12章

 2015年8月14日8時15分ごろ、正平は三門駅にいた。地図を見ているときから険しい房総半島は先月で終わり九十九里浜のなだらかな旅になることは明らかで、真夏のロングウォークでの体調管理と終着点をどうするかについては若干の不安があるものの、気持ち的にも地形的にも穏やかなスタートになった。歩道がしっかりと整備された国道128号線をひたすら北上していき、県道30号線が始まるところをしっかりと右斜めに曲がって、こちらも整備されていた歩道を北へ北へと歩いて行った。夏休みに加えてお盆休みも重なっていたので水着姿の子供連れという家族は多く見かけたけど、海は防風林と砂丘に視界を阻まれていて見ることはできなかった。


 日本を代表するような海岸だけに海を見ながら歩けると思っていた正平は、思い切って砂浜を歩いてみることにしたけど、計画の段階から平坦な道を行くことがわかっていたのでトレランシューズではなくランニングシューズを履いてきてしまい、ソールの柔らかさとクッションも加わった影響だろうか、砂の重さが意外なまでに足に応えた。ところどころに芝生のように草が生えているところがあって、そこは比較的歩きやすかったので草には申し訳ない気がしたけどそれを踏みながら歩いていった。海を見ながら歩くのは気持ちがいいけど足は結構きつくなってきたので砂浜を歩くことは断念して、県道30号線に戻った。その道中で予想外なことに二頭の馬と出会った。観光用の馬だったようで背中にお客様を乗せながら手綱を引かれている姿はかわいらしかったけど、下が砂だとラクダしかイメージできない正平にとってはちょっとした違和感はあった、そんな九十九里の砂丘だった。


 一宮川に架かる橋の手前にあった食事処の駐車場に「有料道路、無料です」という看板があって、どういった意味だろうと首をかしげながらも橋を渡って川沿いの道を進み、有料道路の脇の歩道・自転車道を歩いて行くと料金所の掲示板に「無料開放中」と書いてあって、先ほどの食事処にあった看板の意味が「今は無料で通行できる」という意味であることをようやく理解した。そして有料道路が無料であることに頷けるような交通量だったので、車道と自転車・歩行者道がしっかりと分離されているから安心なつくりの上に輪をかけて安心して歩ける道のようだった。ただ予想外だったのは日差しを遮るものがなかったことで、今度は直射日光の暑さと戦うための水分補給を頻繁にしながら歩いた。この道に入ったときにはハイドレーションに入れていた1.5リットルの水は、まだ半分以上は残っているという計算だったので補給せずに来たけど、それはあっという間に無くなってしまった。早めにどこかで水分を手に入れないと熱中症になる危険があったので周りを見渡したけど、自動販売機もコンビニも見当たらなかった。あわててスマホで調べたらちょうどいい具合に近くにバス停があるらしく、この暑さの中で無理をするのも危険だと判断して中里海岸というバス停で今日の旅を終えることにした。その道すがら、東日本大震災復興事業という文字をみた。景観と防災を兼ねた植林事業をしているらしかった。東日本大震災を忘れないようにと始めた旅は、1年を経過したあたりで初めて東日本大震災の爪痕に触れることになった。


 スマホで調べると、このあたりの宿の多くは日帰り入浴もできるらしく、砂まみれの正平は一風呂浴びてから帰ろうと思い展望風呂のあるホテルに行ったら、掃除中で1時間後ぐらいに入れるとのことだったので食事処を探した。晴れて暑い日だったし20キロを超えて歩いているから、蕎麦かラーメンのそれも冷たいやつをさらっと食べたいと考えていた正平だったけど、いきなり目に飛び込んできた焼きハマグリののぼりがあまりにも魅力的すぎたので、つい食堂へと入ってしまった。案の定、メニューは定食が多かったけど定食を食べ切れる自信があるような胃袋の状態でもなかった。でも焼きハマグリだけというわけにもいかないだろうしと困り果てたときに、厨房からハマグリの酒蒸しが出てくるのが見えて一気に食欲をそそられてしまった。そうなると見えてくるメニューも不思議と変わってくるもので、チャーハンぐらいならいけそうだと判断してハマグリの酒蒸しとチャーハンを注文した。


 テーブルには先にハマグリの酒蒸しが登場した。箸でいくのか手でいくのか、ここは大いに迷うところではあったが、はす向かいのテーブル席に居た座っているのに背の高さを感じるスーツ姿の男性が箸で食べていたので、それに習って正平も箸で食べることにした。にぎり寿司は手で掴むか箸で掴むか、ちらし寿司は醤油をかけるかネタにつけるか、このあたりの判断は周囲の空気を読まないと大変なことになるのは何度も経験しているけど、ここまで来て空気を読むことになるとはなんとも悲しい気はした。それでもハマグリを口の中に入れた瞬間に、そんなことはどうでもよくなってしまった。プリプリの身を噛むたびに、潮の香りを贅沢にまとった塩味とまろやかなコクがあるあつあつの出汁が一気に弾け飛ぶ感じを口の中全体で味わっていたら、行ったことはないけど竜宮城にいるような、そんな幸せな気持ちに包まれてしまった。


 その幸せな心地良さの中にチャーハンが運ばれてきて、さらに食欲をそそる香りが一気に竜宮城に充満した。レンゲですくって一口食べてみると、鶏ガラをベースにしてあっさりとしたその味付けはバテ気味だった正平の胃袋を刺激してきて一気に食欲が爆発してしまい、続けざまに二口三口と胃袋に投げ込むかのようない勢いでかきこんでしまった。もしかしたら、みじん切りになっている人参のポリカリ感も適度なアクセントになって食欲をそそっているのかもしれないと思いつつも、とにかく正平の手と口はチャーハンを胃袋に運びつづけ、ふと気がつくと手と口の運ぶバランスが崩れていて口の中がチャーハンだらけになってしまっていた。とりあえずは、口の中に充満させてしまったチャーハンを飲み込んで処理するしかない状況になってしまったけど、それにはなにかしらの水分が欲しいところではあった。テーブルの上を見ると、水分はお冷とハマグリの酒蒸しの出汁しかない状況で、正平は迷わずハマグリの貝殻を手に取り酒蒸しの出汁をすくって口に運んだ。その瞬間に、経験したことのないような味覚の快感が、一気に正平の体を貫いた。潮海の恵みと里山の恵みが口の中で一気に合体して、食道から胃に落ちながらも体全体に溢れ出していくような感じは言葉にすれば美味しいの一言でしかないけど、そんなありきたりの言葉では表しきれないほどに感動的な感覚であった。


 ふと見ると、スーツ大男が店員さんを呼んでいた。ハマグリを手で取ったことを店員さんを通して注意しようとしているのだろうか? 正平の心は一気に現実に引き戻されそうになったけど、まだハマグリの身も酒蒸しの出汁もチャーハンも残っているし、この美味しい三位一体の快楽を可能な限り続けたかったので、店員さんに止められるまでというリミットを気にしながら精一杯スピードを上げて、ハマグリの身とチャーハンを一緒に噛みしめて身の食感と溢れ出る出汁とごはんの調和を舌で、口で混ざりあったハマグリとチャーハンを酒蒸しの出汁で胃に流し込むときに感じるのど越しの快感をのどぼとけで、思う存分に楽しんだ。


 しばらくして正平の味覚と満腹感という二つの食欲が8分目に差し掛かった頃、店員さんがスーツ大男に近づいていったと思ったら、

「半チャーハン、お待ち」

と言いながらお皿を置いていった。「そっちだったのか……」と思いながら、正平の意識はハマグリチャーハンからスーツ大男に少しだけ動いた。正平が注文する時にはハマグリの酒蒸しが運ばれていたから出汁しか残ってなさそうだし、定食も食べていたみたいだったから「この人、どれだけ食べるのだろうか?」と思いながら視界の端で見ていると、正平と同じようにレンゲでチャーハンを口に運び貝殻で出汁を口に運ぶ作業を繰り返していた。さっきまでは怖そうな顔だったけど今は幸せに満ち溢れたような顔になっていて、そのわけが今の正平には手に取るようにわかるので、彼を見ているだけでも幸せな気持ちになっていた。


 ホテルの展望風呂の入浴時間も近くなったので食堂を後にしようと立ち上がった時にスーツ大男さんと目が合い、思わずお互いに会釈をしてしまった。さらには会計の女性に、

「今度、私も賄いで食べてみます。」

と言われながらお釣りを渡されて、自分はいったいどんな顔をして食べていたのだろうということが気になって少しだけ恥ずかしくなった正平だったけど、あの味を思い出すと恥ずかしさは美味しさに覆い隠されてどこかに消えてしまった。そんな幸せな味覚の余韻を楽しみながらお風呂で太平洋を眺めて汗と砂を落として、中里海岸バス停から茂原駅、茂原駅から外房線で品川駅、品川駅から山手線という経路で家路に着いた。

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