一日目 さくらの神域(その二)

 否、まだ上がらなかった。


 「すまぬ。忘れていたことが一つだけあったわい。出発はそれを済ませてからじゃ」

 「忘れていたこと?」


 「そうじゃ。祭りで神輿をかつぐ者は皆、出発する前に神酒を飲むじゃろう。あれと同じことをしに行くのじゃ。わらわとしたことがすっかり忘れておったわ」

 「みき?木の幹のこと?」


 みきと言われて風太は、未だに現実か夢の中かの白黒が完璧につけられないでいる桜の森から、幹という漢字を思い浮かべた。


 がくっ。


 風太の完全な疑問を完全なボケに解釈したと思われるさくらは、絵画のような見事な光景を背に、実に見事なリアクションを見せてくれた。

 仕草だけを見るなら、ノリの良い着物姿の可愛い女の子だ。


 「たわけ」


 しかし、外見からはとても想像出来ない古語が、ずっこけから体勢を立て直したさくらの口から飛びだした。


 「今の若者はそんなことも知らんのか?木の幹をぐびぐびと飲める奇怪な人間がおるのなら、是非とも紹介して欲しいくらいよ。わらわが言うとるのは、酒。神社に奉納した日本酒を神酒と言うのじゃ」

 「へぇ、知らなかった」


 風太にとっての祭りとはお神輿よりも、たこ焼きや金魚すくい、射的といった神社の参道などに並ぶ出店のほうがメインである。


 お神輿のかつぎ手の人たちが、出発前にお酒を飲むことを、風太は本当に知らなかったのである。

 神様相手にこう言うのもなんだが、これがジェネレーションギャップというものだろうか?


 ひとしきり思考を巡らせた後で風太は、急激な気恥ずかしさに体の中から襲われた。

 冷静になって考えてみれば、いくら知らなかったこととは言え、木の幹を飲むなどという、どれだけ意味不明かつ荒唐無稽なことを口走ったのだろうと。


 「・・・まあよい。こっちじゃ。ここを下った森の中にわらわの庵がある」


 どこか気落ちしているように見えなくもないさくらは、風太たちがいた展望台から湖の方へと延びている石段を下っていく。


 下手な人が施す注射の痛みくらいの罪悪感を抱きながら風太は小さなその背を追うも、たった十数段の石段を下りただけで、またしても風太は、頭上の光景のあり得なさに驚愕した。

 瞬く間に数秒前の罪悪感は、淡い色あいに塗りつぶされていく。


 青空や夜空は、これまでの人生の中で数えきれないほど見てきた。

 しかし、どこを見ても一分の隙もなく頭上が桜の花びらで埋め尽くされた景色など、もちろん一度も目にしたことはない。


 咲き乱れる桜花の空と、雪のように舞い落ちる桜の花びら。

 物語の中にしか無い光景を前に、ぼくはただ見惚れることしか出来なかった。


 かろうじて心の中で唱えられたのが、施設の先生たちやあいつらと一緒に見たかった。という想いだった。


 個人的な切なる願いを思い浮かべたその時、

 「うわっ」

 頭上の美しさと考えごとにうつつを抜かしていたぼくは、石段を踏み外してしまった。


 幸いにもしりもちと両手のひらをついただけで、頭を打たずには済んだ。


 「いてて・・・」

 手のひらの方も、かすり傷一つ負ってはいなかった。


 「見惚れておったのかの。それとも考えごとか?」


 さくらは、石段に座る格好になっているぼくの顔を、腰を折り曲げて覗きこむ。


 桜の天井をバックにしたさくらは、本当に絵になった。

 大抵の人間なら背景の美しさに存在自体が霞んでしまうことだろうけど、さくらに限ってそのようなことはない。


 「両方だよ」


 ぼくは素っ気なく言ってから立ち上がる。

 お尻を軽く両手ではたいた。


 「それにしても、思ったより風太は驚かんのう。わらわの正体はこれまで大勢の人間に明かしてきたが、風太より淡白な反応を見せる人間は皆無じゃった。その割に、自然を愛でる気持ちは人並み以上ときておる」


 「それはそうだよ。ぼくは見た目こそ同じだけど、人とは明らかに違うから・・・こういうことに免疫があるとでも言うのかな?」 


 「・・・歩きながら話そうかの」

 それまでの子供のような奔放さを抑えた、苦み走った大人のようなさくらの声。


 歩きだしたさくらの言葉を受けて、ぼくは再び石段を降り始めた。


 「ぼくには、人にはない力が二つあるんだ」


 さくらの左隣を歩きながら、ぼくは言葉を紡いでいく。


 「一つは人の嘘を完璧に聞き分けられることで、もう一つが風をいつでも吹かせられること」


 ぼくの成長を見守り続けてくれた大事な人にすら明かさなかったことを、今日出会ったばかりのさくらは黙って聞いていた。


 「・・・・・・」

 ここでぼくは、話をどう繋げるべきか分からずに言い淀む。

 今まで人に話したことがないだけに、うまく順序立てて説明出来る気がしなかったのである。


 「風太の思うままで良い。続けよ」

 「うん。物心つく前からぼくはこの二つの力が使えたようなんだ。話は前後するけど、ぼくは児童養護施設で育てられたんだ。院長先生が言うには、ぼくは施設の門の前に捨てられていたらしい。もちろん、院長先生たちは愛情をもって育ててくれた」


 厳しかった時もあったが、総じて楽しかった数々の思い出が去来する。


 「でも、先生は言うんだ。赤ん坊だったぼくと一緒にいたら、たびたび不思議なことが起きていたと。窓も扉も閉じた部屋の中で、絶対にあり得ない強さの風が吹いたって。こんな風に」


 吹け。


 ぼくは心の中で念じる。

 果たして、一陣の風が音を立てて桜のトンネルの中を吹き抜けていく。


 さくらの髪や着物の裾が激しくはためくほどの強風だったが、さすがは神様。


 ぼくはよろめいてしまったけど、ぼくよりも小柄なさくらは微動だにせず、その場に姿勢よく立ち続けていた。


 やめ。と、ぼくは心中で唱えた。

 次の瞬間、ぴたりと風が治まる。


 数を増した桜の花びらがひらひらと、ぼくとさくらの周囲で地面へと落ちていく。


 「・・・ぼくは、ぼくにどうしてこんな力が、しかも二つも備わっているのかを、子どもの頃からずっと知りたかったんだ」


 ぼくは右手のひらを見つめた。

 そこには数多くのしわが刻まれている。

 他の人と同じ、数え切れないほどのしわが、ぼくが人であることを教えてくれる。

 ぼくはその事実にほっとする。


 「なるほどのう。免疫があるとか言うとったのはこのためか」

 「どう考えても両親の両方ともか、どちらかが普通じゃないとしか思えない。疑問がさくらのおかげで少しは解けたよ。さくらはさっき父親が重要だと言った。その言葉どおりなら、この力は父である人に由来するものなの?」


 「そうじゃ。風太の母は・・・いや、余計な先入観を与えてはいかん。なので、疑問にだけ答えよう。風太が考えておるとおりじゃ。風太のその力は間違いなくそなたの父から受け継がれておる」

 「やっぱり・・・」


 ぼくは右手を固く握り締めた。


 「しかし、それも風太の考え方次第じゃ」

 「え・・・」


 「父が何者か、すぐにでも知りたくなったか?」

 「・・・・・・」


 「先ほどはああ言ったが、風太が知りたくなったのならいつでもわらわは教えるつもりじゃ。その時は遠慮なく言うがよい。すべてを伝えようぞ」


 さくらの申し出に後ろ髪をぐいと引かれながらも、ぼくは頭を左右に振った。


 「少し前のぼくならそう言ったかもしれないけど、今は違うよ。実際に二人に会いに行って、全部を話してもらわないことには納得出来そうにないから」

 「そうか。嬉しいのう」


 さくらはそう言って踵を返す。


 その背中を見るだけで上機嫌だと分かるさくらは、左カーブで先が見えなくなっている石段を、軽い足取りで下りていく。

 そこで思い出した。


 「あ、さっき、さくらはぼくよりもずっと凄い桜吹雪を巻き起こしていたけど、荘川桜は大丈夫なのかな?全部散ってしまったりしたら・・・」

 

 かつての記憶が、さつまいものように記憶から掘り起こされる。

 風を吹かせる力を暴走させ、一度だけ満開の桜の木の半分近くを散らせてしまったことを。


 「それは心配いらぬ。あの桜吹雪は荘川桜の物ではない。安心せよ。荘川桜はいまも満開の花を咲かせておるわ」

 「そっか、それならいいんだ」


 さくらの言葉に安堵したぼくは、そこから山を下りきるまでの間、さくらと他愛のない会話に花を咲かせていた。


 やがてぼくらは石段を下りきる。

 散り落ちた無数の桜花が、緑一色の鮮やかな草地に淡いピンクの彩りを添えている。


 「ここで待っておれ。すぐに戻ってくるからの」


 神酒を取りに行ったのだろう。

 さくらは、桜の森と湖の間にあった、土壁とかやぶきの屋根を持つ、侘び寂びを体現する建物の中へと入っていく。


 一人になったぼくは湖へ目をやった。

 湖面に浮かぶ花いかだは、山頂の泉で見たものとは比べ物にならない規模でぼくの目に映る。

 それは踏めば抜けてしまう、桜色の岸辺のようだった。


 湖の際まで歩を進める。

 人工の音は何一つとして聞こえてこない。


 ぼくは草地に大の字で寝そべり、空を見上げた。


 白い雲が流れていく。

 太陽の光が心地よく暖かい。

 と思ったら、爽やかな風が吹き抜ける。


 大抵の悩みなら、いとも簡単に吹き飛んでいってしまう環境だろう。


 だけど、心にあぐらをかき続けている、両親に関する諸々の問題は、この景観をもってしても畳の上から立ち上がってはくれない。


 話したいと言ったけど、何を話す?

 会ってからぼくはどうする?

 その後の未来はどうなる?


 さくらのおかげで、十年近くも乗り越えられずにいた壁を突破し、新たなステージには進めた。


 が、次の迷路は迷路で難解だった。

 全景を俯瞰するも、ゴールははるか地平線の彼方。


 けど、飛び込む以外に方法はない。

 この機会を逃せば、ぼくは一生、両親と会うことは叶わないだろうから。


 さくさくと草を踏みしめる音が、頭の方から聞こえて来た。


 「待たせたの」

 さくらの声に、ぼくは上半身を起こす。


 桜色の持ち紐つきのひょうたんを右手に。

 二つの赤い盃を左手に戻ってきたさくら。


 少女と酒器。


 本来なら水と油以上に相容れない両者だけど、この時ばかりは、花が咲けば自然とミツバチがやってくるような、極めてしっくりくる組み合わせに見えた。


 「ふ・・・」


 空気のような軽さで微笑んでからさくらはぼくの右横に立った。顔を覗き込みつつ。

 ぼくもさくらの目を見つめる。


 「何を考えておるか、言わずもがな顔に書いてあるのう」


 ぼくはさくらの顔から、水草の一つ一つがくっきりと見える、透明な湖面へと視線を移す。


 「もちろん両親のことだよ。会ってどうするのかを考えていたところ」

 ずっとぼくの心の水の中で深く根を張り、ゆらめく水草の正体を、隠すことなく口にした。


 「・・・結論は出たのか?」

 「いや、全然。出たとこ勝負するしか思いつかなかったよ」

 ぼくは力なく、かぶりを振った。


 「それで良い」


 またからかわれると思ったぼくの予想を、さくらは思わぬ言葉で裏切ってくれた。

 反射的にさくらの顔を見上げる。


 「それで良いって。こんなの無策も同然なのにどうして・・・」


 「人間に限らず、生き物は各々違っているのが基本じゃ。身も心も、人生も。全てが同じ者などおらぬ。そんな宿命を生まれつき背負っておるというのに、自分が思ったとおりの枠に他者を当てはめようとする。上手くゆかぬことの方が多いのは当然じゃ。風太はそれを身にしみて分かっておるはずじゃて」

 「そう、だね。確かにそうだ」


 言うまでもなく、ぼくの二つの異能のことをさくらは指している。

 自らに深く根ざしていることだけに、さくらの言葉の理解と吸収は、自分でも驚くほど早かった。


 「要は、その場その場で対処するしかないと言うことじゃな・・・心配は不要じゃ。風太を焚きつけたのはわらわじゃからな。何があっても決して悪いようにはせぬ」

 「・・・ありがとう。さくら」


 相変わらずの純度でさくらの言葉は、ぼくの不安を残らず払拭してくれた。

 安心して過去に漕ぎだすことが出来る。


 「礼など要らぬ。わらわのしたいようにしとるにすぎんのじゃからな。そうと決まれば神酒を酌み交わそうかの。ほれ」


 さくらはぼくに盃の一つを差し出した。

 右手で受け取ると、神様直々にひょうたんに入っていた神酒を注いでくれた。


 神様という究極の目上の存在が、先にお酌をしてくれるとは。

 お酒飲みのルールを全く知らないぼくでも、とんでもなく光栄なことを受けているくらいは分かる。


 「これから一緒に旅をするのじゃからな。かしこまる必要はない。堅苦しい儀式もないから、いつものようにゆるりと過ごせ」


 ぼくの盃に神酒を注いださくらは、

 「次は風太の番じゃ」

 と言って、ぼくにひょうたんを突き出した。


 ひょうたんのくびれた部分を掴むと、さくらが手にしている盃に、慣れない手つきで神酒を注ぐ。


 琥珀色の液体から、花を思わせる香りがほのかに漂う。

 そこで気がついた。


 「あ、ぼくまだ未成年・・・」

 「何を言うておる。ここに人間の法律が適用されるはずがなかろう。ここではわらわが法律なのじゃからな」


 さらりと問題発言を繰り出してからさくらは、その口で杯のお酒を一気に飲み干した。


 見ていて気持ちのいい飲みっぷり。

 かたや、それでもぼくは逡巡していた。

 お酒は二十歳になってから。


 「・・・そんなに気になるというのなら、すぐに酒の成分を取り除いてやろう。だからいまはちょびっとでも飲むのじゃ」


 神様だけに、神事を行うことだけは譲れないのだろうか?

 そこまで言うならと、ぼくは意を決し、神酒を口に含んだ。


 清涼飲料水には明らかに含まれていない何かが、のどをするりと通り抜けていく。


 これがお酒・・・

 そこそこの背徳感が心にのしかかる。

 どことなく体が温まってきた感じがしてくるような・・・


 「・・・ほれ、一滴残らず除いてやったぞ」


 ぼくの口から胃の辺りを上から下へなぞるように右手をかざしたと思ったら、すぐにさくらは右手を降ろした。


 アルコールが体の中から取り除かれたという実感は湧いてこなかった。

 さくらの言を信じるしかない。


 「では、行こうかの」


 そう言ってからさくらは、右手のひらを天に向かってかざす。

 またもやぼくの目の前がピンク色に染まった。

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