桜が芽吹く日に
川和真之
第1話
僕は四十歳の誕生日を迎えたというのに、貴子はいまだ、十五歳のままである。
いつのまにか、僕の方が二倍以上の年齢になってしまったね、と僕は貴子に言った。
いやいやと、僕は首を振りながら言い直す。ずいぶんと年月はたってしまったけれど、僕もずっと十五歳のままだよ。そう伝えると、貴子はいつもと変わらない様子で僕に微笑みを浮かべてくる。
貴子ほど、この制服が似合う生徒はいないと僕は信じて疑わなかった。シンプルな紺のスカートに、校章の縫い付けられた真白なシャツ。少し緩めにしてあるワインレッドのリボンが、貴子の華やかさをさらに引き出していた。
昼間の公園はとても静かだ。僕はベンチに座ったまま身体を伸ばして、空を見上げた。雲ひとつない空だ。ときどき吹き付ける秋風が、季節の移り変わりを知らせてくれた。噴水のそばにある落葉樹の葉が風に揺られてはらはらと舞っている。綺麗だねと、僕は貴子に言った。
僕は彼女の笑顔を見つめながらゆっくりとうなずく。
そろそろ、行こうか。
僕は彼女にそう告げて、ベンチから立ち上がる。
この公園で秋の知らせを受け取るのは、何回目だろうか。十数回までは数えていたが、もう忘れてしまった。
それでも、初めての日のことは覚えている。忘れることなんて、できやしない。
僕は家に帰り、すぐに自分の部屋にこもった。
何時間たっただろう。騒音が聞こえてきた。聞きなれた、いつもの騒音だ。
「おい、マサル聞こえるか」
「マサルくん、ちゃんと聞いてちょうだい」
「今日は、マサルの誕生日だな。おめでとう。いくつになっても、誕生日は嬉しいものだな」
「せっかくの誕生日よ。三人で夕飯を食べましょうよ」
僕は、布団の中からドアの方に目をやる。鍵が閉まっていることを確認して、僕は安堵して布団にくるまった。
「おい、マサル聞いてくれ。この話をするのは久しぶりだし、マサルが聞きたくない話だとは分かっている。でもな、父さんたちだっていつまで健康でいられるかわからないんだ。単刀直入に言うぞ。そろそろ働いてほしい。一人きりでも生きていく準備をするんだ。もう、最後のチャンスなんだ」
「そうよ。もう今日で四十歳なのよ」
僕は耳をふさいだ。それでも、騒音が聞こえてくる。
「マサルを闇から救い出せなかったのは、俺たちの力不足だ。強引にでも、学校に通わせておけば違ったのかもしれないな。でもな、マサルの苦しみはわかるんだ。あんなことになってしまったら、学校になんていきたくないよな。それを許してしまった俺たちにも、原因があるんだ」
「そうよ。母さんも反省しているわ。だからね、今から、今から頑張りましょうよ。今なら、まだ間に合うのよ」
声がやみ、すぐに沈黙がやってきた。
秒針が時を刻む音も聞こえない。聞こえてくるのは、自分自身の心臓の高鳴りだけだった。
しばらくして、ドアの向こうから叫び声があがった。
「マサルくん! ちょっと聞いてるの! お願いよ。現実と向き合うのよ」
「おい。母さんちょっと」
「マサルくんがそんなんじゃ、貴子ちゃんだって浮かばれないわ。貴子ちゃんは、ずっとふさぎ込んでいるマサルくんなんて望んでいないわ。いい加減に目を覚ましてちょうだい! 貴子ちゃんは、貴子ちゃんは……」
なんだっていうんだ! 僕は、心の中で叫んだ。
「もうこの世にいないのよ!」
何かが切れる音がした。なんてことはない。いつものことだ。
僕は布団を勢いよく放り投げた。どう叫んだのだろう。
あまり覚えていない。気づいたら、もう朝日が差し込んできた。まばゆい光だ。一睡もできずに迎える朝にも、すがすがしさの欠片くらいあればいいのに。
いつもの公園のベンチに座る。秋風は今日も僕の目の前を通り過ぎていく。寒いねと貴子に言った。写真の中の貴子は、今日も夏服のままだ。肩まで伸びた髪を切るかどうか、いつも悩んでいたね。初めて一緒に出掛けた日のことを覚えているかな。貴子は楽しそうだったな。でも、あの時僕は緊張していたんだ。だから――。
いや、やめておこう。思い出しちゃだめだ。だめなんだ。
立ち上がった僕は、べっとりと汗をかいていた。秋風が僕の体温を奪っていく。僕はいつもよりもペースを上げて、家に向かった。
家につき玄関をあけると、封筒がぽつんと一つ置いてあった。
家具は綺麗さっぱりと消えていた。
僕は封筒をつかみとり、階段を上がって自分の部屋へと向かった。扉を開けると何もなかった。この家にあるものすべてが消えていた。僕は置き手紙に目をやる。
もう我慢の限界です。縁を切りましょう。
僕の心に、もう一つ大きな穴がぽっかりとあいた。
公園のベンチから見える景色は、驚くほど変わらないものだ。十五歳だった頃と違うのは、自分自身だけなのではないか。伸びきったひげをさすると、なんだか香ばしい匂いがした。 座っているだけなのに、目の前がぼんやりとしてくる。吐く息は白く、もう冬はすぐそこに迫っていた。
両親が残していった当面の生活費は底をつきはじめた。家賃の滞納も始まっている。どうして僕の部屋まで片づけていったのか。仕方がなく僕はアウトドア用品を取り扱うお店で寝袋を買って寒さをしのいでいた。これは生活の一歩を踏み出すための仕掛けなのか。誰の入れ知恵だろう。馬鹿にされた気分になり、怒りと悲しみが沸きあがってくる。
僕は空を見上げた。雲ひとつない、澄んだ世界が広がっている。
間違っていたのだろうか。
――間違っていたのだろうな。
嗚咽が聞こえてきた。誰のだろう。ひょっとしたら、貴子が泣いているのかもしれない。
いや、もうよそう。わかっているんだ。僕は十五歳のまま、ずっとその場にとどまろうとした。そうすれば、貴子が戻ってくるんじゃないかと。そう信じているのは楽だった。そうなんだ、楽をしていたのだ。その結果が、今の僕なんだ。
「ちょっと、ひどい顔」
僕が顔をあげると、目の前に人が立っていた。
驚きのあまり、声がでない。
何かを言おうとしても、くちびるを動かすことすらできない。
「マサルくん、だよね」
あのときの、十五歳のままだった。シンプルな紺のスカートに、校章の縫い付けられた真白なシャツ。少し緩めにしてあるワインレッドのリボン。肩まで伸びた髪に手をかけると、ほのかにりんごの香りがした。
「ほんとうに、貴子なのか」
「なあに、忘れちゃったの。でも久しぶりだね」
「ああ、久しぶりだ」
「元気だった?」
僕は、苦笑いしかできなかった。
その苦笑いを優しく見つめながら、「お散歩しようよ」と貴子は言った。手を差し伸べてきた。
貴子の手のひら。
僕は苦しくて苦しくて、仕方がなかった。
「今度は、握ってくれる?」
目が合う。見つめ合っていると、あの日がよみがえってくる。
貴子と初めて出かけた、まだ二人とも十五歳だったあの日の帰り道、僕はこの公園で貴子が握ってきた手を振りほどいた。とっさの反応だった。もちろん嫌だったわけではない。顔を真っ赤にした僕を前に、貴子は不満そうだった。ひどい。一言そういい、彼女は帰り道と反対方向へと歩いて行った。僕は足がすくんでしまい、すぐについていくことができなかった。しばらくして追いかけてみたものの、人混みの中で見失い、僕は落ち込んで家に帰った。携帯電話のない時代だ。家の電話で連絡を取ることは、なんだか気恥ずかしかった。それでも、土日を挟んでしまうことが不安だった。明日家に行って、そして謝ろう。そう決意した瞬間だったと思う。
電話が鳴った。貴子の家からだった。
まだ、帰ってこないという。
あの日以来、貴子は僕たちの目の前から消えてしまったのだ。
その貴子が、いま目の前にいる。
夢を見ているようだった。
手を伸ばすと、彼女はしっかりと握りしめてきた。暖かかった。ひさしぶりに感じたぬくもりだった。
僕は立ち上がり、あたりを見渡した。灰色だった世界が瞬く間に彩られていく。
並んで歩きはじめたが、僕からは何も話さなかった。
彼女も話しかけてはこなかった。
僕はいろんなことを考えた。十五歳だったあの日から、もう二十年以上の月日が過ぎ去ったのだ。僕たちは公園の池の周りを一周して、そのあと桜並木を歩いた。
「冬だとさすがにさみしいね」と、彼女は桜を見ながら口を開いた。
「……春はうるさくて嫌だよ。馬鹿な大人が大騒ぎしてさ」
「マサルくんは、まだ、あの日のままなんだね」
あの日のまま――。
彼女は足を止めた。手がほどかれる。
僕は彼女を見つめた。彼女も、僕のことをまっすぐに見ている。
「いや……」
僕は、笑みを浮かべた。どうしてだろう。でも笑顔を作らずにはいられなかったのだ。
「僕はもう、大人だよ」
大人になること。それを認めたくなかった。認めたら、もう二度と貴子が戻ってこないような気がして。でも、もう終わりにしよう。
僕はこぶしを握りしめた。彼女は、そんな僕を見て不安げな表情を浮かべた。
「からかっているわけではないのよ。そんな気持ちだけなら、こんな寒い恰好しないって」
やっぱり、そうか。僕はそう心の中でつぶやいた。
「君、僕の両親から依頼されたのかい?」
その言葉に、彼女は安堵したようだ。
「すごく心配していたよ。結構たくさんの人に声をかけたみたいね。でもこの話を聞いたとき、わたしはとても興味があったの。会ってみたいと思った」
「僕にかい?」
「そう」
「こんな、四十歳まで何一つしてこなかった僕に会って、何になるんだ」
「だって、ふつう出来ないもん。行方不明の恋人を、何十年も待ち続けることなんて」
「いや、それは……」
沈黙が訪れた。でもそれは、非難をあらわす沈黙では
なく、久しぶりに味わう心地よい沈黙だった。
「貴子さん、どこ行っちゃったのかな」
「……、どこにいるんだろうな」
「あそこらへんにいるのかな」
彼女は青空の遠くを指さした。彼女は僕の方に向き直し、言葉を続けた。
「とりあえず、感動の再会に備えてひげを剃らないとね」
彼女はとびきりの笑顔を浮かべた。
僕にとっては、十数年ぶりに使う言葉だろうか。
「ありがとう」
僕がそういうと、彼女は手を振りながら、木枯らしの吹く桜並木を歩いてゆく。
彼女のうしろ姿を見送ったあと、僕は大きく息を吐いた。
その息は、けっしてため息ではなかった。
これから、自分を取り戻していかなくては。
こんな風に思うのはいつぶりだろう。
まずは、たった一つでもいいはずだ。桜が芽吹く、その日に向けて。
桜が芽吹く日に 川和真之 @kawawamasayuki
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