第四部「魔将、覚醒」(結)

「若ーッ! そろそろお退きくだされーッ!」


 幡豆由有の悲鳴にも似た諌めの声が、遠く豆粒のように小さく見える軍の動きを止めた。


 見ずともわかる。馬蹄を翻す宗流の顔は、さも得意げであろう。

 赤池水軍の親船でやれやれと首を振り、への字眉を船の主へと向ける。


「頼束卿も、よくご決断してただいた。さぞお辛いとは存ずるが」

「いや」

 と、赤池頼束は首を振った。


「むしろ、籠から解き放たれた気分だ」


○○○


 赤池頼束。

 言わずと知れた禁軍第七軍の長であり、朝廷が直接的に持つ唯一の水軍である。


 家柄としては建国以前よりの功臣の家であり、位としては『公』に次ぐ『卿』。頼束の代となっても、非凡な武勲をいくつも打ち立てている。


 元より藤丘家につくつもりでたむろしていた亥改水軍の連絡を完全に遮断し、あたかも彼らが順門に味方するものと思わせたまま粉砕したのは、記憶に新しい。


 故に、その精鋭に裏切られた敵方の衝撃は、計り知れないものであろう。


 宗流が都に上りケンカを売っていた時、由有とて何も船上で無為に時を過ごしていたわけではない。


 王土の各所を巡り、あるいは水運で人づてに、人物の調査及び、万一事が起こった際の調略を行っていたのである。


 始め、神職として朝貢の品を送り届ける名目で頼束に接近した。

 手土産代わりの四方山話に、穏やかならざる話を織り交ぜる。


 近々起こりうる兵乱、

 帝が禁軍以外の水軍を新設するという噂、

 そうして口うるさい旧臣らの力を削いで行くのが狙いとの風聞。


 それらを間接的にぶつけては反応を窺い、心を煽り立てながら相手にこちらの言葉の裏の意図を読み取らせる。


 やがて


「……悪いが幡豆殿、順門行きの船に同乗させていただきたい者がいる」

「それは?」

「我が妻子にござる」


 ……想像以上の、返事が返ってきた。


○○○


 ――げに恐ろしきは宗円公だ。一度も会わぬ相手の心根を、見事に看破し私を遣わしたのだから……


 戦が始まる前に敵の身内から切り崩しにかかるなど、誰に予想できようものか。


「宗円公というこの上もない盟主を得られたことはこの赤池、至上の喜びにて。このうえは忠誠の限りを尽くしましょう」


 やや芝居がかった言い回しに、回想より我を取り戻した由有は、本心より頷いた。

 だが、とも思う。


 ――英主であられたのは朝廷の布武帝も同じ。ところがご遠行の後わずか十年でこの体たらく……同じことが順門にも起こらないと言えるだろうか。


 そこまで想像し、由有は己の心配性を嗤った。


 ――多少乱暴なきらいはあるが、宗流様はご嫡男として申し分ない。それよりも今はこの戦の……


 そこに、当の嫡男が戻ってきた。

 自らが先駆けて船に駆け上るなり、


「幡豆、幡豆よ」

「はい?」

「ほれ、手土産のもみじ」


 と、鮮血な染まった己の両手を広げて見せる。

 その笑いの感性に共有できぬ二人をよそに、一人で童の如くケラケラ大笑い。


 ――だ、大丈夫……だよなぁ?


 ひくつく頬を隠すのに苦労し、未だくすぶる己の不安を振り払うのにも一苦労。


「それより、虜にした者が妙なことを口走った」


 と、本人が自覚もなしに話題を転じてくれたおかげで、苦悩に囚われそうになった由有の心を救った。

 だが、そこから続くたった一言のもたらす衝撃が、また由有の頭を混乱のるつぼに叩き落とし、痛ませるハメとなった。

「帝が逃げたとさ」


「……まさか。ありえますまい。確かに逃亡者は各所から出ているようですが、現に禁軍残党を含めて戦場に多くの兵が残っている! それさえ捨てて帝はお逃げになられたと!?」

「だが、そんな敵にさえ信用されないような話を、捕虜がするとも思えん」


 だが荒唐無稽な内容と、話し手の口調の軽さに比して、宗流の眼差しは真剣そのものだった。

 彼の、森林の獣じみた直感力が肌に感じさせているのだろう。

 それが、事実である、と。

 何より極めつけは、


「ありうる」

 と、頼束までもが同調したことであった。


「あの方は、臣下の心など分からぬお方よ。でなければ……でなければ察することもできただろうに。星井めの讒言によって死した妻子。その妻が『誰』の妹であったなど、露程にも気にせぬお方ゆえ」


 それは偏見と憎悪に満ちた言いぐさであったが、真実を歪めてまで決めつけているようには思えなかった。

 何より自分たちよりも良く帝の人となりを知る人物の意見である。


「これが事実とすれば、押し出せば敵は一気に崩れる。よし! 親父殿に報せに向かうぞ、幡豆!」


 若殿に肩を抱かれながら、由有の胸には一抹のしこりが残る。

 忘れかけていた自問の続きを思い出してしまう。


 ――今は、この戦の落着が問題だ。あくまでこちらの方針は『帝が説得に応じてくれるまで戦力差を縮める』というものだった。だが、交渉の場につくべき帝は既にいない。かと言って帝のおわすであろう王都にのぼる余力もない。


 あるいは、と。

 由有は海の向こう。岸の向こう側にいるはずの主君の横顔を想った。


 ――もはやこの戦場にいる誰もが、終着点を見失っているのではなかろうか? とすればこの戦は……いつ終わる? 誰が終わらせる?


○○○


 信守率いる禁軍の精鋭二千五百は、砦を包囲する宗善勢七千を突破し、なんとか内部の進入を果たした。


 と言っても、宗善がそれほど執拗な妨害を行ったわけではなかった。

 入ったところで所詮延命程度と甘く見たのか。あるいはこちらのあまりの悲惨さに同情し、せめて武士の面目だけでも立たせてやろうという心からか。


 だが、戦闘があったのは確かなことで、乱戦の中、信守もまた肩に矢を受けた。兵にもいくばくかの死者と脱落者を出した。

 その矢を抜かぬままに門をくぐった信守は、そのまま一直線に砦の本陣を目指した。

 斜陽が彼の背を照らし、顔に陰を落としていた。


 鹿信勢健在、と言っても、嫌な予感がしていた。

 砦に接近し、接敵し、それはなおさら強まっていった。


 何故、父は討って出ぬのか?

 気心知れた第五軍同士で連携し、挟み撃ちにすれば、突破は容易であろうに。


 唇を噛みしめ、普段は頼みもせぬ神仏にさえ縋りたい気分であった。


 ――父上、死んではなりません。


 そう叫びたかった。

 王朝を守る、帝を守るという父の確固たる意志は、信守にとっては明確な指標、生き様の一つであった。

 例え己の心が闇にまみれていたとしても、月明かりの如く、父を目指し、父の照らす道を歩き、生きていく。

 それで良かったはずだ。


 引き留める者はいない。

 それほどの余力がある者は、残ってはいなかった。


 途中、第六軍の地田綱房が接近し、何事か言っていたが、信守の耳にはもはやそれさえも入っては来ず、ただ、本陣を目指した。


 だが。

 本陣に立ちこめる血の臭いによって、腹から血を滲ませたまま横たわる、父の無惨な姿によって、信守はようやく現実へと立ち戻った。

 それによって、追いついた綱房の言葉も、ようやく鮮明に聞こえてきた。


 曰く、……我が手勢の中より離反者が出た。

 昨晩ひそかに門を開け、敵兵が一時突破した。

 鹿信卿は自ら陣頭に立ち敵を押し返したが、その際腹に槍を受けた。それ以降も懸命に指揮をとっていたが、今朝未明に高熱を発してとうとう倒れたという。


「……禁軍の名に恥じぬ、お見事な戦いぶりだった。死後もその活躍は千里にまで轟こう。その着物の端を守り袋として、自分も武運を願いたいものだ」


 詫びも、弁解もなかった。無意味な賞賛だけがむなしく響いた。

 恥知らずなことに、己の過失だとはまるで自覚していなければ理解もしていないのだ、この男は。


 屋内の薄闇の中で、本当に良かったと思う。

 この無自覚な悪意に切歯する顔も、扼す腕も相手に気取られずに済むのだから。

 相手の厚顔がはっきり見て取れていれば、そのまま大刀を抜き払って殺していたかもしれない。


 だがそんな殺気を霧散させたのは、臨終に際した父の微笑であった。


「…………父と二人で話がしたい。悪いが、席を外していただけぬか」


 だが、怒りと、我が身の無力さに震える声だけは、どうにも抑えがたい。

 そこでこちらの尋常ならざる態度に気がついたのか、すごすごと地田綱房は去っていった。


「格好がつかねぇ。本当は、もっと早くくたばるつもりだったんだがな」

 槍の穂先は、臓腑にまで達しただろう。

 身の下に広がる血痕から察するに、おおよそ死に至らしめるだけの血の量が、この男の傷口からは漏れ出ていた。


「……今生の別れのつもりだったんだが」

「そのようなことはおっしゃらないでください。共に、この砦から脱する策を練らねば」

「帝は?」

「は?」

「帝は、どうなさっておいでだ?」

「……逃げ出したそうです」

「そうか」


 安らかな嘆息と共に、上社鹿信はより深く頭を沈めた。


「無事、落ち延びられたか。最低限の筋だけは、通せたな」

「何が……っ」

「……ん」

「何が、無事なのですか!? あの男は逃げたっ! 自分が果たすべき責任をかなぐり捨てて、自分がしでかしたことの後始末だけを押しつけて! 父上の奮闘にさえ報いず! 詫びず! 我らは、見殺しにされたというのにっ! こんな王朝に、命を張る義理などないっ! かくも身勝手な上の事情を大義と称し、下々に強いる犠牲を美談でひた隠し、士道、臣下の道理などという曖昧な概念で塗り固める! そんなものになんの意味があるのですかッッ!」


 鹿信は、応えなかった。

 ただ信守が吐き出し続ける激情を、全て帝に代わりて吸い取るように、澄んだ目を細めて受け止めるだけだった。


 信守は、震えていた。

 今まで生きてきたおよそ二十年ため込んだ怒り、憎悪を絞り出した。そしてそんな己の暴言に、不敬に、不忠に怯えるかのように、彼の手は小刻みに揺れていた。


「……信守」


 父の手が、ゆっくりと伸びた。

 項垂れる息子の、折れた膝上の握り拳に手を添えた。


「己に、怯えるな」


 ハッと見上げた時は既に、父の指先からは体温が感じられなかった。


「お前は正しいよ。そして賢い。それ故に……建前を重ねて本音を隠し、そうして折り合うこの世の仕組みが、憎くてならんのだろう。その歪みが、目についてどうしようもないんだろう……」


 すまんな、と。

 最後に父は、己に対する詫びで締めくくった。


「本当なら、お前に託せるものはもっとあったはずだ。お前の苦悩を癒すに足る時を、語らう場を作ってやらねばならなかったのだろう。だが、今の俺がせいぜい、託せるのは……この禁軍第五軍と、ちっぽけな笹ヶ岳砦ぐらい……あとは、そう。自由だ」

「自由?」

「俺は、朝廷に愛着を持ちすぎた……俺自身、忠義だなんだのとひた隠したところで、つまるところ天下を取らせた藤丘家の凋落を、見続けることに耐えられなかった……だが」


 双眸からは月光の如き輝きが失われ、声は次第に遠くなっていく。

 だが、


「お前はお前の性に従い、望むがままに生きれば良い。禁軍にも、朝廷にも、上社にも縛られる必要などない」


 しかし瞳の優しさも、声の強さも、ここに到るまでまったく変わることがなかった。

 やがて父の息づかいが聞こえなくなる。

 斜陽も落ちた、闇の帳が室内を閉ざした。


「……それは違いますよ、父上」


 信守はその暗黒に落ちながら嗤った。


「私が……俺が本当に望んだのは、貴方と共に生きることでした。何者をも恨まず、貴方のような正道を行くことでした」


○○○


 外に出ると、完全に夜の時代がやってきていた。

 月さえも黒い雲が覆い、地は照らす輝きもなければ足下さえ覚束ない。


 だが、今までにないぐらいに、彼の心は落ち着いていた。

 枷のように己を縛っていた煩悶も、もしは消えている。


 ――何のことはない。俺は、闇を恐れていたわけではなかった。


 ただ、かすかに灯る光に安らぎを求め、しかし同時に、それ故に心揺れていたのだ。


 己の生に一つの落着を見出した信守に、人が寄ってくる。

 たった今、自分の直接の家臣となった者たち。


「信守様、お父上のご容態は!?」

「帝が戦場より脱したというのは真ですか!?」

「食料はいずこに!?」


 相次ぐ苦境に余裕がなくなり、口々に身勝手なことを尋ねてくる皆が、少しわずらわしい。


 ――だが、悪くはない。


 どこぞの六軍の大将のように、綺麗事を並び立てるよりよっぽどか良い。

 これならば、ゆける。


 この餓えに餓えた禁軍第五軍に、さらに己の色を塗り足せば、戦場さえも、己の色に塗り替えられる。


「この下らぬ戦を終わらせる。皆、これよりは一切の矜持を捨てろ」


 気がつけば震えは止まり、一匹の業魔が産声をあげた瞬間であった。

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