五話 なびく濡れた髪

 俺はあぐらをかいてテーブルに頬杖をついていた。リビングにいるのは俺一人だけ。

 と、前に見える扉が開く。

 慌ただしく部屋から出てきたのは華子だ。Tシャツ、短パンに着替えている。

 長くて白い足に惹き込まれる俺。

 華子が扉を閉める。


「おっとと」


 片手で抱えた衣類が落ちかかる。ぽとりと落ちたのは水色の布きれ。

 あれは?

 パンツだ!

 水色の生地に色とりどりの小さな水玉が散りばめられた、黄色のリボンがかわいらしく付いた、残念ながらTバックではないものの、お腹をすっぽり覆うとかいう残念な奴ではない、お肌に優しい綿百パーセントに違いない、パンツだ!


「ぎゃっ!」


 すぐにしゃがんだ華子がパンツを回収する。

 しかしすでに俺の脳裏にはしっかりと焼き付けられていた。

 そうか、華子はあんなかわいらしいパンツを穿くのか。

 ケーケンホーフな中古だし、童貞はドン引きしそうなスケスケなのとかヒモみたいなのとか黒とか真紅とかを、穿いてるに違いない。

 そう思っていたのだが……。


「見た?」


 ぎろりと華子がにらんでくる。

 今、俺は神聖なものを目にした。その事実を、たとえ口先だけとはいえ否定したくはない。


「見た」


 正直にうなずく。


「ドスケベ! ドヘンタイ!」


 口汚く罵る華子。

 自分が勝手に落としたんじゃん。

 華子はパタパタと風呂場があるらしい扉まで走った。キッチンにいるゲンさんに声をかける。


「ゲンちゃん、シャワーしてる間、そこのドスケベを監視しててね」

「大丈夫だよ」

「甘い! あの童貞は放っておいたら絶対にのぞいてくる!」


 俺をなんだと思ってるんだ。俺は常識と順法精神のある童貞なんだぞ?

 ……まぁ、単純に度胸がないだけなんだけど。

 華子が扉の向こうに消える。

 ゲンさんが苦笑いしながら俺に話しかけてきた。


「ゴメンね。だいぶん、はしゃいじゃってる」

「はしゃいでるんですか? いっつもあんな調子で当たりがキツいんですけど」

「愛情表現、愛情表現」


 愛情ねぇ……。

 華子は兄貴の調査が目的で俺に近付いてきた。俺は俺で、華子に童貞を捧げることしか考えていない。

 愛情なんてのはどこにもなかった。

 ゲンさんが野菜を切りながら声をかけてくる。


「だいぶんヤキモキさせちゃったね、俺とハナちゃんのこと」

「うーん、まぁ、そうですねぇ」

「そこは安心していいから。俺はちゃんと恋人もいるしね。当然、男」

「あ、そうなんですか」


 彼のような知り合いは今までいなかった。どう反応していいものか分からない。


「今はアメリカにいるんだよね。それで部屋が空いてたところにあの子が転がり込んできたんだ」

「やっぱ、家出なんですか?」

「まぁ、家出といえば家出かな? ここにいるって実加子さんは知ってるし、ちょっとお子様が駄々こねてるだけっていうのが本当のところ」


 俺に顔を向けて意地悪げな笑み。意外に辛辣なことを言う。

 この人にはちゃんと言っておいた方がいいかもしれない。俺にはそう思えた。


「実加子さんの恋人、行道っていうのは俺の兄貴なんですよ」

「あ、そうなんだ?」

「だから華子の奴は俺に近付いてきたんです。付き合おうなんて言いながら、俺を利用して兄貴の悪事を暴き立てる気なんですよ」

「悪事?」


 不思議そうな声でゲンさんが言う。


「俺の兄貴、実加子さんに結婚詐欺をする気らしいんですよ、華子曰く」

「はははは」


 ゲンさんが笑い声を出す。


「……ですよねぇ」


 やっぱりそれが普通の反応だ。


「困ったもんだね、ハナちゃんも」

「いちおう、兄貴と話してみましたけど、ちゃんとしたお付き合いみたいでした」

「うん、二人と話したらすぐに分かることだよ。結婚となると、まだ若い浜口さんは踏み切れないみたいだけど」

「そうですよね」


 兄貴と実加子さんのことは結構詳しい様子。

 カフェのマスターと常連客というより、もっと親しい間柄なのだろう。母親が娘を安心して預けているのだし。

 

「まぁ、難しい子だからねぇ。俺からなにか言っても聞かないと思うよ?」

「え、そうなんですか?」


 ゲンさんから説得してもらえば、って期待したんだけど。


「愛する人の言葉なら聞いてくれるかもしれないけどね」

「へぇ、華子って、好きな人いるんですか?」


 胸の奥がしくりと痛む。童貞を捧げられない危機感から来る痛みだ。

 ゲンさんが手を止めて俺の方を向いた。にっこりと笑って。


「キミだよ」


 なにを言い出すんだ、この人。


「さっきの俺の話聞いてました? 華子は俺を利用したいだけなんですよ?」

「最初のうちはね」

「あり得ませんねぇ、あの華子が俺を好きになる?」

「快人君もだよ。キミもあの子が好きになるかも」

「それはもっとあり得ませんよ」


 と言いながら、ちょっと首を傾げてしまう。

 俺は極上の女に童貞を捧げることを夢見ている。女についてはそれしか考えていない。

 だからよく分かっていなかった。

 ……好きってなんだ?




 そこで扉が開く。


「私のことなんか言ってる?」


 華子が出てきた。頭にバスタオルを巻いている。

 潤った肌の輝きはいつも以上。全身、ほんのり朱に色付いて。

 おお、シャワー上がりの極上の女!

 色ッぺぇ……。


「なにも悪いことは言ってないよ。ねぇ、快人君」

「え? ええ、家出の話をちょろっと聞いたくらい?」

「家出か……」


 華子は不機嫌そうに言い、俺の後ろ側に座った。

 ドライヤーの音がする。

 同時に、とんでもなくいい匂いが俺まで漂ってきた。 シャンプー? コンディショナー? とにかくとんでもない。

 ちらりと後ろを見ると無防備な華子の後ろ姿。あぐらをかいて散らした髪にドライヤーを当てている。

 ふああ、なんか鼻にさわさわ当たるんですけど。これって髪の毛?


「きゃぁっ!」


 華子がすっとんきょうな声を上げる。


「え?」

「え? じゃなくて! 髪の毛触んないでよ!」


 いつの間にか間近に流れてる髪を弄っていたらしい。


「ゴ、ゴメン、無意識に……」

「あんたの無意識って、ホント、タチ悪い」


 殺されてもいいと思っちゃいそうな視線でにらんでくる華子。そしてお尻を前にずらして俺から離れた。

 ああ……。

 華子はもう俺を見ない。髪を櫛でとかしながら前へ流していく。

 ……あれ?

 華子が着てるTシャツ、そこそこ薄いよな? でも、見えるはずのものが見えない。

 ……やっぱり。


「華子、ノーブラ?」


 素早くこっちを向く華子。耳まで真っ赤にして俺を殺人光線みたいな視線で射てくる。

 当たりのようだ。

 しょせんAカップだが、ノーブラはノーブラ。胸のポッチがTシャツ越しにぷっくりと盛り上がっていた。

 うーむ、この乳首は小さいめ? 色までは分からない。

 中古だからなぁ……真っ黒かもしれん。


「え?」


 華子が小さく声を上げる。

 一方の俺はTシャツの向こうにあるモノを推測するのに忙しい。乳輪の大きさまでは分からないか?


「バカバカバカ!」


 華子は両手のひらで胸を覆うと、自分の部屋へ駆けていった。

 言わない方がよかった?

 いっそ指で弾けばよかったかも。

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