穂高くんの情


 気が付くと、穂高くんや響ちゃんの記憶の海の中に飛んでいたあたしの意識は、祓殿で儀式を待つあたし自身の体に戻っていた。


 両目からはいつの間にかとめどなく涙がこぼれていた。目の前には顔を強張らせたまま俯いている響ちゃんがいる。そしてその上方に、ふわふわと浮いている霊体の穂高くんがいる。こんなに近くにいるのに、二人の視線が重なることはない。日高くんがつい最近まで穂高くんのことを知覚出来なかったように、響ちゃんには霊体の穂高くんを知覚することが出来ないからだ。それになぜか穂高くんから『霊体の僕が見付かったことは口外しないで』と口止めされていたから、あたしも日高くんも響ちゃんに話していなかった。


(……ねえ穂高くん。響ちゃんに、ここに穂高くんがいること、話しちゃダメ?)


 あたしが心の中で尋ねると、穂高くんは困ったように眉を下げる。


(響ちゃんが穂高くんのことをことが出来なくても、ずっと会いたがっていた人がこんなに近くにいるんだから、それを響ちゃんにおしえちゃダメなの?)


 穂高くんはすこしだけ悲しげな顔で笑って、駄目だと言うように首を左右に振る。


(どうして……?)


 響ちゃんが抱えていた、たった一人の大事な人に裏切られてしまったかもしれないという疑心は、どれだけ不安でつらいことだったのだろう。好きな人を自分のせいで失ってしまうというのは、いったいどれほどの苦しみだったのだろう。この一年、響ちゃんはどれほど自分を追い詰めて、自分を責めて責めて責め抜いて、あの冷静な表情の裏で苦しみもがき続けていたのだろう。想像しただけで心がズタズタに切り裂かれたように痛み出し、ますます涙があふれてくる。霊体だけだとしても、穂高くんが無事だということはつらい思いをし続けた響ちゃんの心の救いになるはずなのに。なんで話ちゃいけないのだろう。


「……早乙女さん……?なんであなたが泣くのよ……」


 目の前の響ちゃんが、キッとあたしを睨み付けてくる。でも追い詰められて牙を剥くちいさな生き物のようなあまりにも痛々しい表情に、あたしはたまらなくなって響ちゃんに抱き付いていた。


「早乙女さんっ!?」


 響ちゃんはうろたえながらあたしの体を引き剥がそうとしたけれど、あたしはもっともっと力を込めて響ちゃんの体を抱き締める。抱き締めながらわんわん泣いていた。馬鹿みたいに泣き続けた。そうしているうちに響ちゃんもあたしの体を剥がすことを諦めて、代わりにしがみつくようにあたしの服の袖口をぎゅっと掴んだ。


「………意味、分からないわ……」


 そう漏らしながらも、あたしの勢いに飲まれるように響ちゃんも声を上げて泣き出す。



“大丈夫だよ、響”



 響ちゃんの記憶の中の穂高くんは、響ちゃんがいじめられたときも落ち込んだときも泣きたくなったときも、何度でもそう言って響ちゃんに笑いかけていた。穂高くんの“大丈夫”は響ちゃんを癒し勇気づける、とっておきの言葉だったのだろう。今まであたしが能天気に“大丈夫”という言葉を口にするたび、きっと響ちゃんは穂高くんのことを嫌でも思い出してしまい、傷ついていたのだ。あたしは知らず知らず、響ちゃんの深い傷口にナイフを突き立てていたのだ。


「……ごめんね、……ごめんね響ちゃん………」


 何も知らなくてごめん。何も知らない間に傷つけてしまってごめん。何もわかってあげられなくてごめん。何もしてあげられなくてごめん。あたしは何度も心の中で謝り続けながら響ちゃんの体をますます強くぎゅっと抱きしめると、泣いている響ちゃんも何か感じ入るものがあったかのようにあたしの体を抱き締め返してきた。


『……いつも突っ張ってるけどね、ほんとは響、ずっとののかちゃんと友達になりたかったんだよ』


 泣き合うあたしたちの傍に降りてきた穂高くんは、やさしい顔をして言う。


『ののかちゃんはさ、僕と同じでいつもポジティブで明るくて面倒見がよくてめげなくて、すぐに誰とでも仲良くなれる、誰からも好かれる人気者じゃない?』


 穂高くんは冗談ぽく笑いながらも続ける。


『だから響は僕に似たところのある君に惹かれているんだけど、どうしても反発心沸いてしまうみたいでね。……それもこれも僕のせいだ。……本当はののかちゃんと仲良くなりたいのに、僕のせいで響はもう誰にも心を許したくない、信じて裏切られたくないって、自分を守るために以前にも増して心を閉ざすようになってしまったんだ』

(……穂高くん。……でも斎賀のおねえさんに言っていたこと、遊びで響ちゃんを口説いていたって嘘なんでしょう?それだけでも響ちゃんに伝えちゃダメなんですか?)


 響ちゃんの心は穂高くんを助けたいという一念でいっぱいになっているけれど、でも自分を好きだと言っていた穂高くんの言葉を信じたい気持ちと、やっぱりそれは嘘だったんじゃないかという疑心で常に揺れ動いているようだった。霊体の穂高くんのことを話しちゃダメなら、せめて穂高くんの気持ちが間違いなく響ちゃんにあるってことをしらせてあげたい。穂高くんは心から響ちゃんのことを思っているのだということを伝えたい。


 でも穂高くんはやっぱり『駄目だ』と言う。


(どうしてなんですかっ)

『だってさ。………僕の存在を知ってしまったら、未練になるだろう?』


 責めるように尋ねたあたしに、穂高くんはただ冷静にそう返す。


(未練?)

『ねえ、ののかちゃん。霊体の僕はこうして無事なわけだけど。僕の生身の体の方はどうなんだろう?』

(霊体がまだこの世に留まってるってことは、身体も無事でまだどこか次元の狭間にでもあるんじゃないかって、日高くん言ってましたよね……?)

『うん。日高も僕もそう推察したわけだけど。……でも本当にそうかな?』

(………え……)


 穂高くんが言わんとしていることをおぼろげに察したあたしの背に、ひやりと悪い予感なのか汗なのかが流れ落ちる。


『行方不明の僕の体が無事なんて保証はどこにもないんだ。……もしかしたら霊体が無事なだけで、僕の体はとっくの昔に海の中で朽ちて海の藻屑か魚の餌にでもなっているかもしれない。……今の僕はただ響への未練だけでこの世にしがみついている、自分の死を受け入れられずにいるただの亡霊なのかもしれないんだ』


 誰にも見つけてもらえないまま海の中で白骨と化した穂高くんの姿を想像しただけで、胸が苦しくなるくらいの絶望感が込み上げて来てあたしは何も言えなくなってしまった。


『………今霊体の僕の存在を響に話して、直接話すことも目を合わすことも出来ないのに生半可に希望を与えて、それでずっと僕の体が見付からなかったとしたら?もし運よく見付かったとしても、その体がただの腐り果てた屍だったとしたら?………あまりにも残酷だろう』


 あたしよりもよっぽど『ここにいます』と本当は響ちゃんに伝えたいであろう穂高くんは、そっと響ちゃんの背後に回った。


『響はね、情が深いヤツなんだ。下手に希望を与えるようなことを言えば、ずっとずっと何年だって独りで僕の体を探し続けて僕を待ち続けるだろうね。でもこんなさびしくてきれいでやさしいやつに、そんな業を背負わせるわけにはいかない。響は誰よりもしあわせになるべきやつなんだ。僕のせいで響がこれから孤独でつらい一生を送るくらいなら…………響をあの弐敷のゴリラに譲った方が千倍マシだよ』


 まだあたしの体にしがみついたまま泣いている響ちゃんの頭に、穂高くんは手を伸ばす。それでも生身の響ちゃんと霊体の穂高くんがほんとうに触れ合うことはない。こんなに近くにいるのに、決して越えることの出来ない距離が悲しい。


『響にはまだまだこれからの人生がある。それを僕のせいで台無しになんてしたくないんだ。僕は響には誰よりもしあわせになってもらいたい。たとえ響の隣にいるのが僕じゃなかったとしても、響がこれから笑って過ごせればそれでいい。………もしもう僕が響の元に帰れないのだとしたら、早く僕のことは諦めて一日でも早く立ち直ってほしいんだ』


 穂高くんは、ただただ響ちゃんのしあわせだけを願っていた。ほんとうは大好きな響ちゃんの傍にずっといたいだろうし、自分以外に好きな人が出来てしまうなんて想像するだけでもつらいことだろうに、穂高くんはそんな痛みにも耐えてただ響ちゃんにしあわせになってほしいと願っている。


『響………ごめんな』


 穂高くんは触れることが出来ない響ちゃんを、それでも背後からそっと抱き締めた。


『おまえのせいなんかじゃない。これは僕がおまえを傷つけた報いだ。たとえその場を取り繕う嘘だとしても、おまえを傷つけるようなことを言っていいわけがなかったんだ。もし僕がもうあちらの国に行かなくてはいけないんだとしたら、僕が響の中にある未練を持っていくから。………だからどうか僕のせいで不幸になったりしないでくれ』


 響ちゃんの耳元で穂高くんが言うと、響ちゃんは急にぴたりと泣き止んで「……嫌よ」と呟いた。


「響ちゃん……?」


 あたしが響ちゃんの顔を覗き込むと、響ちゃんは自分でもなんでそう口走ってしまったのかわからないという顔をして視線をさまよわす。


「………私……」


 戸惑う響ちゃんにしっかり視線を合わせてあたしが頷くと、響ちゃんはちいさな声で言った。


「……私、今、……なんでか穂高が、ずっと遠くに行ってしまう気がしたの………なんでかしら…………今までだって穂高はずっと遠くにいたはずなのに……」


 霊感の鋭い響ちゃんは何かを肌で感じ取ったのか、その目がいっそう悲しげな色に染まっていく。………なんであたしに出来ることは何もないんだろう。あたしは悔しさと悲しさでまた涙が滲んでくる。でもそんなあたしに穂高くんは『十分だよ』と言ってくれる。


『ののかちゃんは日高の子を産むことを選んでくれた。日高のために、お腹の赤ちゃんのために、それに僕のためにもそう決断してくれた。ののかちゃんの愛情と決断には、もう十分すぎるくらい僕は救われているんだ』

「ああ。……だからといって悲観することなんて許さない」


 今まで儀式の準備をしながらずっと黙っていた日高くんがそう言いながら立ち上がった。


「穂高を救うために、俺もののかも響も、やれることはみんなやって手を尽くしている。………だからもう無理かもしれないなんて絶対に思うな。そう簡単に諦めてたまるか」


 日高くんは怒っていることを隠さずに、響ちゃんを、そしてそれから穂高くんを見つめる。


「俺も穂高には言ってやりたいことは山ほどあるし、これだけ人に心配させて二、三発ぶん殴ってやらなきゃ気が治まらないからな。俺の海来神としての力を尽くして必ず穂高は見付けだしてやる」


 日高くんはまるで自分自身にも言い聞かせるようにはっきりというと、響ちゃんに向かって頭を下げた。


「だから響も俺に力を貸してくれ。……まずはののかを助けるための儀式をはじめよう」


 響ちゃんは一瞬緊張で顔を強張らせた後、それでも固く頷いた。








 儀式は無事に終了した。


 日高くんと響ちゃん、それに穂高くんの力であたしにかけられていた竜の契約はちゃんと人形に移すことが出来た。その証拠にあたしの首に巻かれていた神呪の鎖は消え、身代わりである人形に契約を移した途端、人形の首が千切れて散った。


「もうこれで心配ないわ」


 海来神社の敷地内を流れる小川に千切れた人形を流しながら、響ちゃんは緊張で強張っていた顔をようやくいくらか緩めて言った。


「うん、ありがとう響ちゃん」


 大祓の儀式に祭員として参加することはとても気力や体力を消耗するらしく、響ちゃんはやや疲れた顔をしていた。それでもあたしがお礼を言うと表情を引き締めて言った。


「いちばん大変だったのは日高のはずよ。……あとで労ってあげるといいわ」


 日高くんは少し離れた場所から、右狐と左狐、それに穂高くんと一緒にあたしたちを見守っていた。万が一伊津子比売に遭遇したときのために、結界を張ってくれているらしい。


「うん、わかった。でも響ちゃんもほんとうにありがとう」

「………それとこれを返しておくわ」


 そういって響ちゃんが手渡してきたのはちいさな匂い袋。あたしのお手製で肌身離さず持っていたものだ。力がどう作用するかわからないので儀式の最中には身に付けないほうがいいと言われて、響ちゃんにしまっておいてもらったのだ。


「早乙女さん。………それは日高の鱗なんでしょう」


 響ちゃんに聞かれて、匂い袋を見つめたままあたしは頷いた。


「………その匂い袋越しに触れていても、遮ることが出来ないほどの温かなオーラが中から溢れてくるのを感じたわ。きっとそれが日高の早乙女さんへの強い愛情やあたたかな思いの証なのね」


 響ちゃんは独り言のようにそう言うと、顔を俯かせてしまう。


「響ちゃん……?」

「私、やっぱりどうしようもなくあなたのことが妬ましい。誰からも愛されて大事にされて、それにそんなはっきりとした思いの形を日高から受け取ったあなたのことがうらやましくてたまらない。………今の私には何一つ、残っていないから」


 そういって響ちゃんは空っぽの自分の手の中を力なく見詰める。そう、響ちゃんには穂高くんのことを思う『よすが』に出来るものさえないんだ。それでもきっと響ちゃんは穂高くんを思い続けるのだろう。もしこのまま穂高くんとの再会が永遠に叶わなかったとしても響ちゃんが穂高くんを忘れることなんて出来るわけがない。穂高くんの代わりなんて誰もなれないに決まっている。響ちゃんをしあわせにできるのは世界でただひとり、穂高くんだけだ。

 穂高くんは最悪の事態を想定していたけれど、あたしは諦めたくない。絶対に穂高くんと響ちゃんをもう一度会わせたい。あたしに出来ることがたとえ祈ることだけなのだとしても、無理だなんて投げ出したくない。あたしも力になりたい。


「ねえ、響ちゃん」


 あたしは決意は胸に秘めたまま、響ちゃんと向き合う。


「あたしは今からでも響ちゃんの友だちになれないのかな?」


突然のあたしの言葉に、響ちゃんは驚いて目を見開いた。


「鬱陶しがられても、あたしはやっぱり響ちゃんのことが好き。いつも真面目で落ち着いてて大人っぽくて、でもあたしが困ってると黙って手を貸してくれるやさしいところも、なかなか本音を言ってくれないところも、全部ひっくるめて好き。だからやっぱり響ちゃんの友だちになりたいの」

「………こんな性格の悪い私にそんなこというなんて、早乙女さんもほんとうにお人よしの物好きなのね」

「違うよ。響ちゃんが素敵な女の子だからだよっ」


 お世辞なんかじゃなくて、本当に思っていることだからこそあたしは照れもせずにきっぱり言うと、響ちゃんは視線を揺らしてたじろぐ。


「でも……でも私じゃなくても、他にも早乙女さんと仲良くなりたがってる子はたくさんいるのよ?学校でもこの村でも」

「関係ないよ。そうだとしてもあたしは響ちゃんがいい。どうしてなのかなんてわからないよ。日高くんを好きになったときみたいに、理屈なんてないの。ただ好きだって、そう思って惹かれるの。男の子以外にも、友だちになりたい女の子にもこんな気持ちになることがあるなんて、あたしはじめて知ったよ。だからどうしても響ちゃんと仲良くなりたい」


 上手く伝わる自信なんてなかったけど、自分なりに思っていたことを伝え続けていると、能面みたいだった響ちゃんのその目がすこしずつ潤んでいく。


「………早乙女さんはやっぱり変な人だわ。……私は……やっぱり早乙女さんことは嫌いよ。だっていつもきらきらしていて誰とでも仲良くなれる早乙女さんといると、自分のことが心底きらいになりそうになるんだもの……」


 響ちゃんもぎこちないけれど、自分の気持ちを確かめるように一言一言語り掛けてくる。


「……でも早乙女さんと一緒にいると……あなたがいつもいつも笑顔で駆け寄ってくれると、私も違う私になれるんじゃないかって……あなたのお友達に相応しい女の子に変われるんじゃないかって、心のどこかでいつも思っていたわ……」


 そう言うと、響ちゃんはそっとあたしの体を抱いてきた。


「………あなたが助かってよかった………あなたまで何かあったらどうしようって思ってた……」


 響ちゃんは抱き締めることで、あたしにその思いを伝えてくれる。穂高くんが言う通り響ちゃんは情の深い子だ。きっとツンとした態度の裏ではずっとあたしのことを心配し続けてくれたんだろう。あたしは心の中で響ちゃんにお礼を言う。


(ありがとう響ちゃん。心配かけてごめんね)


 今はこの抱擁だけで十分だった。きっとあたしと響ちゃんはこれからもっと仲良くなることが出来るはずだ。そんな予感のする抱擁に、あたしも響ちゃんの華奢な体を抱き締め返した。


 すこし離れた場所で穂高くんがそんなあたしたちを目を細めて眺めていた。その顔はひとつでも響ちゃんが頼りに出来るものが見付かってほっとするような、そんな顔だった。そして日高くんはなぜか仏頂面で口を真一文字にして、あたしたちから目を逸らして立っていた。






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