第24話 夜雨
急遽言い渡された単独調査を完遂すべく、前を歩く男性を、ゆっくりと確実に追跡する。幸いにも彼の歩行速度は私と大きく変わらず、ヒールの足であっても離されることはなかった。
コーヒースタンドを抜けた
博物館では、生誕三〇〇年を記念した「
与謝蕪村とは、江戸俳諧の巨匠の一人として知られると同時に、優れた画家であり、俳画を芸術として完成させた人物であるとも言われている。彼の発句は、情景を僅かな描写で切り取った浪漫的で絵画的な排風を示し、後の近代俳諧に大きな影響を与えたそうだ。
蕪村の手がけた有数の絵画を、その身体に取り込んでいくように、深い呼吸を重ねながら時間をかけて鑑賞する。そして、約二時間もの間を博物館内で過ごし、薄暗くなり始めた逢魔が時、彼は漸く帰路についた。
少しだけ涼しさを感じさせる雨の朝、勢いに任せて扉を開け放つと、緩い恰好で事務所のソファーに身を預けていた
「なんや、ナラか。道場破りでも来たんかと思たわ」
そう、彼は安堵の息を吐きながら再びソファーに身体を沈め、捲り上げたTシャツの裾からぼりぼりとわき腹を掻いた。その様子を見ると、昨日の無茶振りを謝罪する気はさらさらないらしい。
何事もなく尾行を完遂することが出来たのだからよかったものの、もし望さんに気付かれてしまっていたら、今後の調査難易度を格段に上げることになっていただろう。その妙な緊張感に神経をすり減らし、帰宅後は夕食も摂らないま居間で寝落ちてしまった。
「壱弥さんさぁ」
文句の一つでも告げてやろうと、声量を抑えた声で呼名する。その瞬間、壱弥さんは何かを思い出したように勢いよく立ち上がった。
「そうや、ええもんあげるから座って待ってて」
つい先ほどまでソファーに溶けていたとは思えない程に滑らかな動作でリビングへと姿を隠す。そして、軽やかに事務所へ舞い戻ったと思うと、彼は手に携えていた有名ケーキ店の箱と小さな皿を私の目の前に置いた。
箱の中を覗き込めば、そこにはキラキラのナパージュに包まれた黄緑色の宝石のようなマスカットタルトと、香ばしく焼きあげられたアップルパイがあった。思わず彼の顔を見上げる。すると、壱弥さんは口元を緩ませながらふんわりと微笑んだ。
「いっつもお菓子貰ってばっかやで、たまにはお礼もせなあかんやろ」
「頂いてもいいんですか……?」
「うん、両方食べてええよ」
私に向けられた彼の表情が想像以上に穏やかで、抱いていたはずの不満が鎮火されていく。そして、サクサクのアップルパイにフォークを通せば、シナモンの刺激的な薫りが弾け出し、不満を生むその火種さえも、水を掛けたように綺麗に洗い流されていった。
ソファーの肘掛けに頬杖をつきながら、私の姿を眺める壱弥さんが、ゆっくりと口を開く。
「そういや、昨日はありがとう。調査の報告、聞かせてもらってもええかな」
その柔らかい問いかけに、私は含んでいたしゃきしゃきの林檎を嚥下する。そして、フォークをお皿の縁に置き、傍らのショルダーバッグから手帳を取り出した。
「まずは、
ただ、事実だけを短絡的に伝えていく。
「その間、彼に接触した人物は?」
「目立った人物はいません。博物館の職員さんと少しだけ話した程度です」
「そうか……、非常にまずいな」
そう、壱弥さんは吐息を漏らしながら腕を組み、琥珀色の目を伏せる。
言うまでもなく、望さんの浮気の証拠となるものは一つとして見つかっていなかった。壱弥さんの言葉を聞くと、その事実が不安へと変わる。
「やっぱり、浮気なんてしてないんでしょうか」
「シロの可能性も視野に入れる必要があるんは確かや。
彼の問いかけに、私は膝の上に置いていた手帳のページをゆっくりと捲る。そして、主計さんから聞いた望さんの人物像を伝え、短冊についての言及を、そのままの形で唱え直した。
主計さんの言葉を耳にした壱弥さんは眉間に皺を寄せ、難しい顔をした。
「短冊のことは俺も気になってたんや。短冊に書いた和歌だけを贈るなんて、相手がよっぽど古典に精通してないとしやへんやろし、贈り主を特定されやすいものを愛人に贈るっていうのも怪しい。第一、見られて困るものを書斎に堂々と置いとかへんやろ」
壱弥さんが述べる考察と主計さんの言葉を重ねると、やはりあの藍色の短冊が贈り物であるとは考え難いということだ。
もう一度、
「そしたら、望さんと一緒に喫茶店でお茶してた女性を探すしかないんですかね」
「相手の女性が誰なんか分かったら話は早いんやけどな」
その現場を抑えるつもりで尾行調査をしたものの、結局何もつかめないまま終わってしまったのだから仕方ない。この場合、もう一度尾行を行うか、別の視点で調査を試みるのか、または調査自体を終了とするのか、依頼主の栞那さんに結果を伝え相談をしなければならないのだ。
不発に終わった昨日の調査を振り返り、ふと私は大事なことを思い出した。
「そういえば、壱弥さんは昨日何の調査をしてはったんですか?」
その瞬間、壱弥さんは私から視線を逸らし、言葉を濁した。更に強く問いかけると、彼はようやく観念した様子で、しぶしぶと口を開いた。
「ほんまはお前を巻き込みたくないから、言うつもりはなかったんやけど、逆に耳に入れておいた方が安心かもしれへん」
そう、不穏な前置きをする。
「あの時、栞那さんから『誰かにつけられてるみたいやから助けてほしい』って連絡があったんや」
彼の口から飛び出した言葉は予想外のものであった。
その声色には吐息が混じる。
「栞那さんがつけられてたって、誰に?」
「俺が来たら直ぐに逃げてったらしいで、わからへん。相手の目的がはっきりとせん限り彼女を一人にすることは出来へんかったし。栞那さんの証言から分かるのも、身長は百五十半ばくらい、細身で小柄な女性やってことだけや」
無論、それだけで答えを突き止めるのは不可能に近い。それに、犯人が女性ならば、彼女に対する個人的なストーカー行為である可能性は極めて低いだろう。考えられる目的は何か。
そう思考を巡らせた直後、嫌な想像が頭中を駆け抜けた。
「……もしかして、その犯人が浮気相手の女性って可能性も」
「あぁ、十分にあり得る」
不快感を示すように、壱弥さんは苦い表情をみせる。
「正直、今の状態では浮気と尾行の関係性ははっきりせん。でも、浮気の真偽がどうであれ、栞那さんが尾行されてたんは事実や。その女性についての調査は続けるつもりや。……あと、ほんまに危害を加える目的で栞那さんを尾行してたとしたら、俺の存在がばれた以上、最悪を想定して俺もナラも周囲に警戒はしといた方がええ」
真剣な面持ちで発せられる彼の声と、その台詞にどきりとした。
浮気や夫婦間のトラブルがきっかけで刑事事件に発展したという報道は時折耳にする。そのような事件を連想させる彼の言葉は、恐怖心を植え付けるには十分すぎる程の威力があった。
「巻き込んでごめんな」
彼は眉を下げ、珍しく弱気な言葉を吐く。
いつもの壱弥さんであれば、どんな調査であっても自分ならば出来るのだと信じて疑わず、絶えず自信に満ちた光をその鮮やかな瞳に携えていた。それがどうしたものか、今の彼は不安気に視線を落とし、目の前の私に謝罪する。
私は頭を振った。
「依頼に関わったのは私の意思です。巻き込まれたなんて思ってません。やから、壱弥さんは私のことは気にせず、いつもみたいにさくっと解決してください」
そう告げると、壱弥さんは目を見張ったあと、少しだけ表情を緩ませた。
「うん、そうするわ。……やからナラも、出来るだけ人目の少ない場所は避けてほしい。それくらい警戒しといてもらった方が、俺が安心する」
「わかりました」
私は大きく頷き、机上に残るアップルパイに添えたフォークを手に取った。その直後、事務所内に呼び鈴が鳴り響いた。
ラフな格好のまま、壱弥さんはふんわりと立ち上がり入口の扉を開く。そこには、藍色の傘を握る栞那さんの姿があった。
「すいません、休日に押しかけて」
そう、彼女は控えめに頭を下げる。
「いえ、それは良いんですけど、ここまではまさか独りで?」
栞那さんがこくりと首を縦に振ると、壱弥さんは少しだけ目を細め、直ぐに彼女を事務所へと招き入れる。彼のやや呆れた心情を察してか、彼女は弁解を加えた。
「でも、
「そうですか。丁度これからどう調査を進めるべきか話し合ってたとことなんです。結果も含めてお話します。どうぞ、こちらへ」
壱弥さんはあえて彼女を窘めることはせず、そのまま私が退けた場所へと誘導する。
引き下げたケーキの代わりにお茶を出そうと、戸棚から雁ヶ音ほうじ茶の茶葉を取り出し密閉容器を解く。しかし、その中身は空っぽであった。仕方なく隣にあった和紅茶を淹れ、彼女の目の前に差し出した。
「ありがとうございます」
私が壱弥さんの隣に着いたあと、彼は先程まで振り返っていた調査結果と共に、短冊についての推理をゆっくりと話始めた。全てを伝え終えた時、その事実に栞那さんはがっくりと肩を落とす素振りをみせたものの、彼女を尾行していた女性の特定を行い、そこから浮気調査へと進めたい意思を告げると、その申し出を快諾した。
日本列島に記録的な大雨をもたらした台風十六号が過ぎた二十一日の昼下がり。
未だにしとしとと降り続く雨の中、いつもより人気の少ない市バスを乗り継ぎ、
そこで、いつもと同じように和菓子屋の娘である
小さな袋を抱えて店を出ると、
雨水を跳ね返す石畳の階段を上り、なだらかな坂道に差し掛かると、漸く目的の茶屋「
雨の影響か、店内の人気は疎らであった。徐々に強くなっていく雨の音を感じ、私は切らせていた雁ヶ音ほうじ茶を購入したあと、奥の喫茶スペースで足を休めることを選択した。
狭い通路を抜けた時、隅の席に腰を下ろしていた男性が自然と顔を上げる。
視線が重なった瞬間、その見覚えのある顔に驚いた私は、思わず声を発していた。耳の上で切りそろえられた黒髪と、素朴ながらにも整った面立ちの男性、それは間違いなく
「えっと……どこかでお会いしましたか?」
そう、不思議そうな表情のまま手元の本を閉じ、彼は当然のように私に問いかけた。どのように答えるべきかと躊躇っていると、望さんは優しい表情で再度口を開く。
「もしかして、ナラちゃん?」
「え、何で私の名前知ってはるんですか……?」
「やっぱり。この前、主計に写真を見せて貰ったんやよ。ほら、観月の夕べの」
彼の言葉を聞いてようやく状況を理解し、私は安堵の息を吐いた。
彼に促され、向かいの席へと静かに座る。そして、通り過ぎる店員を呼び止め、温かい抹茶を注文した。
「実は私も、主計さんから望さんのことお伺いしたんです。店に来るたびに、栞那さんのこと自慢してくるんやって笑ってはりましたよ」
私の言葉に、望さんは可笑しなものでも耳にしたようにくすりと笑う。
「よう言うわ。あいつもナラちゃんのことばっかやのに」
「え、そうなんですか?」
「うん、『ええ子がおるんです』って初めに言うて来たときは、びっくりしすぎて飲んでたお茶こぼしたからね」
そう、湯気が立ち込める茶器を取り、喉を潤すと、彼は柔らかく破顔した。しかし、その表情はたちまち真剣な面持ちへと変化する。
「主計があんなこと言うの、ほんまに珍しいんやよ。やから、これからも仲良くしたってね」
紡がれる穏やかな台詞を聞いて、私は自然と頷いていた。
注文をした品がようやく手元に届き、仄かな抹茶の香りが周囲を包み込んだ。冷えた指先を温めるように、茶器へと手を添える。
目の前には手元の難しい本に視線を落とす望さんがいる。調査対象の人物と直接話をしているなんて不可解な境遇ではあるが、冷静に考えると、これは願ってもいない好機なのかもしれない。
出来るだけ自然に、あの藍色に染まる短冊の真意や、親しい女性について聞きだせる方法はないか。私はゆっくりと言葉を探す。
「――そういえば、この前栞那さんに望さんの書を見せていただいたんです」
望さんは静かに私を見遣る。
「確か、綺麗な雲紙の短冊に、
「あぁ、あれか」
記憶を辿るように目線を頭上へと移動させ、再度私に向ける。
「でも多分、ナラちゃんが見たのは失敗して捨てたやつやね。くしゃくしゃにしてあったやろ」
確かに、あの短冊には一度丸めた紙を伸ばしたような跡があった。それでも、とても失敗作とは思えないくらい、洗練された美しい筆跡であったはずだ。
「あれのどこが失敗やったんですか? ものすご綺麗な書跡でしたけど……」
「えっと、ナラちゃん、何か紙持ってる?」
彼は懐から簡易の筆ペンを取り出す。そして、私が差し出した手帳の片隅に、さらりとある一文字を書き上げた。
「露、ですか?」
「うん。失敗作の方はバランスが気に入らんくてね」
私は記された「露」の文字をもう一度覗き込む。やはり、いずれの書跡も美しく繊細なものである事には変わりない。しかし、たった今書き上げられた「露」の文字には、降る雨のような淑やかさを秘めている、そんな印象を受けた。
「こうやって見ると、筆で書いた文字って凄い魅力的やと思います」
「ありがとう。書で仕事させてもらってるんは僕の誇りや。僕の書がきっかけで書道に興味を持ってくれる人がいたらええなって、思ってるんやよ」
望さんは優しい声音で強かに告げた。
書道の予備知識がない私でも、彼の書には人を惹きつける力があることは分かる。彼の抱く想いは、既に幾人にも届いているのではないのだろうか。心からそう、感じられた。
「あの短冊はお仕事で書かれたものなんですか?」
短冊の真意を問うと、彼は静かに首を横に振った。
「まぁ、仕事半分ってところかな。あれは大学生時代の友人の依頼で書いたものやから」
「それは、あの和歌を書いて欲しいっていう……?」
「そやね。他にもいくつか書いたよ。『命やは』の和歌はその一つや」
彼の返答を聞いて、私ははっとした。
もしかすると、その友人こそが望さんと親し気にお茶をしていたという女性の正体なのかもしれない。どうすれば、怪しまれることなくその友人について問うことができるのだろう。
思考を凝らす度に、自分の心拍数が上昇していくのがわかる。
「その――」
私が口を開いたと同時に、望さんは左腕の時計を覗き込み、少しだけ驚いた様子で立ち上がった。
「ごめん、ナラちゃん。次の約束があるから行かなあかんわ」
「えっ、今からお仕事ですか?」
「うん、このすぐ近くなんやけど、仕事の打ち合わせがあるねん。今日はありがとうね。また機会があったらゆっくり話したって」
忙しなく告げると、彼は傍らの小さな鞄を掴む。そして、入り口で代金を支払ったあと、慌てて店を飛び出していった。
まるで嵐が過ぎ去った後のように静まり返った店内で、私は呆気にとられ、彼が立ち去った入口を見つめていた。そして、あと一歩のところで核心に触れることができなかった事実を思い出し、徐々に悔しさが込み上げる。
それでも、望さんと声を交わした私は大きな確信を抱いた。
きっと、主計さんの言葉は正しい。
茶器に残る温かい抹茶を飲み干した私は、ゆっくりと席を立つ。硝子扉の先に目を向けると、いつの間にか雨は止んでいた。
壱弥さんから告げられた約束の時刻は十七時であった。雨後の曇天のせいで、日没までまだ一時間近くもあるはずなのに、既に辺りは薄暗く不気味な雰囲気を纏っている。
約束を取り付けた理由は一つ、この二日間で進めた調査結果の報告だった。
彼のことなのだ。もう既に答えを見つけているのかもしれない。そんな期待感を抱きながら呼び鈴を鳴らすと、僅かな間を置いて壱弥さんがゆっくりと扉を開いた。
「あー、もうそんな時間か」
気の抜けた声で事務所の時計を確認する彼の姿に、私は妙な違和感を覚えた。
「壱弥さん、体調悪いんですか?」
「は? 何で」
「ちょっと、顔色が悪いんで……」
すると、壱弥さんはにんまりと笑う。
「気のせいやよ。人来てるけど、まぁ入り」
招き入れられた白く清潔感のある事務所には、見知らぬ人物が座っていた。年齢は五十前後であろうか。背広を着たその男性の目付きは鋭く、無意識に壱弥さんの背後に隠れてしまいたくなるほどの威力があった。
「一応、今後関わりがあるかもしれへんから紹介だけしとくわ」
そう、壱弥さんが私を背後から引っ張り出し、その男性に向かって告げる。
「こいつは助手のナラ。一応言うとくけど京都地検の偉いさんの娘や」
「
少し乱雑ではあるが、彼の紹介を受けて私は目の前の怖いおじさんに頭を下げた。
「んで、このおっさんは
「おっさん言うな」
「いや、おっさんやろ」
差し出された名刺を受け取ると、どうやら壱弥さんの言うことは嘘ではなく、本当に警察の人らしい。
警部と言えば課長であり、あまり外に出歩くイメージはない。一体、彼は何の目的でここに居るのだろう。彼らの交わす言葉遣いからすると、ただの警察と探偵の関係ではなさそうであった。
宗田さんは私の警戒心を解くように、柔らかい表情を見せる。
「そんな怖がらんとってな」
その表情こそは私を安心させるためのものではあったが、彼らの間に流れる空気は重く、私がここに来るまでの間、何かとても大事な話を交えていたのだと予測できる。机上には幾つかの書類が伏せられたままで、そのすぐ隣には、壱弥さんが愛用する瑠璃色の万年筆が添えられていた。
「あの、もし何か大事な話してはるんやったら、私は席を外しますが……」
控えめに発した私の言葉を聞き、壱弥さんは重い口調で返事をする。
「気遣わせて悪いな。話終わったらすぐに連絡入れるから」
壱弥さんは私から目線を背けたまま、机上の万年筆を左手で拾い上げた。しかしその直後、筆は彼の指の隙間からするりと抜け落ち、床に転がった。
――やはり、今日の彼は少し変だ。
壱弥さんの左手が細かく震えている。同時に、痛みを堪えるような苦い表情で左腕を庇い、あからさまに私から視線を逸らした。
私は足元に転がったままの万年筆を手に取り、彼にも見えるようにそれを机に置いた。恐らく、私には見られたくなかった姿なのだろう。下手な言い訳の一つもせず、彼はただ気まずそうに私に小さく礼を告げた。
事務所の外に出ると、冷たい空気が肺をいっぱいに満たしてくれるような錯覚を覚えた。今日の彼の周囲は息苦しい。きっとそれは彼も同じはずだ。私がいると、大事なことに集中できないのだろう。
沈んでいく太陽に代わって、雲間から顔を出した白い月が、町に清かな光を落としていた。
扉の前に続く庭を抜け、事務所前の小路へと足を踏み出す。そして、神宮道に向かって歩き始めようとしたその時だった。視界の片隅で、ゆらりと影が揺らぐ。
揺れる月影に目を向けると、そこには栞那さんの姿があった。
右手には閉じた藍色の傘を握り、ぼんやりと虚ろな瞳で私の姿を見つめている。
「栞那さん……? どうされましたか?」
妙な感覚を覚え、私は彼女に問いかけた。
「ナラちゃんも私を騙してたんやね……」
彼女が呟く言葉の意味がよくわからない。
「どういう意味ですか……?」
「私の邪魔してるんやろ? それとも、初めからあの人に近付くつもりやったん? 私が見てへんと思て、二人で楽しそうにして」
そこで、漸く彼女の言葉を理解した。
恐らくは今日、椿木屋で望さんと話をしていたことを言及しているのだ。まさかあの時、どこかから彼女が見ていたということなのだろうか。私は大きく首を横に振る。
「違います。私は望さんに調査の一貫で話を伺ってただけで」
「そんなんで私を騙せると思う?」
いくら真実を伝えようと声を上げても、彼女は私の言葉を受け取ろうとはしなかった。
彼女の瞳は、憎しみの炎を絶やすことなく私を睨み付ける。
「……お願いやから、もうあの人に近付かんとって。今すぐ私たちの前から消えて」
「栞那さん、落ち着いてください……!」
ゆっくりと近づいてくる彼女の足音が、耳元で鳴く声のように、生々しく鼓膜を振動させる。
そして、彼女は携えていた藍色の傘を頭上へと振り上げた。
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