蒼真珠の代償


 勝手に寝室を覗くことを躊躇ったけどそれも一瞬のことで、あたしは音を立てないようにそっと襖を開く。天井の照明は落ちているけれど、日高くんは枕元の電気スタンドを点けているのかやわらかい灯りが細い隙間から漏れてきた。


(あれ………日高くん、まだ起きてたのかな?)


 こっそりとその狭い隙間から部屋の中を覗こうとした途端、あたしは悲鳴を上げそうになった。……中にいる日高くんと目ががっちり合ってしまったのだ。


「………ののか?……こんな時間にどうしたんだ?」


 日高くんは読書でもしていたのか、それとも瞑想でもしていたのか、なぜかふかふかのお布団の上できれいに背筋を伸ばして正座をしていた。


「ひ、日高くんっ、なんで。まだ寝てなかったの……っ!?」


 言ってしまってからしまったと思った。今の発言じゃ「寝てると思ったからこっそり覗き見するつもりでした」と告白してるも同然だ。


「勝手に開けてごめんなさいっ、あたしはあの、えっと……」

「具合が悪くなったのか?」

「あっ………違います、そうじゃなくて。元気なんだけど………」


あまり口達者じゃないから、誤魔化すためのうまい言葉が見つからなかった。


「じゃあどうしたんだ?」

「……えっと、つまりあの………ちょっと、急に日高くんの顔が見たくなって……」


 正しくは「夢から覚めたら悪い予感がして、日高くんの無事を自分の目で見て確かめたくなった」と説明したかったわけだけど、焦りすぎていろいろ言葉が足りてない。


(もぉばかっ。こんな夜中にこっそり寝室覗き見して『顔が見たかった』とか、怖すぎでしょっ。日高くんにドン引きされるよっ)


 そう思って焦れば焦るほど言葉は出てこなくなってしまう。あたしが恥ずかしさと困惑であわあわしてると、日高くんがくすっと笑った。


「そうか。俺も。……今ちょうどそんな気分だった」


 てっきり困った顔をされるとばかり思っていたのに、日高くんはあたしを見てやさしい声で言ってくれる。まるで「同じ気持ちでいたことがうれしい」といわんばかりの笑みを浮かべるから、その表情を見たあたしの鼓動はいっきに跳ね上がる。


(……日高くんってば、相変わらず思わせぶりなこと言っちゃってさっ……。ほんと、日高くんの無自覚な天然発言も困ったもんだなっ………………あれ……?“天然”?)


 その単語は今さっき聞いたばかりのような気がする。




 『………のクセに天然で母性本能くすぐりまくってるんだよあいつは………』




 あたしの記憶の中に、確かに誰かの声が残されている。なのにそれが誰の声であったのか、何を話していたのかをあたしは思い出すことが出来ない。今まで眠ってたはずだから、誰かと話してたわけなんてないのに。


「ののか?どうしたんだ、ぼおっとして」

「………ううん。なんでもない………?」


 なんか釈然としない気分だったけど、思い出せない以上は気にしてもしょうがない。きっと見たばかりの夢を引き摺ってるだけなんだと思うことにして、あたしは退散することにした。


「夜中に急にごめんね、ここ閉めるね。日高くんもゆっくり休んでね」

「ああ、ののかも。……でも悪いけれど、その前にちょっとこっちへ来てもらえるか?」


 日高くんはそういって正座のままあたしを手招きする。


「………日高くんの傍に行けばいいの?」


 あたしは襖を開けて自分の部屋から顔を覗かせているだけで、まだ日高くんの寝室には一歩も足を踏み入れていなかった。一緒に暮らしていて私室の方はお互い行き来することはあっても、家の中でいちばん無防備になって安らげる寝室は他人が足を踏み入れてはいけない場所だという意識があった。だからあたしは敷居を越えて『不可侵』と決めていた日高くんの寝室に入ることを躊躇う。そんなあたしを見て何を思ったのか、日高くんが慌てて言い添えてくる。


「大丈夫、誓って変なことはしない!」

「……やだな、そんなこと心配してたわけじゃないって!!日高くんみたいないい人のこと、あたしが警戒するわけないじゃんっ」


 あたしの言葉に、なぜだか日高くんは微妙な笑みを浮かべる。


「無条件の信頼っていうのも意外に胸に刺さるもんだな………」

「うん?…………えっと、日高くんがいいっていうなら、ちょっとお邪魔するよ?」

「ああ」


 あたしはちょっとドキドキしながら敷居を跨ぐ。もっともプライベートな空間に招いてもらえたことがうれしかった。あたしは日高くんに歩み寄り、座っている彼に合わせてその場に膝をついた。間近で見ると日高くんの体はますます神力が満ちてきている所為なのか、うっすらと蒼く発光しているのがわかった。相変わらずきれいだなぁと見惚れていると、日高くんは急にあたしに向かって右手を差し出してきた。思わずあたしが両手を受け取る形にすると、日高くんはあたしの手のひらの中に何かを落としてきた。手の中で転がったそれを見て、あたしは目を見張る。


「これ………蒼真珠っ!?」


 大粒でまん丸の蒼真珠だ。普通の真珠とは違う、神秘的な蒼い色をしている。直前まで日高くんの手のひらの中にあったせいか、まるで人肌のようにあたたかい。


「きれい……こんな立派なおおきさの粒、見たことないよ。………どうしたの、これ」

「ののかにあげるよ」

「えっ」

「お守りにしていた蒼真珠がなくなってしまったって言ってただろ?これでよかったらもらってくれないか」


 よく見ると蒼真珠は淡く発光していた。だから翠碧貝から採れる普通の蒼真珠ではなく、特別なものなんだとわかる。七歳のときに男の子からもらった、あたし以外は触ったり見たりが出来なかったそれとよく似ている。


「………ねえ、日高くん、これほんとにどうしたの?」


 あたしが顔を上げると、日高くんは微笑んだ。


「ののかが作っていた匂い袋に入れておくのに、丁度いいんじゃないかと思って。……もちろん、頼まれた護符もちゃんと書くけれど………」

「うれしいけど、でも、これ大事なものなんじゃないの?」

「いいんだよ。これはののかのために用意したものだから」


 日高くんはあたしの目を見てはっきりと言う。それからこわごわと蒼真珠を持っていたあたしの手に、そっと自分の手を重ねてくる。


「うまく伝わってなかったかもしれないけど、ずっとののかには感謝しているんだ。『花嫁御寮』のお役目なんてだいぶ時代錯誤で無茶な話だと思うのに、文句も言わずにこの家に住み込んでくれて、梅とか鶴婆に厳しいこと言われてもいつもお務め頑張ってくれて、ふたりと仲良くしてくれてるし」


 あたしなんて、料理はまだまだへたっぴだし、最近家事ほとんどやってないし、全然ダメダメなのに。日高くんがそんな風に思ってくれていたなんて知らなかった。でももしあたしが何かがんばれてるんだとしたら、それは日高くんのおかげだ。……日高くんのために何かしたいって、日高くんが思わせてくれるのだから。


「……それに海来の血筋だとか神力だとか異形だとか、そんな特殊なモノであふれた環境にもいつも馴染もうとがんばってくれてて……そういう一生懸命なところ、俺は素直にすごいと思っている」

「…………そんなことないよ」

「いや、そんなことある。俺のこともこの家のことも怖がられて嫌われても仕方ないと思っていたのに、ののかはいつだって受け入れようとしてくれる。………世界中探したって、ののかみたいな子はいるわけないよ」


 褒めすぎだよと思うけど、真摯な言葉に胸がじーんとしてくる。日高くんにあたしが特別な存在なんだって言ってもらえたようで、うれしくて、うれしくて。あたしは泣きそうになっていた。


「だから受け取ってくれないか。……俺はののかにこんなことくらいしか出来ないから……」


 そういって日高くんは蒼真珠をあたしの手に握らせてくる。うれしいけど、好きな人からこんなきれいな宝石をもらってしまったら、あたしはもう黙っていられなくなりそうだ。ニセモノの奥さんなんてイヤ、日高くんが好きだから日高くんのカノジョになりたいって、きっとそう言いたくなってしまう。でも今はまだ花嫁御寮役として神事をしている最中だし、日高くんを困らせたくない。せめてこのお役目が終わる日までは黙っていなきゃいけないと思う。だからあたしが受け取りを躊躇っていると、日高くんは目を細めた。


「………本当にののかは欲がないな………」


 呟いてから、日高くんはまるで痛みを堪えるように顔を歪めた。


「蒼真珠一粒ですら、こんなに遠慮して…………こんなののかが見返り目的なわけないよな……………どうして俺は、あの日、もっとちゃんとののかの話を聞いておかなかったんだろう………」

「日高くん?」

「………右狐や左狐の話を鵜呑みにして……神婚のことも懐胎のことも説明は全部響に丸投げにして…………大事なことを他人任せにする奴が花嫁を娶る資格なんてないはずなのに………」


 なんだか日高くんの様子がおかしかった。目の前にあたしがいるはずなのに、まるで独白するように喋り続ける。しかもその言葉は次第に途切れがちになっていく。


「………いくら穂高のことで……焦っていたからって…………話くらい……ちゃんとしておけば………」

「………穂高………?」


 その名前を口にした途端、あっと息を飲む。瞬く間にあたしの脳内で眠っていた記憶が駆け巡っていく。穂高さんのことをはっきり思い出すと、その途端電気も消していないのに一瞬視界が暗転して、あたしの目に宙に浮いてこちらを心配そうに伺うそのひとの姿が一瞬だけ見えた。


(穂高さんっ。そうだ、あたし穂高さんと話していたんだっ。夢なんかじゃないっ)


「ねえ、日高くん。………日高くんっ!?」


 日高くんの目が左右に振れていた。視点が定まらないのか、顔はあたしに向けているのにきょろきょろと何かを探すように日高くんは視線をさまよわせる。


「………ののか……?」

「ここにいるよ?どうしたのっ」

「……………ごめん、ののか。懐胎することを……ののかがどういう経緯で受けてくれたのか、もう一度ちゃんと聞いておかなきゃならないってずっと思ってた………けど俺は………」


 日高くんはなぜかうわ言のように「ごめん」と繰り返す。でもその言葉もだんだんと崩れていき、目もますますうつろになっていく。


「………ごめん………確かめるのが怖くて…………」

「だからなんの話なの?」

「…………これ、お守りに…………俺がののかのために出来ることなんて、このくらいで…………」

「ねえ、日高くんっ」

「………ほんとうにごめん………それでも俺はののかのことが………」

「きゃっ…………日高くんっ!?」


 日高くんの体が揺れたと思ったら、いきなりあたしに向かって倒れこんでくる。


「どうしたの、日高くんっ、具合悪いのっ!?」


 あたしはどうにか日高くんの体を抱き留めつつ聞く。でももう返答がない。なんか今の状況、あのときとそっくりだ。七歳のとき、あの男の子から蒼真珠を渡されたときと。


「日高くん、しっかりして、ねえ日高くんっ」


 日高くんの体を揺り動かしているうちに、抱き留めたその背中が濡れていることに気付く。汗にしては指先にあまりにもぐっしょりと濡れそぼった感触を感じて慌てて自分の手を見ると、なぜかあたしの手のひらにはべったりと蒼色の塗料のようなものが付いていた。しかもそれは蒼く光り輝いている。


「ねえ、日高くん、これ、いったいなんなのっ」


 見れば日高くんの浴衣の背中が何かをぶちまけたように蒼く濡れていた。しかもその蒼い液体のようなものは浴衣の下から次から次へと染み出してくる。………なんだか、すごくまずい気がする。あたしは何が起きているのか確かめるために、日高くんの浴衣を緩めて隙間から中を覗いてみる。すると日高くんの背中に真新しい傷が出来ているのが見えた。皮膚を無理やり剥いだときのように真っ赤になってぐじゅぐじゅになったその傷口から、まるで血のように蒼い液体が流れ出ている。


「………なに、これ」


 すぐに傷口に手を当ててその蒼い液体が流れ出てくるのを抑えようとするけれど、ぎゅっと押さえつけたあたしの指の隙間から容赦なくそれはこぼれ落ちていく。


「だめ………だめっ止まって!!」


 日高くんの体から湧いてくる温かな蒼い液体に触れているうちにあたしは悟る。これは、日高くんの『命』だ。いつも日高くんの体を覆っているこの蒼色の光は、日高くんがお父さんから引き継いだ『神力』であり、海来様になった日高くんの命と溶け合ったエネルギーなのだろう。これが日高くんの体から流出するのを食い止められなかったら、きっと日高くんの命は危ない。


「なんで……どうして…………?」


 今の日高くんは血まみれも同然の状態だ。どうしてこんなことになってしまったんだろう。パニックで泣きそうになっていると、不意に両目に誰かが触れたような温かい感触がした。目の奥がちりっと痛んで瞬きをすると、あたしの目の前にぼんやりとした人の影が浮いているのが見える。輪郭が滲んではっきりとは見えないけれど、宙に浮いているその影はたぶん穂高さんだ。表情はわからないけれど大事な弟を心配するように、顔をじっとこちらに向けている。


「穂高さんっ日高くんが……!!あたし、どうすればいいのっ??」


 あたしは日高くんを抱いたまま必死に影を見上げるけれど、影はすぐに人の姿を崩し霧散してしまう。


「穂高さん!?なんで……どこにいっちゃったの…っ?…………どうしようっ」


 もう一度日高くんの背中を見ると、穂高さんが今視界をくれたせいなのか、あたしの目にさっきまで見えていなかった蒼色のきれいな鱗が目に映る。背中にあったはずのその一枚が無理やり引き剥がされたかのように欠けていて、そこから蒼い液体が流れ出ていた。さっき日高くんがくれた蒼真珠も、日高くんの鱗も、同じ蒼色で、同じように発光している。


「もしかして…………………日高くんがくれた蒼真珠って………」


 あたしは蒼真珠を握りこむ。それは先ほどまで日高くんの体の一部であったかのようにほんのりと温かい。あたしはようやく悟った。この蒼真珠は、日高くんの鱗だ。たぶん神力の特別な力で、日高くんは自分の体に生えている神力の宿った鱗から蒼真珠を生み出したのだ。だから昔もらったあの蒼真珠には蛇女を破邪するほどの強い力があったのだ。


「なんで………三日三晩寝込むほど痛かったんでしょ……?」


 穂高さんがさっきあんなに必死な顔して止めようとしたくらいなんだから、体の一部から蒼真珠を生成することはとても危険なことなんだろう。七歳のときも、きっと日高くんは死ぬような思いをしてまであたしにあの蒼真珠をくれたんだ。


「どんな状態になるのかわかっていたんでしょ……?なのになんでまた鱗を剥がそうとなんて思ったの?……前にもらった蒼真珠がなくなって、あたしが落ち込んでいたから?だからまたあたしにくれようとしたの?……あたしのために、こんなことになってるの……?」


 あたしの両目からは涙がぼろぼろとこぼれていく。


「どうしてこんなことっ………イヤだよ、全然うれしくないよっ」


 あたしのためにしてくれたことだとしても、日高くんが傷つくなんて絶対に嫌だ。


「日高くんのバカ………バカッ!!…………イヤだよ、なんで止まらないの!?……助けて……誰か………誰か日高くんを助けてよぉ……っ」


あたしが泣きわめいている合間にも、日高くんの命は傷口からどんどん流れ出ていく。ぐったりしたその顔もだんだんと血の気がなくなってきている。このままじゃ、ほんとうに日高くんは危ない。


(………ここでただ泣いてて、どうなるの……?)


 あたしは泣きながら両手で自分のほっぺたを思いっきりバチンと叩く。あまりに強く叩きすぎて、目がチカチカする。でもその衝撃のおかげで涙は止まった。今、日高くんを助けられるのはあたしだけだ。あたししかいない。


(あたしじゃなにも出来ない。………宮司さんたちのところへ助けを求めに行こうっ)


 長年神職として海来様にお仕えしている宮司さんなら、こんなときの対処法を何か知っているはずだ。あたしは日高くんの体をお布団の上にそっと横たえると、すぅっと息を吸って大きな声で呼びかける。


「右狐ッ、左狐ッ」


 返事はなかったけど、めげずに続ける。


「聞こえているんでしょうっ、お願い今すぐ来て!!日高くんの一大事なのっ」


 立ち上がって日高くんの私室の方に入ってみるけれど、日高くんの制服のポケットに差し込んである万年筆はぴくりとも動かない。どうやら今はそこではなく、ふたりとも夜の豊海に出掛けてしまっているようだ。あたしはすこし考えた後、廊下に駆け出てガラス窓を開ける。それから夜の空に向かって「叢雨むらさめっ」と大声で呼びかけた。するとはっきりとは見えないけど、空高くから何かが猛烈なスピードで近づいてくる気配を感じた。


「叢雨っ、お願い!!今すぐ右狐と左狐をここに呼んでっ」


 彼はもう日高くんの使役ではない。日高くんならまだしも、あたしの言うことを聞いてくれるとも限らない。でも今は彼が日高くんに向けていた忠義心を信じるしかない。


「日高くんを助けるために力を貸してッ。あたしは今から急いで宮司さんのところへ行って呼んでくるから、右狐と左狐に日高くんに付いててあげてって伝えて。お願いしますッ」


 あたしはそう叫んで近づいてきた何かに一礼すると、急いで階段を駆け下りていった。






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