111~120

111

 ふと気づくと、私は小舟の上にいた。頭上は闇に沈み、船底ふなぞこの下に満ちる透明な水は淡い青の光を放っている。

 ここは、と呟くと、船首でかいを繰る人影が「地底湖。私は渡しもりです」と答える。聞き覚えがある声にはたと理解した。

 昔亡くなった妻のすみれ。ずっと待っていてくれたのか。共に向こうに行くために。

―地底湖の渡し守



112

 荒廃した世界で、兵器として生み出された僕に、君だけが優しくしてくれた。

 怖がりもせず隣に座り、笑う君が差し伸べた手を、壊してしまいそうで握れなくて。君は寂しげで、初めて何かを失いたくないと思った。

 戸惑いながら僕は夜毎よごと天へ問う。機械の君に教わったこの感情が、愛というやつなんだろうか。

―愛とヒトとアンドロイド



113

 引越しの際に紛失したけれど、僕は以前未来から漂着したボトルメールを拾った。

 そう言うと書き物中の婚約者は鼻で笑う。信じてもらえないだろう、でも手紙にあった名前と君は同姓同名なんだ、だから……。


「手紙ってこれ?」


 君は見覚えのある便箋を掲げ、悪戯っぽく笑う。作戦成功、とでも言うように。

―未来からの漂着物



114

 僕の父はよく寝言を言う。むにゃむにゃ、みたいな曖昧なものではなく、明瞭に聞き取れる大きな声で。

 僕が微睡まどろんでいると、今日も二階の寝室から寝言が響いてきた。襖の隙間から、隣室の父の背中が見えるのに。じゃあ、あの声は一体誰のもの?

 殆ど叫ぶように声は繰り返している。「誰だ」「誰だ」と。

―「誰だ」



115

 鏡は割ると決めたの。そう、鏡ってあなたのこと。

 私の髪、私の服装、私の顔。もう、綺麗かどうかをあなたに尋ねずにいられない私じゃない。この世で一番綺麗かどうかを決めるのは、自分でいいってようやく気づいたから。

 可笑おかしいね? 今さら私のこと、愛してたみたいに泣くなんて。鏡よ鏡、さようなら。

―鏡は割ると決めた



116

 帰郷は十年ぶりだった。橋から川面を見下ろすと、苦いものがせり上がってくる。

 俺が引っ越す前日に、遊びで川に投げ捨てた鍵。必死に川底をさらう鍵っ子の同級生。夕飯時に遠く聞いた緊急放流の放送。

 きっと何も関係ない。彼の消息を、俺は何も知らない。今、川で光ったものも、関係あるはずがないのだ。

―鍵の行方を知らない



117

 秘密を抱えた奴が手助けなんかするものではない。

 家を尋ねてきた美人を前に俺は震え上がっている。彼女は昨日俺が手当てした、道端でうずくまっていた猫に違いないのだ。一番の問題は、俺が長年都会で生きて力を得た化け鼠だってこと。

 化け猫と化け鼠。バレたら即、死だ。その日から奇天烈な同居が始まった。

―都会の化け猫と化け鼠



118

 上方から廃校の屋上を見ていると、硬い表情の女の子がやって来た。へりに近づくその子の耳元で囁く。


「やめときなよ、死ぬまですごく苦しむよ。私もそうだった」


 彼女は色を失って走り去る。これは完全なる私のエゴ。でもここに辿り着く気力がある子には生き延びてほしいと思う。たとえ数日間であっても。

―生き延びて



119

 氷ほどに冷たい瞳に恋をした。

 僕に向けた目は獲物を狙うそれで、北極の氷山くらい凍てついていた。彼女のそばにいるためなら何でもやる。決心してからあらゆる手を尽くした。

 そうして僕は念願叶い、このえんの白熊の飼育係をやっている。彼女になら肉として身を捧げてもいい――なんて気持ちは勿論、内緒だ。

―氷の君



120

 人間の頭を割ったらこんな感触なのかしら。

 硬い南瓜かぼちゃに苦労して刃を入れる時、毎回ちらりと想像する。南瓜は頭部、大根は腕、牛蒡は指。

 今日も何も言わない夫と二人きり、テレビばかり陽気な食卓の時間は過ぎる。自らの体を黙々と平らげる夫は滑稽だ。そんな暗い幻想だけが、私をここに繋ぎ止めている。

―人間の頭を割ったら

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