-Chapter1-

TECHNOLOGY

「お邪魔しちゃいまして、ごめんなさいねえ。ではでは、引き続き璃々亜と御歓談してくださいー」

 二人分の湯呑を持ってきてくれた松菜さんは、朗らかな様子で退出した。

 対蹠的に、僕達二人の間にはピリピリとした緊張の糸が張りつめていた。彼女が着席しているデスクの左傍にあるソファーに腰かけたものの、生憎、歓談どころか声すら安易に発せられない。

 程良い温度の茶を啜り、冷えた指先を温め、来客室に布置されてあるような四角いテーブルに用意されてあったコースターに湯呑を添えて、まじまじと彼女の表情を見た。温和と困惑が混淆したような、微妙な感情を露わにしていた。

「……何処からどう話そうか、迷ってしまいますね」

 それは僕の台詞だった。招待された側も、話の切り出し方に倦んでいるのだ。

「単刀直入に本題をお教えいただけますでしょうか。三日前に出版社へ届いたあの手紙があったからこそ、僕は此処にいるのです」

 対話に於ける正しい導入だったかどうかは怪しい。雑談を交えてから本線に入るべきだったとも悔悟し得るが、結句僕は最短ルートを選択した。たすき掛けで所持していたショルダーバッグより取り出した一枚の手紙を、確認を兼ねてその差出人に提示した。

『突然の御手紙で申し訳ございません。作家・アトウイオリ様が現状、作風の変更に酷く苛んでいることを風の噂でお聞きしまして、その支援を私の情報科学研究でさせていただきたく、お願い申し上げます。詳しくは当研究所にて』

 本文の下には電話番号と、S市内の住所、それと増井璃々亜の署名があった。非常に簡潔であり、研究の詳らかな内容と意図を知りたくなる文面だった。

「変な悪戯だと見做せられなくもないですが、僕は貴女の本心を確かめることに価値があると思えました」

「と、云いますと?」

「小説家として大きな壁に阻まれている実情は正に、増井さんの把握している通りであります。何故に世間へ公表していない創作活動の方針が流出してしまったのかは判りかねます。けど、僕がこの苦心をどうにかして解決しなければ、僕の活動経歴はデビュー作だけで終わってしまう危惧が募る以上、支援となる研究に助けを請う所存です」

 本音を打ち明けると、彼女は頬の筋肉を緩めて陰影を取り払った。

「では、私の依頼に応じてくれる、ということですか」

「まあ、増井さんが理工学でどうやって文学に協力してくれるのか、という話にも依りますが」

「其点はお任せ下さい。情報科学研究者のリザルトが有効に活用されることでしょう」

 凛乎たる面持ちで断言し得るその背景も窺いたいところだが、第一に彼女の素性をはっきりとさせておくべきか。

「増井さんってお若い方ですけど、研究者なんですか?」

「大学生という身分ですが、計測工学研究者である父親の影響を受けて学んでおります。<ND-LILY>についてご存じでしょうか?」

 初耳の専門用語だった。首を横に振る。

「世間とは隔絶された小説家でありますので、専門範囲外の知識には頗る疎くてすみません」

 と謝ってから、僕は彼女に失礼な発言をしたのかもしれないという負い目を懐いた。<ND-LILY>とは、彼女の父親である研究者が発表した科学技術の一欠片なのだろうか。であれば、僕の態度は増井家の矜持に傷を附けたことになる。

「ご存じで無ければ、それはそれで構いません。本題とは脱線した話ですので」

 杞憂だったのか、彼女は穏やかなままだった。あまり不躾な言葉を使わないよう心掛け、話の道筋を順々に辿って行く。

「そうですか。それで増井さん……先程おっしゃいましたシュルレアル……何とかの件ですが、一体どういうことでしょうか? 情報科学が僕の創作活動に何を齎してくれるのですか?」

「《Surreal Character Transfer Engine》のことですね。早速起動してみたいところですが……再確認としまして、イオリさんはデビュー作である『三位一体なる冥園』の続編をライトノベル調に執筆する計画を立てられていますよね?」

「計画と云うよりは、編集者側の強制ですが……僕の内情に随分詳しいのは何故でしょう?」

「風の噂です」

 釈然としないが、取り敢えず其方の穿鑿せんさくは見逃してあげよう。

「で、繰り返しになりますが理工学と文学の繋ぎ合わせとは?」

「自動的文体翻訳のプログラム……超現実文字転写機構に依って、イオリさんの純文学作品をライトノベル性に満ち溢れた作品へとリメイクいたします」

 超現実、というワードがイメージの手掛かりとなった。シュルレアリスム的な要素も孕んでいるのか?

「その超現実文字転写機構の英訳が、《Surreal Character Transfer Engine》ってことですか」

「はい。通称<SCTE>であります。具体的なリライト手順としまして、予め基盤となるシステム設定が為された情報機器に、リライト対象となる小説作品のデータを取り込む必要があります」

 至って真面目な口調であった。何処まで信用できるのか見定める必要はまだまだあるが、今のところ研究者様の言葉には揶揄を感ぜられない。

 増井璃々亜という女の子を試す傲慢な意味合いもあったのか、彼女の研究に首を突っ込むことを僕は決意し、バッグに入れてあったリムーバブルディスクを指先で挟んだ。

「それは?」

「『三位一体なる冥園』の続編がtxtファイルで入っています。ライトノベルの文体への適合をどうしても受け入れられなかったので、文体は純文学其物です」

「グッドタイミングです。拝読しても?」

 僕は頷いて立ち上がり、リムーバブルディスクを手渡しした。

「劈頭から原稿用紙十五枚分程度のボリュームしかありませんが、そのプログラムに適用されますか?」

「問題ありません。小説の文型であると機械側で認識し、四千字以上の分量を守っていればリライト可能です」

 彼女は手慣れた動作でデスク上のパソコンを操作し、挿入したディスクより純文学への未練が残存した僕の作品を黙読した。


             ■    ■    ■


 (仮題) 続・三位一体なる冥園


 糞尿の混ざった泥濘に膝上迄漬かっているわたしは、後にもさきにもない危機を覚えていました。それは悪臭に打ちひしがれて嘔吐し、自身の吐瀉物を眼と鼻で感じて再び気持ち悪くなり今度は脱糞し、その肛門を押し拡げられる感覚に快楽を覚えては気絶し、うつ伏せで倒れては泥で窒息死してしまうおそれを示唆しているのです。何としてでも苦界より脱出しなければ、わたしは死んでしまいます。ただに、アナタハソコマデヤワジャナイワ、とIが語り掛けてくるのです。かぶりを振るわたしは、Iに反論しました。聞くに堪えない差別用語を口走った気もしますが、Iは恬然として笑っています。糞ガ原因デ死ヌクライナラ、自ラノ手デ扼殺シタホウガマシヨ。だから、そうならない為に私は此処から去りたいのです。マダワカラナイノ。何がですか。怯エル必要ナドナイカラ、ズット其処ニイナサイヨ。絶対に嫌です、と遮ってもわたしの脚は石像の如く硬直していました。

(中略)ようやく押し問答が終わり、わたしは大きな一歩を踏み出しました。二歩目で泥濘は生命力が充溢している草原に変化せられ、Iは晴天に拳を突き上げていました。


             ■    ■    ■

「ふむ……」

 彼女は眉根を寄せて、一度頷くだけだった。無理もない。合理的な物語性をかなぐり捨てた無意味な架空なのだから。

「イオリさんはどうして、こういったストーリーがお好きなのです?」

超現実主義シュルレアリスムの可能性に愛しているからです」

 だが、自分の気持ちに嘘はつけない。

「……その気持ち、大切にしてください。架空内のIさんも、続編でもキャスティングされて喜んでいるはずです」

「え? 僕の小説、御読みになられたのですか?」

「はい。逆にお聞きしますけど、そんなに意外なことですか? アトウイオリ様の小説はマイナーではなく、十万部は売れたではありませんか」

 であるにしても、彼女のような理系の人間が好むような作品ではないはずだ。

 現に……アトウイオリは同業者のみならず、そうした方々より猛烈に叱られた。自らの若さを盾にしたと咎められた。涙を流すほどに悔しかったが、反論の余地はなかったのだ。

「純粋に嬉しい御言葉をいただき、とても感謝しています。増井さんのような読者がいてくれるからこそ、僕はアトウイオリとの名前で小説を書かせてもらえるのだと実感しております」

 僕の感情が前面に染み出ていたようで、彼女は肩をビクッと震わせて少しばかり怯んでしまった。大げさな感激は時に他人を困らせてしまうが故に、自重するべきだった。

「……こ、こちらこそ。ああ、<SCTE>の起動へ……」

 微妙な間を置いて、彼女はパソコンの操作を再開した。データで提出したこの作品の感想も拝聴したいところだが、今は増井璃々亜の実験結果をこの目で確かめたい。

 人工知能がビックデータを用いて小説を書いたみたいな実績は昨今にあった。それもまた、彼女の研究に信頼を置ける要素の一つであろう。既存の小説をリメイクする技術も決して不可能ではない現代だ。

 デスクトップ上には黒い画面が表示されており、白のカーソルが点滅している。其処からどうなるのかと僕は見守っていたが、彼女はデスクの脇にあったカチューシャを装着した。

 いや、カチューシャではない。馬蹄型のそれは彼女の頭頂部ではなく額に沿うように嵌めつけられ、先端から伸び出ているコードがパソコンに接続されていた。

「<SCTE>用の脳波測定器です。『駆動者』である私の脳波と特殊形式言語を同時に組み入れて、恰も人間が執筆し直したような小説の最適自然化……自動文体更新転写との謂いであるオートリライトを行うプログラムになっております」

「人と科学の……融合ですか」

 驚嘆すべき技術であった。自分が時代を逆行した創作をしている間、世界は確実に突端を進んでいるのだ。サイエンス・フィクションのような小説じみた事象に、僕は羨望を表していた。

「文系の人間には到底想像のつかない世界が間近に迫っている……」 

 独り言のように僕が呟くと彼女は目尻を下げ、クリーム色のセーターに蔽われたなだらかな胸の丘に手を当てた。

「人間の弱さを補ってくれる科学が、イオリさんが限界だと思っていた世界より超出してくれることでしょう」

 絢爛たる希望の光で漲らせた彼女は、手早く何かしらのコマンド入力を行い、エンターキーを鳴らした。その数秒後、黒い画面に文章が表示されていた。

「此方の被転写体へのオートリライト出力が終わりました」

「――」

 音にならない空気が喉から漏れ、僕は唖然としていた。理由は二つ。<SCTE>に依るリメイク作業が一瞬であった驚きが一つ。

 そして、機械側で僕の小説を再構築してくれたその出来具合の衝撃が、一つ。


<SCTE-ND:0>

<Remake Transcription-Ⅰ>

 タイトル:めいえん!


「……あの……えーっと……」

 言葉を濁らせた俺、七々原リオはとてつもなく困っていた。

 何かって? そりゃ決まっているだろ。部室にて金髪ハーフと黒髪清楚な御嬢様に両腕を引っ張られて、綱引きの綱と化しているのさ。

「リオは私のモノなのー! ポッと出のヒロインは退場してようー!」

 右腕には金髪ハーフ……朝比奈ジュリアがギャーギャー喚いている。

「拙いヒロインは貴女のことでしょ? 勝手にリオを寝取らないでよ」

 左腕には御嬢様……夜宮アイカが冷たくジュリアをあしらっている。

 このままでは俺の右半身と左半身が無情にも裂かれ、サヨナラバイバイしてしまう。

 だ、か、ら、嫌だったんだよなあ。犬猿の仲であるこの二人を同じ部活に所属させるだなんて。誰か時間を巻き戻してくれないかなあ。ほら、今ってタイムリープ物が流行っているじゃん? 身体が入れ替わっちゃうやつとかさ。それなりの報酬を検討するから過去の美少女になりたいなあ。こんな二人じゃなくて世話のかからない美少女で頼むわ。でも美少女側の過去に行けても俺自身の過去はどうにもならないか。

「ねえ、リオはワタシと夜宮、どっちを直属の補佐にしたいのよう!?」

「そうね。ハッキリすべきね。朝比奈と私の優劣をつけなさい」

 鬼気迫る様子で二人は張力を更に強くした。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……。

「まずは人間綱引きをやめろよー!」

 俺の悲鳴が轟き、やっと二人は腕を放してくれたが口論は続いた。さて、どうなることやら……。

</SCTE-ND>

</Remake Transcription-Ⅰ>


「……………………………………………………何ですかこれは?」

 言葉通り、僕は膝から崩れ落ちた。机上に顎を乗っけている不作法極まりない姿勢であるが、一瞬にして力が抜けてしまった為仕方ないことなのだ。

「オートリライト後のイオリさんの小説です」

 訊きたいのはそういうことじゃあないのです。

「文体どころか、物語も変わっています。シュルレアリスムの欠片もありません」

 こういうライトノベル作品を俗に、ハーレム物と呼称せられるのだろうか。それにしても原型を留めていなさ過ぎだ。タイトルもよく判らない平仮名になっているし……一体Iは何処へ行ってしまったのですか、と僕は彼女を問い詰めた。

「あら、説明不足で失礼しました。<SCTE>には単純な文体転写の機能だけでなく、指定した小説ジャンルに見合ったストーリーラインの更新も行われます。超現実文字転写機構の超現実に含蓄されてある意味合いです」

 脳波測定器を外し乍ら、彼女は平然と答えてくれた。

 確かにそれは凄いプログラミングだ。彼女の脳波と特殊言語とやらを組み合わせたエンジンで、現に自動執筆された、が……。

「ストーリーラインの更新、ですか。由って、Iは夜宮アイカというヒロインに代わり、加えて朝比奈ジュリアというもう一人のヒロインも登場した通俗的な部活を題材にした物語になった、と……」

「はい……イオリさん的にはこの被転写体、どうお考えです?」

 瞬きを細かく繰り返している彼女には申し訳ないが、本心を提示せざるを得ない。重い体を上げて、着座している彼女を見下ろした。

「色々な意味で衝撃でした。増井さんの構築された小説リメイクプログラムが実証されたことと、僕の作品がライトノベルに通用させるためには拠り所にしていたシュルレアリスムの世界観を諦めなければならないことに、喫驚の外ありません」

 僕の懐いた絶望を推量された彼女は目を見開き、声音を低くする。

「やはり、イオリさんの理想的小説とは程遠いでしょうか」

「我儘な事を言わせてもらって恐縮ですが、こんな軽薄な物語を世に送り出すくらいだったら、筆を折った方がまだ僕の心は救われます」

 研究者である彼女より侮蔑されることを覚悟で、僕は言い放った。

 他者にとっては、僕の拘りをしょうもない子供の我慾だと一笑に附すかもしれない。

 然し、大勢の人々に理解されない無意味な超現実に僕の存在意義があると知ってしまった以上は、其処から離れることなど有り得ないのだ。

 ……いや、間違っているのは僕だ。より正確に叙述すると、間違っていることを間違っていると認めていない僕が間違っているのだ。

 自己満足的世界を描きたいなら、小説家・アトウイオリから脱却して個人で書くべきだ、と自分に説得しても即座に反撥してしまう。従って、僕は出口の無い迷宮を彷徨ほうこうしては、無下に突き放した研究者の少女にねめつけられる……。

「文学について学習不足で大変申し訳ございませんでした。イオリさんのニーズに応えるべく、引き続き<SCTE>の調整をさせていただきます」

 有難うございました、と過去形の御礼を反射的に一言添えようとしたが飲み込んだ。

「……今、何とおっしゃいました?」

「オートリライト出力されました被転写体のクオリティがイオリさんの望まない結果でありましたので、<SCTE>の調整を逐一行います。具体的に申し上げますと、プログラムに内蔵されていますND言語と『駆動者』の脳波バランスを設定し直す必要があるかと」

 僕を睨んでいたのは想像上の彼女であって、視界に収まる現実の彼女は寸毫の敵意を見せていなかった。逆に、索莫さくばくとした彼女の切なげな瞳の炎は、アトウイオリの感性を満足させられなかった自分への恨みが込められているようにも思えた。僕を責苦へと誘引させるには充分な熱量だった。

「いや……増井さんがそこまで僕の為に無償で力添えをする義務は無いはずです。ジャンル転向の問題は僕一人で――」

「今後も協力させてください。これは、私の問題でもあるのです。こんな簡単に諦めてしまっては、研究者と名乗れません」

 僕の弁解を遮ってまで、彼女は<SCTE>の継続を打診した。僕への献身のみならず、プロフェッショナルたる誇りがそうさせている。

 熟考してみれば、実に共感し得る態度だった。僕がシュルレアリスムに拘泥するのと同様、情報科学の敗北を簡単には認められないと増井璃々亜は本気の情熱を放出している。

「解りました。御言葉に甘えさせてもらいます」

 斯くして、僕は彼女の厚意に凭れかかった。晴れやかに微笑んでは嬉々として僕の手を握って小刻みに飛び跳ねる彼女の反応を窺って、正しい選択をした安心感が胸裡に広がった。

「ご承諾いただき有難うございます……私、頑張ります」

 研究者の属性に伴った鹿爪らしい性格の女の子かと思いきや、大学生よりも年少で無邪気な喜びも体現する人であった。

 悪い人では無さそうだ。率直に申し上げると<SCTE>の小説リメイクにどれだけの信頼を置けるかまだ微妙であるが、核心的な情報技術に携わりたい純然たる興味はあるが故に彼女と連絡先を交換した。

「<SCTE>に於ける実験は基の小説データさえあれば可能なので、イオリさんが細々と此処へ来られなくとも、メールで送信していただければリライトさせていただきます」

「承知しました。宜しくお願いいたします」

 慇懃に深々と頭を下げて、僕が退出する直前のこと。彼女に呼び止められた。

「イオリさんに二つ、お願いがあります」

「片方だけの承認では難しいでしょうか」

「ダメです」

 踵を返し冗談半分で抵抗してみたものの、真面目な様相の彼女にあっさりと却下された。

 彼女は一つ目のお願いを僕に告げた。<SCTE>に身を委ね、引き続きイオリさんはご自身の書きたい小説を書いてください、と。

「それは心得ておりますが、もしも増井さんのプログラムでリメイクされた小説が出版された場合、名義は僕……アトウイオリと増井さん二人の名義にしなければなりませんね」

「ご配慮には感謝いたしますが、無用です。イオリさんの印税をふんだくろうとする欲望はこれっぽっちもございません」

 僕も金銭を独占しようという傲慢さは備えていないのだが、その辺りは彼女も無欲なので脱稿できたら決めればいいか。

 彼女は二つ目のお願いを僕に告げた。私のことは増井さんでなく、下の名前で呼んでください、と。

「良いお話をいただきまして有難うございました、璃々亜さん」

 気恥ずかしさを我慢して、言い残した。彼女なりの親睦の方途だろうか。直截的な要求も、真摯な性格に沿っている。彼女の表情の変化は隠微たるものであった。馴れ馴れしい口調であったらすみません。

 松菜さんにも別れの挨拶を述べて、研究所を出てすぐの景色に遭遇した。遠方に佇む叡智大学を、雑木林の隙間を掻い潜って目視した。

 璃々亜さんの研究所と僕が通う大学が一駅程度しか離れていないことを確信したのは、十五分後のことだった。鈍感であったのは、僕の純文学への固執に後押しをしてくれる少女の内面を推し量ることに思惟が奪われているのと、在籍している大学への関心が稀薄なことが原因であった。

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