71~80

71

 獺ケ淵うそがふちには魔が棲むという。愛する者に象って現れ、幽界に誘うのだと。

 その頃私達は子を亡くしたばかりで憔悴しきっていた。

「淵へ行き、みのるに会いとう存じます」

「ならぬ。姿は稔だとて、正体は魔だ」

「私が稔と信じるならば何の障りがありましょう」

 私は未だに、妻に返すべきだった言葉を考えている。

―獺ケ淵の魔



72

 永遠の憎悪の象徴であるあなた。

 自分の人生のすべてを懸けて、あなたを憎しみ抜いたことを、私は微塵も後悔してはいません。ただ、浄化の炎に包まれ、まっさらで重みもなくかさかさした、取るに足らない存在に還りゆくあなたを想うと、今は少しだけ哀しくもあるのです。

 永遠の憎悪の象徴であるあなた。

―炎



73

 嫌なことを頭の中の抽斗ひきだしに入れて、想像の鍵をかけて忘れるようにしてたら、ごみとか服の汚れも消せるようになってた。

 あの夜、私を嫌ってるママや学校の先生や同級生もみんな消えちゃえばいいと思いながら眠ったの。起きたら何も見えなくて、体も動かせないから分かったんだ。

 私が鍵をかけられたんだって。

―鍵をかけられたのは



74

 私は別離わかれを乗せて行く。

 海へ行く人とおかに残る人、互いを辛うじて繋ぐ色とりどりの紙テープが切れれば、この先には海水を満たした茫洋たる溟渤めいぼつが広がっているだけ。そこには道路も線路も、導くものは何もない。

 腹に幾百の人間を抱え、間もなく消える白い航跡を曳きながら、私は果てしもない大海をゆく。

―別離を乗せて



75

 大学時代の先輩は人魚を食べ不老不死になり、今は自らの体を分子的に研究しているらしい。確かに十年ぶりに再会した彼女は驚くほど変わっていない。

 君も私を食って不老不死にならないか、と気軽に提案されて目眩がした。

「人魚にそんな設定ありました?」

「だから実験するのさ」

 僕はごくりと唾を飲む。

―人魚の研究



76

 ずっと陰鬱な歌声が聞こえていた。物心ついた瞬間から。朝も夜も、夢の中でも。

 私は発狂する前に歌の出所を探す放浪の旅に出、その末に魔女をたおしたが、直後にあの旋律が邪悪を祓うためのまじないの歌だと知って地に崩れ伏した。私は呪われた生まれだったのだ。

 この身を護ってくれるものはもう、何もない。

―呪いの歌



77

 舞台の照明とは、かくも眩しく熱いものだったか。

 輪郭も溶かせそうなほど強烈な光線が、仰向けで瞑目する私の眼裏を橙色に染める。観客がざわめき、裏方が駆け出し、出演者が叫ぶ。私に注がれる千対もの目、目、目。

 大丈夫、私は幸せなの。最期の瞬間まで踊り手であった私を、どうか皆、覚えていてね。

―舞台にて



78

 君のために、最後の隠し味をひとかけら。秘密のレシピどおり作ったスープを飼い猫に与えると、俄にむくむくと巨大化する。私の言葉しか聞き入れない、残忍で狂暴な化け猫がにんまりと笑う。

 これから君のもとへ行って、親愛の挨拶をしよう。素敵でしょう? 君が愛した存在に、喉笛をかき切られるなんて。

―君のための猫



79

 バベルの塔、という絵画がある。決して大きくない画面に信じがたいほど大勢の人間が描き込まれているが、もありなん、彼の絵は鑑賞者を気まぐれに絵の中へ取り込んでいるのだ。

 魔の絵画はそこここに存在し、不意にあなたを覗き、見初みそめる。人の子よ、気をつけよ。これは美術館の猫からの忠告である。

―見初められたら



80

 絵画の運搬業務に携わっていると、時々不思議な体験をする。

 異国の地で巨大な絵を見上げつつ、僕はこの作品が初めて国外へ出て来日した日々を回想していた。そこで突然こんにちは、その節はありがとう、と見知らぬ女性に話しかけられ当惑する。

 彼女は眼前の絵の主役そっくりだったと、後から気づいた。

―異国の思い出

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