第19話 反対周りの回風(つむじかぜ)

「そろそろ来るかな?」

 何度目だろう、この二階のオープンカフェのデッキから真正面の駅に目を走らせるのは。

 小川徹は柔らかな風を紙に受けながら空を見上げた。待ち人は彼の友人、吉野風花である。五月になってめっきり陽が暮れる時間が遅くなった。

 風花とは中学校の部活動以来の友人で、気難しい小川が気安く話せる女友達の一人だった。

 風花は今年高校を卒業し、隣の県の芸術大学に通っている。のほほんとしているわりに真面目な性格の彼女は、ほとんど毎日決まった時間に駅で見かけると、高校時代の友人に聞いていた。

 だからここで待っている。

 中学時代の風花は、小川と美術部の相原環に話しかけられるのを待ってるだけのおっとりした女の子だった。

 しかし、絵を描かせると、ただ単に小器用さが目立つ相原の作品と異なり、技術は拙いながら、不思議とよく印象に残る作品を生み出していたのを思い出す。

 彼は風花の絵が好きだった。

 あんなに一生懸命打たのだから、てっきり高校でも美術部に入るものと思っていると、いくら勧めても入部しようとはせず、風花は時々窓の外からにこにこと活動の様子を眺めているだけで三年間を過ごしていた。

 小川にはそんな風花のことがよく理解できなかったが、たまに作品の講評なぞ持ちかけると、恥ずかしそうに、そして嬉しそうにユニークな感想が返ってくる。

 彼にとっては、その頃つき合っていた相原とは別の、癒し系女子として貴重な女友達の一人になっていた。

 そんな関係だったはずなのに。

 大学受験を前にし、絵の道で立ってゆこうと決めたその時から、恋人の相原とは歯車が合わなくなった。小さないさかいが続き、もともと繊細な彼はひどく疲れてしまっていた。受験を目前に控え、どちらからともなく別れ話になった。三年間付き合った割りにはあっけない幕切れだったが、心に感じるものは何もなかった、相原とはここで終る恋だったのだと小川は思う。

 それから制作にのめり込み、夢中になりすぎて少し離れて作品を、自分を見定めようとしていた時、視界に風花が飛び込んできたのだ。

 絵画は、近くからでは全体の調和が取れているかどうかがわかりにくい。少し離れて全体の構図や、色の配分を掴む。そうすると夢中になっている時には見えなかったものが見えてくる。

 そんな目で風花を見ると、あいかわらずおさげを背中に垂らしていたし、大きなタレ目も中学時代から変わらなかった。しかし、彼女はいつも感情が安定していて機嫌が良く、周りの事柄とよく調和が取れていた。

 自分が話しかけられるまで近づいて来ずに、いつも遠くから美術室を見ていた。

 風花は何も言わなかったけれど、小川には好かれている自信はあった。

 だからいつでも、自分の側に置ける。そう思っていたのだ。

 しかし、驚いたことに、絵を描くことから遠ざかっていた風花が地方の公立芸大を志望し、散々努力して合格を勝ち取った。そして才能に任せて好き放題に描き散らかしていた自分は難関校と言われる国立の芸大受験に失敗した。

 小川は風花に敵わなかったのだ。

 不合格の挫折から何とか立ち直り、一からデッサンの基本を学びなおすことも受け止められるようになった五月の今、自分をもっと好きになるためにも、風花にそばにいて欲しいと小川の心は求めている。

 ——吉野風花と一緒に絵を描きたい。同じものを見つめたい。


 ロータリーの向かい側、青い色の普通電車が駅に滑り込み、しばらくすると、わさわさと人があふれ出してくる。

 風花が出てくる。目立たない小柄な体格なのに、何処と無く漂う可愛らしい所作のため、すぐに見つめることができる。

 人の流れからやっと抜け出した風花は、なにやらごそごそとカバンを探っていた。

 ——相変わらずちっこいなぁ。見ていて飽きないよ。こいつのこんなところに気づく奴なぞ誰もいないだろうけど。

 小川はさっさとトレイを片付けると、リズムよくデッキを降りた。鼻歌でも歌いたい気分だった。風花は自分を見て驚くだろうか? そして、喜んでくれるだろうか? 足は自然と速くなる。

 歩道に降り立つと、背の低い風花は途端に人垣の向こうに見えなくなる。小川は人の流れを避けながら風花を探した。

「……あれ?」

 向こうからいつの間に現れたのか、背の高い男が風花の肩に腕を巻きつけてこちらにやってくる。

 驚きのあまり立ち尽くす小川の存在に気が付かず、風花は携帯で誰かと話している。いつものようににこにこと楽しげに。

 ——誰だ? あいつ。

 小川が見ると、その未知の男は風花を自分の体で隠すように一歩前に出た。その瞬間――彼は眼鏡の奥から冷ややかな視線を小川に投げかけた。

 その目は明確にこう語っていた。

 オレノモノダヨ。

 ——なんだこいつ、俺を知ってるのか?

 頭の中で言葉が形になったのは、彼らが通り過ぎてからしばらくしてからのことだった。

「……誰だ?」

 自分を知っているのなら、おそらく同じ学校のやつだと思う。自分の学年の男子ならほとんど顔を見知っているから、自分の学年ではないことは確かだった。あんなに長身で印象的なミテクレの奴なら覚えているに決まっている。

 だから学年が違うか、学校が違うかだが、学校が違うとは風花の広くない行動範囲からは考えにくい。

 また、風花の通っている芸大の学生とも違う。彼から芸術家の匂いはまったく漂ってこなかった。彼の容姿はむしろ冷徹な理科系の観察者か分析者だ。

 だが、彼のほうは明らかに小川のことを知って、そして挑戦している。

 あののんびりとした風花がいつの間にあの男と知り合い、肩を組んで歩く仲になったのか?

 見送る小川の視界から遠ざかる二人は、しっかりと肩を寄せ合っているのだが、ずいぶん凸凹しているように見えた。


 ——ふ、なんてザマだ。おい、情けなくはないか? 夢と、次は女の子だ。ぼやぼやしてる間に全部持ってかれちまう。

 小川は人ごみに紛れた二人を探すのをやめ、反対方向へと歩き出す。

 五月の風の煌きの中で自分の周りだけが翳って見えた。

 だがそれも一瞬のこと。

 小川は額を上げた。夕方にしてはまだ明るすぎる日差しが目を射る。

「……ふぅん、おもしろそうじゃん」

 考えてみれば、小川にとって風花はいつもいい刺激の種だった。受験に、恋に新しい闘志がわく。

 

 五月の風は誰にでも悪戯を仕掛けるのだった。






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