Surreal Character Transfer Engine

春里 亮介

Surreal Character Transfer Engine

-Prologue-

BEGINNING

 寂しげな軟風に靡かれる雑木林が、自然界の音楽を奏でている。朝霧で先方の視圏を有耶無耶にさせる風景が、僕に聴覚の優先を強制させた。

 緩やかな坂を上り、カラカラに渇いた空気を掻い潜っては歩みを進める。ああ、そうだ。外界の覚知は何も音だけなく、温度も要素に足り得る。薄手のカーディガンだけでは防寒の役目を果たせないことを後悔で初めて知る僕は、恐らく一般人より季節の循環に後れを取っているであろう。

 霧の奥より光彩陸離に耀く朝陽が、目に染みる。寒気と眠気の両者を抹殺する上では諒とするが、眩しくて余計に視界が悪化してしまう。背中を向けたい欲求を堪え、俯き乍ら光源の方角へと歩き続ける。

 馴染みの薄い路であった。事前に地図を確認していなければ、間違いなく迷子になってしまうような道程であろう。樹木や丘陵以外に目印らしい目印の無いひなびた街で、僕は不図に異世界へと放擲せられた気分を心奥よりじわりじわりと充溢じゅういつさせていった。

 喩えば、閑散とした車道で僕の後方より疾走するセダン車が、僕とy座標を一致させた瞬間。突如としてセダン車が一クラス分の幼稚園児に変貌し、仕方なく僕が引率の保育士として成り代わり彼等彼女等の遠足を共にする展開にも、プロバビリティを保証されそうな雰囲気がある。そして、先導し乍ら時折振り返ると、園児達が一人ずつタイヤやシート、エンジン等のパーツへ回帰しているのだ。適当に近くの山道の頂へと達すれば、背後には人間の姿は無く、不格好に組み立て直されたセダン車が間歇かんけつ不順なエンジン音を荒々しく鳴らしているだけだった。

 結句、僕は粗雑で獰猛なセダン車に轢き殺される。おしまい。

 ……などと云う創見も、今となっては無意味であることを痛覚しているのだ。それなのに懲りずに妄執を攪拌させる僕は屹度愚かな存在であり、成人一歩手前の難しい青年期には御誂え向きの精神であるとも断言出来る。

 とある目的地へと向かう自身の境遇も、傾倒している文学的思惟のプリズムを介して利己的な世界観を広げてしまう。苟もこの路が急峻で、遠方に海岸が広がっていたならば、ジュリアン・グラックの『アルゴオルの城』に適合した現実を僕は満喫しているはずだった。剰え目的地が地峡にある壮麗な城であれば、その物語の主人公・アルベエルの心的機構が僕と完全にエンゲージされるべきだった。

 言うを俟たず、僕はアルベエルになれないし、幻想的な言語世界を創作したフランスの作家の企図を汲み取った主人公に該当し得ない。啻に、無意義な妄想なのであるが、僕は現実と架空の境界線を蒼穹の彩色と同化させ、殺風景な街並みに虚飾を施す。

『アルゴオルの城』の冒頭も比較的単調な場面であった。況や、原作者と翻訳者の技量を揶揄するつもりではなく、題材其物の平板を示唆している。

 購入した城へと向かう旅路では、ありふれた広野に鳥の潺……寂寞たる丘陵を見通し乍ら進むこみちに点在する沼に飛び込む蛙達……といった具合の描写がされていることを想起したが、寂寥加減では僕の目の前に広がる現実世界もそれほど異なっていないように思える。

 相違点は、表現力だった。それが、『アルゴオルの城』が僕の視界との区劃を堅強にしつらえている理由だ。

 カサカサと歩道に転がる病葉を三歩に一回のペースで踏みつける僕が『アルゴオルの城』の世界内に侵入出来ても、『アルゴオルの城』内のアルベエルを現実の僕へ持って来させることは決して叶わない。

 己の菲才ひさいを悔やんでも、何一つ好転しない。

 目指すべき人間になれないことを悟った僕は、転機を受諾する以外に幸せになれる方途を見出せなかった。

 然ればこそ、その受動的であった転機に従って、郊外にポツンと佇む建築物へと僕は辿り着いたのだ。

 無論、其処は城ではない。むしろ、真逆とも評すべき建物だった。

 最寄駅より十五分程度かけて、研究所と対面した。何故にこんな辺鄙な処に研究所を建てたのだろう。持て余す更地に囲まれた施設に何かメリットでもあるのだろうか、と無用な親切をかけさせていただく。

 矩形にり貫かれた建物は三階建てで、校舎とまではいかないがその半分程度の容積に匹敵するくらいの大きさはある。黒の外壁と紫泥色の門壁より重厚感が齎され、妙に畏まってしまう。

「……表札?」

 敷地内へと続く門の左傍に目を向けると、漆塗りの表札があった。雄偉たるフォントで『増井』と刻まれている。

 存外な事実だった。僕を召集したのは法人だと決め附けてしまっていたが、齟齬が発生していたらしい。

 肩の力を軽くして、表札の下方に設置されてある呼び鈴を鳴らした。ほどなくして、インターホンより女性の応答が聞こえた。

「はーい?」

「おはようございます。増井ますい璃々亜りりあさんとの御約束で参りました、菅野かんのです」

「あっ、お世話になります。只今門を開けますので、玄関迄お入りください」

 そんな事情説明で通じるかどうか多少不安であったが、御相手は無警戒な口調で応じてくれた。機械音と共に分厚い鉄扉が開放せられ、アプローチの石畳を辿った。左右を見渡すと、人工的に整備された草木が所々生い茂っていた。自然はあるのに、無機質なイメージを拭いにくい庭であった。

 玄関口は一般的な一軒家と同類であり、研究所らしい広々としたエントランスではなかった。誤謬を鵜呑みにしてしまったのかと首を傾げていると、カランと鈴の音を立てて玄関のドアが開かれた。それは自動開閉という訳ではなく、建物内より莞爾かんじとして笑って僕を出迎える女性が態々わざわざ開けてくれたことに依るものだ。

「お待ちしておりました。どうぞ、お上がりくださいな」

 女性は、年齢不詳な相貌をしていた。三十路手前から五十過ぎ迄の年齢を言われれば、僕は疑を容れることなく納得してしまうであろう。

 熟練されているようで若々しい大人としての婀娜あだっぽさを纏う女性に頭を下げ中に入り、スリッパに履き替えたところで委縮したような弱弱しい言葉を発した。

「あの……此処は研究所だとお伺いしたのですが……」

「ええ、おっしゃる通りで御座います。私の夫が運用する研究施設と増井家の住処が共存しています」

 女性の返事と建物内の様相で、目的地の実態を徐々に理解していった。光沢感のあるリノリウムのフローリングが広々と伸び亙り、車一台分は余裕で通過出来そうな幅広の回廊は扉と扉を繋いでいた。

 築年数の浅い綺麗な内装であるが、鼻孔をくすぐる匂いは新築時のそれではなく、病院内の感じと形容した方が適切であった。混迷はこれで解消はされたが、却って現実から脱線したような気分を覚えたのだ。

「改めまして、自己紹介をさせていただきます。私は増井松菜……璃々亜の母親です。本日は娘のためにご来訪いただき、ありがとうございます」

 格式高い松菜さんの振舞いに、研究施設兼一軒家の稀有な場所。

 頭を擡げた僕は、『アルゴオルの城』への回帰が可能となる予感がした。

「お礼を申し上げるのは、僕の方です。その、僕の『支援』なることを提案してもらった以上は……是非とも仔細しさいを拝聴いたしたく思います」

「そうおっしゃっていただけるなら、幸いです。では、娘の部屋にご案内いたします……」

 艶やかな黒髪の毛先を翻した松菜さんは、僕に背を向けて回廊の奥へと進む。無言で追い、左折と右折を経由した先の突き当りで歩みを止めた。

「此方の部屋です。お先に入ってくださいな。お茶は後程お持ちいたしますね」

 微笑を浮かべて立ち去る松菜さんを数秒ほど見送り、僕は金属製のドアノブに手をかける前に二回ノックした。

「はい」

 端的な饗応だった。たった二音で僕は入室を許可された。

 室内は――明るい。そっと開けたドアの間隙より、朝陽より白く輝く光が漏れた。腕を翳して一先ず視界を遮ったが、光彩に慣れた眼が捉えた世界にすぐさま心惹かれてしまった。

 まさしく、其処は研究所に相応しい空間であった。相応しいと云うのは僕の先入観に偏った印象を基にしているが、二十畳くらいのフロアには家電量販店で陳列されてある冷蔵庫のように置かれたスパコンに、専門書が敷き詰められた本棚……そして、この部屋の主と思われる研究者用のデスクがあった。

 見知らぬ世界に足を踏み入れ、静かに胸を弾ませた。しかのみならず、僕の興味は次々に湧いてきており、背凭れの大きな椅子に座っている人物を熟視した。

 その人物はクルリと椅子ごと百八十度回転して、僕と対面してくれた。声を上げたのは、同時だった。

「おはようございます」

「ど、どうも」

 くだけた挨拶の方が、僕だった。馴れ馴れしい不本意な挙措は、待ち構えていた対機の容姿に動揺してしまったことに由るものだ。

 名前は存じていたから、女性の研究者という意外性は事前に得ていた。されど、彼女の美は僕の想像の範疇を軽く超えていた。松菜さんとの血の繋がりを一目で確信する証左であった。華美の遺伝子が確りと受け継がれている。

 燦々と耀くガラスの瞳を僕に向け、にこやかに彼女は笑った。

「まさか、本当にお越しいただけるとは思いませんでした。思い切って手紙を送ってみるものですね」

 陶器の如く硬い声音が、天井の高い室内に響く。

「僕も思い切って、従順に拝眉はいびさせていただきました。それで……」

 平静を保つのが難しく、僕は言葉を呑み込んだ。

「ええ。早速本題でありますが……アトウイオリさん……もとい、菅野庵さんに是非とも、私の研究成果を御披露目すると共に、あなたの執筆活動に貢献したく、あのような手紙を出したのですよ」

 それは手紙で心得ていた。でも、僕の障礙を打破する研究とは何なのか、と僕は目顔で問いかけた。

 すると、彼女は恍惚たる表情で答えてくれたのだ。


「そう……私、増井璃々亜が開発した《Surreal Character Transfer Engine》にこそ、私とあなたの素晴らしき未来を約束してくれると信じています……」

 残念なことに、僕の矮小な言語処理は彼女が言い放った横文字を翻訳不可で終わらせてしまった。彼女が僕との邂逅を望んだ境遇含め、恐らくは一回聞き直しただけでは理会に達しないであろう複雑怪奇な徴候がひしひしと現出せられていた。

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