一日目 さくらの神域(その一)

 「・・・・・・・・・一体いつまで呆けておる気なのじゃ」

 「え?」


 彼女に言われ、ようやく風太はおそるおそる目を開けた。


 「・・・・・・・・・」

 わかりやすく風太は、眼前の景色に絶句する。


 荘川桜と同様、太陽と青空と山と湖と桜という要素はそのままだが、この世に存在するとはとても思えない場所に風太は立っていたからだ。


 「せっかくわらわが招待してやったというのに。無粋なやつめ」

 「な・・・な、なに、ここ・・・」


 彼女の不快な表情と言葉もどこ吹く風。

 目の前の風景が風太にはまるで信じられなかった。現実感がなかった。


 風太はいま居る、足下の雑草の緑が萌える高台の際まで歩みを進めた。


 花鳥風月。山紫水明。眺望絶佳。風光明媚などなど。

 景観の素晴らしさを賛美する熟語は数あれど、風太は眼下の景色の美しさを一言で言い表す言葉を頭のなかに持ってはいなかった。


 手のとどかない汚れなき青空に、吸い込まれるように青い山並みに、青く澄みきった水をたたえた湖。

 色合いの異なる三つの濁りのない青。


 それだけでも風太の心を打つのに十分すぎたが、風太の目は眼下の平地。湖以外のすべてを埋めつくす、色味がまばらなじゅうたんのごとき桜の森にくぎづけになっていた。


 そこから次々に舞い上がる無数の花びらが太陽の光を浴びる様。光景は完全に春のものだというのに、ダイヤモンドダストを思わせるほどに幻想的だった。


 ピンクとブルーの二色だけでほぼ構成された景色。


 だが、どこまでも奥深き美景は、実際にこの目で捉えているというのに、ファンタジー世界の中のものにしか思えず、風太はただ息をのむばかりだった。


 それでいて見たことも聞いたこともなく、旅の下調べの際の検索にも全然ヒットしなかった場所に一瞬で連れてこられたこの現象。

 月並みだが風太はいま、夢を見ているとしか思えなかった。


 「どうじゃ、花紅柳緑かこうりゅうりょくを極めしわらわの庭は。まだ夢まぼろしなどと思うのであらば、その泉の水を飲んでみるがよい。許可するぞよ」


 風太の心中を見透かしたように彼女は、風太の背後にある石で縁取られた泉を右手で指し示した。

 泉の水面には、散った桜の花びらが一ヶ所により集まってできる、花いかだが浮かんでいる。


 風太は泉の水を両手ですくい取って、口へと運ぶ。

 容易く眠気を吹き飛ばせるくらいに泉の水は冷たく、これまで飲んだどのミネラルウォーターよりも格段に美味かった。


 風太の出した答えは、ここまで五感の精度の高い夢などあり得ない。というものだった。


 つくしやふきのとうといった、春を代表する草花がところ狭しと生い茂り。耳をすませなくとも鶯の心地よい鳴き声が響き渡り。香水をあたり一面に振りまいたのではないかというくらいに、芳しい花の香りが鼻まで漂ってくる。


 彼女が言うだけあって、あらゆる春の魅力が贅沢かつ高密度に凝縮されている。


 真偽はともかく、風太の目に映るすべてが彼女の庭だというのなら、人間の手で造りだせるとは思えない破格のスケールの庭園だ。


 (もうおとぎ話の世界じゃないか・・・おとぎ話?・・・まさか、これって)


 海と山の違いはあるけれど、自身が置かれているこの状況は日本人なら誰もが知っていると言ってもいい、あのおとぎ話を彷彿とさせることに風太は気がついてしまった。


 「ふっふ。ここが竜宮城とおなじなのではないかとお主はいま思うておるな。頭の中をちょいと覗かせてもろうたぞ」


 言うよりも早く彼女は、風太の疑念を口にしてみせた。


 地上よりもはるかに遅く時間の流れる竜宮城。

 当たり前のことだが、浦島太郎のおとぎ話を思い起こしていることなど、顔を見ただけで読みきれるはずがない。


 彼女が平然とやってのけたことは、だから人間技ではなかった。


 「心配せずともよい。ここはお主の世界と寸分違わぬ早さで時間が流れておるからの。お主が浦島太郎のような憂き目に遭うということはない・・・これでもわらわの言が信じられぬか?五十嵐風太よ」

 「ど、どうして僕の名前を・・・」


 大学生の風太は、名前を示すものは衣服のどこにもつけてはいない。

 風太がいま携えている、名前を他人に知らしめる物は、財布のなかにしまってある大学の学生証だけだ。

 学生割引をつかう機会もなく、この旅のなかで一度も財布から出してはいない。


 にも関わらず彼女は、風太が一回も口にしていないうえに、そうよくあるものとは思えない風太のフルネームを一発で言い当ててせしめたのだ。


 しかも、どういう仕組みなのか皆目見当もつかない手段で彼女は風太を、現実としか思えないこの場合に一瞬で連れてきた。

 自分を神だと言う彼女の言を信じないわけにはいかなかった。


 「本当に君は神様なんだね」

 「だから先ほどから何度も言っておるじゃろうに。春はわらわの力が最も高まる季節。いまのわらわの力をもってすれば、人間一人の名前を知ることなど息をするように簡単なことなのじゃ」


 (どうしよう。神様の言うことをまともに取り合わなかったよ)

 風太の心に、後悔という名の隕石が降り注ぐ。


 「な、なんとお呼びしたらよろしいのでしょうか?」


 つたない敬語に手のひら返し。

 風太は戦々恐々としながら、彼女の言葉を待つばかりだった。


 「そう固くならずともよい。わらわは確かに神ではあるが、お主を裁くために現れたのではないのでな・・・呼び名か。古くからわらわの呼び名はいくつかあった。もっとも有名なのはやはり佐保姫さほひめかのう」


 佐保姫。


 不遜な態度をとったことに対して神罰が下されないことに胸を撫で下ろした風太は、安心して記憶をひも解く。


 例え嘘が記されていたとしてもなんら耳にさわることのない書籍。


 フィクション、ノンフィクション。小説、漫画などジャンルや媒体を問わずに、風太はこれまで。そしてこれからも本の虫であり続ける自信があった。


 春を司る佐保姫。

 遥か昔。都が平城京に置かれていたころ、東にあった佐保山から名づけられた女神だ。


 春のみならず、染色と機織はたおりの神様であることは、四季折々の景観の写真とともに綴られた本を読んで記憶に留めていたことを、風太はいま思い出した。

 俳句の季語になっていたことも。


 まさか、神様が実際に目の前に降臨する時がくるとは。

 人生何が起こるか分からないものだと、風太は頭の芯からそう思った。


 「佐保姫、様」

 「様などいらぬ。わらわはお主、五十嵐風太のことが知りたいのじゃ。上下関係など邪魔なだけ。風太もわらわのことを呼び捨てにするがよい。苦しゅうないぞ」

 「呼び捨て・・・」


 姫神様を呼び捨てにする?

 荘川桜を愛でにきたはずが、なにがどうなってこうなった?


 一人で考えさせてほしいと言った後での逃走も考えたが、未知の場所で逃げきることはできそうもない。

 逃走案は却下するしかなかった。

 どうやら、とって食われる心配もなさそうだし。


 「なんでも構わぬ。風太の好きに呼んでくれて良いぞ」


 確かに人にはない能力を身につけているのは事実だが、それ以外はどこにでも居る平均的な一人の人間なんかに、どうして神様とあろう存在が興味あるのか?風太は疑問が入りまじる思考を走りに走らせる。


 なんたって神様の呼び名である。

 飼ったことは一度もないけれど、ペットに名前をつけるのとわけが違うのは火を見るより明らかだ。


 春の神様。春の神様。春の神様の名前・・・

 しかし、思いつかない。


 そのまま佐保姫と呼んだところで、たぶん不可だと思われる。

 姫が含まれている時点で、上下関係が生じているとか言いだしそうに思えた。


 (姫を取り払って佐保と呼ぶのはどうか?・・・どうもしっくりこない)

 悩む風太は、ふと眼下に目を向けた。


 「・・・さくら」


 日本神話の造詣が深くない者がいくら知恵を絞ろうと、日本の神様にふさわしい呼び名など思いつくはずもない。

 そこまでの学は風太にはなかった。


 ないので風太は、眼前の景色で一番目を引く花の名前をありのまま口にした。


 「さくらで、ど、どうかな・・・」


 緊張はとっくに満開の花盛りだった。

 満開の度合いでは、荘川桜にも負けない自信があった。


 「なんじゃ、そのひねりのない名前は」

 わかりやすいくらいに呆れた表情で彼女は言った。


 その顔を見た風太は、畏れではなく、安堵の気持ちが湧いてくるのを感じていた。

 そっか。神様でもこんな顔をするんだ。人間みたいじゃないか。そう思ったのだ。


 「・・・しかし、気に入った。風太の人となりがな。飾らず、気取らないお主という人間に。呼び名はさくらでよい」


 神様のお墨付きをもらえた。

 風太としては、間違いなく苦しまぎれの一発だったのだが。


 「さ、さくらは」


 それでも勇気がいった。

 彼女が、さくらが許可してくれたこととはいえ、神様にためで接することに。


 「まだ固いのう。無礼講でいいとさっきから言っておろうに」

 ため息をつくさくら。


 「・・・さっき言ったよね。さくらは、ぼくの生まれが、その、珍しいって」


 未だにガチガチであることは、風太が一番よく知るところだった。

 そんな風太の内幕には、これまでの人生の中で一日も忘れることのなかった、ずっと求めていた答えを知った時の不安も含まれている。


 「耳の聡いやつじゃ。確かに言ったが、それがどうかしたのか?」

 「それは、ぼくの両親のことも知っているということでいいんだよね?」

 「もちろんそうなる」

 「だったら教えて欲しいんだ。ぼくの両親のことを・・・なんの理由があってぼくを施設に捨てていったのかを?」


 風太は声を絞りだす。

 これまでは、両親以外に回答不可能だった問いをさくらに聞かせるために。


 「ふむ・・・教えてやらんこともないが、お主はそれで良いのか?」

 「どういう意味?」

 「一言で言うと、百聞は一見にしかずじゃな。風太にとっての一大事をわらわの説明だけで済ませてもいいのかという意味じゃ。直に両親におうて、話をしてみたいとは思わんのか?・・・もちろん無理強いをするつもりはない。決めるのは風太じゃ。わらわはその決定に従おう。説明だけで十分。両親と会いたくないというのならそれも構わぬ」


 「・・・・・・」


 風太はこれまで諦めることで。運命を受け入れることで人生を進めてきた。

 どうせなるようにしかならないのだから、運命に抗ってみせたところで、結局は激流に押し流されるだけなのだと。


 年齢から、ある程度は限定できるとはいえ、日本人の中からたった二人の人間を、ろくな手がかりもなしに探しだすなど、雲をつかむような話だ。


 それも日本にいればの話であり、外国にいるのだとすれば、それはもう月をつかむような話である。


 両親に捨てたことへの文句を言ってやろうと思うたびに、どうしようもない現実を前に風太は諦めてきた。


 しかし、風太は生まれて初めて運命に抗ってやろうと思った。

 さくらの手を借りて。


 「会ってみたい。両親に会って話をしてみたい」

 「ようやくいつもどおりのお主になったのかの。それでこそお主を選んだ甲斐があるというものじゃ。そう言うてくれると思っておったぞ」


 きらきらと桃色の目を輝かせながら、さくらは微笑みを浮かべる。


 透きとおる瞳は本当に宝石のようであり、眩しすぎて直視ができないほどだった。


 「最初に聞いておくが、この連休における風太の予定は問題ないのか?」


 さくらの言葉に、風太は頭の中で五月のカレンダーのイメージを形作る。


 「・・・幸か不幸か、親しい友達はいま住んでいる街には一人もいないから。この後の予定は決まってないよ」


 入学以来、ずっとお世話になっている、コンビニのアルバイトも入れていないから大丈夫である。


 「そうか。ならば、まずは名古屋じゃ。名古屋に風太の母親は暮らしておる」

 「え?名古屋だって」

 「左様。風太が住んでいる街にじゃ」


 名前と同様に、風太が名古屋市内のアパートで暮らしていることは、さくらには一言も告げてはいない。いないが、さくらの神様ぶりに風太が慣れてきたこともあって、そのことに関しては少ししか驚かなかった。


 驚愕の大半を占めるのは、期間はひと月半ほどと短いながらも、母親が風太とおなじ街から見える空の下で暮らしているという事実にだった。

 世の中は広いようで、狭い。


 「父親は・・・京都じゃな。だから最初にいくべきなのは名古屋かのう。位置的にも、重要度から考えてもな」

 「重要度・・・」


 さくらの最後の言葉が気になったが、ここでいくら考えようと答えがでるはずがない。

 父親の顔すら風太は知らないのだから。


 「よーし、出発なのじゃ」


 こうして風太とさくら。春の女神様と共に風太のルーツをたどる珍道中の幕が、右手を高々と空に向かって伸ばす、彼女の声を合図にして上がったのだった。

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