夕暮れに染まるまで

咲川音

夕暮れに染まるまで

 外はもう、すっかり夏になっていた。

 まだ昼前だというのに目眩がするほど眩しい日差しがアスファルトをじりじりと照りつけている。逆上せた顔を上げれば、どこまでも続くような坂道の先にまだ目的地は見えなかった。今日は八月の何日なのだろう。ここしばらく閉じこもっていたせいで日付の感覚がすっかり狂っている。

夕輝ゆうき―! 遅いよー!」

 俺の数メートル先を歩いていた透花とうかが振り向いて叫ぶ。

「そんなにのんびりしてたら日が暮れちゃうよ」

「しょうがないだろ、この暑さなんだから。大体なんでお前はそんなに元気なんだよ」

「夕輝とは鍛え方が違うんだよーん」

 言うなり透花は軽やかに坂を駆け下りてきて、うだうだと歩く俺の腕をぐい、と掴んだ。

「ほら、さっさと歩いた歩いた」

 笑みを浮かべるその頬は紅潮し、小さな額にはうっすら汗が滲んでいる。思いがけず近いその距離に俺は慌てて目をそらすとその手を振りほどいて言った。

「引っ張るなって。そもそもお前が『最後に中学校を見ておきたい』なんて言うからわざわざ付いて来てやってんのに……」

 透花がむっと唇を尖らせる。

「別に一緒に来てくれなんて頼んでないし」

「ばか、お前一人でなんて行かせられるわけないだろ」

 俺はぼそりと反論して透花に向き直る。透花は一瞬きょとんとした表情で俺を見つめ返したが、やがてその口元をふわりと解いた。

「……なんだよ」

「ううん、変わってないなあと思って。夕輝のそういうところ」

 そう言って嬉しそうな顔をこちらに向けるから俺はもう何も言い返せない。

「なんかさ、こうやって一緒に歩くの久しぶりだよね」

「そうだな」

「夕輝がいつも私を置いていくからね。あーあ、前は手を繋いで仲良く帰っていたというのに」

「いつの話だよ」

 幼稚園から一緒で、家も近所の俺達はいわゆる幼馴染という関係だった。幼い頃は学校の登下校はもちろん、放課後も公園へ行ったり互いの家を行き来したりと一日の大半を透花と過ごしたものだ。そして透花の言うように、遊び疲れた帰り道には何の恥じらいもなく手を繋いで夕暮れの道を歩いていたのだった。

 こいつと手を繋がなくなったのはいつからだろう。

「ほんとに静かだな」

 かつて降り注ぐ蝉の鳴き声に空気を震わせていたこの通学路も、今ではしんと静まり返っている。

 この道を二年間通ってきた。中学に入学してすぐの頃、クラスメイトに透花との仲を噂されたのをきっかけに俺は一人で登下校するようになった。たまに透花が追いかけてくることもあったが、俺はその度にぶっきらぼうにあしらっては誰にも見られないようにと足早になっていた。多分この時の俺は、まだ何もわかっていなかったのだと思う。透花のいるこんな日常がずっと続いていくと信じて疑わなかったから、自分の気恥ずかしさばかりを優先してしまったのだ。透花との時間が最後になった今になって、馬鹿な俺はやっと後悔をしている。

「夕輝! ほら、学校見えてきたよ」

 突然声を上げた透花はそのまま勢いよく坂を駆け上がっていく。

「おい、だから置いていくなって!」

 俺が叫んでも透花は立ち止まらない。たまに俺の方を振り向いて手招きしては、またすぐに前を向いて走って行ってしまう。

「透花……」

 視界に溢れる光の中をセーラー服の背中が遠ざかっていく。二つに結んだ長い黒髪が、動きに合わせてぴょこぴょこと跳ねていた。

「あんまり走ると転ぶぞ……」

 また、昔みたいに。


 息を切らしつつ何とか坂を登りきると、透花は開いた校門の先で俺を待っていた。駆け寄る俺に小さく笑顔を見せて、並んで校舎まで歩きだす。

「門、開いたままだったのか」

「うん。よかった、閉まってたらどうやって入ろうかと思っちゃった」

「お前なら楽勝だろ。いつも猿みたいにどこにでも登ってるじゃねーか」

 そう笑ってからかえば、大きな目に睨み付けられる。

「なにさ、夕輝なんて木から降りられないってビービー泣いてたくせに!」

「そんなの幼稚園の頃の話だろ! いい加減忘れろよ!」

「やだねー、一生覚えててやる」

 こんなくだらない言い争いが俺達の会話のスタイルだ。大抵透花の方が一枚上手で、最後には俺が負けてしまうのだけれど。

 駐輪場には置き去りにされた自転車が重なり合いながら倒れている。その横を通って校舎のドアを開けると、光の入らない薄闇に靴箱がひっそりと並んでいた。

「あーあ、やっと日陰だ」

 息をついて中に入ろうとした途端、後ろから声が飛んできた。

「あっ、なに靴のまま上がってんの。ちゃんと履き替えなきゃ」

 俺は振り向いて、上履きに足を通している透花をじっと見つめる。

「どうせ誰もいないのに?」

「……それでも駄目なの。学校なんだから」

 駄々っ子の理屈のような言葉と共に、透花は俺から目を逸らしてしまう。靴箱を閉める鈍い音が、しんとした空間に虚しく消えていった。


「で、どこに行きたいんだよ」

「とりあえず教室に行こう」

 階段を上がった先の廊下をまっすぐ歩けばその突き当りに二年三組の教室がある。引き戸に手をかけると、ガタガタと引っかかりながらもそれはちゃんと開いた。

 誰もいないがらんとした教室は、最後にここへ来た時の光景をそのまま残していた。窓から差し込む光が、埃のたまった部屋の隅々まで照らし出している。

「いつも通りだね、教室」

 後ろから顔をのぞかせた透花は嬉しそうに言って自分の席まで歩いていく。窓際の前から三列目。この前の席替えで廊下側の俺の席とはずいぶん離れてしまった。

「さすがに冷房はつかないか」

 いくら押しても反応しないスイッチに諦めて、俺は席についた透花の傍に立つ。

「でも、ここ開けたら大分ましじゃない?」

 グラウンドに面した窓を開けると、心地よい風が部屋にこもる熱を吹き散らしていく。透花は気持ちよさそうに目を細めると、窓辺に寄りかかって外を見下ろした。

「ねえ、夕輝」

「ん?」

 こちらを向かないまま透花は続ける。

「この前、一組の西野さんに告白されたって本当?」

 ぼんやりと雲の流れを追っていた俺は、突然の話題に咳き込みそうになりながら慌てて透花に視線を戻した。

「な、なんでお前がそれ知ってるんだよ!」

「噂で聞いたの!」

 俺はもう頭を抱えるしかない。

「あーもう、誰だよ言ったのは」

「で、本当なの、嘘なのどっち?」

「……本当だよ」

 そう返しても透花は窓の外を向いたままでその表情は分からない。ただ小さくふうん、とだけ言ってそのまま黙りこんでしまう。

「別に、隠してたわけじゃないけど」

 二人の間に気まずい沈黙が降りる。俺はこれ以上どう言えば良いのか分からず透花から目を逸らした。やけにはっきり聞こえてくる壁時計の音がカチカチと俺を追い詰める。流石に何か言わなくてはと口を開いたその時、透花が呟きのような言葉をもらした。

「なんて……」

「え?」

「なんて答えたの? 夕輝……」

 問いかけるその声音が思いの外しおらしくてどぎまぎしてしまう。

「断ったよ、ちゃんと」

 風が髪をなびかせていく。

「好きな奴がいるって……」

 俺は恥ずかしさに口元を抑えて俯いた。ほとんど告白の様な覚悟を持って言った言葉にも、透花はふうんとしか答えなかった。

 しばらくの静けさの後、透花がやっとこちらを向いて言った。

「ねえ、折角だから他の所にも行こうよ。このままずっとここで過ごすのは勿体無いし」

「ああ、別にいいけど……」

 いつもの透花だったらもっと食い下がってくるはずだ。それがあっさりと話題を変えたことに戸惑いを覚えつつも俺は透花の意見に従う。

 透花は気にならないのだろうか? 俺の好きな奴が誰かということを。それとも……

「ね、早く行こうよ。私、部室も見ておきたいんだ」

 俺の手を引っ張る透花の表情からは何も読み取れない。と、次の瞬間、そのまま走り出そうとした透花の足がふらりとよろめいた。

「透花!」

 傾く華奢な体を慌てて支える。

「おい、大丈夫か?」

 全身の血の気が引いていく。問いかける声が震えた。

「ちょっと目眩がしただけ。大丈夫だよ」

 けれど腕の中の透花ははっきりとした声でそう言うと、ありがとうと微笑んだ。

 ほっとすると同時に、抱擁する形になっていたことに気づいて勢いよく手を離す。透花はそんな俺の様子に気づかないのかにこにことした笑顔のまま、それじゃあ行こうかと無邪気に背中を押してきた。


 図書室や食堂、そして陸上部の部室など校内を一通り見て回った俺達が最後に訪れたのは屋上だった。ここは本来立ち入り禁止なのだが、俺達は先生の目を盗んでは度々来ていたのだ。

 去年の夏、古びたドアがヘアピンで簡単に開くのを発見したのは透花だ。俺はいつ見つかって怒られるか分かったもんじゃないと反対したのだが、二人だけの秘密にしようと耳打ちする透花の笑顔一つで、結局何もかも承諾してしまったのである。

 見慣れたドアを開いた瞬間、眩しさが一直線に目を貫いた。青空の下さらされた白い床が一面に光を反射している。細めた目でさらにその奥を見れば、柵の向こうには俺達の住む町がどこまでも広がっていた。

「いい景色だなー」

 まき散らされた煌めきの中を進み、柵に手をかける。

「あれ、夕輝の家だね」

「え、どこ」

「ほら、あのビルの後ろ。ちょっと隠れちゃってるけど」

「あ、わかった。そんであそこ……透花の家」

 指さしながら隣を見ると、同時に透花も俺の方を向いた。吐息が触れそうなほど近い距離で見つめあう。顔が一気に熱を持つのが自分でもわかった。うまく息ができない。

 絡まる視線を逸らせないまま固まっていると、目の前にある透花の瞳がふっと柔い色を見せた。

「前、一緒に……お弁当食べたこともあったね、ここで」

 細い指先が肩に揺れる髪を巻き付けていく。照れた時の透花の癖。

「誘ってもあんまり来てくれなかったけど」

「しょうがないだろ。一年の時はクラスも違ったし、他の奴らだって色々」

「うん。だからね、ここ見つけた時はラッキーって思ったんだ。ここだったら誰にも見つからないし、だから夕輝もたまに昼休み来てくれて……」

「え……?」

 俺はその言葉の真意を問うように聞き返す。だってその言い方はまるで――けれど透花はそれ以上何も言わず、景色の方に目線を戻してしまった。

「私達さ、ほんとにずっと一緒だったよね」

「ああ」

 中途半端に抱いた期待は、激しい心臓の鼓動に形を変えて俺の胸を打っている。

「クラスもほとんど同じだったもんね。すごいよね。ねえ、初めて会ってからもう何年だっけ」

「多分、十年くらいにはなるんじゃねぇの」

 十年かあ、と透花はため息交じりに笑う。

「長いね」

「ああ」

 そしてどちらからともなく口を閉ざす。いつの間にか風はやんで、太陽の光だけがまっすぐに届いていた。

「ねえ。シェルターを出てからどれくらい経ってる?」

「さあ……十時過ぎには出たから、もう四時間は外にいるな」

「そっか」

 俺達の交わす言葉はしんと重く沈んだ空気に飲み込まれて、何の響きも残さずに消えていく。

「信じられないよね」

 透花の寂しげな声。

「私達、あと四時間で死んじゃうなんてさ」


 始まりはヨーロッパの方で起こった小さな戦争だった。俺達が小学校を卒業する頃に勃発したそれは、当時世界各国で行われていた争いの一つとして埋もれ、人々は不安を抱えながらもいずれ終息するだろうと楽観的にとらえていたのだ。しかしそんな期待を裏切るように二国間のいざこざは次々に他国を巻き込んでゆき、気が付いた時にはもう手に負えない程の規模となってしまったのだった。

「ねえ、日本もそのうち戦争になるのかな」

 町を歩くと至る所で目につく仰々しい扉に透花は時折不安そうな顔を見せていた。万が一のためにと政府が作らせたシェルターだ。

「さあ、今のところその意思はないって言ってるけど」

 生活の中に入り込む明らかに異質なそれに、俺は当たり前にあった日常が徐々に壊れていくのを感じていた。

 とはいえそれから特別変わったこともなく月日が過ぎ、二年生に上がる頃にはシェルターのある風景にも違和感がなくなっていた。ギリギリながらも保たれている平和だ。じきに戦争も終わる。そんな風に思い始めていたのだが。

 まだ新緑の眩しい五月、それはけたたましいサイレンと共に終わりを告げた。

「夕輝! 夕輝!」

 悲鳴のような声に辺りを見回すと、押し寄せる人の波にもまれて透花がこちらに走ってきていた。伸ばされた腕を掴んで傍に引き寄せる。そのまま胸に飛び込んできた透花は縋る様に俺を見上げた。

「ねえ、何が起こってるの? 皆は……」

「立ち止まらないでください! 奥に詰めて!」

 聞こえてきた叫びに俺は口を噤むと、震える透花の肩を支えて人ごみの中を進む。押されるまま薄暗い道を通ってやっと広い場所に出た瞬間、背後にガチャンと扉の閉まる重々しい音が響き渡った。


「新型の生物兵器だってさ」

 すすり泣きや誰かを呼ぶ叫び声が飛び交う中で俺達二人は隅の方に座りこんでいた。

「アメリカで秘密裏に作っていた物が、何かのはずみで外に漏れたらしい。その威力は思いもよらないほど強力で、あっという間に……」

 そんな、と透花は力なく呟く。

「こうやって逃げられた分、ここはまだましな方だ。他の国はきっと、もうとっくに」

 俺はそこで口を閉ざす。今の透花に最後まで言ってしまうのは酷だった。

「お母さん達はどこにいるの? ……また会える?」

 俺は何も答えてやることができない。耳にこびりついたあのサイレンに、視界がまだぐらぐらと揺れていた。


 知らせがあったら近くのシェルターに入るように、というのは前から言い聞かされていたのだが、いざその局面になってみるとただうろたえるばかりで体は動かなかった。

 その日はいつもと変わらない放課後で、俺は一人学校から帰っているところだった。そこに突然のサイレンだ。その時間両親は仕事に行っていたから、多分今頃は職場近くのシェルターに避難しているはずだ。探し回ってみたけれど透花の家族もここでは見かけていない。

「汚染された空気の中に少しでもいれば、八時間以内に全身の細胞が壊れて死んでしまうらしいんだ」

 俺はここに来てからの数日でかき集めた情報を透花に伝える。

「だからすぐには外に出られない」

 透花はもう何も言わない。代わりのように、暗く滲んだ瞳から涙がこぼれ落ちた。俺は思わず透花を抱きしめると、大丈夫と何度も繰り返す。

「ここにいるうちは安全だから。空気だってそのうち綺麗になる。そしたら俺が皆のところに連れてってやるから」

 腕の中の確かな温もりに、俺はその時少し泣いていた。ここに来る前に透花と会えてよかった。あのままこいつと離れ離れになっていたら、きっと俺は素直になれなかった自分を一生呪うに違いない。

 ところが、日が経つにつれて安易に大丈夫などと言っていられなくなった。食料が足りないのだ。ここまでの被害は想定していなかったために、シェルターには三ヶ月分の食料しか積まれていなかった。

 そしてとうとう食料が尽きたのは昨日の昼のこと。外はまだ到底出られる状況ではない。あとは死を待つばかりと、打ちひしがれる大人達に混ざって壁に寄りかかっていると、透花はそんな俺の横に来るなりこう耳打ちした。

「あのね、私明日中学校に行ってくる」

「ばか、なに言ってんだよ」

 突然上げた大声にも、もう周りにいる誰も反応しない。それでも一応、俺は詰め寄る声を落とす。

「分かってるだろ? まだ外には出られないんだよ」

「でも、このままここにいてもどうせ……それなら最後に思い出の場所を見たいの。だから私、行ってくるね」

 そう笑う透花は、小さい頃、二人でいたずらを企てた時と同じ顔をしていた。

「夕輝にだけはさよなら言って行こうと思って。それじゃあ……ばいばい」

 落ち着いた声音でそれだけ言うと、透花は俺に背を向けてしまう。振り返りもせず立ち去るその後ろ姿に俺はしばし呆然としていたが、やがて我に返ると衝動のまま追いかけて透花の肩を掴んだのだった。

「おい、ばいばいって何だよ」

「だって外に出たら……」

「俺も行く」

「え?」

「俺も一緒に行く」

 決して透花と死のう、などと大それた覚悟で言ったわけではなかった。ただ透花を一人ぼっちにしたくない。それは昔から変わらない、単純であどけない動機だった。


「本当に、何もなかったみたい……」

「ああ」

 穏やかなる自殺を遂げた町はかつての姿から音だけを消し去って、目の前に横たわっている。

「……ところでお前、さっき俺のこと色々言ってたけど、お前だってされたんだろ?」

 俺は熱くなる頬を腕で隠しながらずっと気になっていたことを聞いてみた。

「何を?」

「だから、こ、告白だよ。知ってんだぞ。お前と同じ陸上の長谷川ってやつに呼び出されてたって」

 俺の発言がよほど意外だったのか、透花はまじまじと俺を見つめる。それから楽しげなクスクスッという笑いと共に「やきもち?」と首を傾げた。

「はっ、はあ? そんなわけねーだろ。ただちょっと気になったから聞いてみただけで、別に俺は……」

「断ったよ」

 早口で並べる否定の言葉を遮るように透花が言う。

「……え?」

「断ったよ……好きな人がいるって」

 薄く開いた唇から、言葉にならない息がひゅうと漏れる。透花は何も言わない。ただ澄んだ瞳で俺を見上げるばかりだ。透花が何を伝えたいのか、そして俺は何を言うべきなのか――色々な思いが頭を巡っては、結局何一つ言葉にできずに、俺たちは黙って互いに視線を交えていた。

「夕輝……」

 掠れた声がそう紡ぐ。――と、その小さな唇がくしゃりと歪んだかと思うと、叫びのような泣き声が堰を切ったように溢れ出した。

「嫌だ、夕輝、嫌だよ。私やっぱり死にたくない。怖い、怖いよ」

 顔を手で覆ってその場に崩れ落ちる。

「こんなの嫌だぁ。夕輝、助けて、助けてよぉ……」

 俺は正面にかがんで、透花を力一杯抱きしめた。俺だけでは受け止めきれない透花の感情を、それでもこぼさないようにと、ただ体を寄せる。

「透花、大丈夫だ。俺がいる。俺がここにいるから。大丈夫だ、大丈夫。ずっと一緒にいるから……」

 苦しげにしゃくりあげている透花に俺の言葉が届いているかは分からない。それでも大丈夫、大丈夫と繰り返して、震える背中をさすり続けた。

「夕輝……」

 何度も咳き込んで、荒い呼吸を繰り返した後、やっと落ち着いたらしい透花がぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

「ありがと」

 俺はこすりすぎて真っ赤になった透花の目元をなでながら笑った。

「ひでぇ顔……」

 うっすらと微笑んだ透花が負けじと俺の鼻をつまむ。

「もう。人の事言えないでしょ」

「やっぱり、笑ってる方がお前らしくていいよ」

 透花の指をそのままにこもった声で俺が言うと、透花が顔を真っ赤にして鼻から手を離した。

「なんか今日の夕輝、変」

 両の人差し指がせわしなく髪を巻き付けている。

「変とは何だ」

「だって変じゃん! なんか……優しいし」

「お前、俺がいつもは優しくないみたいに……」

 本当はもっと早く、こんな風に本音で向き合うべきだったのかもしれない。そうしたら今胸にある微かに苦い後悔もなくなっていただろう。そっぽを向いて突っぱねてきたけれど、透花が変だと言った優しさで、俺はずっとこの幼馴染のことを見つめてきたのだから。

「気分とか悪くないか?」

「うん、平気」

「ここはちょっと暑いな。日陰に行こう」

 階段室の裏側にまわりこんで、そこに伸びる影に腰を下ろす。ひんやりとしたコンクリートの壁に寄りかかれば、ここからはもう柵の向こうの景色は見えなくて、ただ青い空だけが俺達の目の前に広がっていた。

「あのね、夕輝……ごめんね」

 透花の小さな声が鼓膜にふるふると震える。

「私のわがままで夕輝まで付き合わせちゃって。夕輝のこと、巻き込んじゃった。ごめんね」

「別に……お前のわがままに付き合わされるのなんて今に始まったことじゃないだろ。それに俺はここにいたいからいるだけだ。だから気にすんな」

 間に置かれた二人の指先が微かに触れる。俺はそちらを見ないまま――どちらともなく温もりを探り合って、指を絡めるとそのままぎゅっと握りしめた。

「ちっちゃい頃みたい」

 ふふ、と照れくさそうな透花の声が、胸にじんわりと温かさを広げていく。

「ああ……ほんとだな」

 それから俺達は手を繋いだまま、昔の話をしていた。幼稚園の頃結婚しようねと言っていたこと。公園で転んだ透花をおぶって帰った日のこと。小学校での遠足。クリスマス、運動会、卒業式……どれも思い出にしてしまうには早すぎる。それでも俺達は一緒にいた時間を一つ一つ辿るように思い返していた。もうすぐ誰もいなくなってしまうこの世界に、自分達が存在していたことを確かめ合うように。吸い込む息はだんだんと浅く、体も重くなっていったけれど、俺達は手を離すことなくいつまでもしゃべり続けていたのだった。

「見て、夕輝。……空、綺麗だね」

 夜を迎える掠れた空にオレンジがじわじわと溶け込んで、あたりの空気が金色をたたえた茜に染まっていく。夕焼け空が目にしみて、鼻の奥がつんと熱くなった。

「最後に……こんな景色が見れてよかった。夕輝と一緒で、よかった」

 こちらを向いた透花の瞳は差し込む夕日を淡く湛えて、透き通った涙を流している。

「ばか。……笑えって言ったろ」

 頬を拭う俺の手の上に、透花が手のひらを重ねた。

「夕輝は私にしか……ばかって、言わないもんね」

 今はただ、透花の全てが愛おしい。

「そうだよ。お前、だけ」

「じゃあ……私の特権だ」

 透花はくすぐったそうに頬を染めて、俺の一番好きな笑顔を見せる。それを見た瞬間――心に、きらきらと光の満ちる思いがした。今までの気恥ずかしさや強がりや、余計なものが全て消え去って、ただ一つ純粋な想いだけがそこに残る。

「……透花」

「うん」

「俺さ、お前のこと、ちょっと好きだったよ」

 これが、今の俺の精一杯。

「もう、言うのが遅いよ」

 透花の声が涙に揺れている。俺はそんな透花に微笑みかけると、ゆっくり目を閉じた。

 体が深い闇の底にゆらゆらと沈んでいく。肩に寄りかかる透花の重みが心地いい。どこか遠くで、私も好き、という声が聞こえた気がしたのは気のせいだろうか……いや、これは透花の声だ……いつも聞いてた、本当はずっと大好きだった透花の――

 全ての意識を手放す直前、微かに開いた目で見た夕暮れの空は、遠い昔、二人で手を繋いで歩いたあの帰り道と同じ色をしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夕暮れに染まるまで 咲川音 @sakikawa_oto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ