最終話 翠蔭

 小川に渡された橋は一ヶ月前に交換したばかりだとジョウメイは思った。水音はわずかな勾配に従って生まれる。そうして滑り落ちた水は池に溜まるが、淀まないように揚排水機の力で循環させられる。全ては橋と一緒に点検した、杜の営みであった。

「置いてくよ」

 ふと呼びかけられ、ジョウメイは橋を降りた。声は休むのに良さそうな木陰から聞こえた。

 休めるように作ったのは自分たちだ。小川を造るのに勾配をつけたのも、その上に小さな橋を渡したのも、人が歩けるような道をつけたのも、風通しの良い場所に翠蔭が出来るよう樹を植えたのも、全ては人の手に拠るものだ。

「そろそろ昼にするか」

「そんな時間かしら」

 スズシが首を傾げた時、遠くから重く響く音が届いた。ソウビの港で、毎日昼になると鳴らされる汽笛だ。元々は昼に出航する船の汽笛に過ぎなかったが、一日のちょうど真ん中に当たる昼餉の時間に決まって鳴らされるようになった。

「ボオだ。ボオ、ボオ」

 音を聞いて嬉しそうな声を上げたのは、水色の小袖を着た女の子だった。夏めいた色と生絹地が、ジョウメイの古い記憶を呼び起こす。初めて見た時も暗い色を背負いながら鮮やかに映えていたが、翠蔭の中にいて跳ね回る今でも同じ印象であった。

「よく知っているな。誰から教わった」

 大樹に寄りかかって腰を下ろしたジョウメイは、女の子を呼び寄せて訊いた。あのね、と言った後わずかな間があった。ややあって、

「おじさん!」

 と言った。

「おじさんじゃわからないでしょ。ちゃんと名前を言わないと」

 スズシに言われ、律儀に考え込む素振りを見せた後、

「ジケイのおじさん!」

 そう答えた。自分より五歳年上に過ぎない男がおじさん呼ばわりされた事実がおかしく、今度会った時はお兄さんと呼べ、と苦笑しながら言った。素直に女の子は頷いた。

「何でボオなんて呼ばれてるの」

 そう訊いたのはスズシだ。娘と同じ興味が眼差しに宿る。

「簡単だ。汽笛がボオボオと聞こえるからそう呼ばれているんだ」

「へえ……」

 行李を開きながら、スズシはどこか感心したような声を出した。

「お日様が昇ったら仕事を始めて、沈んだら終わりにするぐらいで良いのに。これも時代が変わったってことかしら」

「大げさに聞こえるだろうが、そういうことだろう」

 ジョウメイは懐から懐中時計を取り出した。ボオが聞こえた時は、短針と長針が重なり合っていたはずだ。

「これの動きは季節に拠らない。夏と冬では同じ時間でも火点し頃が変わることになる」「暗くなっても働かなくちゃいけないのかしら」

「それができるように、燐火灯がある」

「良いのか悪いのか、複雑ね」

 スズシは苦笑した。小料理屋の仕事は皆がくつろぎ出す宵の口からが本番で、一人で営んでいた頃は夜に不安を覚えることもあったようだが、燐火灯のおかげで安心できるようになったという。

 笑いながらスズシは、隣の女の子を見遣った。目の前には山菜を混ぜ込んだ白飯など普段は食べられないものが並んでいる。それらを前にしながら、まだ両親の号令がかかっていない。我慢を重ねていつの間にか表情が強ばっていた。

「そろそろ食べるか。コスズ、取り分けてくれ」

 ジョウメイが呼ぶと、女の子の顔がぱっと華やいだ。それも古い記憶を呼び起こす。証のように親から受け継がれるものがあるようでまぶしかった。

 昼餉を平らげるとコスズはスズシの膝を枕にして眠ってしまった。朝から汗ばむ陽気で、歩くことに疲れたのだろう。寝息を立てるようになるまでほとんど時間はかからなかった。

「気持ちの良い日ね」

 安らかな寝顔を見せる自分自身の娘を見つめたままスズシは呟いた。ホラクで暮らしていた頃のスズシが戻ってきたように温和な顔であった。そして血のつながりを得て生まれてきた娘を持った今は、一段と親らしくなったように見えた。

 二人で家族に挨拶をした時は、脇で見ていてまだ娘らしさが抜けないように見えたが、ほんの三年でスズシは変わった。あるいは、十八年かけて続いた変化の集大成が、この三年間であったのかもしれない。

「お互い建物にこもりきりの日が多いからな。時々はこうして、体を陰干ししてやらないと。今の時期を逃したら、次は一年後だ」

「長いわね。でもあたしたちが歩んできた時間に比べたら短いわ」

「お前がソウビに来て、コスズが産まれて、やっと三年か。それよりか短いな」

 そうして比べていくと、一年という時間が見る間にたいした長さでないようになっていく。その不思議さに気づいたところで顔を見合わせて笑い合う。三年間ですら一瞬のようだった。

 スズシはジョウメイを追う形でソウビを訪れ、そこで自ら職を得た。セキナンカにいた頃と同じ小料理屋の給仕である。初めのうちは客層の違いに戸惑っていたようだが、すぐに慣れて愚痴も言わなくなった。コスズの誕生前後に休ませてくれる店主であったのも幸運だっただろう。

 その頃はジョウメイも、精霊の杜の管理人としての地位を確立する時期であった。誰もが遊歩道を歩くことができ、水や風に触れ、その合間に息づく精霊を感じることができる。今日も多くの人と道で行き違い、森の奥には錬金術関係者の姿を見ることができた。お互いに分をわきまえて、それぞれの親しみ方をしている。それだけで精霊の杜を造り上げた意味はあるようだった。

 勧業試験場の場長は相変わらずトオリで、精霊の杜の管理をジョウメイに任せる体制に変わりはない。そのトオリも、場長の地位を誰かに譲ることを考えているらしい。その相手を明言してはいないが、周りが片腕足る自分自身を推しているのを感じている。今でもトオリは先生と呼ぶに相応しい相手だと思っていて、その後を継ぐことに気後れも感じるが、慣れない土地で未だ自分の夢を追う妻を思えば弱気になれない。

「フジナさんが、今度会おうって言ってるの」

「ジケイも来るのか」

「わかんない。でもお互いに家族ぐるみで仲良くするのも良いかもね」

 ジケイもミクロコスモス造りが終わるのを待って婚約者と結ばれたようだった。そしてコスズと同時期に二人の間に男の子が生まれた。性別は違えど同じ時期に産まれたせいか近い感性を持っていて、会うたびによく話をしたり遊んだりしていた。セイガと名付けられたジケイとフジナの子に会えると知れば、コスズも喜ぶだろう。

「あなたもジケイさんに会いたいんじゃないの」

 ジョウメイは言葉の代わりに微笑んだ。女や子どもたちがそれぞれ情を深めていくように、男同士で旧交を温める時間が嬉しい。協力して生まれた成果の中にいると、これ以上ないほど満ち足りた気分になれた。

「男同士の友情って良いわね」

 スズシは温和な顔をしながら、微かに寂しさの差す横顔を見せた。友情を深めようにも彼女にはそのような相手がいないのだ。

「みんな一緒にここまで来れたら良かったのに」

 スズシは梢を突き抜けて、遙か彼方の空へ視線を投げた。白翁動乱を超えられなかった魂が見えているのだろう。ジョウメイも同じようにすると、確かに思い浮かぶ。

 ジケイや家族は白翁動乱を超えて、新しい時代の変化にも順応し、日々を穏やかに生きている。その陰で命を落とした者もいたし、未だに光と影の境界線を歩くような生き方をする者もいる。それら全てを見つめれば、正解などわからなくなる。

 それを責められたとしても、ジョウメイは現在を讃えたい。それは自分が若さを賭けた日々を認めることになるし、成就した思いに報いることでもある。ヒムカシの風は収まる

ことがなく、さながら青葉を茂らせる南風(みなみ)のように爽やかな色を残して吹き抜ける。

 しかし今は、風と光を避けていたいと思う。思い続けた女がいて、間に産まれた子ども

がいる。青嵐吹き荒ぶ緑野で錬金術の希望が生まれるなら、穏やかな時間が流れる翠蔭には家族の安らぎがある。風の巡りに憩いながら、錬金術士の寧日は過ぎていった。


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青いみなみ haru-kana @haru-kana

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