第38話 あいつの笑顔が好きだったから

「何を見ているの?」


 後ろからかけられた声に、ふと現実に引き戻されて、私は振り返った。


「亮ちゃん……」

「ごめんね、待った?」

「ううん。私も今来たところ」

「まだ飾りつけもされていないツリーなんか眺めて、どうしたの」


 なんでも見通してしまう彼の瞳に、思わず視線を逸らす。


「もう来月は、クリスマスなんだなって思っていただけ……」


 そう答えたら、亮ちゃんは優しく微笑んだ。


「いいよ。隠さなくても。あいつのことを、考えていた?」

 

 なぜ、彼はいつも優しいのだろう。

 きっと、式を1ヶ月後に控えているというのに、こんな状態が続いて、彼もまた不安な気持ちを抱えているに違いない。なのにどうして、こんな風に優しく笑えるのだろう。


「ごめんね……なんだか、いろいろ迷惑かけちゃって……」

「君のせいじゃないだろ。早く、あいつも目を覚ませばいいんだけど……」


 一条さんが私をかばい、凶器に倒れてから、1ヶ月が経った。今もまだ眠り続ける彼に、あの日から私の時間は止まってしまったみたいだ。

 靄がかかったように景色が歪んでいて、自分だけ現実から取り残されてしまったかのように、感覚がない。


「やっぱり、今日の打ち合わせはキャンセルしようか」

「ううん。大丈夫だよ。ごめんね、えっと、今日はドレスを見に行くんだったっけ?」


 そう言うと、彼は小さく首を振った。


「ずいぶん前に白無垢にするって決めただろ」

「あぁ、ごめん。いろいろなことが……起きたから、まだ頭の中が混乱していて……だから……」


 ダメだと思うのに堪え切れず涙が零れ落ちた。


「花……」

「亮ちゃん……ごめん……。私、結婚……できない……」


 すでに招待状を配り終えているのに、こんな時期に、彼に迷惑がかかるって分かっているのに。だけど、もう、どうにもならなかった。


「ごめん……なさい」

「いいよ……。式は延期しよう」


 彼はまるで私がそう言うのを分かっていたかのように、穏やかな声で言った。

 亮ちゃんは優しい……。

 今の私にその優しさを与えられる資格はない。


「亮ちゃん、結婚はなかったことに……してください」

「花……」


 彼の顔から笑みが消えた。


「……どうして君は共に歩むことを許してくれない。今回の件は、君のせいじゃないだろ。それどころか、君は被害者だ」

「だけど、私! 自分だけ幸せになることはできない! ごめん、こめんなさい……」

「花……」


 しばらく黙ったまま私を見つめていた亮ちゃんは、吐息をついて、何かを決心したかのように強い瞳を私に向けた。


「花、君に見せたいものがあるんだ。少し、僕に付き合ってくれる?」


 着いたのは彼のマンションで、亮ちゃんは部屋に入るとデスクの引き出しから一つの封筒を取り出した。


「何、それ……」

「開けてみてごらん」


 封筒には旅行会社のロゴが印刷されていて、中には何かのチケットが入っていた。

 中身を取り出した手が止まる。

 それはランドのチケットと、園内のホテルの宿泊券だった。

 日付がクリスマスを指している。


「これ……」

「君と結婚するつもりだって彼に告げた後、侑から、結婚祝いだって、これを渡された。恋人とクリスマスに行くのが夢だと言っていたから、君を連れて行ってやってくれって」


 あぁ……。溢れ出した涙が、チケットの上にポタポタと零れ落ちる。


『あのっ。私、ランドに行きたいです!』

『却下』

『えー! 行きましょうよ』

『無理』

『どうしてですか。お前の行きたいところに連れて行ってやるって言ったばかりじゃないですか!』

『俺はネズミが嫌いだ』


 彼との会話が鮮明に蘇り、心が張り裂けそうなくらい悲鳴を上げた。


『年に1回くらいいいじゃないですか! クリスマスに恋人とランドでデートするっていうのが、昔からの夢だったんですよぉぉ』


 そう食い下がったら彼は、

『分かった。考えておく』

 と嫌々そうに言った。


 あんなに苦み潰した顔をしていたくせに。

 絶対に連れて行ってくれないって思ったのに。


 ちゃんと覚えていてくれたんだ……。


 嗚咽を漏らして泣きだした私の背を、亮ちゃんは優しく撫でて、「ごめんね、花」とつぶやいた。


「君の傷を抉るような真似をして。今の君にこのことを話すべきかどうか悩んだけれど、だけど、ちゃんと知っておいてほしいんだ。あいつの気持ちを」


 彼はそう言って、私の涙をぬぐってから、じっと瞳を見つめた。


「その時、僕はね。花とのそんなに大切な約束を僕に譲って本当にいいのかって、彼に聞いたんだ。そしたら、侑はこう言ったんだよ」


 亮ちゃんが教えてくれた、一条さんの気持ち。


『俺は花が幸せならそれでいい。あいつの笑顔が好きだったから』


 一条さん、一条さん、一条さん……!

 苦しくて、胸がキシキシと音を立てて、立っていられず私はその場に崩れ落ちた。

 ごめんね、一条さん。

 私のことをちゃんと守ろうとしてくれていたのに。私だけをちゃんと愛していてくれたのに。

 こんなことになるまで、気付けなかった。


 声を上げて泣く私を優しく抱きしめて亮ちゃんは静かに言った。


「ねぇ、花。君はちゃんと幸せになるべきだ……。あいつのために」


◇◆◇


 ベッドに眠る彼の横に座り、その穏やかな顔を見つめる。


「一条さん。どんな夢、見ているの?」


 誰もいない部屋。

 学生の頃にご両親はすでに他界して、彼が天涯孤独の身であることを、こうなってから知った。

 たった一人の家族である妹さんを守り切れず、大きな傷を抱えたまま生きて来た一条さん。


「つらかったね……」


 彼の頬に手をあてると、伝わって来た温もりに、涙が零れ落ちた。


「一条さん……私、結婚してもいい? 一条さんを一人にしていい?」


 規則正しい呼吸だけが繰り返されて、まるで起きることを拒むかのように、安らかな表情を浮かべている。何度問いかけても、彼は答えてくれない。


 いつもみたいに、皮肉気に笑って、「バカだな」って言ってほしい。

 不機嫌そうに、「知るか、自分で決めろ」って言ってほしい。


「ねぇ……一条さん。答えて。私どうすればいい? ねぇ……一条さん」


 そのまま布団にうつ伏して大声で泣いた。

 心が悲鳴を上げるままに、泣いて泣いて泣いて……それから、どれだけ泣いただろうか。いつの間にか日が傾き、窓からはいる夕焼けの光によって、部屋がオレンジ色に染まった頃、誰かにフワリと頭を撫でられた。

 驚いて起き上がった私の前で、ゆっくりと彼の瞼が開いてゆく。


「うるさくて……寝てられねぇ……」

「一条さん!」


 私は驚きに身を震わせて立ち上がった。

 咄嗟に彼の体にしがみついてしまい、傷口が痛んだのだろう、つっと彼が顔をしかめた。


「いてぇよ……バカ」

「ごめんなさい」


 そう言いながらも彼を離すことができなくて、私は一条さんの首元にしがみついたまま、ワンワン泣いた。


「心配させて悪かったな……」


 苦笑いしながらも労わるようにつぶやいた彼の声が嬉しくて。

 再び私の頭に手を置いて、優しく撫でてくれる彼の温もりが、愛おしくて。


「よかった。本当によかった……」


 ようやく落ち着きを取り戻した私は、彼の鼓動を聞きながら瞳を閉じた。


「1ヶ月も眠り続けていたんだよ」

「……マジで?」

「もうこのまま目を覚まさないかと思った」


 そう言うと、彼は少しだけ黙って、窓の外に視線を向けた。


「……ずっと……夢、見てたんだ……子供の頃の夢」


 一条さんは、寂しげな顔をして吐息をついた。


「まだ、親も妹も生きていて、一緒にみんなで夕飯食べていて、俺すげぇ嬉しくて。このまま、ずっとここにいたいって思った。それなのに、誰かが大声で泣いてんだよ」


 私の顔を見て苦笑いする。

 

「最初は、すごく懐かしい声なのに、誰だか思い出せなくて、妹がもう苦しいことなんか、全部忘れちゃいなって言うんだ。お兄ちゃん、このままここに一緒にいようって。だけど、俺、その泣き声聞いていたら、帰らないとまずいって焦って。あいつを守らないとって」

「一条さん……」

「目覚めたら、お前が耳元でワンワン泣いていた」


 小さく笑って、私の顔を見つめた後、彼は切なげに視線を落として言った。

 

「だけど、もうお前を守るのは、俺の役目じゃなかったな……」

「一条さん……」

「これからは立花がお前を守ってくれる」

「私……」


 言葉の代わりに、ポロポロと零れ落ちた涙。

 それを見た一条さんは唇を噛んだ。


「花、俺はもう大丈夫だ。だから、もうお前はここへは来るな」

「一条さんは、それでいいの?」


 思わず漏れた言葉に、彼は視線を逸らして、横を向いた。


「いいも何も、それ以外の選択肢はないだろ」

「一条さんは、本当にそれで平気なの?」

「だから、お前は……」


 何かを言いかけ、口を閉ざした一条さんは、

「悪い。少し疲れたから、もう一人にしてくれないか?」

 そう言ってため息をついた。


「私、一条さんを一人にすることなんてできないっ」

「いい加減にしてくれ! もううんざりだ。誰のせいでこんな目に遭ったと思っている。いい迷惑だっていうのが分からないのか? お前を守るのも、振り回されるのも、もういい加減うんざりだ」

「一条さん……」


 それから彼は、私を拒むように体を倒し背を向けたまま、「二度と俺の前に顔を見せないでくれ」と苦しそうにつぶやいた。

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