第六章


「……姫様」

「ん、なんだアイリーン。妾は今忙しい。用件は手短に頼む」


 ご主人がそう言うと、アイリーンさんの眉がピクリと動いた。


「……私の目には、メータ様を撫でているようにしか見えないのですが、それの一体どの辺りがお忙しいのでしょうか?」

「見て分からぬか?」

「えぇ、全く」

「では、もっと良く見ているがいい」


 ご主人は俺の顎を掻いてた手を止め、ソファーの背凭れに寄り掛かる。

 そのまま一向に触ろうとしないご主人。


 俺は顔を上げて、投げ出されたご主人の手に頭を擦り付けた。それからご主人の膝の上で寝返りを打つ。豚の丸焼きスタイルでメェメェ鳴きながら、頻りに前足を動かした。


「な?」

「……な、と言われましても」

「つまりだ。こうして淀みなく撫でておらぬと、メータがとても悲しむのだ」

『そうっす。俺、泣いちゃうっす』

「だから妾は今、メータを愛でるのにとても忙しい。よってお前の話も、あまり長くは聞いている暇がないのだ」


 堂々と宣言したご主人は、偉そうに踏ん反り返った。

 アイリーンさんの眉が、またしても揺れ動く。


「……では単刀直入にお聞きしますが、姫様は、何故、まだ執務室にいらっしゃるのですか?」

「それは勿論、メータが甘えるからだ。妾が部屋を出ようとすると、構って欲しいと必死に鳴くのだ。行かないでとしがみ付くのだ。そこまでされては、飼い主として応えてやらねば可哀そうだろう? なぁ、メータ?」

『うっす。その通りっす』

「……だから、クライヴ王子とのお茶会を、急遽取り止めになさったと、そういう事なのですか?」

「うむ」


 ご主人が頷いた途端、アイリーンさんの拳が振り落とされる。

 いい音が鳴り、ご主人は頭を抱えて蹲った。俺の腹に顔を埋めて、何やらウガウガ言っている。


「馬鹿も、ここまでくると救いようがないわね」

「ぐ、うぅ、何をするか、アイリーン……ッ」

「何をするかはこっちの台詞よ」


 アイリーンさんは眉間を指で揉んでから、ご主人を見下ろした。


「いい、レッディ? あなたが勝手に取り止めにしたお蔭で、それを伝えにいったシムが向こうの従者に責められたのよ? あまりに騒ぐものだから、使用人が書庫にいた私の元まで助けを求めにきたの。あなたの行動一つで、周りにどれだけの影響を及ぼしたのか、しっかりと自覚をしてちょうだい」

「む、それは、すまなかった。おいシム、大事はないか?」

「あ、はいー。私は大丈夫ですー」

「嘘を言わないで。私の到着が後少し遅ければ、ブージョウの蔦で締め上げられていたところだったじゃない」


 アイリーンさんの言葉に驚いて、俺はシムさんを振り返った。

 シムさんは茶セットを片付けながら、何も言わずに苦笑いを浮かべている。


「それに、このお茶会には政治的な意味も含まれているんです。ワインバーガー国との交友を深める為にも、今からでも良いのでクライヴ王子の所へ行ってきて下さい。軽い挨拶と謝罪のみで結構ですので」

「むぅ……分かった。気は進まないが、少しだけ顔を出してこよう」


 ご主人は溜め息を吐くと、膝に転がる俺の体を掴んだ。

 俺は、咄嗟にご主人にしがみ付いた。四つの足で腹を挟み、行っちゃ嫌っす、という気持ちを込めてメェメェと顔を擦り付ける。


「……どうされたのですか。メータ様は」


 異様なひっつき具合に、アイリーンさんは疑問の声を上げた。


「それが、妾にもよく分からないのだ。昨日の日向ぼっこの後から急に離れなくなってな。今日も妾が動こうものなら、便所の前までもずっと付いてくるのだ。なぁ、シム?」

「そうなんですよー。ご公務の際もついていらっしゃってー、兵士と共に広間の前で待機なさっていたんですー。こんな事、今まで一度もなかったんですけどねー?」


 シムさんは三つ編みを揺らし、不思議そうに首を傾げる。


「先程もー、お茶受けにとお出ししたお菓子を食べようとせず、それどころかひっくり返してしまいましてー。いやー、驚きましたよー」

『その節はさーせんっした。でもシムさん。あの菓子、柿みたいな果物が入ってたんすよ? あれ危ないんす。毒っす、毒。あんなん食べたら王子様の思うツボっす。絶対食べちゃ駄目っすよご主人』


 俺はご主人に抱き付きながら、何度もメェメェ訴えた。そんな俺を、ご主人は宥めるように撫でる。


「まぁ、良いではないか。きっと甘えたい気分なのだろう。好きにさせてやればいいさ」

「ですが、このままではワインバーガー国との外交に影響が出るかもしれません。使者よりも飼っている生き物を優先させるなど、相手からすればあまり良い気分はしないでしょう」

「埋め合わせはその都度きちんとしている」

「その埋め合わせが足りなかったからこそ、今回の騒動に繋がったのですよ」


 きっぱりと言い切られ、ご主人は気まずそうに俺の黒い毛を揉む。


「姫様。メータ様を可愛がるのは結構ですが、モファット国の王女としての務めは、しっかり果たして頂かないと困ります」

「そんな事、言われなくとも分かっておる」

「では」

「だがアイリーン」


 ご主人は、アイリーンさんの言葉を遮った。

 それから、ゆっくりと俺を持ち上げる。


「お前は、こんなにも可愛らしいメータを前にして、振り切れるのか?」

 

 俺はアイリーンさんと目が合った瞬間、じいちゃんやばあちゃんに小遣いをねだる時の顔を作った。

 アイリーンさん。遊んで欲しいっす。構って欲しいっす。一人にしないで欲しいっす。


「う……」

「どうだアイリーン。妾に説教をしたくば、見事メータを振り切ってみせろ」


 どっか行っちゃ嫌っす。頭撫でて欲しいっす。目一杯甘やかして下さいっす。


「くぅ……っ」


 アイリーンさんは、一歩後ずさった。でも目線は俺から外れない。

 よし。あともう一息だ。

 俺は見つめ合ったまま、瞬きを沢山した。目を出来るだけ潤ませて、これでもかと甘えた眼差しを送りながら、


『……駄目っすか?』


 コテン、と、それはもう可愛く見える角度で、首を倒してみせる。

 必殺、孫の上目首傾げ。

 上目遣いで相手を見つめつつ、無邪気に首を傾げるという技。相手からの好感度が高ければ高い程攻撃力が上がるという孫の最終奥義である。


「はうぅ……っ!」


 アイリーンさんに痛恨の一撃。自分の胸を押さえて、おばばみたいにプルプル震えている。口はもにゅもにゅじゃなくて、ガッチリと噛み締められた。


「……分かっただろう、アイリーン。妾の気持ちが」


 ご主人はしみじみ言うと、俺を膝の上に下ろした。モフモフした背中を、ゆっくりと撫でていく。


「……し、仕方ありませんね。そこまでおっしゃるのならば、今日のところは、大目に見るとしましょう」


 アイリーンさんは咳払いをして、目をあちこちに泳がせた。


「ですが、クライヴ王子への対処は、今までよりも手厚くお願い致します。本日の晩餐会も、必ず出席なさって下さい。王子達は明日には帰られるのですから、見送りと道中の安全を願う意味も込めて、しっかりともてなさなければいけません」

「分かっている。流石にそれには出るさ」

『だ、駄目っすよご主人っ。王子達と一緒にご飯食べるとか、超ヤバいじゃないっすかっ。危ないっすよっ』

「ん、なんだメータ? お前も一緒に行きたいのか?」

『嫌っすっ。あんな性格悪い奴と一緒にいたくないっすっ』

「そうかそうか。だが、流石に公務にはお前を連れていけないんだ。悪いな」


 ご主人は目元を緩めて俺を撫でると、ソファーの背凭れに片腕を乗せた。


「そう言えばどうだ、アイリーン。書庫での調べ物は? 順調に進んでいるか?」

「まぁ、一応は。気になる文献がいくつか見つかったので、今、おばば様とエマと共に詳しく分析しているところです。成果はまだ出ておりませんが、おばば様が召喚に関する記述を酷く気にしていらっしゃるので、もしかすればそちらの方面で何かが分かるかもしれません」

「そうか。良かったな、丁度おばばが城にいて。ぎっくり腰様々だ」

「ですが、未だ腰の痛みは続いていらっしゃるらしく、作業は休み休みといった状況です」

「構わん。急いて仕損じるよりはその方がいいさ。ゆっくりとやってくれ」


 ご主人は俺の頭の毛をもしゃもしゃかき混ぜてから、俺の顔を覗き込んだ。


「それに、どんな事が分かったとしても、メータが妾の愛オヴィスには変わりないのだ。例え何も分からなくとも、妾は構わぬ」


 俺の両耳を引っ張って、ご主人は笑う。だから俺も、羊なりに満面の笑みを返した。ついでに尻尾も振って、メェメェ甘えた声を出す。


 ご主人は更に微笑み、俺をギュムっと抱き締めた。ドーンと出た胸が押し付けられて、大変至福でございます。

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