第25話 繋がるインクブルー


 揺蕩う月光の下で、栞那かんなさんは掲げた傘を私に向かって振り下ろした。次の瞬間、頭を庇う左手に鈍い痛みが突き刺さる。声にならない悲鳴を上げながら、私は痛みと恐怖感から脱力し、その場に崩れ落ちた。

 まるで喉が凍りついているかのように、声が上手く出せない。

「……お願い、ナラちゃん。のぞむには二度と近づかんとって」

 一歩ずつ迫り来る彼女から逃れるために、私はゆっくりと後ずさる。その表情は怨色に染まり、今にも私を貫く勢いであった。街灯が彼女の頬に光を落とし、その表情を黒く塗り潰していく。

 一度だけでいい。彼の名を叫ぶだけの声が出れば。

 私は小さく震える右手を地面に押し当て、力いっぱいに拳を握り締めた。

「──壱弥いちやさん!!」

 やっと絞り出した声が脳に響き、同時に視界が揺れるような眩暈にも似た感覚を引き起こす。

 直後、背後の扉がけたたましい音を立てて開いた。

「ナラ!」

 状況を告げる間もなく再度振り下ろされる傘を、視界の端から滑り込んだ彼が右手で受け止める。そして、そのまま彼女の手から強引に傘を奪い取った。

「ナラちゃん、もう大丈夫やでな」

 壱弥さんに続いて後ろから現れた宗田そうださんが、私の肩に手を添えながら優しい言葉を掛けてくれる。すると、緊張が解け、無意識に両目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。

「……栞那さん、これはどういうことですか?」

 未だに状況が理解できないままの壱弥さんは、静かに彼女に問いかける。

 藍色の傘を奪い取られた栞那さんは、哀愁と敵意を込めた表情で、壱弥さんを睨みつけた。

春瀬はるせさんは、私の味方ですよね……?」

 そう、ぼんやりと呟く彼女から目を離さないように、壱弥さんは静かに身体を屈め傘を地面に置いた。

「当たり前です」

「それやったら、なんでこの子を庇うんですか? ナラちゃんは望を誑かそうとしてた。私の知らんところで、二人だけで話して……。私のこと騙してたのに」

 彼女の言葉で、壱弥さんはようやく状況を理解したようだった。そして首を横に振り、それを否定する。

「それは違う。誰もあなたのことを騙そうとも、貶めようとも思ってません。一度、中でゆっくりと話をしませんか」

 壱弥さんの宥める声に、彼女は目を伏せた。強く握っていた拳を解き、俯きながらゆっくりと足を前に運び出す。ようやく、その敵意を解いてくれたのだと安心した。

「なんで……そんなこと簡単に」

 かろうじで聞こえた歯切れの悪い言葉のあと、栞那さんは懐から何かを取り出し、それを壱弥さんに突き付ける。何が起こったのか、直ぐには分からなかった。

 降り注ぐ月光が握る刃に強く反射する。その鋭利な刃物を目にした彼は、僅かに動作を停止させ、咄嗟に突き出された彼女の腕をで掴んだ。

 直後、彼は輝く琥珀色の瞳を大きく見張り、簡単に弾かれた自身の左手と、迫る刃物を目で辿る。眼前の映像がスローモーションのように流れる中、鋭く光るそれは彼の左腹部へと鈍い音を立てて突き刺さった。

「……っ!」

 肉を裂く生々しい音に、私は思わず目を瞑った。

 血液が滴り落ちる銀色の刃を、栞那さんは茫然と見つめている。やがてその表情は正常な意識を取り戻し、恐怖に色を変え、甲高い悲鳴を挙げながら恐ろしいものを払い除けるように刃物を地面に落下させた。

 壱弥さんの身体がぐらりと揺れた。

「壱弥さん!!」

 夜を引き裂く私の声に、彼はふらつく足に力を込めてすぐに体勢を立て直す。そして、立ち上がり駆け寄ろうとする宗田さんを強かに睨みつけた。

「……おっさんは絶対にナラの傍から離れるな。……俺は大丈夫やから」

 その声に反し、傷口を抑える彼の右手には鮮やかな赤色が染み付いている。それでも、壱弥さんは目の前に座り込んで震える栞那さんに優しく声を掛けた。

「ごめんなさい、私……春瀬さんを傷つけるつもりなんて……! ごめんなさい。ほんまに、ごめんなさい」

 何度も繰り返し謝り続ける彼女に、穏やかな表情を見せる。

「大丈夫です、栞那さん。落ち着いて僕の言葉を聞いてください」

 栞那さんはゆっくりと顔を上げた。

「こうなったんは、止められへんかった僕の責任です。あなたに殺意はなかった。……いいですね?」

 諭すように告げる壱弥さんの低い声に、栞那さんはこくりと頷いた。

 それから間もなく、宗田さんの連絡を受けた彼の部下らしき数名の男性が到着し、力なく座り込む栞那さんの身柄を確保した。

 残された暗闇で、壱弥さんは再度足元をふらつかせる。顔色は蒼白で、今にも倒れそうになる身体を宗田さんが肩で抱え上げた。そして、明るい事務所の入り口で、壁に凭れかけさせるように重い身体を下ろす。

「壱弥さん、死なんとって」

「あほか、大丈夫や……」

 私の言葉に少しだけ口角を緩めて笑うものの、体動に伴う痛みにより、彼の額には冷汗が滲んでいた。白いシャツに滲む血液は徐々に広がり、抑える右手を伝って床に滴り落ちる。彼のその姿に、私は動揺を隠しきれなかった。

「救急車、もうすぐ来るからな」

 宗田さんの言葉にも青い顔で小さく頷くだけで、徐々に彼の反応が鈍くなっていくのがわかる。

「壱弥さん、聞こえる? 返事して」

 私は澱んでいく彼の意識を繋ぎ止めなければと、繰り返し声をかけ続けた。

 力なく垂れる彼の左手を握り締めると、大きく骨ばったが指が弱弱しく私の手を握り返した。しかし、触れた手が氷のように冷たくて、心臓が止まってしまったのではないかと錯覚させる。細胞が死滅していくような恐怖を覚え、私は涙を溢しながら彼の手を強く強く握り締めていた。



 九月二十三日の午後、あの夜の事件の後、私は初めて彼の元を訪れた。

 あの日、壱弥さんはすぐに近くの救急病院へと搬送された。しかし、想像以上に出血が酷く、緊急で手術治療を受けた今でも輸液や薬剤によって全身管理が施されている状態であった。時折うっすらと目は開けるものの、その意識は水底に沈んだままで、一日の大半を眠りながら過ごしているそうだ。

 訪問した病室は深い静寂を纏い、鈍色の空が全体を包み込んでいるような重苦しい空気を背負っている。私は彼の眠る姿を眺めながら、傍らの椅子で持参した参考書を開いていた。

 その空虚な時間は異様に長く感じた。

 彼の身体を取り巻く機器の電子音が鳴り響く度に、心臓が跳ね上がり、不安に圧し潰されそうになりながら変動する数字を見つめていた。

 十四時を過ぎた頃、病室にある一人の医師が姿を見せた。

「やっぱり来てくれてたんやね」

 そう、柔らかい口調で呟きながら白衣を翻す彼は、壱弥さんの兄、貴壱きいちさんであった。彼は美しい宝石のような緑色の瞳でモニターを一瞥したあと、薬剤を投与する機械を操作し、慣れた手つきで設定値を変更する。

「ナラちゃん、怪我は大丈夫?」

 彼の言葉に、私は忘れていた自分の怪我のことを思い出した。殴打された左手首の骨には僅かに罅が入っていたそうだ。しかし、大事には至らず、今は簡易の固定をしているだけで、痛みも治まり日常生活に大きな支障はない。

「はい、私は全然大したことないです」

「そうか、よかった」

 彼は疲れを解くように白衣を脱ぐと、ベッドの足元に乱雑に投げた。そして、私の隣に深く腰を下ろす。

「今日は、ナラちゃんに渡したいものがあってな」

 貴壱さんは微かに目を細めながら、私にそれを差し出した。その瞬間、どくんと心臓が大きく脈を打つ。

 瑠璃色の万年筆と黒い革張りの手帳――それは間違いなく、壱弥さんが仕事で愛用していたものであった。そして、その中には今まで彼が目にしてきた沢山の出来事が記録されている。私は固唾を呑む。

「……二人が調査してた依頼がどんなもんか俺は知らんけど、このままやと間違いなく後味の悪いもんになるやろ」

 貴壱さんはゆっくりと言葉を紡いでいく。

 受け取った手帳からは、壱弥さんが纏う甘い白百合の香水が微かに香り、記憶の中に在る平穏な日々を呼び起こす。

「調査を完遂するんは、依頼者を救うためだけとちゃう。きっとそれは今後、壱弥やナラちゃんの心を軽くすることにもなると思う」

 私は真剣な目で前を見据える彼の綺麗な横顔に視線を送る。

「今、壱弥の代わりが出来るんはナラちゃんだけなんやよ」

「私だけ……」

「あぁ」

 そう頷くと、彼はふわりと立ち上がり壱弥さんの顔を覗き込んだ。その白く繊細な指先で、熱を持つ彼の額に静かに触れる。

「壱弥は絶対に目を覚ます。やから、ナラちゃんもこいつのこと信じたって」

 貴壱さんは振り返る。

「はい、私も信じます。壱弥さんのことも、貴壱さんのことも、これからもずっと」

 私の声を耳に、彼は幻のように微笑みながら私の頭に手を乗せた。

「いつもありがとう。あとは頼んだ」

 その優しい仕草とは対照的に、荒っぽく白衣を掴み上げ、彼は病室を抜けていった。

 残された室内に微かな寝息が響く。私は貴壱さんを真似るように彼の頬に指先を当てた。柔らかく指腹を押し返す感触は、確かに彼が生きているということを示す。それなのに、どうして彼の顔色はこんなにも白く、人形のように眠ったままなのだろう。まだ、彼に言いたいことは沢山ある。文句や、冗談や、感謝の言葉だけではない。まだ私は彼について何も知らない。

「壱弥さん。私、まだまだ壱弥さんに聞きたいこといっぱいあるんやから」

 彼がどのような人生を歩んできたのか。彼がどんな人に囲まれて育ち、どんな人を愛してきたのか。この探偵という仕事に就く前には、どんな出来事があったのか。

 ――祖父と、どんなことを話し、学んできたのか。

 無意識に零れる涙を拭い、私はもう一度椅子に座り直した。そして、呼吸を整え貴壱さんから受け取った彼の手帳を静かに開く。

 そこに綴られているのは、壱弥さんらしい少し歪な文字だった。愛用している瑠璃色の万年筆が吸った、美しいインクブルー。その色のある文字を一つずつ目で追っていく。

 ――彼はどうしてこんなにも誰かの為に成すことができるのだろう。

 そこには、壱弥さんが一人で調査を進めていたであろう大事な事柄が細やかに記されていた。

 同時に、冷たい水が背筋を這うような感覚が押し寄せた。記される、たった一つの情報から展開されていく推理が、寸分の狂いもなく動く歯車のように恐ろしく精巧なのだ。そして紡がれる推理は滔々と流れ、くすのき夫妻を救う手段へと繋がっている。

 ただ、彼の描く推理には一つだけ問題点があった。

 想定された状況が大きく変わってしまった今、ここに欠けたピースを嵌め込まなければきっと彼らを救うことは出来ない。どうすれば、この最悪の状況を抜け出すことが出来るのだろう。何か大切な欠片を見落としてはいはないか。

 私は鞄の中にあった自身の手帳を開く。

 ぱらぱらとページを捲り、記した調査のメモを振り返っていく途中、望さんの筆である「露」の一文字が目に留まった。

 何かを思い出す時、壱弥さんはいつも静かに目を閉じていた。それに倣い、ゆっくりと瞼を下ろす。栞那さんに初めて出会った九月十五日の始めから、今日までの記憶を呼び起こし、緩やかにその道筋を辿っていく。

 その時、私はある事に気が付いた。

 ――どうして今まで思い付かなかったのだろう。

 頭中で次々と繋がっていく物語に、私は目を開き、強かに覚悟を決めた。

 壱弥さんの意志を受け継ぐことができるのは、私しかいない。私が必ず救い出さなければならないのだ。暗く、冷たい部屋に閉ざされたままの彼らを。

「壱弥さん、いってきます」

 そう、眠り続ける彼に声をかけた私は、二冊の手帳と瑠璃色の万年筆を鞄にしまい込み、足早に病室を発った。


 病院のエントランスを潜り、曇り空の下に飛び出したところで、後ろから誰かが私の名を呼んだ。足を止めて振り返ると、そこに居たのは浮かない表情をした主計かずえさんであった。

「呼び止めてごめんな。壱弥兄さんのとこ行こうと思ってたら、ナラちゃんが出てくの見えて。ナラちゃんも怪我したって聞いたけど、大丈夫?」

「はい、私は大丈夫です。ありがとうございます」

 淡く微笑みながら告げると、彼は安心したように息を吐いた。

 それから、彼と話をするために近くのベンチに座り、そこで彼に壱弥さんの状況を簡単に説明した。

「……そっか。兄さん、まだ眠ったままなんやね」

 主計さんは眉を下げ、長い睫毛に縁取られた栗色の瞳を伏せる。

「でも、絶対に目は覚めるって貴壱さんも言うてはったから……大丈夫やと思います」

「うん。貴壱兄さんがそう言うなら安心やね」

 そう、彼は柔らかい声で告げる。しかし、その言葉とは裏腹に、主計さんの瞳は翳ったままであった。

 切り出す言葉も見つからず、ぼんやりと下を向いていると、主計さんが再度重い口を開いた。

「僕、壱弥兄さんがこんなことになったて聞いた時、自分がとんでもないことしたんちゃうかって思て、凄い怖くなった」

「え?」

 私は静かに話す主計さんの顔を見遣った。明らかに先程とは異なる姿で、彼は声の調子を落とす。

「僕が栞那さんに兄さんのこと紹介せんかったらって……」

 声が僅かに震え、唇を噛み締める表情は今にも泣き出しそうな子供のようで、その瞳は微かに濡れているようにも見えた。

 私は首を大きく振った。

「そんなこと、壱弥さんは絶対に思いません。私も初めは自分が軽率な行動を取らんかったらって思いました。でも、壱弥さんなら『そんなことない』って言うと思います。それだけは分かる。やから、主計さんも自分のこと責めやんとってください」

 一つとして虚飾のない、自分の気持ちをそのまま真っ直ぐに彼に伝えたつもりだった。

 主計さんは目を大きく見張り、少しの間を置いて、眩しいものを見つめるように私に向ける目を細めた。そして、どこか困った表情で笑う。

「やから僕は――」

 そう、幽かな声で呟くと、主計さんは言葉を飲み込むように口を噤み、徐に立ち上がった。

 彼の言葉の続きを尋ねるよりも先に、私を見下ろしながらいつもと変わらない涼やかな表情で私に問いかける。

「ありがとう。これから、ナラちゃんが壱弥兄さんの代わりをするんやってね」

 天井の曇り空に、明るい青色の空が少しだけ覗く。

 私を見据える彼の瞳には、もう翳りの色はなかった。

「僕に出来ることがあったら何でも言って」

 そして、その瞳には空の青色が映り込み、深く艶やかなインクブルーを灯しているようにも見える。もしも、本当に彼が欠けたピースを埋める手助けをしてくれるのであれば。

「主計さんに一つだけお願いがあります」

 私は彼の言葉にゆっくりと頷き、大切な願い事を告げた。


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