貧民窟の仄暗い路地を、右も左も分からず走り抜ける。

 鮫ヶ橋を出て行かなければならないという強迫観念じみた思いはあっという間に花の心を真っ黒く塗り潰して、それ以外の別の何かを考えることを放棄した。

 行くあてなどない。死ぬつもりもない。

 かといって、籠の鳥になることを受け入れたわけでもなかった。

 定まらない心を抱えて、残夢のような街を駆ける。日は疾うに暮れた。西の空はぱっくりと口を広げ、常闇の青で茜を喰らい尽くそうとしていた。


 高台に出ると、周囲の景色がまるで違うものに変わった。

 洋風建築や伝統的な日本屋敷の建ち並んだ通りは、なるほど蛹に伝え聞いた屋敷町の威風あらたかだ。銀座の煉瓦通りを目にしていなかったら、その場で立ち竦んでいたかもしれない。

 山の手に立地する牛込は、華族や官僚が豪奢な邸宅を構えた閑静な高級住宅街だ。三春屋などが軒を連ねる四谷内藤町の街道沿いのような賑わいはない。

 色街のかもす甘い毒は、この清廉な通りには届かない。

 だというのに、五感は得体の知れない影が花を絡め取ろうと触手を伸ばして来るのを、鋭敏に感じ取っていた。


 瓦斯がす灯の明かりがちらりと揺れる。

 花の黒髪が夜嵐に巻き上げられ、雲間から霞んだ夕月が影を落とす。

 こつりこつりとやけに規則正しい歩調で長靴が石畳を叩く音が、花の耳を過ぎる。

 振り向くと、かっちりとした制服に身を包んだ背の高い男の姿があった。

 隆景だ。

 長く伸びた影が、すっぽりと花を飲み込む。

 驚いて目を瞠った花に対して、隆景は眉根を上げただけで、何事もなかったかのように歩を進めた。そのまま素通りするかに見えた隆景が、花の目前で歩みを止める。


「すっかりみすぼらしくなったが、蛹が水をやっている蕾に違いないな?」


 隆景は佩刀したサーベルを鞘ごと抜き取り、その先端で花の顎を持ち上げた。

 灰色の感情のない瞳にはち合わせて、思わず吐き気が込み上げる。この細く切れ上がった瞳が、蔑みと情欲の混沌にまみれた色で、蛹を見つめた。

 花は、着物の袖を握り締める。

 今、花が身につけているのは、蛹のお下がりではない。故郷を出てきた時に着ていた、着古した襤褸布だ。しばらく着ていなかったが、すっきりと身体によく馴染む。

 蛹に寄生することをやめると決めた以上、彼の与えてくれたものに縋ったりは出来ない。

 けれど。


「その不似合いな飾りは、変わらないのだな」


 花の顔が羞恥に喘ぐ。

 しなびて褪せた花弁に身を寄せる蝶は、まるでつり合いが取れない艶やかな色合いをしていた。

 本当はこのリボンも、花が持っていて良いものではない。だというのに、どうしてかこれだけは手放すことが出来なかった。

 俯いた花に、全てを見透かすような無機質な視線が注がれる。

 ともすれば、胸に秘めた想いまで暴かれてしまいそうだ。


 だが、それが何だと言うのだろう。

 花は毅然と顔を上げ、隆景を睨めつけた。


「蛹に近づかないで」

「何を勘違いしているのか知らないが、あれ、、は自らの意思で身を売っているのだよ。ちっぽけな独占欲を振りかざすのは勝手だが、私が気を損ねてあれを捨てれば、困窮するのはあれに過ぎぬということを覚えておくと良い」


 隆景はそう言って取り合わず、花の要求を一笑に付した。

 花も、隆景の言い分が分からぬほど頑迷なわけではない。

 感情では受け入れられなくとも、理性でまで蛹の生きる糧を奪おうとは思わない。それでも口を噤まないのには、理由があった。


「あなたは、良くない感じがする。いつかきっと、蛹を飲み込んでしまうような」


 花の声は透明に、春宵の帝都に融ける。

 隆景の喉がゆっくりと唾を嚥下する。

 取るに足りない塵だったものを獲物と認識した獰猛な瞳が、初めて花に牙を向く。


「なかなか鼻の利く――ああだが、もうお前はあれの元にはないのだな。用心深いあれのこと。庇護下に置いたものを、私の目に晒すなどという手抜かりはしないはずだ」

 隆景は大して興味を引かれた様子もなく、花を視界から締め出した。


「あれが幼子を拾ったと知って、繭の破れる兆しかと疑ったが……所詮戯れか、はたまた一時の慰みか」


 誰に聞かすでもなく、不興と安堵が綯い交ぜになったような声が落ちる。花の耳は、その声を正しく拾い上げた。


「……繭?」

「知らぬか」


 言い、隆景はくつくつと嗤う。


「あれの父親は、民権運動の壮士だった。だが、志半ばで弾圧に遭い、獄死した。間もなく母親も心労で病に倒れ、あれは帝都の遠縁を頼って上京した。およそ十年ほど前のことだ」


 花の瞳が見開かれる。蛹とは、色々な話をした。

 けれども、彼が自らの過去について一度だって口を割ったことはなかった。


「見目の麗しさが仇となったのだろう。憐れにも、幼いあれは、上野で飼屋かいやの手に落ちた」


 花の背を、冷たいものが伝う。

 飼屋とは、誘拐同然の手段で人を攫い、私娼に仕立て上げることで知られている。

 飼屋につながれた私娼には、公娼のような年季もなければ、身請けする者もない。逃亡しようとすれば、雇われ兇漢によって阻まれる。

 まさに、この世の地獄だ。


「五年も経つと、飼屋が死んだ。晴れて自由の身というわけだ。だが、あれはそのときすでに抗う意志を捨て去っていて、あろうことか私に身を委ねた」


 朧月が融けだした光芒を宿した隆景の瞳は魔を孕み、花をその場に縫いとめる。

 為す術もなくぼんやりと焦点の合わない瞳を向けた花に、隆景は狂ったような嗤い声を降らせた。


「――あれの父を弾圧した勲功で、華族に叙された父を持つ私に」


 視界が真っ赤に焼き尽くされる。

 身体中の血が、沸騰したかのようだ。怒りに目の眩んだ体が、思考から乖離する。剥き出しの歯の間から声にならない声が漏れ、花を縛る鎖が自身の熱によって跡形もなく焼け落ちる。

 気づいた時には隆景に飛びかかっていた。


 隆景が、鞘入りのサーベルを振るう。

 面白いように花の身体が吹き飛び、冷たい石畳に叩きつけられた。


「私に怒りをぶつけるのは筋違いというものだ。あれは私が何者か知っていて、その上で今なお私に跪く。まこと愛い道化よ」


 呻き声を上げる花には目もくれず、隆景は続ける。


「自由を謳った父を持ち、苦界から抜け出すだけの財を持ちながら、自ら囚われることを望む。まるであれは、戦の熱狂に自由への希求を忘れ去った、愚かな民衆の体現者だ」


 言うなり、隆景はよく訓練された軍人そのものの足取りで花の元を離れてゆく。

 音高い軍靴の残滓が、花の耳にこびりついている。

 だが、花が今すぐに胸倉を掴んで怒鳴りつけたいのは、隆景ではない。


 花は自らの臓腑さえ焦がすほどの苛烈な怒りを抱えて立ち上がった。

 身を切るような寒さも忘れ、夜の淵へ沈みゆく帝都を走り出す。



 牛込から四谷に舞い戻って間もなく女衒連中に見つかったのは、まったく不運としか言いようがない。

 足が重い。体が鉛のようだ。

 疲弊しきった足に鞭を打って、花は街路を駆ける。

 もっとも、相手は大の男。それも、女衒に加えて彼に雇われた破落戸が二人もいる。数でも劣る花が敵うはずもない。

 けれども、そう嘆いてこの身を放り出すわけにはいかなかった。

 一言で良い。

 心に強く想うその人に、文句を言ってやらないと気が済まない。そう思うのに、次第に足が縺れて視界までもが霞みだした。


「手間掛けさせやがって!」


 荒々しく肩を掴まれる。膝ががくんと地に崩れる。

 腹いせとばかりに頬を張られ、花の矮躯は汚泥の中を滑った。

 ずっと張りつめていた意識が途切れかける。それを引き戻したのは、新たに与えられた痛みだった。


「お嬢ちゃん、親に払ってやった金の分、しっかりその体で返してもらおうか」


 ねっとりとした声が、耳元から花を冒す。

 おかっぱの髪を力任せに掴んで引き上げたその男は、女衒の前に花を放った。

 物のように花の体が地を転がる。

 花の願いに反して、女衒は商品の娘に不相応な金目の品に目ざとく気づいた。


「一丁前に舶来品を身につけるなど。盗みでも働いたかな」


 ぶよぶよとした指が、リボンに伸びる。

 花は、きつい睥睨と共に女衒の手を払い落とした。


「やだ! さわらないで」


 女衒がぽかんと口を開く。破落戸どもの表情がさっと気色ばむ。

 どうやら花の態度は、女衒連中の神経を逆撫でしたようだった。

 貧農の出の、年端もいかない小娘に軽んじられたのを、屈辱と感じたのだろう。女衒がもはや言語とは思えぬ何事かを捲し立て、それを合図に男たちが花へと躍りかかる。

 花が目を瞑り、訪れる衝撃を覚悟した時だった。


「皆さんお揃いで、こんなちびちゃん一匹蛸殴りたァ、胸が空かねえや」


 どこか芝居がかった、軽薄な調子の声。

 見開いた瞳に焼きつくような、凄艶な立ち姿。

 いつの間にか花をひどく安堵させるようになった広い背中がそこにある。


「――さなぎ……!」


 来てくれた。あれだけ勝手をして、ひどい言葉を投げつけたのに、蛹は花を見限らなかった。

 痛い。

 殴られた頬よりも、傷だらけの手足よりも、この小さな胸が締めつけられるように痛い。

 どうして、とひび割れた唇が、ずっと聞きたくて聞けなかった言葉を弱弱しくなぞる。

 どうしてこの人は、いつだって花を助けてくれるのだろう。捨て置いてくれないのだろう。


「ふ……ふざけやがって!」


 突然の闖入者に呆けて突っ立っていた女衒連中が、威勢を取り戻す。

 蛹も伊達に帝都の暗部を生きてきたわけではないらしく、二人を相手に応戦を始めた。

 けれども多勢に無勢という状況が覆るわけでもない。今や蛹の身体は、あるいは花よりずっとぼろぼろだった。血を流し、傷をつくり、疲弊していた。


「どうしてだろうなあ。お前を見てても、いらつくだけなのに」


 荒い呼吸の継ぎ目に、答えにならぬ応えが独白めいて花の鼓膜を震わす。言葉とは裏腹に、花を守る腕が緩む気配はない。

 涙がぽろぽろと溢れ出す。胸の中を、春嵐が荒れ狂う。

 口を開かずとも全身が喉を嗄らして叫ぶ声を、花は聞いた。花の小さな体では飽き足らず、外へと飛び出したその想いは、祈りとなって天へと昇る。

 ああ、とたまらなく声が漏れた。


 好きだ。この人が。どうしようもないくらいに、泣きたいくらいに――この人が好きだ。


 花を狙った一撃が、代わりに蛹の鳩尾に叩きこまれる。体を折った蛹が、地面に胃液を撒き散らした。


「蛹!」


 悲鳴のような声を上げて、花は蛹に駆け寄る。

 途端に伸びてきた蛹の手のひらが、まるで何も見なくて良いとでもいうかのように、花の視界を覆った。

 花の身体がどっぷりと深淵に沈み込む。その空間には、花を傷つけるものなど一つもなかった。揺籃の中は心地よく、このまま身を預けていられたらどんなに良いだろうと思わせる。

 けれどもそこには、何もなかった。

 牙も棘もない代わりに、花自身さえもが漠々として、己の影すらこれと分からなかった。何一つ確かなものがない真っ暗闇の空間に、それはとぷんと音を立てて落ちて来る。


「やるなら俺をやれよ。後悔させねェぜ?」


 底を知らない冷たさだけでかろうじて成り立った、知らない人みたいな男の声だった。

 言うなり、蛹は花を、彼を取り囲む輪の外へと押し出す。蛹の手が離れる刹那、片頬を上げて囁かれた言葉に、花は耳を疑った。


 ――逃げろ。


 その意味するところは、蛹が女衒の手下どもにやられて時間を稼いでいる間に、この場を離れろということ。

 女衒一人の足では、花には及ばない。

 彼はきっとやり遂げるだろう。

 花は蛹がどんな人物たるか、十分すぎるほどに知っている。

 知っているからこそ、大人しく彼の元を去るのではなく、口汚く罵りに来たのだ。


 すうと息を吸う。晩冬の澄みきった大気が、全身に行き渡る。

 水を得た魚のように、ぼろぼろの身体が軽くなる。


「ばか!」


 花の叫びは脇目も振らず、夜気を切り裂いて蛹に行きつく。


「あんたってやつは、ほんとにばかよ!」


 雷鳴が轟くよりもなお天地を揺るがす声が、蛹を叱咤する。

 思惑に反して、花の剣幕に凍りついたのは女衒連中だけだった。

 蛹が、視線だけで人を射殺せそうな瞳で花を睨む。


「花、てめえ何聞いてた!?」

「あんたこそあたしの話を聞いたらどうなの! 蛹はばかよ! どこが同類なの。あんたはあたしとは、全然違う!」


 隆景は、蛹を道化と嗤った。

 あの支配者面した華族様には我慢ならないが、隆景の言うことは真実を突いていると花は思う。


 一級品を纏うだけの財を持ち、隆景を満足させるだけの学も持ち合わせている、およそ貧民窟にそぐわぬ男。

 生えそろった羽を持て余して籠の中にあることを望む姿は、水を与える手が止まればたやすく枯れる花とはまるで異なる。


「その人を離して」


 花は唸るように命じ、女衒の元へと辿り着く。蛹の痣だらけの身体が、形振り構わず刃物まで持ち出した破落戸から解放される。


「要らない。蛹の助けも、蛹がくれるものも、全部全部要らない!!」


 花は、髪に留まる蝶に手を掛け、思いきり蛹に投げつける。


 夢は破れた。今、花はあるべき場所へと回帰する。


「早く、行ってよ! あんたはどこにでも、あたしの知らないところに行っちゃえば良い!」


 蛹の身体が地に倒れる。

 けれども花はしっかと見た。

 今にも大空へ飛び立ってゆけるような立派な羽が二対、蛹の背に折り畳まれている。

 だから花は、張り裂けそうな声で叫ぶ。


「早く行って! あんたはいくらだって自由になれる!」


 蛹の身体が、花の言葉に呼応するようにびくんと脈打つ。

 縋るように伸びてきた視線に背を向け、花は女衒の拘束を受け入れる。


 ちょっとだけ名残惜しくなって、花は蛹を振り返った。


「ばいばい、蛹」


 地に伏し、こぼれんばかりに目を見開いた蝶に、花は泣き笑いの顔をして終わりを告げる。


 東の空が、白みだした。破落戸が傾いだ花の身体を抱き上げる。

 混濁する意識の中、微かに聞こえた慟哭は痛みを孕み、花の内奥に強く強く刻みつけられる。



  ***



 薄く差し込む光を頼りに、汚泥の中で目を覚ます。

 中空を、日輪が照らしている。あれから数時間の時が経ったらしい。


「……痛ぇ」


 水気を失った口から、干からびた呻き声が漏れた。

 塞がりかけていた口内の傷が開いたようで、血の味が口腔を冒す。


 柄にもなく睫毛を濡らした液体を拭う。

 もう何年も流していなかったものだというのに、おかしなものだ。まるで子供のようにとめどなく溢れてきたそれは、引っ込むまでに随分と長い時を要した。

 あの娘が家に転がり込んで来てから、調子を狂わせられっぱなしだ。


 惰性のような生を続けていられればそれで良かった。花を拾ったのだって、憐れな娘の身の上に幼き日の己を重ねはしたが、飽きればそれで終わりのままごとのつもりだった。

 なのに、まるで楽しいみたいに笑った。

 心の底から怒りを覚えた。

 今胸を浸しているのはまさか、悲しいという感情だろうか。


「俺は、あんなちびちゃん一匹助けられやしねぇのか」


 ちくしょう、と振り下ろされた拳が泥を散らす。

 助けられたいとも思わない目をしていた。

 彼女は全身で怒っていた。嵐を閉じ込めたような瞳で、蛹を弾劾した。


 両親が示した反逆の精神を嘲笑うかのように、蛹は底辺ともいうべき階層に身を落とされた。

 初めは立ち塞がる困難を乗り越えて、成り上がってやるつもりだった。飼屋に与えられた蛹という屈辱的な名に甘んじた。

 金を与えられては、綺麗な色の衣を買った。飽かれることのないように、何度もその繭の色を変えた。見せかけの羽を生やしながら、いつかは羽化できると信じていた。

 しかしいつの頃からか、みどり色をした薄い皮の下に羽が生えそろったのを知りながら、それに目を背けて生きるようになった。

 時代は目まぐるしく移り変わって沈黙し、自由を謳うものは居なくなった。

 蛹は、抗うのをやめた。囚われ続けることを選んだ。

 立ち上がる気力が、あるはずもなかった。


 だから、だろうか。

 時代を憎悪するかのような、自由を叫んで憚らない花の魂のありように、強く惹き寄せられた。無知ゆえの豪気に苛立ちながら、あるいは羨望か嫉妬すら感じた。


「花、か」


 似合わない名だと思う。

 火のような衝動を抱えて大地を踏みしめる足は、蛹のものより余程力強い。あの娘は、大人しく観賞されているような可憐さは微塵も持ち合わせていない。

 ああでも、笑う姿は蕾がほころんだようで、まるで花のようだと思う。

 そんな彼女が、自分に蝶になれと言う。ならば――なってみせよう。彼女はどこにでも知らない場所に行けば良いと言った。けれど、分かってないなあと思う。

 羽化した蝶は、花の元にあらねばならないというのに。


 蛹は壁に手をつき、かろうじて立ち上がる。

 身体の底から湧き上がってくる衝動に突き動かされるように、ずるずると足を引きずって歩く。

 覚悟は決めた。花や彼女と同じような苦しみに身を沈める者があるならば、喜んで己は反逆の咎を負おう。

 自由を謳おう。

 空耳だろうか。春光を浴びた背から伸びた羽が羽ばたく、始まりの音が聞こえた気がした。



 ***



 休日の隅田川沿いは家族連れで賑わう。沿道に並ぶ桜はまだ咲き初めることを知らないが、その蕾は淡く色づき、萌えいづる恵みの季節の賛歌に忙しない。

 すぐそこまで押し寄せている春のおとないに焦れたように、人々は寒空を仰ぐ。

 川原で肩を寄せ合う女学生たちが話しているのは、つい先日帝都の色街を騒がせた身請け話だ。

 女郎を落籍ひかす男といえば、大抵毛並みの良い良家の出と相場が決まっていて、貧乏人には縁がない。

 けれども今回その女郎を身請けしたのは、みすぼらしいなりをした若い男だと言う。しかもその男がわざわざ三春屋の格子の中に踏み込んで金をばら撒いてまで欲した女が、まだ店出し前の小娘だったというから、ちょっとした珍事だ。

 あろうことか娘は現れた男を見て激怒し、店の中をめちゃくちゃにする大喧嘩のあげく、果てには男の説得に折れて号泣するなか落籍され、話はそれで仕舞い。


 熱っぽく語り続ける友人をよそに、女学生がふと顔を上げる。


 川沿いの道を、からころと下駄の音を響かせながら歩いて来る二つの影がある。

 兄妹だろうか。少女に手を引かれ、苦笑交じりに男がその後に続いてゆく。

 少女の顔がぱっと輝いて、土を分けて顔を出した萌黄色の新芽を指差す。その上を舞い踊るのは、川向こうから飛んできた紋白蝶だ。

 ひとしきりその様子を眺めると、少女は柔らかく目を細めて男を仰向く。

 まるで、むずがって春に焦がれていた蕾がほどけるような、たまゆらのとき。


 あれ、と女学生は腰を浮かしかけ、思い直して元の場所に戻った。

 相変わらず、隣ではかしましい学友の声が響いている。友人が彼らに気づいた様子はない。

 女学生はくすりと笑うと、上機嫌に鼻唄を歌い出す。

 その祝福めいた旋律は隅田川の流れにとけて、帝都をゆっくりゆっくりと下ってゆく。

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恋待蕾 雨谷結子 @amagai_y

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