8章

 2015年4月13日5時頃、正平は館山駅にいた。先月は泊まるか日帰りかを直前まで悩んでいたので空いていた観光ホテルに泊まるしかなったためにホテルの人に迷惑をかけてしまったけど、今回は館山駅を出ると40キロぐらい歩かないと外房線の駅がないので、駅前のビジネスホテルを早々に予約していた。その分、雨の予報でも大荒れにならない限り決行しないと次からの予定に影響が出るので、雨にも強そうなトレイルランニング用のシューズとレインウェアを新調したけど、レインウェアは家に忘れてきたのでビジネスホテルに併設されたコンビニで、ビニールカッパの上下を買って雨に備えた。朝の7時ぐらいからの雨予報の割には朝の気配を十分に備えた明るさがあり歩道も広く街灯も整備されていて、さらには雨が降る前に行けるところまで行きたかったこともあって、まだ薄暗かったけど新調したヘッドランプは出さないでスタートした。


 しばらく歩いていると夜が明けてきた。右にある海の視界は非常に悪かったけど、左前の山腹には立派な館山城が見ていた。そんなに大きくはないけど南総里見八犬伝にも出てくるぐらいの歴史を感じさせるような気高い気品が漂っていて、その姿をデジカメに取り込みたかったので取り出して構えたけど、見事なまでに電線が邪魔をしていた。仕方がないのでデジカメを持ったままで電線のないところ探しながら先に進んだけど、館山城はじきに視界から消えて二度と見ることができなくなってしまった。非常に残念だったけど今日の正平には戻って撮影する時間はないので、デジカメをバックパックに仕舞って先を急いだ。


 予報通り7時ぐらいに雨粒が落ちてきた。いいタイミングで待合小屋のあるバス停があったので利用させてもらいながら、今できる最高の雨対策をして正平は再スタートを切った。そんなに強い雨ではないことも予報通りだったけど、ビニールカッパの使い勝手は非常に悪かった。風はそれほどでもないのにバタつくし、エンジン音が聞こえて後ろを見るとフードに視界を遮られて怖いということを繰り返しながら、右側にかろうじて海が見えているけど山の中を歩いているようなアップダウンでリズムが取りにくい道だったことも相まって、四苦八苦しながら房総フラワーラインを歩いていた。房総半島の突き出した下唇のようなところをクリアしたことは、三浦半島が完全に見えなくなったことでわかったけど、それ以降は半島をどれだけ周り込んだのか? 残りはどれぐらいなのか? わからないままで歩いていたら、新しいシューズに戸惑ったのか、今までの経験にはない足の甲の部分が痛くなり始めた。


 やがて曲がりくねったアップダウンの多い道から、直線的でアップダウンが控えめの道に出た。そこからは海は見えなかったけど広い歩道と防風林が整備されていて、風が敵にならない分だけリラックスして進むことはできたけど、誰のなんのためになにをしているのかがわからなくなって、頭の中が混乱で膨張することはあっても収縮することがないような時間でもあった。その混乱から正平を救ったのは、再び目の前に現れた曲がりくねったアップダウンの激しい道だった。リラックスモードから緊張モードに切り替えてみたけど、今日は上手く切り替えられずに後ろから迫る車両への恐怖感と絶望的な疲労感の中で通過する車両を避けるという作業を繰り返しながら、足の甲の痛みばかりが蓄積するだけだった。


 2月に菜の花を見かけたぐらいだから4月の房総半島は暖かいものだと思い込んでいて、今回も歩いて熱くなった体を雨が冷やしてちょうどいい感じになるのではないかと思っていたけど、それは甘かった。確かに気温自体の冷え込みは感じないけど、しっとりと手と顔が濡れているところに強くはないけど常に海風が当たっている状況は、正平から体温と判断力を確実に奪っていった。車のエンジン音が聞こえたら振り返って確認するということすらも面倒になってきた正平は、国道よりも脇道の方が良いだろうと思いスマホの地図も確かめないで、海寄りの道に行くだろうという雰囲気のある道を下るために右に方向を変えた。しかし、その道はあっという間に行き止まりになってしまった。そこから国道127号線に戻るための上り坂を見ていたら、一気にやる気が失せてしまった。今日はここまでにしよう、そう思った正平は少し手前に小屋付きのバス停があったことを思い出して、そこを今日のゴールにすることにした。近くの看板に「安房自然村」とあるバス停は、次の旅の目印にはちょうどいいかもしれない。そのバス停の小屋で乾いた帰宅用の衣類に着替えて、バスを待つことにした。


 バス停には館山駅行きと安房白浜駅行きがあった。なんとなくスタートした場所には戻りたくないという気持ちと、今日のゴールは千倉駅しか眼中になかった正平には、安房白浜駅が外房線の千倉駅の前後にある駅という推測しかできなかったから安房白浜駅行きのバスに乗ったけど、着いたところは鉄道の駅ではなくバスのターミナル駅だった。バスを降りてから途方にくれた正平だったけど、バス乗り場をうろうろしていたら東京駅と高速バスの文字が見えて、その高速バスの乗り方を聞くためにバスセンターへと向うと予約もできるとのことだったので予約をした。ただ次のバスまでは2時間ぐらい空いてしまったので何か食事でもと思い付近を見ると、駅前に食堂があり開店しているようだったので、そこで何かを胃に入れながら冷え切った体を温めようと暖簾をくぐった。悪天候で観光客は期待してないところに、お昼の時間には早すぎる11時前の来客が意外だったのか、お店にいたご夫婦の夫の方はもやしの豆取りかそら豆か枝豆の皮むきかの作業を失敗するほど驚きながら、

「いらっしゃい」

と言い、夫人の方も一瞬は驚きながらも振り返えるときには笑顔に切り替えて、

「いらっしゃい」

と言ってお茶と水とメニューを持って来てくれた。それと同時に、

「大丈夫? どうしたの?」

という質問が矢継ぎ早に飛んで来たので、正平は自分の風体がかなり酷かったのだと思いながら、館山から房総半島を回って千倉まで行こうとしたけど悪天候で断念したことを説明しながらお薦めを聞いてみたら、このあたりではふのりが名産だからふのりラーメンはどうかと言われて、それを注文した。この天気で館山から歩いて来たらこうなることを地元で生きている人にはわかるのだろうか、店にあったストーブで動かせるものは全て正平の方に寄せてから夫人は厨房に消えていった。夫は、相変わらずさっきと同じ動作で何かの下ごしらえをしながらテレビを見ていた。やがて運ばれてきたふのりラーメンの「ふのり」がなんだかはよくわからないけど、そこらへんにある焼き海苔のちょっといいものぐらいだろうと期待しないで待っていた正平は、ふのりラーメンを一口食べてびっくりしてしまった。東京あたりで100円でラーメンにトッピングしてもらうものとは全く違う歯ざわりと濃厚な海苔の香りが、口に含んだ瞬間に鼻から一気に脳天に駆け上がって脳内をゆったりとじっくりと満たした後で食道を通ってじわっと胃の腑に落ちてくるような感覚は、正平の冷え切った体を味覚と感動の両方から温めてくれて、生き返るという感覚とともにその美味しさを存分に味わった。


 お店のご夫婦は高速バスの時間まで居てもいいと言ってくれたけど、そこまで甘えるのも気が引けたし悪天候とはいえこの町を少し歩いてみたいと思った正平は、ありったけの感謝を自分なりに表現してから店を出た。道を一つだけ海岸に寄ると、地方都市から南国リゾートへと雰囲気ががらりと変わった。自家用車で観光に来る人のメインルートは、安房白浜駅前を通っている房総フラワーラインではなくて海沿いの道になってしまうような気はしたし、来月は海沿いの道を通ってこの町を通過している、正平はそんな気がした。


 バスセンターで予約した高速バス「なのはな号」は、正平が今日のゴールに想定していた千倉駅や今朝方に出発した館山駅を通りながら、房総半島の高速道路網を駆使してあっという間に東京駅に着くらしい。正平の母の実家は鴨川市にあり、正平が小学校に上がるまでは祖母が住んでいたので房総半島は父の車でよく行ったところだけど、渋滞や山道の連続でつまらなくて怒られても怒られても見かけたドライブインでの休憩をねだっていた時代とは全く違う高速道路交通網になっていて、その高速道路交通網の影響で特急さざなみ号が営業縮小をせざるを得なくなるという鉄路の少し寂しい現実に思いを馳せながら、ふのりラーメンを思い出してよだれを抑えるのに苦労しているうちに東京駅に着いていた。

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