エピローグ

 日曜日の昼下がりは鈍色の空だった。天羽は大田区上池台一丁目の公園の近くに建つ教会に入った。聖堂に人けはなかった。貫井は手前から二番目のベンチに座っていた。

 天羽はベンチで貫井の隣に腰を下ろして言った。

「細貝の遺書に書かれていた《ジェラルド》とはコードネームでした」

 貫井は低い声で言った。

「それにまつわる工作について、君は知ってるかね?」

「概要は把握しています」

 北朝鮮の対外諜報・工作活動を担う朝鮮人民軍偵察総局に総書記直筆の親書を携え、近隣諸国との外交を展開する人物がいた。その人物は警視庁公安部が付けたコードネーム《ジェラルド》で呼ばれていた。

「高村紘一は《ジェラルド》の使者だったと考えるべきです」天羽は言った。「高村から接触があった時、警察庁の担当が深町だったんですね」

「全部話してくれたよ」

 貫井はさらりとした口調で言い、スラックスからICレコーダーを取り出した。

「これはいつ・・・?」

「自殺する前日」

「あなたは止めるべきでした」

「深町は自ら命を絶つ道を選んだのだ。四国の警察署に異動する辞令も出ていた。しかし、深町にはそんな異動を受けるつもりは最初から無かったんだろう」

 天羽はICレコーダーの再生ボタンを押した。レコーダーに残された深町の声は天羽が初めて聞くものだった。深町の告白はこう始まった。

『《ジェラルド》工作は当時、警察庁がいた私が主導したものである。工作の性質上、内閣のバックアップが必要だった。事情を説明し、霜山が工作に参加した』

「私は当時、《ジェラルド》工作に反対したんだ」貫井は言った。「得体のしれない相手だし、どう転がるか皆目見当がつかなかったからな」

「霜山が工作に参加した理由は?」

「票集めだよ。それに決まってる」

 深町の告白は続いていた。《ジェラルド》が通商使節団に紛れて万景峰号で来日するという話があった。そのために新潟県警の協力が必要であり、深町自身が新潟県警に送り込まれた。現地の調整は細貝が担当した。しかし、3年前に新潟で霜山が銃撃されたことで事態が変わった。工作は中止されたが、高村―深町―細貝のラインは残された。

「この時点で、《ジェラルド》は祖国で失脚していたんです」

「何か証拠は?」

「偵察総局の高官数名が処刑されたという未確認離脱者情報があります」

 ここ数日、天羽が韓国まで飛んで仕入れた情報だった。

「そして、高村は入れ替わった」

 貫井は呟いた。

「《背乗り》か」

「深町は高村の《背乗り》に気付いていたんですか?」

「本人いわく、一度も顔を合わせたことがなかったそうだ。やり取りは電話のみ。自分は金を渡し、高村から《ジェラルド》の話を聞く。得体のしれない国の高官が水際外交をする理由も金のためだと思えば、この世は単純明快で美しい。そうは思わないか?」

「ぼくは、そうは思いませんが」

 天羽の返事に、貫井は何故か笑みを浮かべた。

「話を富久町の事件に移そう」貫井は言った。「高村に、山辺のタレ込みを漏らしたのは?」

「細貝か深町でしょう。細貝については山辺が新潟東署に連絡を入れた夜、当直をしていたことが分かりました。偶然だったと思いますが、川村の電話を耳にした」

「高村が安斎夫妻に殺害した理由は?」

「銃撃事件後に安斎は高村から逃げたのでしょう。高村には実行犯の安斎に生きていてもらう理由はすでにない。だから殺害した」

「一体いつの時代の話をしてるんだが」

 貫井はため息を吐いた。

「気に入らないから撃つとか殺すというのは、以前にソ連ではびこっていたKGBのゴリラどもと一緒だよ」

 教会を出る。外は雨が降っていた。天羽は折りたたみ傘をコートから出して、通りを歩き出した。降り注ぐ秋雨に、聖堂の姿が消える。

 あまりに大勢の死が頭を麻痺させている。

 天羽はしばらくの間、霞む街並みに佇んでいた。

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深層捜査 伊藤 薫 @tayki

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