第19話 初恋は美しく咲く


 眠たい目を擦りながら居間に降りると、朝の天気予報が背景音楽のように静かに流れていた。太平洋を北上していた台風は関東沖を這う様に進み、昨晩から明け方にかけて千葉県と茨城県に大雨をもたらしたそうだ。

 京都市内は曇り。昨日よりは僅かながらに涼しく感じられるものの、気温は変わらず三十度を越える。紡がれる予報によると雨は降らず、午後には柔らかい日差しが還るようだった。

 涼やかな風が吹き込む食卓には母が作った朝食が並んでおり、そこに可愛い水玉柄の蠅帳が被せられていた。耳を澄ましてみると、開け放たれた窓の向こうから洗濯物を伸ばす音が微かに届く。控えめに馳せる蝉の声が、体感温度を上昇させ、長閑な夏の朝を暑く塗りつぶしていくようだった。

 約束の時刻まではあと二時間。午前十時には西陣にしじんにある古書店を訪問することになっている。その場所には一体どんな秘密が潜んでいるのだろう。古書の記憶を紐解く手掛かりに、上手く触れることは出来るだろうか。ほんの少しの期待と憂いが入り交じる。

 私は傍らの鞄から預かっていた古書を取り出した。

 甘い匂いと、指先を刺激する紙の感触。褪せたセピア色の表紙を開くと、優しい初恋の記憶が泉のように溢れ出す。初めて出会った日に、初めて抱いた感情。ひとつ言葉を交わす度に、思い初む彼の心が確かに息づいていく。その生々しい感覚に、胸が早鐘を打った。

 きっとこれは贈り主である男性の密やかな恋心なのだ。

 ──この想いを必ず繋げたい。

 私は本を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。


 「吉野書房よしのしょぼう」は、千本通から少し入った袋小路にある、昔馴染みの京町家である。とりわけ大きい書店ではなく、常に流行っているわけでもない。しかし、京の町に似合った趣のある店の景色とその品揃えに、一部の収集家たちからは絶大な支持を得ているという。光を取り込む窓すらも覆い隠す繊細な京格子と、一文字瓦が作り出すいらかの波。それが、美しい京都の景観を魅せるようであった。

 懐かしさを思わせる格子扉の前には、書店であることを主張する看板が設置されている。その扉を右に引いた途端、涼しい空気が小波のように押し寄せ、全身を包み込んだ。

 様子を窺いながら跨いだ先には、目を見開くほどの別世界が広がっていた。

 壁一面を埋める本棚には大小様々な古書が隅々まで納められている。見渡すと本棚のいたるところに古い絵画が嵌め込まれ、点々と置かれたランプが光を灯し、脚光を当てたようにぼんやりと映し出す。その神秘的な光景に心を奪い取られ、呼吸をすることさえも忘れてしまうかの如く、ただその場で立ち尽くしていた。

「いらっしゃい」

 唐突に紡がれた言葉に、視界の片隅で動く人影を追視する。すると、パチリと灯された天井の電球がその姿を鮮明に照らし出した。

 白いシャツを着た男性が、両手で古書を抱えながらゆっくりと近づいて来る。さらりと揺れる短いこげ茶色の髪と、やや幼さの残る顔立ち。その姿には見覚えがあった。

あさひさん!」

 その名を呼ぶと、彼は少年のような笑顔を見せた。

「約束の時間ぴったりやね」

 旭さんは手にしていた古書を座敷に置き、左手の腕時計を覗きながら穏やかな声で告げる。その言葉を聞いて、漸く私は彼がこの古書店の店主であるのだと理解した。

「ここ、旭さんの本屋さんやったんですね」

「聞いてへんかったんや? 僕の店って言っても継いだばっかりやから名前だけやけどね」

 そう控えめに笑う旭さんは、あの古本まつりで出会った時よりも落ち着いた空気を纏っているように感じられる。座敷に座るようにと私に告げると、彼はきっちりと畳まれた黒いエプロンを手に取った。

 靴を履いたままベンチのように腰を下ろせる座敷は、読書をするために設けられているのだろうか。そこには和座布団が敷かれ、とても居心地のよい場所であった。

「そういえば先輩も一緒やと思ってたけど、ナラちゃん一人?」

 纏ったエプロンの紐を後ろで結びながら私に問いかける。

「はい、壱弥いちやさんは急用で」

「そっかぁ、残念やけど仕方ないなぁ」

 そう、わざとらしくがっかりと肩を落とす素振りを見せてはいたが、旭さんは直ぐに顔を上げた。

「まぁそれは置いといて、例の古書は持ってきてる?」

 然も当たり前のように紡がれる言葉に、私は疑問を抱きながらも頷いた。

 旭さんが古書のことを知っている理由を考えると、やはり壱弥さんが事前に伝えていたというのが正しいのだろう。彼は「一人で古書についての調査をするように」と私に告げた。しかしその言葉さえもまやかしで、この調査が彼の手に掛かったものなのだと改めて気付かされる。それも、彼なりの優しさの表れなのかもしれない。

 そう思いながら、私は鞄に仕舞っていた古書を取り出すと、ゆっくりと目の前の彼に差し出した。それを受け取った旭さんは、私の左隣に腰を下ろす。

「うん、保存状態はすごい良いね。きっと大事にしてくれとったんやろな」

 そう、慈しむような瞳で表紙を優しく撫でる。そして、指腹で紙の質感を確かめ、糊付けされた小口を見つめながらぱらぱらと本文を捲ると、最後に裏表紙を開いた。そこにはあの雪輪桜文ゆきわさくらもんが刻まれている。それを目に映した旭さんは、特に変わった反応を示さないまま静かに本を閉じた。

「ありがとう」

 ただそれだけを告げて返された古書を受け取ると、旭さんは運んできた数冊の古書を私達の間に移動させた。その表紙は少し埃っぽく、焼けた紙の色が長い時間の経過を物語る。

「これは……?」

 私の問いかけににっこりと微笑むと、彼は積み重ねられた本の山を上から順番に崩していく。そして、ある一冊の前で手を止めた。

 その古書を前に、私は固唾を呑んだ。

 手の中のものと同じ、セピア色の表紙。記される滑らかな草書体。美しい装丁。その全てが重なっていく。

「この本は僕の祖父が書いたやつやねん。全部持ってきて正解やったね」

 旭さんは拾い上げた古書の裏表紙を開くと、それを私の膝の上に置いた。

「持ってきて貰ったそれも、間違いなく祖父が書いたものやよ」

 そこには確かに「雪輪桜文」があった。言い渡された事実と目の前の証拠に、私は勢いよく視線を上げ、旭さんの顔を見る。すると、彼は白い歯を見せて笑った。

「旭さんのお祖父さんの名前って……」

 漸く見出した答えを前に、無意識に声が震える。

「祖父の名前は『吉野真貴まき』、筆名は『まさたか』」

 その言葉を聞いた瞬間、私は手にしていた古書を抱きしめた。胸の鼓動が強く走っているのがよくわかる。それほどに、気持ちが昂っていた。

 やっと見つけたのだ。――美すずさんの初恋の人を。

 早く会わせてあげたい。その一心で真貴まきさんの所在を尋ねようとした時、遮るようにからからと入口の扉が開いた。

「いらっしゃいませ」

 滑らかに立ち上がる旭さんを目で追いかけると、彼は申し訳なさそうな表情で私に謝罪する。

「ちょっとだけ、その本読んで待っててくれる?」

 元より旭さんは仕事中なのだ。お客さんが来たのであればその対応をするのは当然のことであり、私はゆっくりと頷いた。

「旭、親父さんはおらんのか」

「はいはい、今すぐご案内しますー」

 すると彼は常連客であろう男性を連れ、暗い書店の奥へと姿を消した。

 音のない店内で、旭さんから借りた古書をじっくりと眺めてみる。改めて見ても、その外装はやはり美すずさんの古書と全く同じものであった。他の古書とは異なる装丁であるゆえ、その二冊には何らかの関係があるのだろう。

 しっとりとした静寂の中で、私はその表紙に触れた。

「美しく咲く花の如く……」

 草書体で記されたそのタイトルを小さく読み上げた途端、ふと頭の中で記憶が過るような既視感を抱いた。何処かで聞いたことのあるフレーズに、思い返してみる。しかし、それが一体どの記憶であるのかは分からなかった。


 表紙を開くと、そこには儚い世界が広がっていた。

 遠い昔に再会を約束した男女が、女性の政略結婚を機に、すれ違ったまま歳を重ねていく物語だ。男性は彼女の祝言を喜ばしいと思いながらも、心のどこかで彼女を忘れることが出来ず、何度も彼女の近くに足を運んでいた。しかし彼女の幸せな姿を目にしたことで、漸く彼は抱えていた悲しみを捨てることを決意する。彼女が今の幸せを後悔しないようにと。

 初恋の花は咲かなかった。けれど、彼らはその美しい花を胸に抱えながら別の道をゆっくり進んでいく。いつか、綺麗な思い出として鮮やかに花開くことを夢に見ながら、確かな足取りで歩んでいくのだった。

 私は本文を読み進めながらゆっくりとページを捲る。その時、一枚の紙が本の間に挟まっていることに気がついた。ゆっくりと表返すと、それは古い写真であった。白黒写真ではないものの、色数は少なく全体的やや褪せているところを見ると、随分と歳月を経たものであるということがわかる。

 その写真に写っているのは誰なのだろうか。広く背景を切り取られた写真は、被写体が小さくはっきりと顔が認識できない。

 じっくりと目を凝らしながら見つめていると、席を外していた旭さんの明るい声が頭上で響いた。掛けられた声にはっと顔を上げると、旭さんが冷たい飲み物の入ったグラスを差し出していた。膝の上に古書と写真を残したまま、私は両手でその冷えたグラスを受け取る。

「ごめんなぁ、話の途中で」

 そう、彼は眉を下げた。

「お仕事は大丈夫なんですか?」

「うん、平日の午前中は暇なことが多いから大丈夫やよ」

 旭さんはゆったりとした口調で応え、再度私の隣に着座する。そして、エプロンのポケットから取り出した木製のコースターを座敷に二つ並べ、手にしていたもう一つのグラスをそこに置いた。鮮やかな橙色の紅茶が、浮かぶ氷と共にからりと揺れる。

「それに、祖父について聞いて欲しいこともいっぱいあるからね」

 彼は優しくも無邪気な笑顔でそう告げた。

 旭さんは沢山のことを教えてくれた。一つ一つを懐古するように。

 「吉野書房」は元は祖父・真貴まきさんの伯父にあたる人物が経営していた書店であったこと。夏の盆の時期にだけ、図書館の図書修理を手伝いに京都を訪れていたこと。彼が奈良県に住んでいたこと。

 繋がっていく物語に、私はずっと心を高鳴らせていた。


 バスが来るまでの間、古書についての簡単な報告を記したメッセージを壱弥さんに送信すると、五分もしないうちに返信があった。指定された待ち合わせ場所は大学に併設する救急病院。そこに、美咲みさきさんたちと一緒に居るということなのだろう。指定を受けた場所に向かうため、私は千本出水の停留所より201系統バスに乗り込んだ。

 病院のエントランスを潜ると同時に、明るい景色が全面に広がった。抜けるように高い天井に、光を跳ね返す白いフロアタイル。その広い空間を、大勢の人が行き交っている。平日は様々な診療科の外来診察が行われており、総合受付はその患者や家族で溢れ返っていた。

 壱弥さんが指定をしたのは、正面玄関を入ってすぐ右手に広がる休憩スペースだった。足を休めるためのカフェの前には、机と椅子が並んでいる。丁度昼食の時間と重なっているためなのか、その場所にもたくさんの人が集まっていた。

 見落としの無いように壱弥さんの姿を探していく。しかし、一通り見回してみても彼はどこにも居なかった。新しいメッセージが届いていない事を考えると、未だ壱弥さんはこの場所にやってきていないという事だろう。

 一先ず休憩をしようとエスカレーターの前を横切った時、その脇で佇む壱弥さんの後ろ姿が目に飛び込んで来た。流れるような黒髪に、すらりと伸びる長い脚。その森に溶け込めそうな何とも言えないアースカラーの私服が、彼と判断するためには十分すぎる特徴である。

 ゆっくりと近くに歩み寄ると、彼が誰かと会話をしていることに気付く。透き通るような女声、腿を覆い隠す白衣。見かけたことのない、長い髪の綺麗な大人の女性。その姿を認識した瞬間、反射的に私は観葉樹の陰に身を潜めていた。続く会話を見ると、幸いにも二人には気付かれていないのだろう。見てはいけないものを見てしまったような罪悪感を抱きながら、息を殺す。

「それで、お兄さんにでも会いに来たん?」

「いや、知人の見舞いや」

 さらりと紡がれる言葉を耳にした彼女は、わざとらしく小さな溜め息を吐いた。

「先に来るって言ってくれとったら、ちゃんと喋る時間作ったのになぁ」

「急な事やったんやよ」

「そっかぁ、調子はいいの?」

 彼女の問いかけに頷きながらも、彼は左手首を庇うように右手を添える。その動作を目で追っていた彼女は案ずるような表情を見せていた。

「まだ痛む?」

「……時々な」

 低い声で呟いた壱弥さんは、彼女の目を避けるように両腕を組んだ。明らかに視線を彼女から外しながら、重い声音で言葉を続けていく。

「経過的には治ってるんやろうし、気持ちの問題やと思う。ゲンシツウみたいなもんやろ」

「……うん、ちゃんと分かってるだけでも凄いことやね。偉い偉い」

 僅かな間を置いて、その空気を破るように彼女は明るい声で壱弥さんの言葉を肯定した。それを聞いた壱弥さんは、ふっと表情を緩め穏やかな声で笑う。

「ありがとうな、あずさ

「ううん、もし何かあったらいつでも連絡してな、春瀬くん」

 そう言葉を残すと彼女は柔らかく白衣を翻し、私の前を通り過ぎていった。ふわりと風に乗って届いた甘い香水のような香りに、心臓を貫かれたような衝撃が走る。

 ――この甘い香りを、私は知っている。何度も彼の周りで感じたことのある、魅惑的な女性の香り。

 脳裏で繰り返される女性の名を呼ぶ彼の声と、その意識を劈くような香りに私は揺れるような眩暈感を覚えていた。

 突如、鞄の中のスマートフォンが振動する。はっとして壱弥さんを見遣ると、彼はケースを着けていないシンプルなスマートフォンを後ろのポケットに押し込め、ゆっくりと歩き始めるところだった。踵を返し、私の隠れている方向とは反対に向かって歩いていく。その姿を見送り、私はほっと胸を撫でおろした。

 待ち合わせの場所に戻る途中、私は先程の二人の会話の意味を頭の中でじっくりと考えていた。梓さんという白衣を着た女性は恐らくこの病院の医師か、コメディカルだろう。彼女が壱弥さんに向かって「調子はどうか」と尋ねた点を考えれば、壱弥さんが不調であった時のことを知っているということになる。その不調とは何か。間違いなく庇っていた左手のことだろう。

 ふと、過去の記憶を思い出す。確か彼の左腕には古い傷があった。何か鋭いもので切ったような綺麗な傷痕だったはずだ。新しいものではない。それなのに、それが未だに彼を苦しめているというのか。そして、彼が溢していた「ゲンシツウ」とは何を指しているのだろう。様々な疑問が渦を巻いていく。

 ぼんやりと考え込んでいると、傍らから私の名を呼ぶ声が耳を抜けた。

「ナラ、こっちや」

 目を向けた先には壱弥さんの姿があった。何事もなかったように彼は柔らかい表情で告げる。

「すいません、遅なりました」

「ええよ、一人で行かせて悪かったな。おつかれさん」

 そう、珍しく優しい言葉を発する壱弥さんは少し不気味に感じられる。私たちは近くのカフェで軽食を頼んだあと、空いていた席に着いた。

 目の前でアイスコーヒーを啜る壱弥さんの顔を見る。その表情はいつも通りの余裕を携えた端正な顔で、とても痛みを隠しているようには思えない。

 直接問いかけるのも野暮なことだろうと、私はその疑問を掻き消した。

 握りしめたフォークでチーズケーキを切り分けると、その小片の一つに突き立てる。

「旭に話は聞けたか?」

「はい」

 貫いた甘いケーキが舌の上で蕩けていくように、壱弥さんは柔らかく甘い表情で笑う。

「そしたらその話、俺にも聞かせてくれるか」

 私は頷いた。

 同時に、今は他の事を気にかける暇などないことに気付く。今、大切なのは目の前にあるこの依頼だけ。

 ──私がすべてを伝えなければならないのだ。美すずさんの初恋の人について、旭さんから受け取った大事な記憶の欠片を。



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