九話 兄貴の事情

 ケーキを食べれば今日は解散。俺は自分の家へ帰ることに。

 電車の中ではずっと華子の写真を見ていた。黙ってる華子は本当に素晴らしい。

 ……この極上の女に童貞を捧げられるなんて。

 車内にも関わらず、ついついニヤニヤしてしまう。

 よし、頑張って兄貴の悪行の証拠を……って言ってもなぁ。

 俺が見たところ、兄貴は華子のお母さんを詐欺にかける気なんてなさそうだ。ゲンさんも同じ意見。

 だけど、華子は納得してくれない。どうすればいいんだ?

 取りあえず華子から言われたようにすればいい? スマホのデータをぶっこ抜いて、ヘンなアプリも入れておいて。

 そうやって華子が欲しがってる情報を与えていけば、華子も兄貴が潔白だと理解してくれる?

 でもなぁ、兄貴を出し抜いてスマホを確保するとか、俺にできるのか?




 電車から降りても俺はまだ頭を悩ませていた。

 どうやって兄貴を出し抜く? いっそ兄貴に事情を話す? そんなのしていいの?

 てくてく歩いているうちに我が家たる一軒家。

 玄関扉を開いたら母が突っ立っていた。


「ただいま。なにしてんの、母さん?」

「おかえり、快人。あんたは関係ないわよ」


 そう言いながら俺の後ろをのぞこうとする。俺も振り返ってみる。なにもないけど?


「どうしたの?」

「別に? あんた、行道とは会わなかった?」

「兄貴? ううん」

「そうなんだ。公園かな? それか国道沿いのファミレス……」

「どうしたの?」


 明らかに様子がおかしい。

 華子の母たる実加子さんと違って、俺の母親は普通のおばさんだ。下世話な話が大好きな。

 そういう下世話な話をしている時と同じように、今の母の目は輝いていた。


「まぁ、あんたと違って行道はイロイロあるんだよね」

「……確かにイロイロあるよね。そのせいで今まさに俺まで苦労してるんだ」

「ん? なんで早苗ちゃんの話であんたが苦労するのよ」

「早苗さん? 早苗さんがどうしたの?」


 母が視線をさまよわす。

 童貞ではないものの、この人もウソをついたりできない体質だった。

 兄貴と早苗さんはもう別れているはずだ。兄貴いわく、早苗さんの方はまだちょっと引きずってるらしいけど。

 じゃあ、もしかして……。

 ??? 

 俺は童貞なので恋愛の話はまるで分からない。

 だから母に聞く。


「早苗さんがどうかしたの? もしかしたら俺の苦労にも関わってくるんだよ」

「あーねー、早苗ちゃんがうちに来たんだよ、三十分くらい前かな? で、ここじゃなんだからって、行道が外へ連れ出した」

「ああ、家の中じゃ、母さんが聞き耳を立てるから?」

「失礼ね。偶然たまたま聞こえるだけよ」


 ウソつけよ。

 とにかく早苗さんが兄貴に会いにやってきたらしい。

 ここで俺はひらめいた!

 兄貴と早苗さんは今でも付き合っている。華子はそう疑っていた。実加子さんとは偽の付き合いで、本当は結婚詐欺にかける気だ、と言う。

 だったら兄貴たちの会話を録音すればいい。

 未練のある早苗さんを兄貴がきっぱりと振ってしまうところとか。実加子さんへの愛を語っちゃったりするところとか。

 そんな現場を録音して華子に聞かせるのだ。

 きっとあの石頭も兄貴が潔白だと分かってくれるはず。

 名案だ!


「兄貴たち、公園かな?」

「それかファミレスか。快人、まさかあんた」

「いいや、ちょっと散歩に行くだけだよ?」


 視線をさまよわせてしまう俺。


「そう、ならいいんだけど。絶対に見つからないよう、こっそりとね」


 目をキラキラさせてうなずく我が母。

 そして俺はカバンだけ置いてまた家を出た。




 近所にある児童公園をのぞく。

 兄貴と早苗さんがいる。よし、ファミレスならお金がかかるところだった。助かったぞ。

 だけど、のこのこと入っていくわけにはいかないな……。

 こっそり回り込めば植え込みの影に隠れられる? 匍匐前進とか駆使して植え込みの裏手まで移動。

 ……ふう、どうにかうまくいったぞ。

 ベンチに座る早苗さんの前に兄貴が立っている。

 俺は自分のスマホを静かに取り出す。光ったり音を出したりしないよう気をつけて、と。

 よし、動画撮影開始!

 早苗さんの声が聞こえる。


「……結局、うまくいかないと思う」


 静かだけど、はっきりとした口調だ。どっちかというと、おっとりした人だったはずだけど?

 その早苗さんに向かって兄貴が言う。


「いいや、今度は違う」

「今度は? そう、私の時とは違うって言うんだ……」

「早苗の時は……」

「私、ずっと一緒だと思ってた。大学卒業して、就職先は違うけど、時間を見つけては会って、それでいつかは……って」

「俺は……先のことまでなにも考えてなかったけど……」


 兄貴の語尾が小さく消えていく。俺の前ではいつも自信たっぷりなのに。

 はっと気付いた。

 もしや今の状況って修羅場? 俺、聞いてていいの?

 思っていた以上にシリアスな現場に尻込みする俺。

 じゃあ、どんな現場になると思っていた? ……なにも考えてなかったよな。

 そもそも盗み聞きなんてしていいわけない、などという常識論が今さらのように頭をもたげてくる。

 いいや、今さら引き返せるもんか。

 かなり怖々ながら話の続きを聞く。


「ユキはそうだよね。デートのセッティングはそつない。ちょっとした記念日にちょっとしたプレゼントをさりげなくくれる。そういう計画は完璧なのに、未来のことはなにも考えてない。考えてくれなかった」

「当時はそうだった」

「当時? たった二年前のことだよ?」

「二年も前だよ。しかも当時はただの学生だったし」

「また当時。ユキにはもう終わった過去なんだね。……許せない」


 怖ぇ! 最後の一言、すごい暗い声でぼそりと言った。

 俺だったら土下座して許しを請うに違いない。

 しかし兄貴は早苗さんに話しかける。


「今の俺は、早苗と付き合ってた頃の俺とはちょっと違ってる。悪いと思うけど、実際そうなんだ」

「ユキは身勝手だよ」

「なぁ、早苗。もう後ろを見るのはやめよう。お前も……」

「十七才も年上なんでしょ? 本気でうまくいく気でいるの?」


 早苗さんの声は震えていた。童貞の俺でも彼女が怒っていると分かる。


「……ああ、うまくいく。俺たち二人は……」

「ユキなんて、向こうからしたら若さしか取り得がないんだからね?」

「そんなことない。俺たちはちゃんと……」

「そのうち飽きて捨てられるに決まってる。好きな人に捨てられるのが、どんなにみじめか分かってるの? ……好きなら好きなだけ、よけいみじめになるんだから」

「みじめなんて言うなよ」

「……みじめだよ」

「もう俺なんて忘れるんだ、早苗」

「無理」


 早苗さんが立ち上がった。

 ビンタ? それともグーパンチ?

 俺はハラハラどころか胃が痛い。会話の流れがイマイチ把握できない分、よけいに胃にくる。

 早苗さんは兄貴に顔を向けずにつぶやいた。


「ずっと忘れずにいてやる」


 そして兄貴に背を向けたまま公園を出ていこうとする。


「おい、待てって」


 追いかけた兄貴が早苗さんの肩を掴んだ。

 俺も匍匐前進で追いかける。今すぐ自分の部屋に帰りたいがここまできたら全部撮るべし。


「やめて!」


 早苗さんが兄貴の手を振り払う。

 なおも兄貴は食い下がる。早苗さんを追い越すと彼女の前に立った。

 早苗さんは下を向く。そんな彼女を兄貴はじっと見つめる。

 どちらも黙ったまま。

 …………

 ヤバい、バッテリーがヤバい。

 こんなわけの分からない状態で終わるのはマズい。

 早く次の展開。

 早く!

 俺の願いが届いたのか、ようやく早苗さんが顔を上げた。

 そして言う。


「最後に、キスしてくれる?」


 なに言ってんの! そんなの撮ったら悪い方の証拠になっちゃうじゃん!

 でもここで録画終了もマズい。絶対、華子は勘ぐる。

 どうする、どうする快人!

 兄貴が静かに早苗さんに言う。


「悪い、それはもうできない」

「……そっか、だよね」


 早苗さんが兄貴を避けて前へ歩いていく。児童公園の出入り口まで行ったところで振り返る。


「今はまだ言いたくないんだけど!」

「うん」

「お幸せに!」

「うん、ありがとう」


 早苗さんは泣きそうな笑顔を見せた後、公園を出ていった。

 はい、録画終了!

 ふぅ、ギリだ。ギリ、バッテリー保った。

 兄貴がこっちに駆け寄ってくる。

 こっち?


「おい、快人。あの子、家まで送ってくれ」

「ええっ!」


 大声を出して起き上がってしまう俺。


「早くしろ。それで盗み聞きは勘弁してやる」

「は、はい……」


 兄の元カノを家まで送る。

 修羅場の後で。

 童貞には、あまりに過酷なミッションでした――

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