親も春日井

にぽっくめいきんぐ

親も春日井

 1


「サイコメトリー」とは、物体に残る残留思念を読み取ることを言う。


 流行はやりの人工知能を積んだ、粋でオツなサイコメトリーロボット「ヤナギエダ」。大手電機メーカー製の、人型。


 その前には、将棋盤があった。

 厚みのある「本カヤ」という木材でできた重厚なもので、立派な脚も4本ついていた。


 ヤナギエダは、その将棋盤に左手を触れ、残留思念を読み取り始めた……。


「ううう……」

 ヤナギエダは、うめくような声を発した。間接を内側にして、右手を口に当てる、女性のような仕草。

 しかしその目に、水滴はなかった。


 メーカー発表によると、「涙を流して泣く」という機能は、そのロボットには実装されていない、とのことだ。

 「ちょっと不便な仕様だ」というのが、ユーザーからの評価だったが、サイコメトリー能力さえあれば機能的に十分だと言うユーザーもいた。


 人工知能は、果たして、人なのだろうか? それとも、物なのだろうか?



 2


 パチリ。


 パチリ。


 寝起きの私に打ち付けられる、五角形の木の塊。


 バチリ。


 バチリ。


 その勢いが強くなり、私が憑依したこの体に、冷たい木の塊がギュッと押し付けられる。剝がれないよう、ボンドでくっつけるみたいに。

 私の今の体は、しかし、その脚で移動することはできない。


 ……ふいに。


「どうしてこんなことに! 私は、神に愛されているはずだ!」

 上から男の声がした。春日井かすがい九段くだんの声には、荒々しさがあった。

 暖かい水滴が1つ、私の体にこぼれ落ちる。


「なぜ、私が謹慎処分なんだ! 将棋の神の、試練だとでも言うのか? ううう」

 春日井九段は、私にふっつぶして泣き始めた。

 彼は、流行はやりの「人工知能を使った将棋アプリを、対局の際に使った」という疑いをかけられ、タイトル戦脱落の上、謹慎処分を受けていた。


 九段の怒りが込められた木の塊が、何度も何度も、バチリバチリと私に打ち付けられる。この星の人間の言葉で「駒」と言う、五角形の木の塊が。

 打ち込まれた木の塊には、字が彫ってあった。私は全神経すなわち「2感」を使って、彫られたその刻印から「駒」の種類を把握する。打ち込みの音からすると、高音部分が高く響いたので、これは比較的小さな塊だろう。そして、私に接する、彫られた刻印には、短い棒と、カーブとが刻まれていた。

 聴覚と触覚。私の全感覚である2感は、この塊が「と」であることを告げていた。春日井九段が「」と呼んでいるソレ。


 そして通常、私が憑依している「将棋盤」と呼ばれる物体は、人間が2人、向かい合わせに座って使うモノのはずだった。しかし今、私に向かっているのは、春日井九段1人だけのようだ。私の体の上には、たくさんの「駒」が散らばっていて、いわゆる「棋譜きふ」というのを、きっと1人で並べているのだろう。もしくは、1人感想戦かもしれない。将棋の1戦を再現しながら、現実の展開とは異なる可能性パラレル・ワールドを探る行為。


 九段は落ち込んでいるようだ。私と彼とでは人種が違うので、私に触れた九段の指と私との間での接触通信はできないが、置かれたたくさんの木の塊と、彼の言葉と、音とから、そう感じた。

 落ち込んでもなお「駒」を並べている所が、さすが「プロ」と呼ばれる人種だけはあるな、と、私は思った。


 いま私に触れたばかりの「と」という木の塊は、私の体からあっという間に剝がされ、その場所には、ぐにゃぐにゃとした、文字のようなものが刻まれた別の塊が、斜め後ろから剝がされてすぐバチリと置かれた。

 このぐにゃぐにゃ刻印だけでは種類がわからない。しかし、斜め前に動いたことと、刻印があることから、これは九段が「銀」と呼んでいる木の塊だと思われる。斜め前に動くものとしては、「金」や「王」と呼ばれる木の塊が他にあるけれど、それらからは、刻印を感じ取れないから。


 春日井九段は、時折苦しげなうめきをあげながら、私の上の塊を動かし続けた。

 九段が「扇子」と呼んでいるものをファッと広げたのが、音で分かった。そして、パタパタとした音とともに、風が私に当たる。九段はいら立ちにまかせ、扇子を、かなり大きなモーションで振っているようだ。その風を食らいながら、私は、この星に来た頃のことを思い出していた……。


 ◆


 私は、遠い宇宙の、とある惑星から、「地球」と呼ばれるこの星まで、逃げ延びてきた。地球の時間で、30年ほど前のことだった。


 お決まりのコースで進んだ産業発達と、「上流」「下流」の2極化と、そして戦争とが、私が生まれ育った星の滅亡を引き起こした。

 故郷で私は「上流階級」に辛うじて属していた。オーディオブックという情報媒体を売る商売で一山当てた私は、地球の表現で言うと「成金」と呼ばれていたが、そんな他者評価など正直どうでも良かった。すべすべとした触り心地の良い妻と、私とで、不自由なく暮らしていた。子供を持てなかったのが心残りではあるが。


「物質的な豊かさ」という概念の違いは、この「地球」という星に逃げ延びた後に知った。なにせ我々は、地球の表現を借りて言えば「精神体」。物に憑依して生活を行い、その物に飽きたら、別の物へと憑依し直す「憑依替え」をすることができるのだ。

 そして、「成金」であった当時の私は、たくさんの物と物との間を移動することができた。私たちは万能ではない。り代としている物が「触れた」別の物。それにしか、移動ができない。


 地球では「わらしべ長者」という言葉があるが、それに近い。より便利な物。機能が豊富な物。大きな物へと、依り代をドンドンと変えていくことができた。貧乏人は、そんな上質の「物」に接することがそもそもできないため、依り代のステップアップも難しい。同様の2極化は、この地球では、「かね」というモノを介して起こっているようだが。


 被害者意識。ねたみ。それを抱えた下流民のバカが、いったいどうやったのかは分からないが、軍の施設に忍び込み、核ミサイルに憑依した。結果、戦争が起こった。故郷の星の報道ではそう聞いた。


 ともあれ、裕福だった私に、その情報が伝わるのも速かった。私は飛行機に憑依し、妻を乗せて高速移動。宇宙港に在った宇宙船へと向かった。

 飛行機と宇宙船とのコンタクトには気を使った。衝突して大破してしまっては、元も子もないからだ。

 幸い、他の者に先んじて宇宙船へと憑依することができた私は、ずんぐりむっくりした小型ロボに憑依した嫁と、金ピカノッポの小型ロボに憑依した友人と、刀身がビームでできている剣に憑依した友人の嫁の、計3人を乗せて、故郷の星を飛び立った。

 そしてこの星、惑星「地球」へと逃げ延びた。


 航行途中、私はエンジンが焼き付きそうになった。「熱い熱い」と苦しみながら虚空を進む私を、ずんぐりむっくりした小型ロボ、というか嫁は、うちわで扇いでくれた。春日井九段の扇子のような風が、私を冷やした。

「少し、お休みになったらいかがですか? あなた」

 妻から接触通信でもらった言葉。

 しかし、成金で頑固だった当時の私は、うちわに憑依するのを良しとしなかった。

 一度上げた生活水準を下げるのが難しいことは、故郷の星でも、この地球でも同じようだ。

「宇宙船へと上り詰めた私が、今更うちわなんぞに憑依替えするのか?」

 そう思っていた。まるで自分が王様であるかのような、高慢なふるまいであったことに、30年前の私は気づかなかった。


 あの時、私がうちわに憑依し、嫁や友人たちに、宇宙船を明け渡していれば。

 1人で頑張らず、交代で宇宙を航行していれば。

 そうすれば……宇宙船がオーバーヒートすることもなかったのかもしれない。

 私たちが、この「地球」という星で、生き別れにならなくても、済んだのかもしれない。

 その後悔が今も、ふとした拍子に、ぐっと押し寄せてくる。


 ◆


 私がこの新天地で、散り散りになった嫁や友人夫婦を探し当てるには、地球には物があふれすぎていた。


 ある時、「レーダー」という物に憑依してみたことがある。

 しかし、物は探知できても、その中に嫁や友人夫婦が憑依しているかどうかまではわからず、がっかりして元の物へと「憑依戻り」した。


 日本列島の「本州ほんしゅう」に憑依して、広範囲で探してみたこともあった。

 しかし、私たちが交わす会話は「接触通信」だ。日本大陸に接した、たくさんの物の中から、嫁や友人夫婦が憑依した物を見つけることはできなかった。


 そんなこんなで、いろいろな物へと「憑依替え」を繰り返し、この星の上を転々として30年余り。私はすっかり年を取った。

 地球人は、年を取ると足腰が弱って、歩けなくなるという。

 それと同様、年を取った私は、物から物へと依り代を移動する「憑依替え」が、徐々に難しくなっていった。

 より用途の狭い物、より機能の乏しい物、より小さい物にしか、憑依替えができなくなった。人生の下降線。


 結果、この「日本」と呼ばれる国で、「脚付きの将棋盤」という物に憑依したまま、私は人生を終えようとしていた。

 おそらくもう、妻たちに生きて会うことはできないだろう。

 うまくいかない。自由が利かない。「地に足がついた生活」とは、こういうものなのかもしれない。

 すまなかった。

 妻たちは、まだ生きているだろうか? それすらもわからない。


 ◆


 将棋盤に憑依した私が、春日井九段の家に運ばれてきたのは、5年前のことだった。

 その頃、春日井九段は荒れていた。

 将棋がうまくいかなくて、酒と女に手を出した挙げ句、女房が、息子を連れて出ていったらしい。

 私が憑依した将棋盤を買って、春日井九段の家へと送り届けたのは、その、女房だったらしい。女房の名前が書かれた送り状には、家出先の住所は記載されていなかった。そんなふうなことを、当時の九段はつぶやいていた。


 今の私には推測がつく。多分、九段には、腐らずに将棋と向き合ってほしかったのだと思う。


 しかし、九段が次に家に連れ込んだ若い女は、飯も作らず遊び歩いて、彼は将棋どころではなかった。

 その若い女は、私のことも乱雑に扱った。

「じゃまね、このデカブツ」

 そう言って、部屋の隅っこに蹴っ飛ばされたことも、何度もあった。

 九段は貯金も目減りし、程なくして、若い女は「こんなしみったれた所、つまらないわ」と家を出ていった。


 しばし落ち込んでいた九段は、ブツブツと何かをつぶやきながら、毎日私に木の塊を打ち付けた。

 理由は違えど、私も春日井九段も、お互い、自らの過ちで家族を失った身。

 私は将棋盤に憑依したまま、ただただ、彼がバチリと鳴らす木の塊を受け続けてきた。


 九段と、その息子との接見日。

「うなぎを食べさせる」だとか、「いい服を着せて送り出す」だとか、いろいろドラマが続いて、九段は女房と復縁。結局、元のさやに収まった……らしい。私は将棋盤なので、その現場に居合わせることはなかった。しかし、九段と、その女房と1人息子。3人からこの家で聞いた、これまでの話を総合して推測するに、どうやら、そんな塩梅あんばいだったようだ。


 復縁が成った後、印象的だったのは、春日井九段が日本酒を飲むと、しきりに、「やっぱり、子は、かすがいだったなあ」と繰り返しつぶやいていたこと。いやいや、あなたも春日井でしょうと、私は思っていたが、どうやら古典落語というものの中に、「子はかすがい」という話があるらしい。最近知った。

 かすがいとは、2つの材木をつなぎとめるために打ち込む、コの字型のくぎのこと。なるほど、両者を繫げるのか。うまいこと表現したものだ。そんなものを打ち込まれたら、将棋盤の私はたまったものではないが。


 ◆


 コンコン。


 大きな木の板を叩く音が聞こえた。この音は、かすがいではなく、「握りこぶし」によるものだろう。

「父さん、いるー?」

 板の奥あたりから、少年っぽい声がした。ややくぐもっている。


「……ああ。入りなさい」

 春日井九段はそう言って、わさわさと動き始めたようだ。衣擦れの音がするので、涙を服で拭っているのかもしれない。

 ギィッ、バタンと音がして、とっとっと歩く音が近づいてきた。「と」の駒のように、1歩ずつだ。私が憑依した将棋盤の4つの脚から、床の振動が伝わる。


「なんか、大変だったみたいだね、父さん」

「……お前は、私が反則をしたと思うか? たつみ」

「父さんが、ズルなんてするわけないじゃん。酒とかなら、ともかくさ」

 少年っぽい声の主は、春日井九段の1人息子の、たつみ君だった。13歳の中学1年生。


「……たつみ、ちょっと、相手してもらえるか? 向かいに座ってくれ」

「え? 僕、将棋できないよ? 知ってるでしょ?」

 春日井九段は、息子に将棋を教えていなかった。「好きなことをやらせてあげたい」という親心なんだろうか? 昔、いろいろあったから……だろうか? 子を持ったことがない私には、皆目見当がつかない。


「知ってるさ。ルールは教えるし、飛車、角、香車と桂馬の、6枚落ちでいいから」

「ハンデってことね? でも面倒だなぁ……」

「父さんに勝てたら、ゲーム買ってやるから、な?」

「ホント? ならやる!」

 バタバタと足を動かして、たつみ君は春日井九段の向かい側に座った。私を中心に挟んで。


 たくさんの木の塊を私の上に並べ、「対局」という戦いが始まった。


 ――


 パチン。


 ……パチ……ン。


 パチン。


 …………パチ……ン。


 よどみのない春日井九段の打ち筋に対して、たつみ君が木の塊をぶつけるのは辿々たどたどしく、時間もかかっていた。

「あ、歩がそこまで来たら、成った方がいいぞ? たつみ」

「え?」

「相手陣地の3マス分の領域まで駒が進んだら、『成り』と言って、駒を裏返す。成ると、金と同じ動きができるようになって、ええと……パワーアップするんだ」


 成金。私が故郷の星で成ったのは、まさにそれだった。裕福になるつれて、よりたくさんの物へと触れることができるようになり、憑依替えもしやすくなった。

 ――その末路は、この「将棋盤」という姿ではあるが。


 パチン。


 ……パチ……ン。


「あ、桂馬は、枠の外にはみ出してはいかん」

「次に戻ってくるから、良くない?」

 うにゃうにゃとした刻印が刻まれた木の塊のうち、宙に浮くかのように移動するものがあるけれど、それことだろう。


「この、9×9の枠から、出てはいかんのだ」

窮屈きゅうくつー!」

 春日井九段が言うのが、将棋という世界のルールなのだろう。しかし、たつみ君からは、「世界の外を見る」事と、「視野の広さ」とを、私は感じた。そのとおりだ。世界には「外」があるんだ。この地球という星自体が、私からすれば「外の世界」だったように。しかも、たつみ君自身、一度この家を出て、戻ってきているのだ。


 パチン。


 ……パチ……ン。


「あー、それだと、千日手せんにちてになるな、たつみ」

「千日手?」

「千日打っても先に進まないような、互いに同じ手を何度も繰り返すことだよ。4回繰り返すと、勝負がなかったことになる」

 憑依替えを4回繰り返せば、故郷の星に戻れるだろうか? 妻たちと一緒に。

 しかし、私にはもう、憑依替えをする力が残されていない。


 そうこうしているうちに、たつみ君は、どこからか来たのかわからないが、別の小さな木の塊を私の上に置いた。これは判別できる。「と」と刻印されている。しかし、たしかこの列には……

「あー、同じ列に、歩を2つ置いちゃ駄目だ。2歩といって、負けになる」

「なんでー?」

 たつみ君は「2と」の反則をした。どうやら歩は「歩兵」という兵隊を表現しているらしいので、それなら列に並べて兵力運用するのもアリだと私は思うのだが、この「将棋」という世界では、それは禁止されているようだった。


「歩が、『と金』に成っていれば、次の歩を置いてもいいが」

「そうなんだ! へへっ」

 ずずっと鼻を鳴らしたたつみ君は、軽快に、次の木の塊を、私に打ち付けた。線の多い刻印。これは……

「たつみ? はじめから「と金」として打つのは駄目なんだよ」

「もう、ルールが細かいなぁ!」

 そう言ってたつみ君は、刻印がされていない、ツルツル感触の木の塊を私から剝がし、少し前に移動させて置くと、くるりとそれをひっくり返した。

「金が成ったら、どんなパワーアップするの? 父さん」

 私の体に、今まで感じたことのない刻印があてがわれた。これは……


「金は成れないんだよ」

「えー、なんで?」

「そういう決まりなんだ。金も成金も、ずっと金のままなんだ。相手に取られるまで」

 金はどこまで言っても金。その先はない。

 成金も、元には戻れない。

 30年前、宇宙船に憑依して高慢になっていた私は、あの時、誰かに取られればよかったのか。そうすれば、生まれた頃の、みすぼらしい私に戻ることができたはず。妻と生き別れになることも、なかったはず……。


「もう……これだから将棋は嫌なんだよなー。ルールがガッチガチでさぁ」

 もっと斬新な手筋が、世界の外にはあるはずなのに。将棋盤自体を前後ひっくり返すだとか、「ミサイル」などの、オリジナルの木の塊を新たに作って投入するとか。でも、決められたルールを守らないといけない。それは、自由な発想を持つたつみ君にとっては、窮屈でしょうがないらしかった。

 たつみ君は、はぁーっと面倒そうなため息をついて、私の上の、のっぺらぼうの木の塊を摑んた。冷えた小さな指が私に触れる。他の塊によって守られていたらしい、一番大きな、五角形の塊。たつみ君はそれを、ペラリと裏返した。


 パチン!


 私に触れた刻印。横の3本線に、中央の縦線1つ。他の塊よりも、刻印がシンプルだった。


 ――


 ――


「こら、たつみ。それも駄目。裏返っちゃ」

「えー? 『たま』もダメなの?」

「たまじゃない。ぎょくだ。玉将ぎょくしょうって言うんだ」


 この、「王」という刻印の左下にある、点のような溝……


『……あなた! あなたなの!?』

『お、お、おまえ! 本当に、おまえなのか!?』


 まさか、妻がこんな所にいたとは。王に寄り添う「点」に、憑依していたのか。これはまた、便利だが、小さな物に。


『あなた……あなた……うれしい……』

『わ、私もだよ。よくぞ、よくぞ生きてくれていた……』


 もし私に涙腺があったなら、きっと「大粒の涙」というのものを流していただろう。

 もし私がアメリカ大陸に憑依していたなら、大地を震わして、地震による被害を米国民などに与えていただろう。


 今の私は、脚が4つ付いた、ただの将棋盤だった。打ち付けられた木の塊と、その表面に刻まれた「玉」の刻印と、その中の「点」に憑依した妻と一緒に、パチリと枯れた音を立てるしか能のない、将棋盤。年老いた私が最後に憑依した、ただの将棋盤。

 その音は、春日井九段とたつみ君には、賑やかしにもならないだろう。木と木がぶつかる音にすぎないから。


 遠くで、プルルル、プルルルと音が鳴った。「いえでん」という物らしい。


 しばらくして、パタパタとした音がせわしなく響いて、ガチャリという勢いのある音が続いた。おそらく、一度は家出した、春日井九段の女房の、八重子やえこさんだ。

「あなた! あなた! 今、将棋連盟から電話があって……! 不正はなかったことが確認できたから、タイトル戦に復帰しても良いって!」

「本当か八重子! では、謹慎は!?」

「謹慎は解除だそうよ! 良かったわね!」

「おおお! 父さん、おめでとう!」

「ありがとう! お前たち!」

 春日井親子の大騒ぎで、辺りは賑やかになった。


 5年前、失意の春日井九段に将棋盤……というか私を送ろうと言い出したのは、八重子さんではなくてたつみ君だったことが、にぎわいの中で、しれっと発覚したりもしていた。つまり、九段を将棋につなぎ留めることにも、たつみ君は貢献していたわけだ。


 そんなうれしい騒がしさの中、私と妻は、きつく抱擁をかわし続けていた。

 将棋盤の私と、玉将の「点」の妻とで。


 ◆


 その後、将棋連盟という所からやって来たらしい人が、しきりに謝罪の言葉を述べて、帰っていった。


「八重子、祝杯にしようか。日本酒をたのむ」

「いいですよ。でも、飲みすぎないでくださいね?」

「わかってるさ。ちゃんと昔で懲りてるから」


 そして始まる「酒盛さかもり」という儀式。


 私と、私の妻は、接触したまま、これまでこの星で経験した、たくさんのことを話しあった。

『あの時は、すまなかったな』

『いいんですよ。こうしてまた、一緒になることができたんですから。あなた』


 ――


「ねぇ、僕も、お酒、飲んでみたいんだけどー?」

 たつみ君はそう言って、床にゴロンと寝っ転がったようだ。音と、床から伝わる振動でそこまではわかったが、仰向あおむけなのか、うつ伏せなのかはわからない。


 子はかすがい。いい言葉だと私は思う。


 たつみ君がいなければ、かつての春日井九段は、将棋を諦めていたかもしれない。女房の八重子さんは戻ってこなかったかもしれない。

 そして、故郷から遠く離れたこの星で、生き別れていた私と妻とを、たつみ君は、再び巡り合わせてくれた。


 たつみ君は、春日井夫妻にとっても、私たち夫婦にとっても、春日井……いや、かすがいだったのだ。

 そんなたつみ君に、祝い酒をごちそうしてやりたい。でも、将棋盤と、王将の「点」とである私たち夫婦には、それはできない相談だった。


「たつみは、まだ13だろう?」

「そうよ? お酒は、ちゃんと大人になってからね」

 春日井夫妻は、そう言って笑っていた。


 九段が将棋を諦めていたら。

 女房の八重子さんが家を出なかったら。

 息子のたつみ君が玉将をひっくり返さなかったら。

 私が妻とこの星で再び会うことは、かなわなかったかもしれない。

 つまり、春日井さん家族そのものが、全体として1つのかすがいだったのだ。私たちにとっての。

 それが私の「感想戦」。


 感想戦の最中さなか、たつみ君が言った。

「ねぇ、これでもダメー? よいしょっと」

 寝っ転がっていたたつみ君が、ゴロンと再び身動きする振動が、床から私の脚へと伝わる。


 春日井九段が、笑いながら、彼の息子をたしなめた。

「おいたつみ、裏返っても、大人には成れないぞ?」


<了>

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