第2話 そよ風 1

 今ではすっかり緑の濃くなった川沿いの桜並木を駅に向かって歩く。

 二人で。

 ——なんでこんなことになっているんだろ? 男子と、しかも年下の子と二人だけで帰るなんて初めてかもしんない。なにか話せばいいのかな? 一応私が先輩なんだし……。

「えと、えと、し、清水君は何駅なの? 私は綾野町でおりるんだけど……」

「俺もそうですよ」

 じろり、と風花を見下ろしながら清水が答える。身長差がかなりあるために先輩とはいいながら見下されているような気になり、風花はなかなか居心地がよくない。

「え⁉︎ あ、そうなの? 今まで会ったことなかった……よね?」

「なに言ってんです。ほとんど毎日会ってますよ」

「ええ⁉︎ そ、そうなの? ぜんぜん知らなかった〜」

 風花は本気で驚いた。

 次の駅からはクラスメイトが乗ってくるため、おしゃべりで気づかなかったかもしれないが、いくら朝のラッシュ時とはいえ、同じ駅の同じホームで今までぜんぜん気がつかなかったなんて。

「吉野さんいつもぼんやりしてるからな」

 それはそのとおりで風花には空想癖があり、一人の時は別世界へ行っていることがよくある。

「う……そうかも……って、じゃあ清水君、中学はひょっとして?」

「そう、吉野さんと同じ綾之宮中ですよ。因みに中学でも委員会一緒でしたよ。まぁ、中学の時は眼鏡はかけてなかったけど」

「へぇ~、へぇえ〜。ち~とも気がつかなかった。中学の時は美化委員っていってたっけ? やってることは今とほとんど同じだけど。へぇ~。」

 自分の鈍感さにすっかり感心しながら風花はへえ~を繰り返した。

「ふ~ん、ずっと同じ委員会だなんてすごい偶然だねぇ〜。そんなこともあるんだ、ねぇ……?」

 横目で見下ろしてくる清水の切れ長の眼があほかこいつ、と言っているようで風花は感心するのをやめた。

 ——う……気まずい

「吉野さん、中学では美術部でしたよね? なんで高校では入らなかったんですか?」

「え?」

 唐突に清水が思いがけないことを聞く。今日は面食らうことが多い日だ。

「よ、よく知ってるねえ。清水君、なんで?」

「俺が中一の時、文化祭で美術部の作品展示を見たんですよ。その中に街を描いた風景画があって。ビルとか電柱とか無機的なものを描いているわりには全体的にふんわりしていて。俺、絵のことはよくわからないけども。なんか惹かれて。あれ吉野さんの作品ですよね?」

「あ!」

 風花は思わず声をあげた。街を描いたことは一度だけだったから、その絵はすぐに思い出せたのだ。

「ああ、あの絵かぁ。うん、結構がんばって描いたっけ。あの絵が?」

「うん、すごい好きだった」

「えー、いやぁ、嬉しいなあ。ありがとう」

 

 不思議だった。

 中学、高校と計四年も一緒の委員会で、駅も通学路も一緒なのに今までほとんど口をきいたこともなく、ようやく去年あたりから顔を見知った清水と、わずか一時間足らずで今までの数年間をあわせたより長くしゃべっている。風花はなんだか嬉しくなった。

「……で、なんで絵をやめたの? やめたんですか?」

 清水が再び風花に問う。

 ——かわいいなあ。無理して敬語使っちゃって。なんか部活してないと後輩と話すのも久々だもんねえ、懐かしいなこの感じ。

「うん、高校に入って家が遠くなったし、ここ結構無理して入った学校だから勉強もしなくちゃだし。それに……」

「それに?」

「え……私、才能無いってわかったからね」

「高校の部活動なんて才能なんて関係ないでしょ、好きならば」

「それはそうなんだけどさ」

「さっきの……あの小川さんのことは?」

「え⁉︎」

 風花は今度こそ本気で驚いた。足が止まる。清水も静かに歩みを止めた。

 太陽が薄い雲に隠れ、街路樹の鮮やかな緑は一瞬その彩度を失う。

 桜並木はここでいったん途切れ、歩道の横は小さな児童公園の入り口になっていた。

 風花は今初めて清水を正面からみつめた。日差しの残る公園は小さな子供とその母親がいたが、二人に注意を払う様子はない。思いもよらないことを突然聞かれ、立ち止まってしまった風花の肘をつかんで清水がこの公園へ引っ張ってきたのだ。

 風花はまだ固まったままだが清水のほうも表情に変化は無い。ただ風花を見下ろしている。

 端正というのだろうか? 派手ではないが造作の整った顔立ちはしかし、冷たい印象を受けた。細いフレームの眼鏡がよく似合っているのも、自然に分かれたまっすぐな黒髪が額にかかっているのも一層その感じを強めている。

 昼間は暑いくらいだったのに、ここにきて初めて少し涼しい風がふわりと通り抜けた。

「ど……おして、知ってるの?」

「ええ……本当はまだ言わないつもりだったんだけど、あなたがあんまり鈍いもんだからちょっと腹が立ってね」

「鈍い? 腹たつ?」

 清水が何のことを言っているのか風花にはさっぱりわからない。

 ただ女友達にすら相談できなかった、同級生の小川への想いを示唆するようなことを言い出した清水がひたすら謎だった。

 いったい彼は何を言おうとしているのだろうか?

「絵をやめたほんとの理由はさ、小川さんが相原って人と付き合い始めたのが悲しくて見てられなかったんじゃないの? だから高校で美術部に入らなかった」

「な! や、やめてよ! どうして君にこんなこと言われなくちゃならないの? 関係ないし、第一なんでそんなのわかるの?」

 普段は穏やかで声を上げて怒るようなことのない風花だが、さすがにこれには抗議の声をあげた。こんなに唐突にほとんど知らない下級生から、秘めた心のうちを看破されるなんて。キリキリと胸が痛み、風花はすっかり動揺している。

「おかしいよ。変だよ……君」

 しかし、清水は平然としどろもどろの抗議を受け止めた。

「変じゃないよ。」

「変だよ! なんで私のこと色々知ってんの⁉︎」

「好きだから」

「は?」

 静かに、だが平然と清水は言い放った。大方の女の子が一番欲しがっているだろうその言葉を。

 好きな相手から一番言われたいただ一つの言葉を。

 彼の表情は何も変わらない。ただ視線はまっすぐに風花をとらえている。微動だにせず。

 風花はもう混乱のきわみで口をぱくぱくさせた。知らない人が見たらさぞや滑稽な姿だったろう。無意識に二三歩後ろに下がると膝の裏がベンチの座面に触れ、そのままへなへなと崩れ落ちる。

「中1の時からずっとあなたのこと見てた。あなたが何をしてるか、何を見てるか。だから知ってるんだ」

「……」

「さっきも言ったけど、まだ言うつもりはなかったんだけど、あまりにも俺がアウトオブ眼中なのを思い知らされたもんで。ま、存在くらいは知っといてもらおうと。せっかく窪田さんがチャンスをくれたんだし。あ、窪田さんは何にも知らないからね」

「……」

「充分答えになったでしょ」

「……」

「目玉が落っこちそうですよ。ついでによだれも出てます」

「え⁉︎」

 慌てた風花は思わず袖口で口元を拭おうとしたが、樹の意地の悪い笑顔に彼が嘘をついたのだとわかる。

「君、意地悪な子だ」

 ようやく言語能力を回復した風花が、やっとの事で言い返す。

「意地悪? なんでですか?」

「私、そんなに顔に出てたかな? もうどうしたらいいのかな」

「別に吉野さんは何にもしなくていいですよ。俺の他には誰も何も知らないし。俺が勝手に打ち明けただけだから、まったく今までどおりでオーケー」

 あくまでも余裕を崩さない静かな物腰はこの少年に似合ってはいたが、しかし風花は穏やかとはほど遠い。

「そんな泣きそうな顔しなくていいですって」

「泣いてないし!」

「可愛いですけど」

「かっ……⁉︎ ウソ!」

「今更嘘ついてどうすんですか? たった今好きって言ったじゃないですか、聞いてなかったんですか? 人の一世一代の告白を」

「うう〜〜」

 頭の上から畳み込まれて風花は黙った。

 ——好き。好きって、こんな簡単にれーせーにいうものだったっけ? 告白? 告白じゃないのか? これは。なんでそう冷静なんだ。なんで告られた私のほうがうろたえなきゃならないんだ? でもひょっとして中学の時から今まで同じ委員会だったのは、偶然なんかじゃなくて作為的だった? え? え? ええっ⁉︎)

 様々な「?」が頭の中を去来する。大きなタレ目は正直に感情を映し、それを見た清水は初めて笑った。

「ほんとにかわいいなあ、吉野さんは。でも混乱させたみたいでごめんなさい。俺のことなら全然気にしなくていいんですよ、本当に。ただ当分この気持ちが変わることはないと思うけど、あなたにどうしろとか言う気持ちはまったくないから」

「だ、だけどっ!」

 あまりに冷静というか、まるで第三者のことを話しているような口ぶりの清水に、風花はさっきの怒りはすっ飛んでしまい、別の意味で腹が立ってきた。

「なんか信じらんない。ちょっと生意気すぎない? 私一応先輩なんだけど」

「二週間だけね」

「え?」

「吉野さん、三月二十三日生まれでしょ? 俺、四月五日生まれだから。二週間だけ先輩。あなた」

「ほ、ほんとに?」

「ほんとに。ほら」

 そう言って清水はカバンから生徒手帳を取り出し、表紙を開いて風花の目の前に広げて見せた。端正に写った写真の脇に確かに四月五日生と明記してある。

「だから少しぐらい生意気でも見逃してくれなくちゃ」

 ——そーゆーモンダイかぁ?)

 何だかもう毒気を抜かれたというか、こんな相手に腹を立てたりしても仕方がない。ことの成り行きに納得できたわけではないが、どうやら相手は一枚以上上手のようだ、ということぐらいは鈍い風花にもわかってきたのだ。

「帰りますか?」

「帰るよ」

 ほかにどうしろというのだ。と心で毒づく。

風花はよいしょっとベンチから立ち上がる。さっきまでいた親子連れはいつのまにかいなくなっていた。

「じゃ、行きましょう」

 何事もなかったように清水が歩き出す。

 桜並木はもうすぐ終わり、短い商店街を抜けたらもうそこは駅だ。

 いつもの下校路、いつもの風景。

 だけど、なんだか空気の色がちがって見えるのは気のせいだろうか?

「あの……」

「はい」

 静かな視線が風花をとらえる。

「……ほんとに今までどおりでいいの?」

 広い背中に向かって風花はおずおずと問いかけた。どうも立場が弱い。どうしてなのだかわからないが。

「いいですよ」

 白いカッターシャツ越しに清水が答える。

「で、あの……その、小川君のことは……」

「小川さんのことは?」

 ほんの少し、眉を寄せながら清水は先を促した。


「もう、言わないでくれる? 私に。彼のことは私の中でもう納得してるから」

「言いませんよ、絶対。こんなこと言い出したのは俺の卑劣さの表れで……本当にすみません」

 風花が横に並ぶのを待って清水はゆっくりと言った。

「どうも俺、吉野さんに関わると平静じゃなくなるみたいです。気をつけます」

 いったいその態度のどこが平静じゃないんだか、という突っ込みはとりあえず置いといて、風花は彼の言葉は信用できると思った。

 清水は再び歩き出す。まさか照れているわけではないだろうが、さっきより少し大またで。駅に近づくにつれ人通りが多くなる。そろそろ夕飯の買い物の時間らしい。

 ——不思議な子だなぁ。でも、明日から駅で会ったら、おはようぐらい言おう……かな?)

 少し長めの襟足を見ながら風花はそう思う。

 それは嫌な感情ではなかった。


 広い背中においていかれないように、風花もまた大きく足を踏み出した。

 





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