでたらめだとされ、なくなった。少なくとも表面上は以前と変わらずに歯車が動いているように見える。レイチェルが王妃候補の筆頭であるということも。しかしそれを目の当たりにしたレイチェルは大いに傷ついた。けれど、彼女は恨み言ひとつ言わず、静かにそれを受け止めた。そしてそれが務めだと微笑んだ。ジェーンは感心した。自分だったら、そんな風に笑うことなど、できそうにないから。

 そんな中、レイチェルはある日唐突に言った。

「ありがとうジェーン、私の側にいてくれて。でも、義理立てしなくてもいいんだよ」

「違う。私は私の意志でいるんだ。レイチェルが実際に妖精が見えるかどうかじゃなく、私はレイチェル自身が好きだからここにいる。――だめか?」

 レイチェルはすぐさま頭を振る。

「ねえ、もし、もしよ。私が王妃になっても、またこうして会ってくれる? 私だけの騎士になってくれる?」

「レイチェルだけの?」

レイチェルは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。ジェーンははじめ戸惑った。レイチェルのその、意図がわからなくて。いつまでも友達でいて、などという生ぬるい言葉ではなかった。けれどその言葉は、ジェーンが心のどこかで抱えていた凍てつく粒を、溶かした。王妃となっても、望むものを手に入れてもなお、自分は必要とされているのだとわかったから。終わりだと思っていたごっこ遊びを、いつまでかわからないけれど、それでもしばらくは続けることができるとわかったから。ジェーンは深く頷いた。

「約束する。私が、レイチェルを守るよ」

 惑う心で、ジェーンは愛馬を走らせた。スピードを落として、オズウォルト家所有の森に入る。

ここでエリックと出会った。

あの日、あの場所でエリックと言葉を交わさなければ、こんなことにはならなかったのか。ジェーンは暗澹たる思いで馬を進める。あの瞬間まで、確実にエリックはジェーンを妃候補にしていなかった。なのに。

「――っ!」

突然、目の前に影が落ちてきた。ジェーンは驚いて手綱を引く。勢い余って落馬した。全身に衝撃が走り、土の香りがぷんと鼻を覆う。同時に、刃物のぶつかり合う鋭い音が頭上でして、ジェーンは辺りをうかがうように目を開けた。目の前に濃緑の背中がある。ジェーンは跳ね起きた。

「エドガー、なぜ貴様がここに?」

 エリーが、ジェーンを庇うように立っている。その向こうには、顔まですっぽり黒い布で覆い隠した人間が、刃の先をこちらに向けていた。体は細身に見えるが、その力は強く、だんだんとエリーが押されていく。ちらりと、布の奥に瞳が見えた。目が、合う。

「赤い髪……お前が巫女か?」

 その瞳のぎらつきに、声に、ジェーンの背筋に冷たいものが走った。それでも、声を振り絞る。

「巫女とは何だ、呪いの巫女のことか?」

「お前は未来が見えるのか?」

 ジェーンの問いには答えずに、エドガーは問う。みらい、とジェーンは反芻した。

「未来など見える訳がないだろう」

 見えたら、レイチェルを傷つけることなどなかったのに。心の中でそう続ける。エドガーはしばらくジェーンを見つめていたが、突然力を抜いた。エリーが、力の行き場を失いよろめく。エドガーはその肩を受け止めた。

「年長者に随分な言いようだな」

 エリーは、普段の冷静さが想像できないほどの憎しみを込めて、エドガーを睨んでいる。

「当然だ。トレヴィシックの面汚しが!」

 エドガーは一瞬動きを止めるが、そのままナイフを懐に収めた。

「そんなに感情を剥き出しにしてどうする。俺が敵なら、殿下は今頃命を落とすなりさらわれるなりしていたぞ。こんな未熟者、よくつけたものだ」

 そう言って、そっとジェーンを助け起こそうとする。そこに、素早くエリーが割り込んだ。ジェーンはゆっくりと立ち上がる。エドガーから注意をそらさずに、最低限の土を払った。

「トレヴィシック始まって以来と言われた技能を持ちながら、なぜ先王陛下を守れなかった? それともやはり、敵と通じていたのか?」

 エリーは、ジェーンを気にしながらも問うた。

「それは違う」

 エドガーはゆっくりとかぶりを振る。

「私の忠誠は、ヘンリー六世陛下お一人のもの。昔も、そして今も。エリー、呪いの巫女は近くにいる。何時も気を緩めるな」

「呪いの巫女が? どういうことだ」

 エリーの問いに、エドガーは答えない。ジェーンを一瞥すると、煙をかき消すように、さっと姿を消した。

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