6章 旦那さまの変化

変化する身体


「鶴子さん、梅さん、今日もお疲れ様でございました」


 あたしが深々頭を下げると、玄関先で靴を履き込んだ教育係りの二人がこちらに振り返ってお辞儀を返してくる。


「こちらこそ、どうもお疲れ様でございました」

「ののか様、明日もまた四時半に参りますので、どうぞごゆっくりお休みください」


 梅さんは高齢の鶴子さんを気遣いながら、日が暮れはじめた道を表通りに向かって歩いていく。その姿を見送ると、あたしは暗くなる前に残りの家事を片付けてしまおうと急いで貝楼閣に上がった。

 今日は月曜日。海来様である日高くんと『神婚』を執り行ってからようやく一週間経ったところだ。先週の火曜日から女中頭にして世話役でもある梅さんと、あたしの教育係りになった鶴子さんを迎えてはじまった花嫁修業は想像以上にハードなもので、たった数日しか経っていないのにすでにあたしはヘロヘロになっていた。


 朝はまずは洗濯物を選り分けて汚れ物を洗濯機にセットするところからはじまり、続いて日高くんとあたし二人分の朝食とお弁当の準備に移り、それが終わると急いで洗濯物を干し、寝室のある三階まで駆け上って日高くんを起し、一緒に朝食を取った後は食卓の後片付け、極めつけはお布団干しといういちばんの重労働が待ち受けている。

 自分も学校の支度をしながら並行して家事を回すことなんてまだまだあたしには出来なくて、梅さんや鶴子さんに手際の悪さを窘められたり、効率の良い家事の仕方のアドバイスを頂いたり、たくさん手助けしてもらってどうにかこうにか嫁業をこなした一週間だった。朝だけじゃなくて学校から帰ってきてからも晩御飯の下拵えをして、取り込んでおいてもらった洗濯物を畳んで片付けて、お風呂の準備やごはんの用意をして、という感じだから全然休む間もなかった。


 唯一ゆっくり出来るのは家事を終えてお風呂に入っているときくらいで、お風呂から出るといつも何かをする余裕もなくすぐに眠ってしまう。忙しいし疲れすぎて家で学校の宿題をすることも出来なくなったから、最近は昼休みに図書室に通うようになって、日高くんは向かいの席で読書を、あたしは授業の予習復習とか出された課題をするようになっていた。



「あー。やっと終わったぁ」


 乾いた洗濯物の片付けがひと段落すると、肩のこわばりを感じてその場でおおきく伸びをした。すると「ふわぁ」と気の抜けたあくびが一緒に出てくる。慣れない家事にあまりにもクタクタになったせいで、昨日は思わずお父さんとお母さんに「いつもありがとう」なんて電話をしていた。感謝を伝えずにはいられないほど、家事をしてもらうことの有難さをしみじみ感じていたのだ。


「つっかれたー!!……なーんか眠いし、今日は早めに夕飯済ませて早く休もうかなぁ……とりあえず日高くん、呼んでくるか」


 あたしは少しうんざりしつつ、一階から自室のある三階へと階段を一段一段上っていく。こんなとき携帯とか持っててくれたら「ごはんだから下りてきて」とLINEやメールを送って楽に呼び出せるんだけど、日高くんは生まれてこのかた携帯を持ったことがなければ今後も持つ気がないらしい。いわく、日没までは必ず女中役が家にいるし、用事や言付けを頼める使役もいるから、携帯なんか持っていなくとも不便を感じることがないらしい。


「………だったら早くあたしにも、携帯代わりになるような、ちゃんと言うこときく使役見つけてくれればいいのにっ」


 日高くんの狐たちはあたしのことが気に食わないらしく、今もひいひい息を切らすあたしのことをどこかで見てるはずなのに、日高くんを呼び出しに行ってくれるどころか姿すら見せてくれない。ときどきバカにするようにクスクス笑う声がお邸のどこかから聞こえてくるのみだ。


「ふー。しんど……ッ。最近、運動不足なのかな……?」


 慣れない家事で疲れがたまっているのか、ここ数日やけに脚が重たく体がだるかった。それに時折、妙にお腹のあたりがちくちく痛むのだ。


「………そういえば、もうそろそろ生理の時期だったっけ?」


 そのときによって波があるけれど、あたしは重いときは結構生理痛がつらい方だから、お嫁業も生理痛の度合いによっては免除してもらうことが出来たらいいのにって考えてしまう。


「鶴子さんとかは絶対ダメとか言いそうだなぁ……」


 御年85歳の鶴子さんは古き良き日本の良妻賢母のイメージそのものの人で、『家庭に入って家族のために尽くし心を込めて主婦業をこなすことこそが女の美徳』という信念を持っている方だ。とても立派で尊敬出来る人だけど、とにかく厳しいのだ。


「生理のときくらい、鶴子さん大目に見てくれないかな……?」


 日高くんの言うことなら聞いてくれそうだけど、日高くんに「生理中でしんどいから家事手抜きしてもいい?」なんてお伺い、死んでも立てられない。さすがに恥ずかしすぎるし、そんなことを男子に話すなんて逆セクハラになりかねない。だったらどうやってもうすぐやってくるブルーデイを乗り切ろうかと考えているうちに、三階にたどり着いた。


「ねえ日高くん、ごはんにしない?」


 襖越しに声を掛けてみるけど、日高くんの応答はない。


「日高くん、開けるよ?」


 日高くんの私室の襖を開けてみたけれど姿はなかった。となると、他に日高くんが居そうな場所はひとつ。


「また書庫の方かな?」


 前に書庫に探しに行ったとき、中で日高くんがうたた寝していることに気付かず、ノックの音でびっくりさせて起こしてしまったことがあった。だから今日はそっと扉を開ける。わずかな隙間から部屋の中を覗き込むと、日高くんが本棚に寄りかかって座っているのが見えた。日高くん、と声を掛けかける前に、日高くんが自分の手元をじいっと見詰めていることに気付く。その手の中には何かちいさなハンカチのようなものが握られていた。

 よほど大事にしているものなのか、日高くんはそのハンカチに視線が釘付けになったままであたしにはちっとも気付かない。不意に何を思い出したのか、日高くんはふっと唇を笑みの形に綻ばせた。日高くんの意識が、彼の中にあるとても幸せな記憶に触れている、そんな表情だった。その顔を見ているだけであたしの胸まできゅんとしてくる。そのままこっそり日高くんのことを盗み見ていると、戸口に立つあたしにようやく気付いた日高くんが驚きの声を上げた。


「…………あ、………………ののかっ?!」


 昨日の夜からあたしは日高くんに『ののか』と呼ばれるようになっていたけど、呼ばれたあたしのほうがまだ慣れなくて耳たぶがじんじん熱くなってくる。


「えと、その。ごはんで、呼びに来たんだけど……」

「びっくりした。声掛けてくれればよかったのに………いつからそこにいたんだ?」


 日高くんはどこか決まりが悪そうに言いながら、あたしの視線から隠すように持っていたハンカチを急いで手の中に丸め込んでポケットに突っ込んでしまう。指の隙間からちょっとだけ見えたそれは子供っぽいピンク色をしていて、どう見ても紳士用のハンカチではなさそうだった。


「ねえ日高くん、今のそれってハンカチだよね?」


 どうやら触れてほしくない話題らしく、日高くんは返事もせずにだんまりになる。そうされると余計に気になってしまって、ついあたしは余計なことを言ってしまう。


「なにか大事なものだったりするの?」

「…………まあ、」

「ね、それ、明日お洗濯しておこうか?」

「……………いや、」


 日高くんは言葉を濁して、絡むあたしにちょっと困ったような顔になる。


「でもそんなふうにポケットに入れたらぐしゃぐしゃでしょ?洗ってきちんとアイロンかけておくよ」

「…………いいよ」

「でもさ、大事なものならちゃんと扱ったほうがいいからさ」

「べつにいいんだってば」

「けど、あたしアイロン掛けも結構手慣れてきたんだよ?だから心配しないで任せてって、」

「もう、いいっていってるだろ…………ッ!!」


 思いがけないくらい強い拒絶だった。


「……ご、……ごめんなさい……」


 日高くんにここまではっきり鬱陶しそうな顔をされるのは初めてのことで、自分がしつこいのがいけなかったんだと思いつつも地味に傷ついてしまう。日高くんもさすがに言い方がキツかったと思ったのか「ごめん」と謝ってくる。でもそうしながらも、ポケットに手を突っ込んでハンカチをさらに奥へ奥へと押し込んでしまう。どうあってもあたしには見せたくも触らせたくもないものらしい。

 こんなの隠し事のうちにも入らないような些細なことのはずなのに。日高くんにだって誰にも話したくない大事なものがひとつやふたつあっても全然不思議じゃないのに。でもたかがハンカチ一枚に、一緒に暮らしていても日高くんとあたしの間にまだまだ『他人』という名の壁があるんだとあらためて気付かされて、妙にへこまされる。


「…………ほんと、ごめんね。お夕飯にはいつもより早いけど、今日はもうごはんにしてもいいかな?」

「……ああ」


 あたしのテンションがダダ下がりなのを感じとってか、日高くんもぎこちなく返事をしてくる。


「じゃああたし、先に下りてお膳用意してます」

「待って、俺も一緒に下りるから」


 そういって日高くんは立ち上がったけど、あたしは日高くんを待たずに書庫を出て渡り廊下を進んでいく。


「ののか、待ってって」


 困惑したような声で日高くんが追ってくる。けれどなんでか理由もわからないけどちょっと泣きたいような気分で、なのにイライラしてしまっていて立ち止まることが出来ない。日高くんを突き放すようにひとりでどんどん歩いていってしまう。


「ののか」


 あたしの名前を何度も呼んでくれる日高くんに、ほんとは「ごめんね、なんでもないよ」って笑いかけたいのに無視するみたいな感じの悪い態度を取ってしまう。自分で自分をコントロール出来ない。


(どうしたんだろ、疲れてるせいなのかな?なんかあたし、おかしい。それになんでだろ、さっきからすごく胸がムカムカするような……………………ッ…!?)


 なぜか突発的に胃のあたりから重苦しい吐き気が込み上げてきた。あまりに突然すぎて予期しえなかったその気持ち悪さに、あたしは血の気が引いてその場から動けなくなってしまう。


「ののか。……………ののかっ?!どうしたんだっ」


 口元を抑えたまま硬直してしまったあたしに、なにか普通でないものを感じ取ったのか日高くんが駆け寄ってきてくれる。日高くんはもう一度ののかと呼んでくれるけど、あたしは返事をすることもままならない。体にうまく力が入らなくなってその場に崩れそうになったから、あたしは縋りつくように日高くんに自分の体を預けた。日高くんは自分の胸に寄りかかってきたあたしに驚いたように体をびくりと震わせたけど、あたしの顔色を見ると支えるように抱きとめてくれる。


「…ぅ……………ご、ごめ……っ…」

「大丈夫。大丈夫だからもっと俺に寄りかかっていいよ」


 あたしをいたわるようなとてもやさしく甘い声。大丈夫と繰り返すその声に合わせて呼吸を繰り返すうちに、喉の奥に詰まっていた吐き気がゆっくりと引いていってくれた。


「………ありがと、日高くん。………もう大丈夫だよ……」

「どうしたんだ、具合が悪いのか?」

「ううん。たいしたことないと思うけど。………なんかここ二、三日、妙に体がだるくて………」

「風邪か?」

「うーん。どうだろ?………ちょっと熱っぽいっていうか、体がほてってる感じはするんだけど風邪って感じじゃないんだよね……?」


 どちらかというと生理前に出る症状に似ているんだけど、生理前症候群P M Sを男子に詳しく説明するのも恥ずかしい。だからあたしは笑いながら「まだ家事慣れてないせいで、ただ疲れちゃっただけなんじゃないかな」というと、日高くんは思った以上に深刻に受け止めてしまい、明日からは花嫁修業は免除してもらおうなどと言い出す。


「えっ……それはありがたい提案だけど。そこまでしなくて大丈夫だって!」


 免除してもらうことが出来るならうれしいけど、そういうとっておきの切り札は生理がきたときのためにとっておきたい。でも日高くんは頑として譲らない。


「体調を崩した時は無理せず早めに休養を取った方がいい。家の中のことならいくらでも女中役を手伝いに入れることが出来るんだから、ののかは無理をしなくていい」

「でもさ、あたしは病気なわけじゃな………………っ……!?」


 一度は収まったはずの吐き気がなぜか再び急に込み上げてきて、胃から食道を泥で塞がれていくような苦しさに目尻に涙が滲む。その場に蹲ると、日高くんもしゃがみこんであたしの肩を抱いてくれる。


「どう見たって大丈夫なんかじゃないだろっ。そんなに顔を蒼白にさせて」

「………ぅ………でも、おかしいな………今朝起きたときとか、学校行ってる間は全然元気だったのに。……なんでこんな急に気持ち悪くなったりしてるんだろ?………ヘンなものなんか食べてないのになぁ……?」


 嘔吐下痢を催す胃腸炎系の風邪は今全然周囲では流行ってないし、思い当たる原因がなにもない。やっぱり慣れない『新婚生活』や嫁業に疲れちゃってるだけなのかな?と思いつつ日高くんを見てみると、日高くんはなぜか目を見開いて息を飲んでいた。


「ののか、」

「はい?」

「…………今日って、『和合の儀』をしてから何日目だったか?」

「七日目だけど?」

「だよ、な…………もう完全に胎に定着する頃か………」


 日高くんはなぜか顔を真っ赤にする。それこそ日高くんの方がひどい風邪にでも罹ったような顔色だ。


「………日高くん、どうしたの?」


 日高くんの顔を覗き込むと、なぜか日高くんはひどく照れたように視線を反らしてしまう。しかもそうしつつも、気になって気になって仕方がないとでもいうようにチラチラあたしのお腹のあたりを盗み見てきたりする。……意味が分からない。もしかして「お腹を壊したのか?」と心配されているのかもしれない。


「日高くん、あたしもう大丈夫そうだから、下りてごはんにしよう。今日はリクエストしてもらったミネストローネ作ってあるよ。すぐに温め直すから」

「いい。ののかはゆっくりしててくれ。飯の支度は俺がやるから」


 育った環境柄、今まで上げ膳据え膳は当然として振る舞っていたはずの日高くんはきっぱりと言ってきたけど、日高くんの突然の申し出にあたしはありがたく思うよりも呆気にとられてしまう。


「でも、日高くん、ご飯の支度なんてしたこともないんでしょ?ガスコンロの点け方とか分かるの?おしゃもじとか食器がしまってある場所も知ってるの?」

「それくらいどうにかなるだろ。とりあえずののかは飯、食べられそうか?下まで降りるのがしんどかったら俺が部屋まで食事運んでこようか?それとも背負ってやるから俺に乗って下まで行くか?」


 あまりにも丁重すぎる扱いに、聞いてるだけで恥ずかしくなってきてしまう。


「やややっ!!そんなに心配しなくても大丈夫だって、あたしやれるからっ」

「だめだ。ののかはもっと体を大事にしないと!」


 日高くんはものすごく真剣な顔して「無理はするな」とあたしを説得してくる。高熱を出してるわけじゃないのに大げさだなぁとは思うけど、オトコノコにめちゃくちゃ真剣に体調を心配してもらえるのは、なんだかうれしかったりする。


「う、うん。じゃあ無理はしないよ。体調しんどくなったら、日高くんにお手伝い頼んでもいい?」


 あたしがちょっと甘えて頼んでみると、日高くんは二つ返事で承諾してくれた。




 食欲が沸かなくて、結局晩ごはんはあまり食べられなかったけど、幸い食事中に吐き気を催すことはなかった。体調は大丈夫そうだったけど、せっかくのチャンスだからその後日高くんに後片付けを手伝ってもらうことにした。

 二人でお膳を片付けて、流し台に並んで立って、あたしがお皿を次々にスポンジで洗って日高くんに手渡し、日高くんがお水で泡を洗い流す役。日高くんはお皿洗いなんて生まれてはじめてすることらしく、水道から出す水の勢いが強すぎて流し台の周囲や着ていたワイシャツをびちゃびちゃにしてしまったけど、ふたりでその失敗を笑っていたらなんだかたのしくなってしまった。


「ののかの身体に負担がかからないように、明日からはもっと俺も手伝うから」


 後片付けがすべて終わると、自主的にそんなことまで宣言してくれた。


(明日はお布団の上げ下げとかしんどい重労働系手伝ってもらえたらいいな………なんてね)


 そんなことを目論見つつその晩眠りについたけど、日高くんはなぜか翌日からあたしの想像よりもはるかにやる気満々な妙なテンションになっていろいろ家事を手伝ってくれるようになった。






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