第五部「狂想曲第五番」(下)

 容貌魁偉。


 敵将である鐘山宗善と面会した瞬間、地田綱房の脳裏をよぎったのは、その四字であった。


「私が宗善だ」

 未だ二十歳にも満たぬと聞いていたが、それに似合わぬ堂々ぶりで、十も年上の己を圧倒する。

 巌を掘り出して人形にしたような体躯は、とてもではないが「若者」などと呼称できぬ。

 ――いや、若いと思えぬ若者を、己はもう一人知っているではないか。


 上社信守もまた、齢二十にも満たぬ若造であった。


「事情は大体三戸野よりうかがった。にわかには信じがたいことではあるが、砦まで案内するゆえ我らに夜襲をしかけよとは……なおのこと解しかねる。それは味方に対する裏切りではないかな」


 予想はしていた問いだった。

 だが、敵将は予想を上回る威圧感を押し出してくる。

 息を呑みかけるも、己を励ます。

 何のために夜陰に紛れて敵将の対面など求めたのかを思い出し、勇気を奮い立たせた。


「この地田綱房は、恥を知る者である!」


 突然、何を言い出すのか、と宗善は眉をひそめた。

 その眼前にて己の胸板を叩いてみせた男に、興味を持った目つきでもあった。


「いかな同輩と言え看過できぬ悪行であった! 本陣の者どもは主上のおわさぬことを良いことに、信守の如き奸臣にたぶらかされている始末! 奴をあのまま生かしておけば、後日の災いとなるばかりか、朝廷、順門の和議さえおぼつかぬ! 両国のためにも、何とぞ、お力添え願いたい! その後はこの綱房が主上に順門府の赦免をとりはからうゆえっ!」


 語は、そこで尽きた。それ以上は、用意していなかった。

 だが、宗善はじっと腕を組んだまま、応とも否とも言わなかった。


 このままではまずい、と綱房は判断する。

 そこで即興で新たに、話題の種を作り上げなければならなかった。


「帝は」

 絞り出した一言に、ギラリ、と宗善の両眼に火が灯る。

 たじろぎそうになるのをこらえ、こらえた分だけ額に汗が浮き上がる。


「帝は、宗善殿のことを評価されておられた。『鐘山家中において見るべき者は宗円と宗善、頼りにすべきは宗善のみ』とさえ仰られた。拙者がこの陣営に駆け込んだのはそのお言葉を信じた故である」


 無論、そんな話を帝から拝聴した覚えは微塵もない。まったくの、しかし乾坤一擲の口八丁であった。


 だがいかなる心情か。

 その嘘に、宗善が食いついたのである。


「主上が、私を?」


 いささか熱に浮かされたような、夢中の寝言にも似た呟きだった。

 いかつい風貌に似合わぬ、甘やか声であった。


 ――士は士を知る、というべきか。

 この若き公子の鬱屈としたむささ、硬い岩肌の奥に燃える真のありよう。

 それに気づいた時、上社信守に被虐された己も、陵辱された信念も、清水で洗い流された心地がして、綱房の胸は震えた。


 ――真の理解者は、敵の陣中にいた。


「よろしい。では奸賊ばらの首級を以て、両国の友好の証としよう」

 宗善が首肯した瞬間、禁軍第六軍の主将の命運が決定づけられた。


○○○


 ――士は士を知るとはこういうことか。


 別に、宗善は綱房のおだてに突き動かされて軍勢を動かしたわけではなかった。


 そもそも近日中の攻勢は宗善の中では決まっていたことであった。

 例えそれが功を奏して砦を奪還し、戦略的優位を確保できても良し。もし惨敗しようと、それを契機に父に頭を下げさせれば良い、とさえ考えていた。


 ――なんにせよ、現状の膠着の打破が最優先だった。なんとか朝廷と鐘山家を結びつけなければ。


 そう決心した矢先に飛び込んでた綱房と、彼がもたらした警備網の情報は、まさしく渡りに船であったと言って良い。


 だが、進み出したその背を、この投降者の賛辞が押したのは確かだ。


 帝の言葉というのも、完全には信じていない。

 だが、


 ――朝廷の方がご存知であった。

 今もなお順門府でも、帝と朝廷を憂える者がいるのだと。

 その権威はしっかりと通用するのだと。


 そのこと自体が、嬉しくもあり、ありがたくもある。


 だが、夜に紛れて動く陣において、憂慮を見せる者がいた。

 副将である三戸野翁である。


「さてどうですかのう、この策は」

「どう、とは?」

「地田殿を信用しなければ策が成り立たんゆえ、まぁ信じることといたしましょう。ですが、信守とやらの手腕、ここ数日から見ても凡将とも思えませぬ。そこの者の目利きを過信なさいますな」


 聞こえよがしにそう言う老将に、率先して先頭を行く綱房が振り返った。


「ご老体、それは心得違いというもの。ここまでの奮戦はひとえに鹿信卿の鍛えし精兵あってこそ。実際のところ彼らの心は信守より離れておる。現に、砦内の我が手勢と、同調した第五軍の一部が、裏門を開ける手はずとなっております。ご覧あれ」


 宗善らが仰ぎ見れば確かに、小山の裏手の木戸は、警備の兵もなく開かれている。


「あれこそが信守めの将才欠落の証、人の心情を察し得ぬ鬼畜の末路にござろう」


 頷いた宗善はすぐさま合図を送った。

 兵の半数を正門側へ回り込ませ退路を塞ぎ、もう半数を自らを率いる万全の態勢である。


 指揮官のその手は、無言で振り下ろされた。


 太刀を引っさげ、かつての味方の陣営に一文字に斬り込む綱房。

 その彼を殺すまい、あるいは余所者に遅れは取れぬと鐘山の将兵たちが後に続いた。


 まるで砦全体が深い眠りについたように、静かであった。

 散々に鉄砲を撃ち放ったと思われる、火薬と硝煙の残臭が、視界がきかない分、なおのこと際立つ。

 砦が比較的高所に構えられているということもあるのだろう。足元からせり上がってくるような寒気が、宗善の軍勢を襲っていた。

 だがいずれも自分たちが守っていた頃には感じられなかったものであった。


 縄張りとしてはまったく同じであるのに、そこに潜むものを、感じずにはいられない。


 魔か。

 あるいは瘴気か。


 そして抵抗を受けず、瞬く間に砦の中央

 を制した、否、宗善の制止も聞かず突出した攻撃部隊。

 彼らは、特に綱房が、呼気を凍てつかせた。


 梟首。

 五名ほどの首級が、無造作に台座に据えられていた。


 その場に追いついた宗善は、


「文助」


 顔を強張らせた綱房が、紫色の唇を震わせた。

 声は掠れ、正しく文助と呼んだのかさえ定かではない。

 だがそれはおそらく五つある肉のうちの一つであり、門を開ける手はずとなっていた一人であったもの。


 であれば、


 門を開けたのは、一体誰だ?


 何が目的で?


「っ……退けっ! 退避せよ!」


 宗善の言葉は、もはや無用のものとなっていた。


 この場にいた全ての者が、自身らの危機を察していたのだから。


 そしてそんな彼らが行動に移すよりも速く、夜空を火矢が埋め尽くしたのだから。


○○○


 夜空を蝕む幽花の群れは、流星にも似ている。神だの天命だのの涙と思えば、なおのこと愉快であった。


 鏃に宿る火の種が、笹ヶ岳に植え込まれる。

 途端に大輪の火花と爆音を咲かせ、火炎の枝葉が伸びて敵兵を絡め取る。


「十分だ。念のため、実氏殿に伝令。合流を急がれよ、と」

 矢を射込むのはそれだけで良い。

 あとは砦にまんべんなく詰め込んだ火薬が、玉薬が、井戸に投げ込んだ石灰が、そしてこの山岳全体を覆う樹木たちが『敵兵を焼き殺す』という実氏の役割を引き継いでくれるはずだった。


 炎上する自らの拠点を嗤い、信守はその腕を振り下ろした。

 若き主人の命に従い、砦外に待機していた軍兵が動き始める。


 こちらが逃げ来るものと待ち構えていた敵軍。その無防備な背に、男達の喊声が押し寄せた。


 前方では予測さえしていなかった阿鼻叫喚。

 後方からは自らが打ち倒すはずの、上社信守軍。


 それは後ろ髪を引っつかんで水面に押し当てる行為にも似ていた。

 追われる形で退くしかない鐘山勢は、あるいは脇道に活路を見出そうとして横槍で貫かれ、あるいはそのまま炎の海に沈み込められる。


 立場は既に逆転していた。

 ここまで虐げられて来た者たちの怒り。それが武力となって昇華されていくのを、信守は感じた。

 彼の望むべきむき出しの感情が、そこにはあった。


 砦の内の断末魔の一つに、己の名を叫ぶ者がいた。

 ずいぶんと聞き慣れた大声に、信守は嘲笑を手向ける。


○○○


「なんだ!? なにが起こった!」

 北方の空が赤々と焼けるのを見て、船上の宗流は吠えた。


「は、宗善勢がまたぞろ攻勢を仕掛けたのでしょう。これは……陥落させたのですかね」

 傍らにある幡豆由有の、ややほっと安堵するような言い方に、ギョロリと睨み返す。

 ヒッと怯えた悲鳴をあげる副将を見据えながら、宗流の耳は笹ヶ岳の方角へ傾けられている。


 奇襲で落とした、にしてはその断末魔が絶え間なく続いている。鬨の声さえ聞こえない。

 野性じみた勘が、そこに勝利の喜びの色はないのだと教えている。


「……これが、夜襲に成功した者の声かよ」

「宗流殿」


 赤池頼束が呼んだ。

 この歴戦の水将も、同様の結論を導いたようだった。


 宗善勢は、逆襲されている、と。


「宗流勢も出撃するぞ! 愚弟を背から襲う敵勢を、さらに背から突き崩せい!」


○○○


 待機していた敵軍は、火が消えるよりも先に掃討することができた。

 未だ砦は消火される兆候さえ見えず、絶叫は絶えることがない。


 ――これは、総大将がわざわざ砦に入ってきていただいたかな。鎮火の目処すら立てられないようだ。


 無惨な骸を前にする信守は、駆け寄ってくる一騎の影を脇目に見た。


「た、たいへーん、大変ですぞーッ!」


 わざとらしい大声の出し方に、信守は会心の笑みを消失させた。

 冷たい顔で振り返ると、そこには器所実氏がいる。


「敵の新手、こちらに向かってきておりますが」

「……我らの予定どおりに」

「ふふ。貴公の予定どおりにな」


 いちいち驚いたフリなどするな、と信守は厳しく目で伝えたが、それが相手に伝わったのかどうなのやら。とぼけたような微笑を浮かべるだけだった。


 ――しかし流石は宗流、動きが速い。


 この速度は、自分の予測を超えたものだった。

 予測を超えて……ひたすら愚直だ。


「実氏殿」

「おう」

「貴殿はこのまま手勢を引き連れ、予定どおり、山を駈け降りていただきたい」

「はは。予定どおり、篝火を多く焚いてな」


 ――まったく一挙一同、何もかも忌まわしい男だ。

 信守は心中そう毒づいたが、この男の才腕がなければ話にならぬ。


 血にまみれた己の禁軍第五軍を振り返り、信守は高らかに宣言した。


「では我らは、この場にて待機する!」


○○○


「始まりましたな」


 自らの謀臣の言葉に、佐古直成は重く頷き、紅い山岳を見上げた。


 既にこの瑞石を介して信守の作戦は伝えられていた。

 そしてその進言、いや忠告に従って、敵襲に備えて軍を前進させている。


「気に食わん」

 信守よりの伝言に、いち早く反対を鮮明にしたのは、桜尾典種であった。

 同僚を生餌にされた直成よりも、むしろ余所者の方が示した嫌悪が、直成自身にも意外であった。


「気に食わん、と言われても、あの若者は我らに協力を求めたわけではありませんぞ」


 こちらは勝手にやらせてもらう。

 そちらも勝手になされよ。

 だがどのみち戦いは避けられぬぞ。せいぜい巻き込ませていただく。


 瑞石の声を借りて暗に聞こえてくる、悪鬼の恫喝。

 それは典種にも聞こえているはずであった。

 桜尾府公は、了承に代わり舌を打つ。


 だがしかし、信守がそう仕向けたように、己らにも笹ヶ岳を犠牲に撤退するという考えがなかった言えようか。

 そう思うと、直成の腹は立たなかった。


 不満があったとすれば、それは諸将に対する説得をしなければならなかったことだ。


 わずか一里動かすだけというのに、どれほど協力を哀願し、掛け合わなければならなかったか。


 まして信守には同様の手を用いた前科がある。

 この悪評が広まった今、諸将の態度は、ますます硬化している。


 その骨折りを信守は知るまい。

 いや知っていてなおそうさせたのであれば、なおさら悪辣であった。

 あるいはそこまで見込んで、桜尾典種と自分とに救援を求めなかったのかもしれない。

 かつてはこちらへの好意ともとれた行動でさえ、歪んで見えてしまう。


 だが腹立ち以上に、凄まじさを先に感じ取る。


 諸将に対する怨恨と、不信感の深さ。

 何よりそれを体現するかのごとき戦術の数々は、本当に齢十八の若武者の手練手管であろうか?


 桜尾麾下、器所実氏が、軍を率いて下山してきた。

 ただし、敵の追っ手を同伴させて。


 カラカラとした陽気ながらどことなく理知的な家臣である。

 彼の復命を受けて重々しく頷いた典種は、苦々しい顔つきのまま馬の脇腹を蹴った。


「我は改めて諸将の及び腰を叩いて回る!」

「おうとも! ではわしゃ改めて禁軍の首根っこを引っ掴んで参る!」 


○○○


 ――人は、水のごとし。皆、低く易き方へと流れていく。

 鐘山宗流もその例に漏れなかった。実氏の囮部隊を追って行った時点で、二つの安易さに流れている。


 第一に、まさか砦を捨てた信守勢が、弟の軍と火炎を背にしたまま停滞などしているわけなどいう、安易さ。


 第二に、火を恐れて索敵の兵さえ出すのを渋った安易さ。


 ――所詮、猪武者よな。あれでは終生、実氏にさえ勝てまい。

 獣ゆえに思考せず目の前の事実のみを追い、火に恐怖する。


 嗤う主君を怪訝な目で見つめている、

「我聞」

 副将の名を呼ぶ。

 顔に緊張を走らせた男に、改めて命じた。


「我が軍の命運、お前の経験に委ねる。我らが逆落としを仕掛けるべき時機を見計らい、号令せよ」

「は、ははっ!」


 ようやく回ってきた己の活躍の場に、我聞は声を弾ませた。

 ただ喜ばせるだけというのも面白くない。

 また悪性の虫を持て余した信守は、ニヤリと意地悪く笑った。


「楽しみよな。お前が令を下すが先か、我らが炎に巻かれるが先か」

「………………」


 余計なことを言うな、と。

 血走ったその目が訴える。


 貴船我聞は、口よりも眼差しのほうが多弁であった。


 信守は声を轟かせて大刀を抜き放つ。

 己の配下三千のその背の向こう、灼熱の業火に挑むが如く、身体ごと向き直って、その切っ先に突きつけた。


「アレを見よ」

 信守が命じるまでもなく、刃先の軌跡に合わせて、将兵の視線は自分たちの背後に迫る炎へと移動していく。

 吹き付ける熱風は、当てられるだけで皮膚を焼きそうであった。


「炎は刀では切れぬ。槍でも、鉄砲でも殺せぬ」


 つい、とその刀は前方を向いた。

 つられて視線が移る。

 無防備に背を晒す、眼下の敵陣へと。

 機を見計らい、信守は続けた。


「だが、あれは殺せる。殺したその先に味方の本陣がある。前後いずれかに活路があるか、自明の理であろう」


 その声の届く範囲にいる中で、身近な者一同の顔から蒼白になっていった。


 死ぬほどの高熱に包まれながら、その顔は氷を押し当てられたように凍りつき、しかしなお、目の闘志はかつてないほどに盛っている。


 ――いける。

 信守が己らの勝利を確信したのは、この瞬間であったと言って良い。


「全軍、今よりあの背を向けた仇敵を殺し、安寧への道を開けよ。腕もがれようと一人でも多く殺せ。脚断たれようと一歩でも前へ進め。死ぬるその瞬間まで、決して生を諦めるな」


 我聞が叫ぶ。

 信守が同時に手の内の新刀を振りかざす。


 それは背水ならぬ背火の陣。

 究極の一択を迫り、只人を一騎当千のつわものへと変える、魔性の陣。


「…………殺せぇッ!」


 一匹の悪鬼に率いられ、三千人の修羅たちが、雪崩を打って駆け下りた。


○○○


「何故だ!? 何故この日に限って敵本隊がこんなところまで出張っている!?」

 自ら鎌刃の槍を振りかざしながら、宗流はうめいた。

 予想をはるかに超える官軍の抵抗は、彼の特色とも言える疾風怒濤の攻勢さえも殺した。

 となれば、未だ数にて互角の両者は、互いに鎬を削りながら、勝機を求めるほかなかった。


「て、敵の伏兵……山の上より出現ッ!」

「あぁ!?」

「逆落としにて我らの背後を衝かんとしております!」


 母衣武者の伝令と共に、地が震えた。怒号と足音で震えた。

「……面白いっ、敵にも存外戦が分かるヤツがおるようだなッ!」

 例え腹背に敵を抱えようとも意気揚々、依然宗流のみはその戦意を喪失させず、どれその面を拝んでやろう、という気概さえ残っていた。


 だが、それを見た瞬間……いや、それを何者かと判断しようとするより先に、頭の中で警鐘が鳴った。


 轟々と燃える砦。

 その逆光を背に、狂い叫び、勢いに任せて接近する、濃黒の影の群れ。


 ――人ではない。

 魑魅魍魎が突然降って湧いたように現れ、自分たちに凶器を向けている。


 とけわけ先頭に立っている武将らしき若者は、中でも一際群を抜いた威圧感を持っていた。


 ――あれに触れれば、死ぬ……


 と、宗流という歴戦の猛者に理屈抜きで錯覚させるほどに。

 鐘山宗流は、この順門府公子は、獣性を持ち合わせた武人である。


 ゆえに、直感で分かる。

 あれには、勝てぬ。

 あれは、狩れぬ。


 獅子が虎を相手どることがないように、龍に挑むことがないように。

 次の瞬間には、宗流は退避を決めていた。

 その判断は、正しかった。

 意気はともかく、ただでさえ拮抗しているところに敵を両面に抱えれば、壊滅はまぬがれない。


 だが、理屈は正しくとも全体に伝わるには時間が要った。

 その時間差の隙を突くように、宗流の軍勢は一気に崩されていった。


 一人を見れば悪鬼。

 だが全体を見ればそれは、一匹の毒蛇と化していた。


 鎌首が、宗流軍の脇腹に食らいつく。

 そのまま傷口へと潜り込み、臓腑を食い散らし、体内でのたうち回って暴れる。


「ぐうっ……! 死守……、いずれ宗善が救援に現れるまで踏み留まれぇ!」


 常より声を大きくしたはずであったが、発せられた響きはどこか虚ろであった。

 彼自身が、その言葉を実際信じていないのだから、当然のことと言って良かった。

 あの異母弟は笹ヶ岳にて炎に足止めを食らっている。いや、生命の危機にさえ瀕していたと言って良い。


 ――あと一歩、あと一歩で勝てるというに……何故このようなッ!?


○○○


 夜明けと同時に、雨が降り始めた。

 順門府における最大にして最後の激戦は、いずこからか打ち鳴らされた、どちらのものともしれぬ退き鉦によって終息した。


 砦が鎮火を兆しを見せたことにより、外で待機していた三戸野勢が吶喊。辛うじて生きながらえた宗善は再度砦を放棄して西へ撤退する。

 鐘山宗円の本隊、赤池勢が乱戦覚悟で討って出、宗流勢を救援して退却。


 それに合わせて信守率いる第五軍も、残敵を掃討しつつ本隊と合流。

 統一された官軍は、桜尾典種を名目上の総大将としてその指揮の下に再編された。


 帝不在の討伐軍は、皮肉にもかの貴人が脱走した後にその真価を発揮した。

 帝の戦略と意地から解放された諸将が、己の裁量で奮戦したためである。

 だが、本来帝の実力を示すための戦は、帝より優れたる器量の存在と、各将の実力と去就を決定づけるものとなった。


○○○


 雨が止み、黒々とした雲に切れ目が見えた時、ようやく各所で被害状況の確認が行われ始めた。


 ――戦場の骸から断ずるに、全体的な死傷者は、敵もこちらも同等といったところだろうがそもそも全体的な数としてはこちらが勝っている。このまま殺し合えば、さて……


 死地からの生還に喜ぶ第五軍とは別種の笑みを、その大将は浮かべている。

 彼らが立っているのは、ちょうど撤退した敵と味方との間に位置する。


 もはや鐘山軍の姿は見えないが、怒り、焦り、悔恨。ありとあらゆる負の感情が、黒雲に乗って運ばれてくるようであった。


 対して味方。

 兵糧を失い、そして今また損傷した。

 もはやこれ以上の敗北は許されず、かと言って撤退もままならぬ。


「これ以上我らの地を荒らされてたまるか」

「奴らを殺さねば飯が手に入らぬ」


 互いの悲壮感が渦を巻き、嵐の予感を信守に教えてくれる。

 ちょうどその中間、目にあたる部分に在って、信守は至極穏やかであった。

 炭の如き笹ヶ岳の向こう側に、思いを馳せる。


 ――さぁ宗円……どう出る?

 このままではお前が守ろうとした民百姓が死に絶えるぞ?

 止められるのはお前だけよ。

 意地も正義もかなぐり捨てたお前が、泣いて和を乞うしかもはや術はなし。


 恨みの嵐の一端が己に向けられていることに、悦に没入していた信守は、ややあって気づいた。


 薄笑いと共に振り向けば、第五軍以外の諸将が押しかけてきている。見れば、大国桜尾家中、同じ禁軍の残党さえいる。

 皆、無言だった。

 雨の冷たさに唇を震わせ、目を充血させ、身体の表層からは殺気を匂わせている。


 それぞれの怒りの出所は、信守とて十分に察しうる。

 兵糧うんぬんはまだ気づかれてはおらぬだろう。別に気づかれても良いのだが。

 だが何度も第五軍のために利用された彼らには、この策の発案者がどうしても許すことができなかったのだろう。


 ――やるべきことはやった。私闘がお望みであれば受けて立つ。


 そういう思いで、信守は刀の鯉口を切った。

 キン、と響く金の音に、諸将はわずかにたじろぎを見せたものの、信守への殺意がそれに勝り、乗り越えた。

 事態の危急を察した実氏、瑞石がそれとなく、信守を庇う立ち位置に駆け動いた。



「おやおやおやー?」



 殺気立ち上るその場に、気の抜けるような声が聞こえたのはこの瞬間だった。

 この瞬間を、女は見計らっていたようだった。


「いけませんねぇ。お味方同士で争っては」


 長い黒髪をたなびかせ、黒衣に紫衣を絡ませて、手に持った錫杖には鳥羽をかたどる金飾りが提げられていて、その女が動く度に


 シャラン


 と音が響いて諸将から敵意も不審も奪っていく。

 だが我に返った一将が、この突然の乱入者に怒号と誰何を浴びせた。


「おのれ不審な、何やつぞ!?」


 だがそんな敵意も慣れたもの、のれんに腕押し、柳に風。

 どこ吹く風の女の横顔は、化粧こそ施しているが存外若い。

 いや、あるいはそれは小娘とさえ呼べる肌のきめではないかとさえ思えて、信守はなんとなくうすら寒い気分にさせられた。

 少女の如きそのいきものは、ただ信守のみを、値踏みするかのように見つめていたのだから。


「待て! ……待てっ!」


 制止の声をかけたのは、桜尾典種である。

 将兵たちの間をすり抜けて現れた彼と直成は、その尼僧の姿を目にして顔を見合わせた。


「典種公、もしやこの方は……」

「うむ……幼き頃、お会いしたがある。あの時とまるで変わらぬ、まるで歳をとらぬ……」


 歳を重ねぬ尼僧。

 うわごとのような典種の呟きを拾った者の中の一握り、瑞石等、知識に富んだ者が顔色を変えた。


 信守もまた、父より聞いたことはある。


 神出鬼没。

 時として味方として千軍万馬を率い、ある時は敵の宰相としてその謀才をあまねく発揮し、世を乱す怪僧。


 百年、千年と老いずに生きる、正真正銘のバケモノ。


「はいはーい、勝川かちがわ舞鶴まいづる先生が、みんなの仲裁に来ましたよ―!」



 樹治三十二年、午の月三日。

 後に『順門崩れ』と呼ばれる大戦は、この日を以て終結とされた。

 ……その鶴の一声は、実に軽いものであった。

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