9話 過去と現在の想いと想い出─莉子

 莉子に物心がついた頃。母親と父親はいつも笑っていた。そして、莉子も笑っていた。

 母親はいつも優しく笑っていた。

 父親もいつも優しく笑っていた。

 幸せだった。嬉しかった。楽しかった。面白かった。

 こんな日常が続けばいいのに。

 こんな幸せが続けばいいのに。

 しかし、それは夏のある日、突然終わりを迎える。

 神様は残酷な性格をしていることを初めて知った。知ることしかできなかったのだ。

 ブレーキの音。

 誰かの叫び声。

 ぶつかる音。

 なにかが潰れる音。

 莉子が目を覚ますと、乗っていた車は原型を留めていなかった。これを車だと言われても信じることはできない。それくらいだった。

 運転席と後部座席に挟まれて、動かない莉子の足。痛みを我慢して一生懸命抜けだそうとする。足は動かない。折れているかもしれない。

 その時、動かした手がなにかに濡れた感覚とともに、ビチャと嫌な音がした。莉子は怯えながら、手を顔の前に持ってくる。真っ赤になっていた。先程まで手があった場所も見る。そこには、赤色の水たまりができていた。

 莉子は怖くなる。莉子は恐ろしくなる。″お母さんとお父さんが死んでいるかもしれない″と思ったからだ。

 頑張ってそこから抜けだす。鋭い痛みを感じるが、そんなことは関係ない。莉子は使いものにならない足の代わりに、腕の力で少しずつ前に進む。

 そこには、動かない母親と父親がいた。莉子は2人の体を揺すろうとする。体に触れる。すると、冷たかった。いつもみたいに暖かくなく、ただ冷たかった。

 2人は死んでいたのだ。

 莉子はこの現実を信じることができなかった。だから泣けなかった。ただ、助けにきた大人達に″お父さんとお母さんは死んでない″と言うことしかできなかった。

 それから莉子は、親戚をたらいまわしにされ虐待を受けていく。最初の頃は反抗もしていたが、徐々にそれもしなくなった。したところで無意味だと気づいたからだ。ただ、終わるのを待ち続けるだけ。

 こんな生活が続いていくと、やがて莉子は様々なことを考えるようになる。




 私が生きる価値ってあるのかな。




 私は生きる必要があるのかな。




 私が生きることってなんだろう。




 私って生きてる意味あるのかな。




 私は生きていて──






















「ねぇ君、雨止んだよ」


 彼のそんな声で莉子は我に返る。

 いつの間にか、激しかった雨は止んでいた。そして雨が降る音の代わりに、ひぐらしが鳴いていた。その声を聞くと、どこか落ち着いた気がする。蝉とは違っていた。


「あ、うん。ほんとだね」

「なんか考えてそうだったけど。なんかあったの?」

「ううん、なんでもないよ。そんなことよりも、空見てみ。綺麗な虹が見えるよ」


 空で七色の棒が輪っかを描いていた。上から赤、オレンジ、黄色、緑、青、紺、紫。綺麗なグラデーションだった。

 もっとよく見るために、道路の上に一歩踏み出す。そこには小さな水たまりができていて、少し水しぶきがした。


「ほんとだ、気づいてなかった。………綺麗な七色だよ」


 そう言うと、彼はまた微笑んだ。

 莉子の過去はこの虹のように輝いているが、輝いてもいない。虹が消えていくかのように幸せは消えていった。

 ただ、隣にいる彼の笑顔を見てると、そのことを全て、話しても良い気がしてきた。隠さなくても良い気がしてきた。こんな彼だから、この傷を教えても大丈夫だと。

 教えよう。

 後で絶対教えよう。

 この空に架かる虹のように輝いていた想い出を。

 輝いていなかった想い出を。

 とても笑顔が似ている彼になら。


「ほらいつまで見とれてるの?日暮れちゃうから早く行くよ。ほら、ついてきなよ」


 そう言い、莉子は笑顔になる。久しぶりにしたため、うまくできているか不安に思っている。けれど、その不安よりも大きな安心があった。

 そして、前に進む。


「………あ、ちょっと待ってよ」


 後ろからは彼の声が聞こえて、少し後ろをついてくる。莉子と彼は濡れている道路の上を歩いていった。

 足元の水たまりには、少しずつ薄くなっていく虹が写っていた。

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