【12月27日】世界のへそ、古都クスコ(2)

 次なる観光の目的地は、大聖堂だ。アルマス広場をへいげいして建つ、クスコ最大の教会である。


 大聖堂は1550年に建造が始まり、100年の歳月をかけてようやく完成した。多大な時間が費やされた要因は、非常に緻密な彫刻で飾られているためでもあり、材料である金銀財宝が不足した時期があったためでもある。


 建築様式は、おおよそバロック風。ただし、何世代もの芸術家の手を経ているため、いろいろな様式が混ざっており、ほかでは見られない独特の風合いをかもし出している。


 誰の手による絵なのか、彫刻なのか、名が伝わらない作品も多い。ヨーロッパから渡ってきた無名の芸術家が描いたのか、美術の才能を見出されてヨーロッパで修業を積んだ混血児が作ったのか。


 ペルーを支配したスペイン人は、本国に帰るつもりはなかった。ここは金銀財宝が満ち溢れ、奴隷も自由に使える天国のような場所だ。本国に戻れば、ペルーで得た財産をスペイン国王に返納しなければならない。彼らはそれに耐えられなかった。


 スペイン人は支配の証として、奪った財宝を全部、大聖堂を建造するためにつぎ込んだ。征服されたアンデスの民は、キリスト教の信仰を強いられ、毎週日曜に大聖堂に召集され、スペイン語とケチュア語によるミサを聞くこととなった。


 インカ帝国時代、その領内に住まう人口は1000万人を超えていたと推定される。スペイン人による侵略をこうむって以来、アンデスの民は鉱山労働などで搾取され、一説によれば200万人程度にまで激減したという。


 スペイン人による南米支配の在り方が理解できない。征服した国を富ませるのでなければ、支配者として無能である。いずれ爆発するであろう民のえんと、いずれ枯渇するであろう資源を抱えて、何が先進国から訪れた統治者だ。豪奢に光り輝く大聖堂に、怒りを覚える。


 もしかしたら、マリソルさんはもっと多くのことを語りたかったのではないかと思う。観光ガイドとして、すっきりとした言葉で必要十分な説明をしながら、時に、やるせない感情がにじむのがわかった。


 マリソルさんはメスティーソだ。混血である。アンデスの民の血を引き、征服され搾取された祖先の悲しみを受け継ぎながら、一方で、どこかに支配者の血も流れているかもしれない。


 侵略された歴史を、クスコは忘れていない。500年の時を経た史跡が、まちなかに建つオブジェが、それを物語っている。クスコの人々のアイデンティティがそこにあると感じた。怒りと悲しみが、ひょっとしたら憎しみが、古都の街並みに潜んでいる。


 その凄惨な想いを、私は美しいと感じた。歴史学者崩れの残酷な美意識だ。風化させることも忘れ去ることもなく歴史を今に伝えるクスコの町やマリソルさんの仕事ぶりは、ただ、ただ美しい。


 大聖堂はペルーの持ち物ではないという。植民地時代のまま、現在もローマ教皇の管轄下にある。平日の大聖堂が観光地として公開されているのは、お金儲けの得意なローマのやり方なのだと、マリソルさんは冗談めかした。


 日曜日だけ、大聖堂はクスコ市民のために開放され、ケチュア語によるミサも行われる。教会内にはたくさんの聖人像が飾られているが、とりわけ恋愛成就にご利益のある聖バレンティーノは大人気で、彼の像の前は手紙やお供え物で溢れ返るらしい。


「ペルーのカトリックは、ヨーロッパのものとは少し違うところがあります。例えば、クスコでは、地震の神である『黒いキリスト』が信仰されています」


 マリソルさんは、1枚の絵の前でそう紹介した。1650年にクスコを大地震が襲った、その当時を描いた絵だ。大きな余震が続く中、教会の聖職者たちは大聖堂の聖人像をアルマス広場に出し、大地が鎮まることを祈った。しかし、地震は収まらない。


 あらゆる聖人像が担ぎ出され、最後に残ったのが「黒いキリスト」と呼ばれる像だった。ポーズとしては一般的な、十字架にかけられたキリスト像だが、肌の色が黒いのである。絵の中の彼は、アンデスの民よりも黒い肌をしている。


 異端視される「黒いキリスト」がアルマス広場に出されると、不思議なことに、地震がぴたりと落ち着いた。以来、クスコの人々は「黒いキリスト」を地震の神として崇めている。


 絵ではなく実物の「黒いキリスト」像も見学することができた。絵で見た以上に黒い肌をしているのは、人々の信仰を集め、ろうそくが絶やされなかったためだという。ろうそくのすすによって、肌が黒く染まってしまったのだ。


 ペルーは地震の多い国だ。インカ帝国は石造りの都市設計をし、山肌に段々畑を築いたが、これらは優れた耐震技術の産物だった。


 植民地時代、インカの石造りの基礎は大地震でもびくともせず、その上に建つスペイン風の建物だけが崩れる出来事が幾度もあったという。段々畑もまた、地震による山崩れを防ぐ役割を果たしてきた。


 標高3400メートルのクスコは、より高い山々に見下ろされる形で建っている。山肌には住宅地とともに、段々畑が確認できた。


 本日の観光予定地は、あと3ヶ所。すべてインカ帝国時代の遺跡だ。いずれもクスコより高い場所にあると聞かされ、高山病に苦しみ出した人々が顔を引きつらせた。


 クスコとは、ケチュア語で「へそ」を意味する。インカ帝国時代、クスコは帝国のへそ、世界のへそであった。また、大地に横たわる聖獣ピューマのへそでもあった。クスコはピューマの形をしており、中心部のコリカンチャ神殿がそのへそに当たるのだ。


 ピューマの頭は、サクサイワマンと呼ばれる要塞跡だ。その名は「縞や斑のある頭」という意味だと推定されている。サクサイワマンは山頂に横たわる広場だが、天然のものではなく、尖った岩山の頂を切り崩して平らにしたという。


 インカ帝国時代、広場では、軍事訓練や太陽の祭りが行われていた。広場を見下ろす3段の石組みは圧倒的な迫力だ。1日3万人の労働力をもってしても、完成までに50年とか80年の歳月が必要だったと推定されている。


 サクサイワマンの石組みにも見られる「3」という数字は、インカ帝国にとって意味が深い。ペルーでは、3つの世相と3つの世界がひとつの絶対的な価値観を持つためだ。


 3つの世相とは過去・現在・未来であり、3つの世界とは地下・地上・天上を指す。また、3つの世相と世界には、それぞれ対応する聖獣がいる。過去を象徴し、地下世界の遣いである蛇、現在と地上を司るピューマ、未来と天上のコンドルだ。


 サクサイワマン遺跡には、かつて日時計などの太陽崇拝の設備が存在した。しかし、インカ帝国がスペイン人の手に落ちて後、そうした文化や宗教に関するものはすべて破壊を被った。クスコ周辺のすべての遺跡において同様である。


 要塞だったサクサイワマン遺跡を離れ、秘密の医療施設だったケンコー遺跡を訪れると、ここにも3のモチーフがあちこちに見られた。


 ケンコーとは「ジグザグ」という意味らしい。その名のとおり、巨岩を削った洞窟は入り組んでいるが、かつてはその内部に銀の鏡が張り巡らされ、奥まで光が入る仕組みだったという。


 医療施設だったと前述したが、祭祀場であったとも言えるし、人体実験所であったとも言える。生贄を殺すための石の祭壇には、例によって3つの段が刻まれていた。岩の壁には、頭蓋骨やミイラを飾るための棚があった。


 ケンコー遺跡で発掘された頭蓋骨には、脳手術の痕跡が見られたそうだ。頭蓋骨を変形させたり、頭を開いて脳の血管を結んだりする医療技術は、ナスカ文化と同じくらい古いパラカス文化で発展した。パラカスと言えば、魚料理がおいしかった港町ピスコのすぐそばだ。


 周辺には薬草が植えられていた。そこに咲いた白い花を摘みながら、マリソルさんは幼いころの思い出を語ってくれた。その花をオイルに漬け、自分だけの香水を作って遊んでいたという。白い花は、タンポポに似た匂いがした。丘の野原の匂いだ。


 ケンコー遺跡を後にして、今日の日程で最も標高の高いタンボマチャイ遺跡へ。すでに夕刻で、日は落ち、気温がずいぶん下がっている。高山病で気分の悪い人が大半で、バスに残って休むもよし、降りて遺跡散策をするもよし、ということになった。


 私は元気だった。いや、ハーフマラソン完走後のような具合の悪さはあるが、見事な石組みの遺跡が目に入った途端、体が動くようになるのだ。歴史マニア、ここに極まれり。タンボマチャイ遺跡でも、1人だけ突っ走って写真を撮ったり高い場所に登ったりした。


 タンボは「宿泊施設」、マチャイは「休憩所」という意味だ。峠の宿場町だったのだろうか。現存するのは、4段に組まれた沐浴場の跡である。遺跡の一部は、11世紀に起こったインカ帝国よりも古い時代からのものだという。


 標高3800メートルに位置するタンボマチャイの沐浴場には、乾季と雨季とにかかわりなく、常に水が流れている。地下水をサイフォンの原理で高所に引っ張り、遺跡全体に巡らせる仕組みだという。


 タンボマチャイ遺跡のゲート付近には、民族衣装の女性たちが民芸品を並べたり、家畜のリャマとの記念写真を有料で撮らせたりと、商売に勤しんでいた。


 笑ってしまったのが、一見したら仔リャマだが、よくよく見ればリャマ風に毛を刈った羊。これを抱いて記念写真を撮る観光客がいたのだけれど、草地に降り立った偽リャマがあっさりとボロを出した。


「めぇ~」


 リャマはそんな鳴き方をしない。「ぶぅ」みたいな声で鳴く。


 タンボマチャイ遺跡でハッスルした私は、バスに戻ると電池が切れた。宿泊地である標高2800メートルの聖なる谷まで、バスで2時間。途中で1度も目を覚ますことなく眠りこけた。


 ホテルに着いてからの夕食は、アルパカのステーキだった。脂っ気が一切ない、微妙にレバーにも似た不思議な赤身の肉だった。

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