肆の戦 ≪ 面倒くさがる男

 


『自由であるというのは、自由であるべきとする観念に呪われているようなもの』── サルバドール・ダリ



──────────────────





■ 狂犬グループの幹部

  大隣おおとなり 憲次のりつぐ ── 曰く





 散散なことになってるなぁ──と、まるで他人事のように大隣憲次は思う。1年半という短くも長かった狂犬グループの歴史において、ここまでの被害もなかったことなのに。



 ⇒ 20XX/09/05[水]17:XX

   東京都豊島区南池袋

   陽向ケ原高校の屋上にて



 一昨日、吹田源治を含む下層構成員の5人が瞬殺された。昨日、幹部候補生ともいえる上層構成員の乾丞秀いぬいじょうしゅうが恥に塗れた。今日の昼休み、御意見番の三枝虹子さえぐさこうこが大地を拝んだ。その1時間後には、乾の相棒バディである上層構成員の五十嵐力弥いがらしりきやが敵に背中を向けてよもやの遁走を果たした。


 たった3日間の出来事である。たった3日間のうちに、8人のメンバーが失神、戦闘不能、戦意喪失の憂き目に遭って散った。まぁ、五十嵐の場合は、つい先ほど、大隣のほうでトドメを刺して散らせたわけだが。今もまだ1階の女子トイレの便座の上で血塗れになって峠に臨んでいることだろう。


 いずれにせよ、もはや事件である。


「丞秀と力弥ちゃんがナニされたんじゃ、もうアレだよなぁ」


 大隣のボスである狂犬のジンもまた、いつも通りの気怠そうな風情でいながらも、いちおうの危機感を抱いてはいるらしい。惰眠日和の穏やかな放課後を枕にするでもなく、さっきからぼんやりと、紫紺を帯びつつある夕空に緩慢な思索を馳せている。


「ほとほと困り果てたよ、ノリちゃん」


 中学時代に敵対関係にあった鬼束甚八おにつかじんぱち巣南重慶すなみじゅうけいがヒナ高へと同期入学、なんとなくの閃きでタッグを組んだことが狂犬グループの成り立ちである。それから、千葉や茨城へと繰り出し、ご当地の暴走族を順不同に壊滅させることで成りあがっていった。狂犬と奇人の傍若無人な乱痴気騒ぎの噂は一瞬にして関東全圏へと広まり、噂話が畏怖を呼び、畏怖が虚勢を呼び、虚勢が喧嘩を呼び、そのたびに勝利を呼んだ。また、巣南の雑な青田買いネゴシエイションも功を奏し、日を追うごとに勢力図を拡大。


 大隣は、珍しくジンのスカウトで入隊を果たした。誰かと繋がって共感することはおろか、会話自体を面倒くさいと思う男であり、1日の大半を無言のままに過ごしていても支障のない独善的な面倒くさがりなのだが、中学卒業時まで習っていた空手の腕前と、粛粛と鍛練されるべしとされている空手を喧嘩でも遺憾なく利用する不徳さを面白がられ、人事には無関心だったはずの狂犬によって肩を叩かれたのである。


 で、なにをするわけでなくなにもしないわけでもなく、ただウダウダと喧嘩して勝利を積み重ねていたらいつの間にか幹部になっていた。サクセスストーリーにはまったく興味ないが、だからと言って地位の返上を訴えるのも面倒くさいので、なんとなーく現在の地位に居候している。


 他人事に決まっているのである。下っ端ごときがどれだけ狂犬のために血を流して倒れようが、最終的にジンと幹部が立っていれば問題ない。そしてジンと幹部にはそれが可能であり、だから他人事としてゆるりと構えている。五十嵐の始末も、ああいう熱血漢の敗北があとあと面倒くさくなりそうだったからヤったまでのこと。


『ノリちゃんは、面倒くさがりなのになんで空手は続けてこれたんだ?』


 いつだったか、ジンに尋ねられ、


『ん。辞めるの、メンドい、くて』


『あー。そっちかぁ』


 その直後、幹部へと昇進したような気がする。狂犬グループが発足して2ケ月後のことだっただろうか。


 いつの間にやら古株である。係る忠誠心など微塵もないが、ジンは気楽でいられる男だし、幹部にも、伝統祭フェスを開いて楽しむべく積極的にミーティングしたがるような陰湿なバカなどひとりもいない。ノープランの陽気な連中なのであるからして、だから辞める理由もない。そしてだから、最終的に幹部以上の人間だけが立っていればそれでいいと思っている。


 しかし、つまり、


「ノリちゃんは潮時だと思う?」


 もしも今が、最終的に立っているがための最終局面であるとすれば、否応なく幹部が動くしかないのである。どのみち勝利するに決まってはいるのだが、勝利するためのプロセスに足を踏みこませなくてはならない。しかもそのプロセスとは、少なくとも今までのような、なんとなーくの喧嘩ではないだろう。


 面倒くさいことになってきたなぁ──弱卒どもを血塗れにしているぐらいでちょうどいい大隣にとって、今回の敵はだいぶん面倒くさい。


 屋上の地べたに胡座をかき、煙草マルボロを喫んでいるしか術がない。ボスの問いかけにウンともスンとも応えられずにいる。あげく、つまらない心模様にもなってくる。


「メンドいことになってきたなぁ──」


 校舎の床面積と同じ平米数を数えるのだからさぞや広いだろうと思いきや、紫紺に染まりゆく屋上からは大それた広さを感じない。きっと、あの茫洋の空が間近にまで迫ってきているからである。


「──とか思ってんだろノリちゃん?」


 どんなに曇っていようが、屋上ごときが、あの空に敵うわけがないのである。


「俺はさ、面白いのであれば、特に相手にこだわりはないんだけどな」


 大隣たちは、もしや鳥籠の鳥なのかも知れない。柵のない、フリースペースの鳥籠に収納された、その代わりに羽根を毟られた鳥。


「鷹だろうが。鯨だろうが。龍だろうが」


 屋上で1番の高さを誇る塔屋、その天辺を根城にしているジンであっても、もしや羽撃はばたけない鳥なのかも知れない。


「それとも、鬼だろうが」


 まぁ、他県へと遠征できるほどにフットワークの軽い鳥ではあるが。


 面倒くささに支配される大隣は、たちまち、そんなネガティブなことを考えていた。


「で、ジン。俺は、なにを?」


 こんな心模様さえも面倒になり、地面で煙草を揉み消した。吸い殻をツナギの胸ポケットにおさめ、左手にそびえている塔屋の箱をゆっくりと仰ぐ。


「狂犬グループにいること、それ自体が、どのみち社会的には面倒くさいこと」


 低音でポツポツと、降り始めの小雨のように語りかける。


「遅かれ早かれ、だ。だから、だったら、俺はなにをすれば?」


 すると、紫紺の空しか乗っていない箱の天辺が「うーん」と簡単そうに唸った。


「まだなにかが足んねぇんだよなぁ。俺の気勢モチベーションをあげるなにかが。それがなんなのか、わかんねぇことにはなぁ」


「乾や、三枝では?」


「かはは。ぜんぜん足んねぇ。もちろん、ふたりともよくやってくれたとは思うがな。乾はグループに緊張感をもたらしてくれた男だし、虹子はまぁ、勝とうが負けようがどうでもいいや。欲しくなった時に奪いにいけばいいというだけの女」


 情報屋でもある巣南が言うには、ジンが最後に三枝を抱いたのは今冬とのことで、発言の後半の部分が少し引っかかった。が、面倒くさいので追求するはずもない。


「じゃあ、なにが必要?」


「信頼感。実力のある電動工具がやっぱりメイド・イン・ジャパンだった──みたいな、確固たる信頼感が必要だ」


 なるほど。だとすれば確かに乾や三枝で足りるわけもない。100円均一の店で購入した中国製の工具には100円ぶんのポテンシャルしか備わっていないのである。カッターナイフだって、ワークマンのものであれば日曜大工にも使えるが、100均のものはせいぜい図画工作にしか使えない。むしろ手元を脅かされてヒヤリハット、商標を確認しているどころの話ではない。


 ならばと思い、腰を浮かせた。


 しかし、


「ノリちゃんの役目はソレじゃねぇ」


 まるで見ているかのようなジンの引き止め。


「俺らは最後に遊ぶ側だ」


 じゃあ、他に誰がいる?──わずかに腰を浮かせたままピックアップしてみる。しかし、グループの駒の中に適任者はいなさそう。例えば、中層構成員の中に絵面清貴えづらきよたかという1年坊がいて、図面を引くのが得意な優れた男ではあるのだが、いかんせん実戦が弱い。彼の貧弱さを補うように銀鏡和毅しろみともきという相棒がいて、ボクサー歴のある優れた男ではあるのだが、いかんせん頭脳が足りない。使える人材といえばこのふたりなのだが、いかんせん互いの欠点を補いきれていない未熟なコンビ。使うタイミングも含めての青写真は、間違いなく大隣の手腕に委ねられるだろう。


 手腕を発揮するのが面倒くさい。


 適任者はいなさそう。心当たりがあるとすれば、それはやはり幹部の誰かである。


「幹部以外で誰か動かせねぇモンかなぁ」


 大隣の沈思黙考を代弁するかのように、ジンがボヤいた。


 その直後のことだった。


おいらは動かんぜぃ?」


 平坦な屋上に、バリトンが鳴った。


 とっさに顎を振って見ると、いつの間にか塔屋の前に男が立っていた。175㎝ぐらいの背丈を強固な筋肉の鎧で覆う巨漢である。


 細かなストライプの引かれる黄土色のブレザーパンツ、緑系統のカモフラージュ柄が散りばめられるTシャツ、朽葉色のビーチサンダルと、なんとも和やかな軽装である。肩を突く茶色いロン毛と不精に伸ばされた顎鬚、そして貫禄のある巨体がそう見せているのかも知れない。サーファーのようであり、頼り甲斐のありそうな雰囲気でもある。


「ずいぶんと暢気のんきな会議をしておる」


 座りのある、ぎょろりとした大きな瞳で大隣を捉えている。


「議長がコレでは大変だな、大隣氏?」


 このおとこの名を、篁烈士たかむられっしという。


 綱紀遵守主義の『赤鯨せきげいグループ』を統帥するボスである。力任せの喧嘩術を有するが、例えば五十嵐とは違って合理的な接近戦を得意とし、1対多でも怯まない胆力メンタル、曲がらない剛力タフネス、じりじりと敵を後退させる凄まじい圧力グラビティを併せ持つ。単純明快な徒手空拳の喧嘩に限れば、間違いなくヒナ高の最強と言えるだろう。


 組織のためになるのであれば決して血を惜しまない──ゆえに「赤鯨」であり、


「レツ……」


「なんなら、ウチで働くかね?」


 そんな気高い兵隊の総帥が、顎をあげ、口角をあげ、仁王立ちで見おろしている。


 巨大デカい。彼の大胆不敵な巨躯は、まるで意思を持つ難攻不落の城塞のよう。


 おもむろに、浮かせていた腰をまっすぐに立ちあげる。とたん、城塞は180㎝を超える大隣の下になった。しかし、やはり圧力までは下にできないと悟る。


 対峙たいじして初めて知る。この漢は面倒である。


「どうかね? 俺に買われてみないか?」


 そう言って篁は両腕を広げた。圧力はさらに増し、予測する面倒の数も増す。


「俺ならば、買われ甲斐のある現場を提供してやれるぞ? 少なくとも──」


 生理的に、大隣は間合いを詰めていた。


「狂犬のように稚拙チープな会議など立てん」


 両腕を広げたまま微動だにしない彼の、その左頬のえらを目掛け、右の上段回し蹴り、一閃。


 しかし、


「ともに充実してみないか?」


 右の足刀は届かなかった。


「そう──彼のように」


 広げられる篁の左脇から、腕が生えていたのである。そしてその掌が大隣のスネを制し、軌道を逸らしていたのである。


 いつの間にか、篁の背後に、誰かがいる。


 初めてそのことに気づいた刹那、橋脚のような股の間から小柄な男があらわれた。どうやら篁の背面の腰ベルトに左手を引っかけてチンパンジーのようにぶらさがり、振り子の要領で股をくぐり抜けてきたらしい。そして振り子のスピードのまま、金的を目掛けて右の前蹴りを繰り出してきた。基本どおりの喧嘩キック。大隣は本能の左脚をあげる。電光石火の底足ていそくをスネで防ぐも、予想外の重たい痛みに1歩を後退。しかし後退しつつも怯まず、低位置にある敵の顔面を目掛け、上半身を乗り出しながらの右フック。


 ばちッ。


 まさに感電の炸裂音を立て、大隣の拳は小さな左の掌におさまった。すると男は、拳を掌握すると同時、突き出された大隣の右腕の下へと素早く潜りこむ。こちらに背中を見せている。一本背負いか。とっさに腕を引き抜いて拳のロックを外すも、意に反して男はさらに横回転、半周するや否や竹蜻蛉とんぼのように跳躍、同時に、左拳の甲を大隣の左頬に見舞わせた。裏拳バックハンドブロウ。反射的に左手を出して彼の左肩を押さえ、裏拳の衝撃力を散らせる。ごッ。硬い音を頭蓋骨に聞くと同時、頬に鋭利な痛みが突き刺さった。しかし制御が功を奏してダメージは浅い。浅いと感じた瞬間には、大隣はすでに右の膝を男の腰に突き立てていた。その衝撃に「く」の字にしなう彼の身体は簡単に吹き飛び、ほんのわずかな滞空の間に軽軽と側転ロンダート、こちらを向いた状態で足から着地。


 男が橋脚をくぐり抜けてからここまでの間、およそ6秒。


 165㎝ほどの小柄な男は、全身をブレザーで固めている。しかし履いている靴はオレンジ色のトレッキングシューズであり、いつでも動ける状態にある。


 黒いコーンロゥ。耳には無数のシルバーピアス。日本人にはない彫りの深い顔貌もあってアメリカのギャングを連想しないでもないが、一重瞼の下の眼光は仁侠道にあるソレである。


 男の名を、葛籠芯樹つづらしんじゅという。


 赤鯨グループの特攻隊長であり、総帥の腹心の幹部のひとりである。通称『閃光』に恥じない兵士の中の兵士であり、今すぐにでも始末しておかなければあとあと面倒な男である。


 空手を構える大隣。


 皆手かいしゅで構える葛籠。


 すぐに手の届く距離。


 体臭さえも届く距離。


 1撃がモノを言う距離。


 両の拳を固める。そして、ひと息の間に打ちこむべく間合いを詰めようとして、


「もう動きなさんなよふたりとも」


 ハスキーな声が遮った。


 拳を止めて見あげる大隣。発作的に振り返って仰ぐ葛籠。その視線の先、仁王立ちしたままの篁の左の首筋に、妖しくも鋭利な牙が光っていた。


「幹部同士が死合う意味を考えておくれ」


 極太の胸へと両手を回し、極太の腰へと両脚を回し、極太の背中に負ぶさるように絡みつく、今まさに頸動脈に噛みつかんとするジンの姿があった。上下ともにブレザーで固め、頭には白いタオルを巻いており、いつも通りの格好である。


 吊りあがった細い眉、逆に垂れさがったまなじり、奥二重、黒目の割合のほうが多い瞳、つるんとした小鼻、左右に幅広い口、唇の左上には小さな黒子ほくろがひとつ──ヤンチャそうであり、しかし妖艶でもある面立ち。


 体格こそボクサー体型だが、雰囲気は篁のそれに似ている。ボスの風格というヤツか。


「なぁ、レツ。あんたもそう思うだろ?」


「今日はよい天気だぁ。いきなり犬が降ってくるんだもんなぁ」


 ボス然とした微笑で篁が応える。


「で、降ってきてなにをするつもりだ?」


「噛むつもり」


「ほぉ。試してみるかい。出血多量で俺がブッ倒れるまでの間に、おまえが生き延びていられるかどうかをよ?」


「残念だなぁ。俺さ、逃げるの速ぇんだ」


「捕まったら終わりだぜ?」


「逃がしたら終わりだろ?」


 おんぶするレツとおんぶされるジン、一見すると天地ほどの力の差があるように思われるが、しかし、こと喧嘩においては互角の両雄と言われている。そして、これまでに1度も死合ったことのない、クライマックスをおいて他に死地のない組みあわせである。


 自然と、大隣の喉が鳴る。


「本気の本気でノリちゃんを青田買いしにきたわけでもあるまいに。男なんだから用件ぐらいハッキリ言えよ」


 紫紺に塗れたジンの挑発。すると篁、


「ふん。おまえが言うなという話だが。まぁいい。ひとつだけ忠告してやろう」


 やはり微動だにせずに告げた。


「どうも最近、百目鬼のお嬢ちゃんに傾倒している様子だが、残念なことに相手を履き違えている。鬼束氏よ。本当に危ぶむべき敵ってぇのはぁ、神鷹しんようのほうだぜ?」


「あん? なんだその忠告?」


 眉間に縦皺を寄せるジン。


 すると、篁がバリトンを返した。


「だからよ。鷹についばまれる前に片っ端から濫獲しておけと言っている」


「だからよ。なんでそれを仲良しでもねぇ鯨に言われなきゃいけねぇんだ?」


「面倒だからだ」


「ほぅ。面倒か」


「あぁ。あいつらは、俺らみたいに正攻法を使わなければ、おまえらみたいに気ままに動くこともしない。ワケのわからん策略を易易と練りあげる面倒くさい連中だ。だから、狂犬のほうで叩いてくれるとありがたい」


「勝手だな」


「給金はないが、感謝をくれてやろう」


 愉快そうな篁に「いちばん要らねぇ」と愚痴りながら、ようやくジンは城塞の背をおりた。それから迂回、いまだに構えたままでいる葛籠を一瞥、大隣の右に並ぶ。


 手の届く距離に、狂犬と赤鯨が対峙している。体格的にはボクシングとプロレスの異種格闘技マッチである。


「だったらおまえらでヤれや」


『狂犬のジン vs 赤鯨のレツ』──是非とも観戦したい。観戦するだけならば、こんなにも面倒くさくなく、むしろ娯楽性に富んだ組みあわせカードもなかなか存在しない。


 珍しく興奮する大隣のかたわら、


「百目鬼だろうがミネだろうが、俺らの気勢ひとつで敵はコロコロと変わる。ヤりたければ忠告されなくたってヤるし、ヤりたくなければ鯨が降ってきたってヤらねぇ。それが俺らの主義でな」


 タオルを微調整しながら続けるジン。


「危ぶむぐらいに興味があるんなら、レツ、おまえのほうでヤれ。実際、おまえん家には有能な兵士がワンサカいるじゃねぇかよ。ボスがヤれと命じれば惜しみなく命をかけられる兵士が。そうだろ──芯樹クン?」


 急に同意を求められ、びくッと戦慄する葛籠。しかし彼は無言のまま。彼のボスもなにも言わず、だらりと両腕を弛緩させてヌリカベのような強固さを貫くばかり。


 不意に、撫でるような風が吹いた。


 微風だが、はッとする風。


 上腕に、背中に、全身に清涼が伝播でんぱする。それほどの、止め処ない汗をかいている。


 残暑にたたずんでいると思い知る。


 しわしわしわしわ。


 確かに、蝉時雨が賑わっている。


 久し振りに耳にした気がする。


 虚ろな、憐れな鳴き声に思える。


 と──、


「ふん」


 わずかな静寂を破り、篁が鼻で笑った。落胆しているようであり、しかし憤慨しているようなニュアンスも仄かに感じる。


「そうか。あいわかった。いや、案の定と言ったほうがよいか」


 なにもせず、ぐるりと広い背中を。


「俺はな、万全の状態にある狂犬と決着をつけたいだけだ。なにせ来年にはヒナ高を卒業する身だからな。素敵な思い出のひとつぐらいはつくっておきたい。大事なところで啄まれて手負いの犬になるのだけは勘弁してくれよ? 動物虐待は好かんぜ?」


 そう嘲笑すると、開かれる扉へと退いた。葛籠もまたジンを睨みながらボスの背中を追う。そして塔屋へと、今、まさに足を踏み入れようとする刹那のことだった。


 ばっしゃあッ。


 下の階から、硝子の割れる音が轟いてきた。それはずいぶん下からであり、しかも校外に向かって割れたような、鮮度のある音だった。


 玄関のあたりだろうか。


「あぁ? なんだぁ?」


 いぶかるジン。篁と葛籠もまた歩みを止め、大きく視線をさまよわせている。


 しかし、ジンも大隣もまだ知らないのである。この破壊音こそジンを魅了する音であり、また大隣を戦地へと誘う、決定的にして面倒くさい、契機きっかけの音であることを今はまだ。





   【 了 】




 

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