第12話 私は何かひどい間違いを犯してしまったのかもしれない

「やめる……?」


 翌日、渚君の強い要望により、フィットネスクラブに行って、退会を申し出た私は、一条さんのあまりの驚きように、戸惑っていた。


「どう、して?」


 彼の黒い瞳が揺らいでいるのを見ながら、まぁ、35万も払ったのに、1ヶ月ちょっとで辞めちゃうバカなんて私くらいだよね、とため息をつく。

 あーあ、一条さんのきついトレーニングから解放されるのは嬉しいけど、ホテルの様なスパも、高級スキンケア使い放題も、これで終わりかと思うと、残念でならない。

 でも、渚君の気持ちも分かるから、私は諦めることにした。


「あの……もう痩せなくていいかなって」


 そう言うと、腕を組んだ一条さんは、私のことを乾いた目で見た。


「なんで?」

「なんでって……」

「もしかして、元彼に痩せる必要ないとでも言われた?」


 なっ、なんて勘のいい……。


「ほんっと、くだらねぇな、お前って」


 こないだと同じく、虫けらを見るような目で、私のことを一瞥した一条さんはチッと舌打ちをついた。


「人の意見にばかり、惑わされやがって。少しは自分の信念ってもんがねーのか」

「だ……だって、彼はその……太目の子が好きみたいで……」


 言った途端、苛立たしげに瞳を細めて睨まれた。


「ふざけんな。俺のクラブで脱落者を出すなんて許さねぇ」


 へ?


「お前には、絶対、目標を達成してもらう」


 そう言って、鋭い三白眼を光らせた一条さん。


「言っておくけど。うちのクラブは目標体重達成まで、永久保証付きだからな」


 ニヤリと笑ったその顔の恐ろしいこと……。

 ダメだ、痩せるまで逃げられそうもない。


 私は、今更ながら、恐ろしい契約を結んでしまったことに気が付いた。


「あの、でも、本人がやめたいって言っているのに」

「つべこべ言わず、さっさと着替えろ」

「き、着替え持ってきてないし……」

「ジムのスポーツウェアを貸してやるよ。それとも裸でやるか?」


 彼の目が据わっていて、私は冷や汗を垂らしながら、「ジムのスポーツウェア……お借りします」とつぶやいた。


 あぁ、もういいや。とりあえず、今日だけトレーニングして、明日から来るのやめよう。

 そう思って、あまり深いこと考えていなかったのだけど、トレーニングを終えて帰ろうとする私に、「おい。明日も来いよ」と一条さんが念を押すように呼びかけた。


 うっ……魂胆バレバレ?

 心の中でドキリとしながら、振り返った私は、彼の顔を見て驚いた。

 だって、なんだか切なげな顔をしていたから。


「一条さん?」

「お前がいないと、虐める相手がいなくて、つまらない」


 彼はつぶやくように言って、視線を逸らした。


「あれ? もしかして、一条さん、私がやめちゃうと寂しかったりします?」

「はぁ?! ふざけんなっ」


 途端、噛みつかんばかりの勢いで怒鳴られた。


「俺のクラブは、目標達成率100パーセントだ。その栄光に泥を塗られたら堪らないって言っているんだ」


 さも迷惑そうに言われて、私はなんだかちょっとだけ、悲しくなった。

 だよね。寂しいなんて、思ってくれるわけないか。


「だったら、私は最初からいなかったものとして、データーから削除すればいいんじゃないですか?」

「そんなことしたら、事実の改ざんになるだろ。俺を悪の手に染めたいのか」

「悪の親玉みたいなくせに……」

「あぁっ?!」


 いや、だって、その眼力。闇の帝王にしか見えませんから。


 私は、「すみません。分かりました、明日も来ます」と心にもないことを言って、とりあえず、その場を去ることにした。

 いいや。明日電話で、退会の旨を受付の人に伝えよう。電話一本じゃ失礼かと思って来てみたのが間違いだった。


「もし来なくなっても、退会にはしない」

「え?」


 もう一条さん!

 そんなに目標達成率が大事なのか! と振り返ったら、

「休会扱いにしておくから、来たくなったらいつでも来い」

 となんだかそれだけつぶやいて、ふいと踵を返してしまった。


 その背中が寂しそうに見えたのは、私の目の錯覚か。

 彼が本当のところ、どう思っていたのかは謎だけど、私は少しだけ、彼ともう会えないのだということに寂しさを覚えた。


◇◆◇


 それから、1週間後――

 じっと、熱い視線を感じる。

 私は気付かない振りをして、テレビを見る。

 彼が私の髪に触れた。

 私は素知らぬ顔で、テレビを見続ける。


「ねぇ、ぷに子ぉ」


 堪え切れずと言った様子で、渚君が私の名を呼んだ。


「何?」

「もう1週間も経つのに、まだダメなの?」

「ダメとは言っていないよ」

「え! ほんと?!」

「私と別れる覚悟があるなら、いいって言ったでしょ」


 その言葉に渚君はがっくりと肩を落として、上目遣いに私を見た。


「キスも……ダメ?」


 ためらいがちに彼は聞いた。


「それ以上はしないから……」


 捨てられた子犬みたいな目でじっと私を見て来る。

 うぅ……。


「キス……だけだよ……」


 そう言ったら、すごく嬉しそうな顔をして、彼は私の顔に手を添えた。


「好きだよ、花……」


 甘く囁いてゆっくりと唇を重ねる。優しく、私の唇をクチュリとその口に含む。


「気が狂いそう」


 一度唇を外した渚君がため息交じりにつぶやいて、再び唇を重ねた。


 きっと、男の人がこういう状態で我慢するのって、すごくつらいんだろうな……。

 だけど、私は決めていた。クリスマスまではエッチしないって。

 あと、少しだけ。渚君……ちゃんと、約束守ってね。


◇◆◇


 クリスマス当日――

 私の部屋で、苺のショートケーキを囲みながら、渚君と私は熱いキスを交わしていた。


「花ともっと一緒にいたい……今日泊まってもいい?」

「……うん」


 私は約束通りずっと我慢してくれた彼を受け入れることにした。


「それって、してもいいってこと?」

「うん」

「花……」


 嬉しそうに微笑んだ渚君は、途端、私の服をはぎ取るように脱がせていった。


「あぁ、やっぱりたまんないな、お前」


 一糸まとわぬ姿にして、上から下まで舐めるように見つめる渚君。

 猛獣が獲物を捕らえたみたいに、その瞳が光っていて恥ずかしい。


「あぁ!? ここ、なんで細くなってるの?!」


 突然叫んだ渚君は、驚愕の面持ちで私の二の腕を掴んだ。


「頑張ったんだよ」

「頑張るなよ。ぷに子はそのままがいいんだって」


 不満そうに言いながら、胸に手を這わせる。


「すげぇ、柔らかい。あぁもう、これ以上、絶対痩せんなよ」


 そう言って、彼は私の胸に顔を埋めた。

 渚君って、やっぱり太めの女の子が好きなんだな。

 胸の上で、ほっぺをすりすりして幸せそうな顔しているから、思わず可愛いなんて思っちゃったりして。

 ホント、自分でも単純だと思うけど、彼に求められることが嬉しくてたまらない。


「ごめん。久々だから、抑えられないかも」


 言いながら彼は私を抱き上げて、ベッドに連れて行った。


「あの男の記憶を消すくらいに、今日は激しく抱くから」


 少しだけ恐い顔をして、服を脱ぎながら、渚君は見下ろすように私を見つめる。


「ねぇ。あいつにプールでキスされている時、どんな気持ちだったの? 気持ち良かった?」

「やだ、やめて……渚君」

「花は淫乱だから心配だよ。俺、お前の事、監禁したい。部屋に閉じ込めて、鎖でつないで、俺だけのものにしたい」

「渚君……」

「あいつより、花を狂わせてやる」


 彼は怒ったように言って、私に覆いかぶさった。


◇◆◇


「あ、あのね。渚君。その、プールでのことなんだけど……」


 何回戦ものエッチを終え、二人裸のままベットで横になった状態で、私はおずおずと切り出した。


「あぁ、あのイケメン?」

「彼とは、なんていうか……その……エッチはしてな」

「いいよ、体だけの関係なら。本命は俺なんだろ?」


 渚君は私の言葉を遮って、肩をすくめた。


「え……あ、あの……」

「まぁ、正直、はらわた煮えくり返るくらい腹が立つけど。だけど、今日さ、プールでキスされている花の姿を思い浮かべながらしたら、超燃えたんだ」


 へ? 渚……君?

 なんだか、彼との間に、ものすごぉい、温度差を感じるんですけど。


「ぷに子が他の男に抱かれていることを考えると、すごく興奮する」


 言葉が……ない……。

 私は……この気持ちをどう彼に伝えればいいのでしょう。


 固まった私に対して、まだ先ほどの言葉さえ消化しきれていないというのに、彼は、さらにとんでもないことを言い放った。


「だから、やっぱりこれからもフィットネスクラブ通っていいよ。あの男との関係には目をつむるから、安心して」


 い、今なんと、おっしゃいました?

 なんか、確実に前より暴走していませんか? 渚君。


「でも、痩せすぎるなよ。あぁ、やっぱり、ぷに子は最高だな。もう絶対離さないからね」


 世の中には、寝取られた相手を奪い返すことに興奮を覚える人たちがいると言う。

 ニコニコと笑いながら、私の胸に顔を埋める渚君を見ながら、私は何かひどい間違いを犯してしまったのではないかと、途方に暮れた。



◇◆◇



 そんなクリスマスを終え、翌日、会社に行くと、フロアに入った途端、みんなが私のことを一斉に見て、すぐに目を逸らした。


 あれ? 何今の……。


 不思議に思いつつ、「おはようございます」と言いながら自分の席に座ったら、斜め後ろの席にいる間宮君が、スーッと椅子を滑らせて私のところにやって来た。


「山田ぁ、ご愁傷さまだな」


 なんだかわざとらしく眉を寄せてポンポンと私の肩を叩いて来る。


「何よ」

「えー、何って」

「間宮君、やめなさいよ」


 同じ部の女子社員が余計なことするなと言わんばかりの顔で、間宮君を諌める。


「あの……どうかしたんですか?」

「うわっ。お前、まだ知らないんだ?」

「何が?」

「渚と麗奈姫、婚約したらしいよ」


 え……?

 間宮君の言葉に、頭の中が真っ白になった。


 えええええええぇぇぇぇぇぇっ?!


 どうやら、サンタさんは一日遅れで、私にとんでもないプレゼントを持ってきてくれたようだ。


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