第3話 そよ風 2

 梅雨明けの空はきらきらと青みを増している。


 夏がやって来る。その直前の少し艶めいた甘い季節。

 ほんの一瞬だけの爽やかな風が吹き抜けていく。

 気の早い蝉がポプラの梢で鳴いていた。

「おーいみんな喜べ! 今日の古典、ミサコ先生休みだってよ!」

 当番の男子が教室に入るなり得意げに報告した。途端にクラスメイト達から歓声が上がる。

「お! 自習か! らっき!」

「四時間目だし、飯食おーぜ!」

 明るい教室に夏服がわさわさと行き交う。


「やったね! リーダー写さして~な~、ふぅちゃん。これで昼休み無駄にしなくてすむ~」

「いいよぉ、ドゾ」

 ふぅちゃんと呼ばれている吉野風花は気前よくノートを差し出した。

「サンキュ! 昨日思わずアニメのDVD見ちゃってそのまま寝てまったし~。あれ? ぅちゃんどこ行くの?」

「うん、美術室。昨日の課題画の続き描いてくるよ。今は授業ないはずだし。ゆっくり写してていいよ、由美ちん」

「え~、一人で~? 寂しくない?」

「ないない。そりでわ~」

 風花は長いおさげを翻して教室から出て行った。

 風花はあまり群れることに興味がない。弁当などは友人と楽しく食べるし、休み時間のおしゃべりも好きだ。だが、女子によくある、いつでもどこでも一緒というタイプではない。こんな風に一人で過ごすのも大好きなのだ。

 三年の教室は三階で、美術室は一階だ。授業中なので風花は足音がしないように階段を駆け下りた。

 ——昨日描いたとこ気になりつつそのままになってたからなあ。ミサコ先生には悪いけどホント、らっき~。


 風花は中学では美術部だったが、高校では美術部に入らなかった。学校が家から遠くなったのも理由の一つだが、同じ中学の美術部だった小川への片想いが決定的にかなわなくなったことが一番大きな理由だった。

 風花が中学時代密かに三年間思い続けた同級生の小川徹、そして同じく美術部の相原環は、そろってこの高校へ進学した。そして小川と相原は中学を卒業するやいなや付き合いはじめ、二人して再び美術部に入部したのだ。

 今ではすっかり自分を納得させているが、入学した当時は自分も同じ部に入部して、二人の仲の良さを見つめるることにとても耐えられなかったのだ。しかし、絵を描くこと自体が嫌いになったわけではなく、選択授業の芸術科目では迷わず美術を選び、週二時間の授業を風花はとても楽しみにしている。

 汚い古い美術室。重い木の引き戸を開ける。画用油の独特な匂いが鼻をついた。

 案の定、美術室には誰もいなかった。

 美術の田中先生は多分隣の教官室で自分の制作でもしているのだろう。たとえ見つかったところで、大らかで優しい田中老先生は何にも言わないに違いない。

 ——それに、悪いことしてるわけではないし。

 風花は道具を出し、自分のキャンバスを画架に立て、少し離れて眺めてみた。

 ——なんだか曖昧な色ばかり積み重ねてるなぁ……。

 つくづくと自分の絵を眺めた後、思い切った色をパレットにひねり出すと、風花は大きなストロークで描き始めた。

 美術室の天井は高い。ほかの教室とはつくりが異なり、二階の半分まで天上が高くなっている。天井近くまで届く縦に長い窓は、上の部分は掃除が行き届いておらずホコリだらけで、ところどころ隙間が空いたまま鉄のサンが錆びついていた。大きな壁には昔の先輩達の力作がいくつも飾られており、隅に置かれた棚には薄汚れた石膏像やモチーフの舵輪、牛骨、ガラス球などが並べられ、雑多で不思議な雰囲気で満たされている。

 お世辞にもキレイな部屋とはいえなかったが、風花はこの場所が大好きだった。


「あれ? 誰かいるの?」

「え⁉︎」

 背後から突然声をかけられて風花は飛び上がった。

「なんだ、吉野じゃないか、サボリかぁ?」

 それは小川だった。彫りの深い顔立ちの半分で笑っている。中背だがすらりとした体格の男子生徒だった。

「お、小川君か。びっくりした〜。いやぁ、サボリじゃなくてね、古典のミサコ先生、お休みだったから」

「あ、そうなの? いいじゃん。って、くそ~、今日俺とこ古典ないじゃんか~」

「それは残念だね。で、なんで、小川君はここに? 授業は?」

「あ、俺は正真正銘サボリ。体育、陸上でダルくて」

「な〜んだ、そっちのほうが悪いじゃん」

「いいんよ~、俺信用あるし。毎回じゃないし。で、お前それ授業の絵? いいじゃん、いい感じじゃん。吉野らしいよ」

 小川は風花の後ろに回り、真面目な顔になるとキャンバスを覗き込んだ。

「え? これ? こんなのぜんぜんダメだよ。ただ好きで描いてるだけだから」

「いや、そーでもないぞ。こんなとこにピンクをつかえるヤツなかなかいないぞ?」

「褒め言葉に思えないんですけど!」

「そぉ? いや、マジで。今だから言うけど俺、中学の時初めて負けたって思った相手が吉野だったもん。」

「負け? なにに?」

「いや……、俺は小さい頃から絵が好きで、これだけは誰にも負けないってけっこうテングになってたんよ。でも中学の美術部でお前の絵を見て、初めてこの感性には負けたって思ったんだ」

「感性? よくわかんない。絵に負けたもないでしょ。なんで?」

「おまえの絵な。描き方は案外荒くて、大したテクがあるようには見えないんだ。でもなんかすごい人を惹きつけるって言うか、構図だって切り取りどころが意外っていうか、うまく見せようという裏表がないっていうか、とにかく見てて飽きないんだよ、お前の絵は。なんでここでも美術部入らなかったのさ? 前にも聞いたっけか?」

「え? うん。だって家遠いし。かなり頑張って入った学校だから、勉強も必死についていってるって感じで余裕なくて……」

 ——う、本当の理由なんて言えない。言えるわけない!

 一番の訳は言えないが、今言ったことだって確かに理由に違いないのだからウソはついていないと風花は自分を納得させる。

「……もったいないな」

「え?」

「もったいないってのさ。お前、そんなけいいセンスしてんのに」

「……」

「俺はT芸大に行く」

 小川は競争率の高いことで有名な国立の芸術大学の名をあげた。

「え!」

「吉野はどうするんだ? 絵はもう描かないのか?」

 ゆるいくせっ毛の長めの前髪の下の瞳は心なしか挑戦的だ。風花は思わず目を窓のほうへ逸らした。外はグラウンドだ。どこかの学年の男子達が体育の授業でハンドボールをやっている。

「……わかんない。進路は地元の大学に合格できたらいいなって感じで、何も考えてない」

「そうか? でもこれだけは言っとく。俺はお前に影響されて絵に真剣に取り組みだしたし、将来に向けてがんばってみようという気になったんだからな。感謝してる」

「小川君……」

 大きな窓から初夏の光がいっぱいに入ってきて、古い美術室が眩しい。置かれている物の全ての片面が白っぽく反射し、そして影は深かった。

「私は……」

「俺はお前が描き続けてくれればいいと思う。ま、決めるのはお前だけど」

 グラウンドからワァーッという若々しい歓声が飛び込んでくる。

 しかし、風花には小川の言葉しか届かなかった。


「おい! こら清水! どこ見てんだよ⁉︎ パス来んぞ!」

「……」

 清水樹は無愛想に仲間のほうに顔を向けた。途端にきついパスが回ってくる。

受け止めるやいなや、樹は立ちはだかったディフェンスをかわし、大きく右に跳んだ。ゴールは目の前だ。

 長い体をグランドに沈め、次の瞬間ぐんとジャンプすると、反り返った腕がバネのように振り下ろされる。

 ピィ―ッ!

 耳を劈くホイッスル。

「おーっ! いいぞ、清水! ナイッシューッ!」

 チームメイトの歓声にも気をよくした風もなく、鋭い視線は再び校舎のほうへ向けられた。

 美術室のほうへ。

「おー、おま、清水よ、それで何で運動部入んないんだ、もったいねぇ……ってこえー顔。何見てんだ?」

 視線の先を追って振り返った友人にかまわず、樹はセンターラインに向かって駆け出した。キーパーが放ったロングパスをで受け止めたオフェンスの前に遮二無二立ちはだかり、前進を阻む。

 火を吹くような刹那の攻防。

 ピィーッ!

 またしてもホイッスルが響く。

「プッシング! ディフェンス!」

「おいおい、清水、むちゃくちゃだってばよ。お前何やってんの?」

「……うるさい」

「集合―っ!」

 体育教師の野太い声が午前の授業の終わりを告げた。





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