第19話 彼が小顔の天使につれなくできない事情

 おっと。小顔の天使ではないか。

 会社帰りジムに行ったら、コロコロと鈴が鳴るような可愛らしい笑い声が聞こえて来た。

 ナナちゃんは、すでにトレーニングを終えた後らしく、「次はいつ会えるかな」と一条さんの腕に絡みついている。


「気になる? 二人のこと」


 突然話しかけられて、ビックリして後ろを振り返ったら、亮ちゃんがクスリと笑った。


「べっ、別に気になってなんか」

「すごい顔して睨んでいたから」

「睨んでいません。ただ、あの二人付き合っているのかなって、ちょっと気になっただけで……」

「ほら、気になっているだろ?」


 うっ。

 楽しそうに笑う亮ちゃん。彼の虐めっ子ぶりは健在らしい。


「単に、芸能人のスキャンダルに興味が湧いただけです」

「そう? お似合いだよね、あの二人」

「やっぱり付き合っているんですか?」

「気になる?」

「もう……虐めっ子は卒業したんでしょ?」


 私が眉を顰めると、彼は苦笑いを浮かべた。


「ごめん。つい。本当のこと教えたくなくて」

「本当のことって?」

「あの二人が付き合っていると勘違いしてもらっていた方が、僕は都合がいいから」


 そんなことを言って、彼は微笑む。


「な、なにそれ……」

「付き合っていないよ。侑はただ、ナナちゃんを放っておけないだけ」

「それって、好きってことなんじゃないでしょうか」

「うーん。そういうんじゃなくて、侑にはつれなくできない事情があるから」

「事情?」


 聞き返すと亮ちゃんは小さく頷いた。


「プライベートなことだから、僕の口からは言えないけど、でも君が思っているような関係じゃないよ、あの二人は」


 気になる言葉を残して、亮ちゃんは「次のクラスが始まるから行くね」と、去って行った。


 それから程なくして、その「事情」というやつを、私は知ることになる。


 トレーニング開始の時間になって、一条さんが私のところにくると、ナナちゃんは退館するのだろう、そのまま受付に向かっていった。

 そこで、スタッフさんが何かを彼女に差し出した。


「ナナちゃん。これ、会員さんからの頂きものなんだけど、よかったら食べて。イルサンジェーのチョコレート」


 赤と黒のお洒落な箱に入った宝石の様なチョコレートの数々。

 あぁ、美味しそう!

 私は遠目からも輝きを放つその黒い宝石に涎を流す。


「お前はダメだからな」


 食べたいなんて一言も言っていないのに、一条さんに釘を刺された。

 はぁ、分かっていますよ……。チョコレート、ずいぶん食べていないなぁ。

 そんな私の前で、ナナちゃんは、「せっかくだけど」と首を振った。


 えー! イルサンジェーだよ! 一粒千円近くするイルサンジェーだよ!


「遠慮しないでどうぞ!」


 にこにこと、箱を差し出すスタッフさん。

 なぜかナナちゃんは小さなため息をついた。スタッフさんがちょっと気まずそうに顔を窺う。


「ナナちゃん、チョコレート嫌いだった?」

「あ。ううん。大好き! ありがとう」


 すぐにアイドルらしく可愛らしい笑顔でお礼を言ったナナちゃんは、チョコレートを一粒口に入れた。


「おいしい!」


 彼女は、勧められるまま数粒チョコを食べて、「ご馳走様」と天使の微笑みを見せた。その後、帰るのかと思いきや、出口には向かわずロッカールームの方へ戻っていったナナちゃん。

 途端、「あいつ……」と何だか低い声で一条さんがつぶやいた。


「どうかしました?」

「悪い、花子。ちょっと、ナナの様子を見てきてくれないか?」


 その顔が真剣だったから、私は理由を問う間もなく、頷いてナナちゃんの後を追った。


 どうしたんだろう、急に……。


 ロッカールームの奥にある化粧室に入って行ったナナちゃんに首を傾げる。

 なんだ、ただトイレに行きたかっただけじゃん。

 一応、個室に入るところまで見届けて、私はすぐ戻ろうしたのだけど、その一瞬後、喉の奥からむせるような呻き声がして、せき込む音と液体を吐き出す音が聞こえてきた。


 吐いているんだ……。


「大丈夫?」


 ドア越しに声をかけると、「うるさい! あっち行け!」と怒鳴られた。

 どうしたものか悩んだ挙句、とりあえず一旦、一条さんのところに戻って事情を説明する。

 しばらくして戻って来たナナちゃんは、ロッカールームの出口で待ち構えていた一条さんを見るなり、「告げ口したの!?」と隣にいた私を睨んだ。


「こっち来い」


 一条さんはナナちゃんの腕をとり、引きずるようにして、歩き出した。


「痛いっ! 放してよ!」


 細い体のナナちゃんを無理矢理引きずる一条さんに、「ちょっと、一条さん……」と私はアワアワするばかり。彼は、スタッフルーム横の個室に、彼女を無理やり押し込んだ。


 私はどうしたものかと思ったけれど、結局、部屋の前で彼らを待つことにした。


「もう、やらないって約束したよな?」


 ドアから漏れて来る一条さんの怒りを押し殺した声。


「もうすぐグラビア撮影があるから、仕方ないじゃない!」


 彼の静かな声とは対照的に、ヒステリックに叫ぶナナちゃんの声が響き渡る。


「そんなに細い体で、チョコの数粒くらい、問題ないだろ?」

「嫌なの! 他のメンバーと並んで写るのに、自分だけ太く写るのは!」

「なぁ、ナナ。食べたものを吐く行為は癖になる。そのうち、自分の意志ではなくても、体が受け付けなくなるんだ。俺の言っていることが分かるよな?」


 言い聞かせるように、ひとつひとつ、言葉を伝える一条さん。その声の真剣さから、彼が本当に心配しているのだと伝わって来た。


『侑にはつれなくできない事情があるから』


 そうだね。彼はナナちゃんを突き放すことは絶対できない。

 亮ちゃんが言う、「事情」を知って、私は切なくなった。

 あんなに細いのに、それでも太るという強迫観念に襲われてしまうんだ。今更ながら、彼女に嫉妬して、極端な食事制限をした自分が恥ずかしくなった。


「もう二度としないと約束してくれ」

「……ごめんなさい、侑」


 諭すような一条さんの声に、ナナちゃんが涙声で答えた。

 よかった……。

 もしかしたら根本の原因を解決するのは、そんなに簡単じゃないのかもしれないけど、とりあえず、彼女が落ち着いたようなので、私はホッとして、その場を後にした。


 アイドルも大変なんだな。なんて、私には想像もつかない世界だけど、まだ18歳の彼女に、きっといろんなプレッシャーがかかっていたのだろう。


「悪かったな」


 先に柔軟体操を始めていたら、一条さんが戻って来た。


「いえ、ナナちゃん、大丈夫ですか?」

「あぁ。今、マネージャー呼んだから、迎えにくるまで部屋で待つように言ってある」


 一条さんはそう言って深くため息をついた。


「あいつ、妹が入院していた病院に通っていたんだ。一時期、太った時にネットで叩かれてさ。そのストレスで、過食と拒食を繰り返すようになって。周りの大人がしっかり守ってやらなかったから……」


 悔しそうに彼は唇を噛んだ。


「一条さん。マネージャーさんが来るまで、ナナちゃんのところにいてあげたらどうですか? 私もトレーニングサボれて一石二鳥」


 Vサインすると、彼は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った後、「サボった分は後に回すからな」と一睨みして、彼女のもとに戻っていった。


◇◆◇


 その後、言った通り、彼は戻って来てから、いつもと同じだけのトレーニングを実施し、おかげで遅い時間になってしまった。


「悪いな、こんな時間になって。送って行く」


 おっと。珍しく優しい。私は彼の申し出をありがたく受け取って、車で家まで送ってもらった。


「なんだか、すみませんね。大した距離でもないのに」


 車から降りようとすると、「今日のお礼にご褒美やる」と彼が手を差し出した。

 そこに載っていた小さな赤と黒の箱。


「えー! いいんですか?」

「一粒だけな」

「やったぁ」


 私は飛び上がらんばかりの勢いで喜んで、イルサンジェーのチョコに手を伸ばした。

 あぁ、お久しぶり、私の黒い宝石ちゃん!

 だけど、高級チョコにあと少しで手が届くというところで、ひょいと一条さんがそれを取り上げた。

 え……。


「嘘! 何それ!」

  

 奪われると思って慌てて手を伸ばしたら、彼はチョコを口に咥えて、そのまま私の頭を引き寄せた。

 あ……。

 直接、私の唇にチョコを渡した一条さん。

 間近に迫った彼の瞳が悪戯っぽくきらめく。

 ドキドキしながら私がそのチョコを口に含むと、そのまま彼は唇を重ねた。チョコレートが口の中に広がって、とろけるような甘さにクラクラする。


 そっと唇を離した一条さんは、「どう? 久々のご褒美」と微笑んだ。


「あの、す、すごく甘くて……美味しいです」

「また、頑張れば、もっと甘いご褒美やるから」


 彼の細められた美しい瞳に、キュゥッと心臓が震えた。恋愛経験値の低い私に、このご褒美は刺激が強すぎる。

 あぁ、なんだか勘違いしてしまいそうだ。

 甘い甘いご褒美に、脳まで蕩けてしまいそうで、私は吐息をついた。


 一条さんは、恋人いるのかな。

 彼女の前ではこんな風に優しいのかな。

 こうやって……大切なものを扱うように、優しくキスするのかな。

 

 そんなことを考えたら急に切なくなって。

 あぁ、何やっているんだろう、私。

 そのチョコはとても甘くて、そして、少しだけほろ苦かった。

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