第18話 忘れていく


 短夜の虫たちが抑揚もなく鳴き声を上げていた。

 夜の帳が下りてから、どれくらいの時間を彷徨い歩いていたのだろう。

 すずさんの息は乱れ、呼吸をする度に肩を小さく揺らしている。腰を屈めながら進む足取りは鈍く、足を引きずるようにも見えるその様は、彼女の体調が優れないことを悟らせた。

 胸騒ぎを覚えた私はすぐに自転車を降り、暗闇を進む美すずさんに声を掛けた。

「美すずさん」

 車道を走る光が、振り返る彼女の顔を強く照らし出す。逆光が止み、私の姿を目に写した美すずさんは、まるで知らないものを見るような瞳を私に向けた。

 昨日言葉を交わしたばかりだというのに、私のことなど記憶から消え失せてしまったのだろうか。忘れられてしまった事実に少し虚しい気持ちを抱きながら会釈をすると、先程までの表情が嘘であったかのように、彼女は柔らかい声で孫娘の名を呼んだ。

美咲みさきちゃん、こんな夜中に危ないやないの」

 優しい祖母の顔で、彼女は私に告げる。それに答えようと口を開くも、私の言葉を遮るように唐突に美すずさんは小さな咳をした。こんな季節に風邪でも引いてしまったのだろうか。苦しそうに揺れる背中をさすりながら、私は彼女に声を掛ける。

「少し休みましょう」

 しかし、美すずさんは静かに首を横に振った。

「ええの、探偵さんに会いにいかなあかんから」

 彼女は両手で匿うように握り締めていた紙切れに視線を向ける。壊れものを扱うように丁寧に抱えられたそれは、昨日手渡したばかりの壱弥いちやさんの名刺だった。その裏面には、きっちりと美咲さんの書いた文字が記されている。

 美すずさんは名刺を確認すると、再度大事に両手に抱え込んだ。

「でも、調子悪そうですし」

「おおきにね、ナラちゃん」

 そう、今度はしっかりと私の名前を呼んだ。呼吸を整えた美すずさんは、私の制止を振り切って前に進んでいく。本来であれば、事務所へ向かうためには百万遍ひゃくまんべんの交差点を折れ、東大路通ひがしおおじどおりを南へ下がっていかなければならない。しかし、交差点はとうに過ぎ、丁度白川疎水にぶつかる辺りにまで進んでいる状態であった。

 どうして彼女はこんな時間に壱弥さんに会いに行こうと思ったのだろう。手に握った名刺の文字を見れば、壱弥さんが古書を預かっているということは分かるはずだ。それなのに、敢えて彼を訪ねなければならない理由があるというのだろうか。

 私は鞄からスマートフォンを取り出し、通話履歴の中にある壱弥さんを呼び出した。それを耳に宛がいながら、美すずさんの側に走り寄る。

『なんや』

「あ、もしもし壱弥さん。今時間ある?」

『あぁ、大丈夫やけど』

 壱弥さんはいつもと変わらない気の緩んだ口調で応答する。

 しかし、後ろで聞こえる美すずさんの咳に気が付いたのか、低く探るような声で問いかけた。

『誰かと一緒なんか?』

「うん、帰りに美すずさんに会ったんです。話聞いたら今から壱弥さんのところに行こうとしてはるみたいで」

『……古書のことか』

「多分」

 疑問の色を浮かべながら呟く彼の言葉を肯定する。

 ゆっくりとした歩みで進んでいく美すずさんの背中を追いかけながら、壱弥さんの声に耳を傾ける。

『今どこや?』

「今出川通の疎水のとこらへん」

 周囲を見渡しながら告げると、目の前を歩いていた美すずさんが唐突に足を止めた。そしてまた小さな咳を繰り返したと思った途端、足元をふらつかせ体勢を崩す。

「あっ!」

 言葉にならない声を上げながら反射的に彼女の腕を掴んだ代わりに、握っていたスマートフォンが鋭い音を立てて地面に落下した。構わずに転びそうになる美すずさんの身体を抱き止める。すると、美すずさんは私の両手をすり抜け、崩れるように地面に座り込んだ。

「大丈夫ですか」

 しゃがみ込んで美すずさんに声を掛ける。変わらず息を切らせた彼女は、ゆっくりと頷いた。

「おおきにね」

 柔らかく紡がれる言葉を聞き、彼女に怪我がない事を確認すると、私は安堵の息を吐いた。彼女は自分の足で立ち上がる。しかしその疲弊した様子を見る限り、家まで歩いて帰ることは困難だと感じられた。

 手を引くように、道の脇にある階段へと誘導すると、彼女はそこにゆっくりと腰を下ろす。

 私は自転車のある歩道に戻り、光を灯したまま地面に転がるスマートフォンを拾い上げ、電話の向こうの彼に謝罪をした。

「ごめん、壱弥さん。凄い音したやろ」

『いや、それはええけど今どういう状況や?』

 心配そうに紡ぐ壱弥さんの質問に、私は簡潔に状況を説明していった。それを理解した壱弥さんは、直ぐに私たちを迎えに行くと告げた。

 十分もしないうちに彼の白い車が私たちの座る階段の前でハザードランプを点し、停車した。運転席を降りた壱弥さんがこちらに走り寄ってくると、私たちは彼女を車に乗せて、常盤ときわ家を目指していった。


 到着した家の前には不安に満ちた表情で立ち尽くす美咲さんの姿があった。恐らくは、壱弥さんが連絡を入れていたのだろう。彼は美すずさんの手を取り、車から降りる身体をしっかりと支える。

「お祖母ちゃん」

 祖母の姿を確認した美咲さんが泣きそうな声で駆け寄ると、美すずさんは眉を下げた顔で柔らかく微笑んだ。

「美咲ちゃん、ごめんね」

「ううん、早く中で休もう」

 壱弥さんに代わって祖母の手を取った美咲さんは、ゆっくりと歩み出す。そして、私たちに向かって小さく頭を下げた。

「お二人もありがとうございます、少しだけお時間を頂けませんか」

 その言葉に従い、彼女の後を追うように私たちは常盤家へと足を踏み入れた。

 そこは変わらず静かな空間であった。等間隔に進む壁掛け時計の秒針が、静寂の中で一定のリズムを刻んでいる。生活音のない部屋が、私たちの他に誰もいないということを示しているようだった。

 書斎のソファーに祖母を座らせた美咲さんは、私たちを昨日と同じ客間へと誘導する。しかし、壱弥さんはそれを断った。

「少しお祖母様の様子を見せてください」

 そう、彼は美すずさんの前で膝を折る。滞りのない手つきで彼女の手首に指を添え脈拍を触知したあと、直ぐに足の痛みや関節の動きを確認していく。その様がまるでお医者さんのようで、彼の兄と重なるようなどこか不思議な感覚を抱かせた。

 壱弥さんは立ち上がる。

「どこもお怪我はされてないようですね。でも、今日はゆっくり休んでください」

 安心させるように微笑みながら紡がれるその言葉に、美すずさんは淑やかに頭を下げた。

「それでは、僕たちはこれで」

 一礼をした壱弥さんは、滑らかな足取りで書斎を後にした。

 居間に入ると、直ぐに彼は美咲さんに視線を向けた。それに気付いた彼女は狼狽えた様子で一歩足を引く。

「お祖母様は、心臓が悪いってことは?」

「……確か、二年くらい前に心筋梗塞で入院してたことはあります」

 僅かな間を置いて、壱弥さんは口を開く。

「……もしかすると心臓が弱ってるんかもしれんな」

「え?」

 私は思わず声を上げた。咳を繰り返していた様子を見ると、風邪でも引いてしまったものだとばかり思っていた。壱弥さんの予想外の言葉に、美咲さんは目を泳がせる。

「頻脈と湿性咳嗽、労作時の呼吸苦に喘鳴、軽度の浮腫。全部心臓の症状や」

 端的に紡がれる推理を聞くと、それが的確であるように感じてしまう。

 動揺を隠せないまま、美咲さんは握りしめた手で口元を隠し、震える声で口を開く。

「それって、私、どうしたら……」

「まぁこれも俺の憶測でしかないから、明日早めにかかりつけ医に診てもらった方がええと思う」

「……わかりました」

 そう、弱弱しい声で美咲さんは頷いた。それでも、不安を拭いきれない表情のまま視線を落とす。その感情を掬うように、壱弥さんは再度問いかけた。

「ご両親は仕事?」

「はい、父は今は海外出張中なんです。……母は居ません」

 やはり、この家にはたった二人しか居ないということなのだろう。美咲さんの言葉を聞くと、その事実も頷けるものだった。

 それでも、彼女はまだ高校生だ。幼さの残る少女は、どれだけの不安を抱えながら今日までを過ごしてきたのだろう。祖母の様子が少しずつ変わっていく事実に、恐ろしいと感じていたはずだ。誰にも頼ることが出来ず、その不安と恐怖を一人で抱え込んでしまっていたのだろうか。

「一人で辛かったね」

 私がそう美咲さんに声を掛けると、彼女はゆっくりと頷き、ぽろぽろと涙を零し始めた。

「ごめんなさい、お二人を困らせるつもりはないんです……。ただ、もしお祖母ちゃんに何かあったらって思たら怖くて」

 その台詞と意思に反して溢れ出す涙を手の甲で拭いながら、声を漏らす。その涙が止むまでと、私は彼女の隣に座り、静かに背中を撫でた。

 ほんの少しの時間で落ち着きを取り戻した美咲さんは、深呼吸をすると静かに顔を上げた。

「――母は、私が生まれた時に亡くなってしもて、父は仕事で家におらんことが多かったから、私のこと育ててくれたんはお祖母ちゃんやったんです」

 そう、大切なものを思い出すように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「今までずっとお祖母ちゃんに色んなものを貰ってきたのに、私はなんもしてあげられてへんから……今、お祖母ちゃんが元気なうちに、まさたかさんに会わせてあげたいって思ったんです」

 何も返す事が出来ないから、せめて祖母の願いだけでも叶えてあげたい、後悔を残さないように、と。生気を蓄えた瞳で、美咲さんは確かに祈っていた。

「私の名前、お祖母ちゃんが付けてくれたんです。春に強く美しく咲く花のように、って」

「綺麗な名前やよね」

「ありがとうございます」

 私が告げると、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。

 しかし、同時に言葉は陰る。

「でも、その名前さえもお祖母ちゃんに忘れられてしまうかもしれへんって思ったら、自分の無力さが悔しくて」

 彼女は成す術もなくじっと見つめていた。祖母の記憶が蝕まれていく様を。思い出さえ、初めから無かったことになってしまうのではないかと慄いた。

 祖母がくれた名前を、祖母に忘れられてしまう。それほど恐ろしいことはないだろう。

「多分、お祖母ちゃんも自分が色んなことを忘れてしまうって、わかってるんやと思います。……やから、春瀬さんに会いに行こうとしたんやないかって思うんです」

 その言葉に、壱弥さんは視線を上げた。

「そうか、美すずさんは俺が古書を持ってること自体は憶えてはったんや」

 それは恐らく私が美すずさんに会った際に抱いた疑問の答えなのだろう。しかし、その独り言のような台詞だけでは理解が出来ない。

「どういう意味ですか?」

 私は、難しい顔で口元に手を添える壱弥さんに問いかける。

「つまり、美すずさんが確認したかったんは、俺が古書を持ってる事実やなくて、古書そのものやったってことや。――初恋の人の存在を忘れてしまわんように」

 穏やかに紡がれる言葉と共に、美すずさんの抱いていた感情が解かれていくようだった。

 美咲さんは静かに告げる。

 美すずさんは、まさたかさんの顔をはっきりと覚えていないのだと。考えてみれば無理もない事なのかもしれない。六十年も昔に出会ったきりの人なのだ。それだけの歳月を重ねれば、大切な人の面差しでさえも、少しずつ褪せてしまうものなのだろう。

 人は誰かを忘れるとき、声から失っていくそうだ。声を忘れ、顔を忘れ、最後には思い出だけが残る。それと同じように、美すずさんの中に残る彼の姿も、ぼんやりとした思い出だけの存在なのかもしれない。そしてその曖昧な記憶さえも病に蝕まれ、緩やかに欠け落ちていく。いつか彼の存在自体を忘れてしまうのではないか。そう恐れた彼女は、初恋の思い出が強く宿る古書に触れたいと願ったのだろう。

 美咲さんは、また泣き出しそうな表情で壱弥さんを見遣る。

「――だから、お願いします。お祖母ちゃんがまさたかさんの事を憶えてるうちに、願いを叶えてあげてください」

 そう、震える声で呟くと、強く深く頭を下げた。その頭を優しく撫でながら、壱弥さんは口元を和らげる。

「あぁ、勿論やよ。俺が絶対に二人の願いを叶えたるから」

 その声は強かに響き渡った。


 生温い風を受けながら乗り込んだ彼の車が、御蔭通みかげどおりを東へ進んでいく。下鴨から北白川まではほんの僅かな距離であり、彼と言葉を交わす間もなく自宅へと辿り着いた。

 車を停止させると、壱弥さんは私を一瞥する。

「遅なってごめんな」

「いえ」

 とんでもない、と首を振ると彼は小さく微笑んだ。

「明日、俺は美咲ちゃんと一緒に美すずさんを病院に連れてくから、ナラは一人で『吉野書房よしのしょぼう』に行って、古書のこと調べて来てくれるか」

「えっ、一人で?」

 手渡されたその台詞に、私は聞き返す。

「あぁ。彼女だけやと移動手段も無いし、何かあった時のこと考えたら俺が付いてく方が安心やろ」

 確かに、壱弥さんの言い分は間違いではない。不安に押し潰されそうな少女の顔を思い返せば、一応大人である壱弥さんが付き添うことに異論はない。寧ろ、是非そうして欲しいと願う程だ。

 それでも私が素直に返事を返せなかったのは、調査に対する責任の重さを感じていたからであった。そんな大事な調査を私が一人で行う意味はあるのだろうか。そんな責任逃れな考えばかりが浮かぶ。

 うんと考え込んでいると、壱弥さんは真剣な表情で私の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。

「時間がないかもしれへんから、できるだけ早く解決したいんや」

 その台詞は痛い程に突き刺さった。

 時間がない。それはきっと美すずさんの事を言っているのだろう。

「わかりました」

 覚悟を決め、強く光を放つ琥珀色の瞳を見つめながら頷くと、彼はにやりと笑った。その瞬間、私は彼の策略に嵌ってしまったのだと気付く。

「まぁ、早速助手として働いてもらうのは心苦しいんやけどな」

「絶対思ってへんやん」

 悪戯を企むような表情を前に即座に突っ込みを入れると、壱弥さんはまたにんまりと笑みを携えた。



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