11章

 2015年7月10日5時50分ごろ、正平は安房小湊駅にいた。真上の空は真っ青だったけど、昨日の雨を降らせた低気圧の尻尾はまだ海の上にあった。おまけに、日本列島の南には台風が二つも接近してきている影響なのか、海は激しく荒れていた。そんな中を正平は、先月と同じ道を誕生寺に向かうために歩き出した。誕生寺を通り過ぎて裏側に回り込むと道幅は狭くなり木々がうっそうと生い茂る薄暗い道になって急に心細くなったけど、日蓮さまが守ってくれるはずだという気だけは強く持つという、にわか信者になりながら前に進んでいった。


 薄暗い道にはさらに薄暗くて不気味なトンネルがあって引き返したくなったけど、引き返しても国道128号線のトンネルを行かなければならないので思い切って進んでいくと、目の前に大海原が広がった。断崖絶壁に乗用車のすれ違いがやっとというぐらいの道幅で作られた道は、左の崖からは水が出ていて「落石注意」の看板があるし、右の崖は海までストンと落ちていて「路肩弱し」の看板はあるし、眼下に広がる海は台風の影響で荒れに荒れて唸り声をあげているしで地獄にいるような感じで怖かったけど、上の青空と見渡す限りに広がる太平洋は気持ちがよかった。今日も国道128号線と外房黒潮ラインを軸にトンネルを避けながら、海岸寄りの道が歩けるようであれば歩くというルートを設定していた正平には国道のトンネルを避けるルートの一つだったけど、崖の高さと海鳴りが怖いのと一人で心細いところを除けば思いのほか気持ちよく歩けたので、今日の旅に期待を膨らませた。


 行川アイランド駅を過ぎると道が二手に分かれるけど、結果として同じところに行くことは調査済みだった。ただ通勤ラッシュの時間も重なりそうだったので、交通事情と道路事情を現地で確かめて選択しようと決めていたところでもあった。交通量は少ないけど歩道が狭い右の道か交通量は多いけど歩道がある左の道かで調査段階は迷っていたポイントを、現地では迷うことなく左の道を進んで行った。完全に海からは離れて山の中を行くことになるけど、交通量と今日の海の荒れ具合も考えると左の道の方が安心して進んでいける気はした。高台にある道からは上総興津の町や先ほどよりは穏やかそうな海が見えて気持ちがよかったけど、私有地らしいところに津波避難場所と書かれている看板があったりして、海沿いの町の大変なところも垣間見た気がした。


 正平の母親は故郷の話をするときは「理想郷がきれいだった」という話を必ずしていたので、一応は地図で調べたけど結構な回り道になりそうなので避けるつもりでいた正平は、今日の青過ぎる空と荒れ過ぎる海という不思議な天候に導かれるかのように足を理想郷へと向けてしまった。国道128号線から一気に鵜原海岸まで下りてきて、海岸線の道を少しだけ歩いて理想郷のハイキングコースに入っていった。入り口付近は漁師さんの仕事場みたいなところを歩いてきたし、入ったばかりのところにある公衆トイレはゴミで一杯になって使用禁止になっていたしで、相当な不安を抱いたままでとりあえずハイキングコースと書いてある看板を追いかけながら歩いていった。ところどころがぬかるんでいる道は、前足のストックはズルズルと滑りっぱなしだったけど、後ろ足に履かせたトレランシューズがしっかりとグリップしてくれたので難なく登れた。やがて開けた場所に出て見た光景に、正平は言葉を失ってしまった。歩いてきた鵜原海岸がある入江には頭上の青空を写したかのように青く穏やかな海が広がり、その入江から外の海は低気圧の尻尾雲を写したかのようにどんよりとした灰色をしながら白波を立て暴れていて、天国と地獄の境目を見ているようだった。もしかしたら、晴天と荒天、天国と地獄、生と死、そんな極端と極端の狭間に理想郷はあるのかもしれないと、似合わない哲学的な感傷に正平でも浸ってしまうような不思議な光景ではあった。


 今日は外房線が近いところを通っているので絶対的な目標を置かないで行けるところまで行く予定ではあったけど、理想郷でゆっくりしていると浦島太郎のようになりそうなので、ハイキングコースを勝浦方面に追いかけながらここを離れることにした。かつうら海中公園を次の目標にしながら歩いていくと、いくつものトンネルを抜けていった。これがリアス式海岸の特徴であることをようやく理解してきた正平に海中展望塔が見えてきたけど、当初から立ち寄る予定がなかったところに加えてこの海の状態では通過するのが当たり前だとは思った。現に駐車場に車は一台もなくチケット売り場の女性が、歩いていく正平をぼんやりと暇をつぶすかのように見ていた。左には海の博物館と書かれた建物がありゲートを開けに女性職員が出てきたけど、今日が暇であることは彼女も予測していたようで、一日分のお客様分ではないかと思うぐらいの笑顔と元気で正平に挨拶したから正平も反射的に大きな声で挨拶を返したら、二人の声が入り江に響き渡ってしまったので二人で驚きながらも入り江に響かないぐらいの声で爆笑してしまった。


 勝浦海浜公園を過ぎてもリアス式海岸沿いの道は続き、やがて左側が開けてきたと思ったら国道128号線にぶつかったので勝浦の市街地の方へと曲がっていった。勝浦の町はしっかりと回り込んでいく計画にしていたけど、いたる所にある観光案内版を見ると有名な朝市が書かれていたので、それを見てみたくなって10時も近い時間なので終わっているかなと思いながらも寄ってみることにした。朝市自体はまだやっていたけど時間も時間だからだろうか閑散としていて、特に買い物をする予定のない正平にとってはそんなに興味をひくものではなかった。そして、道に迷った。観光案内版では平面に描かれているからわかりやすかったけど、実際は結構なアップダウンがある町で当初の計画通りに行こうとすると大変そうだから、このままわかりやすい道を使って海沿いの道に出て北上するというルートに変更した。やがて国道128号線にぶつかってからは、外房黒潮ラインを追いかけて北上していった。


 御宿の手前に連続したトンネルがあった。このトンネルも狭いので回避したかったけど、 迂回しようとして選んだ道は旧国道でトンネルは閉鎖されていると草刈りをしていた人に教えてもらったので、仕方なく国道のトンネルを抜けることになった。ここを過ぎればトンネルはなくなる。房総半島最後のトンネルだからと言い聞かせることで恐怖心を押さえ込んで走り抜けていった。内房のトンネルよりも若干だけど幅が広く、壁にへばりついて車両を避けるようなことにはならなかったのが救いだった。


 先月の旅行で、いすみ鉄道から外房線に乗り換えた大原駅のあたりの外房黒潮ラインは、道幅が狭くなったり広くなったり歩道があったりなかったりしてモータリゼーションロードとの格闘に意外と苦しめられたけど、道の高低差は房総半島が終わって九十九里浜に入っていくことを感じさせるように、徐々になだらかになっていった。そのなだらかな流れに乗って、外房黒潮ラインと外房線が並走している最後のところにある三門駅まで進んでいった。今日のゴールは三門駅ということにしたけど周囲に食事処はなく、乗り換えの時間の関係によってエキナカの食事処で食べるか、最後の最後は品川駅の立そばかしか選択肢がないという、そんな空腹感を抱えての家路だった。

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