第20話 憎悪の鎖・二


「貴方ならわかるはずだ。何の意味もなく、ただ清人ではないというだけで家族や友人を殺された、私たちの痛みと怒りが。そう家の跡取りでありながら、その身に甦虞そぐ人の血が流れているというだけで彗華すいかを追われ、美しいというだけで同じく混血の母親を奪われそうになった貴方なら、この憎しみはわかるはずだ」

「っ」


 事実を思い出させられ、雷禅は返す言葉に詰まった。


 そう、雷禅が先代の西域府君を憎むのは、己が彗華から追放されたためではない。見知った者たちが追放されたり処刑されたことや、何よりも、義母がその美貌ゆえに先代西域府君の妻妾の一人にさせられそうになったことが理由だ。義父や食客の老師が機転を利かせたから難を免れたものの、一歩間違えれば義母は西域府君の寝台へ連れ去られていた。


 異能を持つゆえに周囲から疎まれ、生まれ育った屋敷から六歳で逃げ出し、さまよっていたところを拾ってもらった雷禅にとって、義理の両親は恩人である以上の存在だ。そんな人を奪われそうになったあのときほど、雷禅が他者に対して怒りを覚え、憎しみを感じたことはない。

 言い返せない雷禅に代わって口を開いたのは、伯珪はくけいだった。


「っなら、何故この集落を襲った! 兵たちはまだわかる、だがここに住んでいた者たちは、お前たちの同胞だろう!?」

〈我の復活を邪魔しおったからだ〉


 伯珪の問いともつかない叫びが朱利しゅりにぶつけられた直後。ねばりつくような毒々しい声がその問いに答えた。


 突然、どこからともなく聞こえてきた声は、禍々しい気配を伴っていた。集落の外から漂ってきていた気配と同一だが、比べものにならないほど濃厚で恐ろしい。声と同様、そこに存在しているだけでおぞましいものが体内に入り込んでくるような錯覚にさえ囚われる。


 上空から、狼の図体に様々な生き物の一部を混ぜ合わせたような化け物が降り立った。巨躯はいたるところが傷つけられ、そこから血だけでなく気配と力が流出している。

 琥琅ころうと白虎がつけたのだ、と雷禅はわけもなく確信した。白虎は神獣であり、琥琅はその主なのだ。ならば、妖魔の首領に傷を負わせても何の不思議もない。

 朱利は妖魔の首領を見て、痛ましそうに顔をゆがめた。


「おお、神よ、その傷は……」

〈あの忌々しい白虎と、その主の仕業よ。まったく、当代でも我の邪魔をする……〉

「なんといたわしい……すぐ水をお持ちいたします」


 痛ましそうに言い、朱利は賛同者に水を持ってくるよう指示する。別の者には妖魔の首領の手当てをするよう命じた。――――まるで、恐れ敬うべき尊い存在であるかのように。

 伯珪は声を荒げた。


「その妖魔が神だと? どこが神だ、人間をもてあそぶ妖魔じゃないか!」

「ふん。生け贄を求めるから、恐ろしい姿をしているから神ではないと? ならお前たちは干ばつのとき、雨乞いをしないのか? 堤を造る際に人身御供をしないと? 神が生け贄を求めるのは、当たり前のことだろう」


 伯珪の指摘に対し、朱利は嘲るように鼻を鳴らした。


「この方はかつて、我ら吐蘇とそ族が崇める神だった。だがお前たち清人がこの西の地を我がものにせんと攻めた折、妖魔と貶め、あの魔獣を使ってほろぼそうとしたのだ。そのせいで我らは破れ、お前たちの支配下に下らねばならなくなった。我らからすれば、あの獣こそ天の使いを騙る妖魔、お前たちこそ邪悪の権化だ……!」

「……!」


 告げられた事実に、雷禅は言葉を失った。

 それは、考えられない話ではない。しん民族に神獣という守護がついているのだ。異民族たちにも、彼らを守る神やそれに類する獣がいてもおかしくはない。むしろ、いないほうが不自然だ。


 清民族は清国を建国する前後、文化摩擦や政治的対立からいくつもの異民族と戦っていた。当然、異民族たちを守護する人外たちも参戦しただろう。清民族も、神獣と呼ぶ獣たちとその主を味方につけた。どちらが先に人外を戦いに引きずり込んだのかはわからないが、ともかくそうして、人間もそうでないものも入り乱れた、壮絶な戦いが繰り広げられていたに違いない。


「……っだとしても! 先代の西域府君は更迭され、他の者も罰せられ、弾圧政策はすべて廃止された! 秀瑛しゅうえい様はあのようなことをなさらない。こんなことをしても、吐蘇族の立場が苦しくなるだけだ!」

「それがどうして信じられようか! 先の府君とて、まともな統治者のふりをして豹変したではないか! 新しい府君がまた豹変せぬと、どうして言いきれる!」


 朱利は激しい声で怒鳴る。それに応じるように、戦士たちを覆い尽くす靄のような殺意もまた増大した。幽鬼たちまでもがつられ、獲物を欲する目で雷禅たちを見る。

 憤怒と憎悪が死気を呼び、雷禅たち異民族から言葉を奪った。馬たちはもう混乱することもできず、ただ震えるだけだ。


〈ふふふ、その意気ぞ〉


 絶句する雷禅たちと負の感情を撒き散らかす吐蘇族を眺める妖魔の首領は、ぶるりと首を震わせ目を細め、そう嗤った。


〈ああ、心地よい波動よ…………我が民よ、憎め。もっと憎むがいい。憎しみこそ我が糧。長きに亘る我らの悲しみと憎しみをぶつけるがいい〉


 そう妖魔の首領が言葉を紡ぐほどに、周囲に満ちる負の感情は力の奔流となり、妖魔の首領の傷口へ流れ込んでいった。それに伴って、傷口から流れる血が目に見えて少なくなり、反対に妖気が増していく。


「…………!」


 雷禅は唐突に理解し、大きく目を見開いた。

 この妖魔は、人間の負の感情を糧にするのだ。それは、普通の妖魔では持ちえない性質である。その上強大な力を持ち、人語を解するとなれば、古代の吐蘇族が神と崇めたのも当然だろう。


 清民族に攻められた折、人外に吐蘇族は助けを求め、この妖魔はそれに応じるも破れた。そして打ち捨てられた神の身体を、吐蘇族の者たちは洞窟に安置したのだろう。異民族の守護獣に破れても、今まで祀り縋ってきた神を捨てることができなかったから。清民族の支配は文化にまで及ばず、干渉は最小限に留められていたから、祀ることは簡単だったに違いない。


 吐蘇族に祀られて数百年。この妖魔の身体は、一体どれほどの憎悪を吸ってきたのだろうか。吐蘇族が清民族の緩やかな支配に馴染んでからは、憎悪の吸収は少なくなっていたはずだ。人々が祈りを捧げることはあっても、それは復讐ではなく豊穣や繁栄で。だから清民族の商人たちは、吐蘇族と交易していたのだ。


 なのに、世代と交流を重ねることで保たれていた友好を、先代の西域府君が壊してしまった。ついに理由を明かすことのなかった、理不尽な弾圧によって。憎悪の神に復讐の祈りを捧げる理由を、吐蘇族に与えてしまったのだ。


 かくして、古にほろんだと思われていた妖魔は民の憎悪を吸って復活し――――――――神を祀る神官が多く暮らすこの集落は復讐に反対し――――過激派か、妖魔の首領によってほろぼされた。そして死者の亡骸は、幽鬼として利用されたのだろう。


 殺される、と雷禅は思った。あの朱利でさえ憎悪をあらわにし、祀る神の傷を癒す糧となっているのだ。彼はもう、雷禅の命を救おうとしたりしないだろう。伯珪たちは言うまでもない。


 雷禅にとって吐蘇族は、心惹かれる不思議な文様の織物を織る、穏やかな民族という印象が強かった。目に優しい色調と曲線の多い文様が特徴的な織物や、言葉を交わした吐蘇族の人々の多くが温厚な気質だったことが大きな理由だろう。勇猛と文献では記述されることが多い民族であるが、雷禅にはそれこそ違和感がある形容だった。


 ――――――――そのはずだったのに。重ねた記憶が、粉々に砕けていく。


 もう死ぬと思ったことは、これが初めてではない。先日、妖魔の群れに襲われたときだって命の危険を感じたのだ。義父に拾われる前でも、死にそうになったことは何度かある。


 それでも死ぬのは怖い。無条件の恐怖が全身に満ちて、思考がほとんど停止している。

 それに。


「…………琥琅と白虎はどこです」


 かすれた声で、誰に向けてでもなく雷禅は問いかけた。

 琥琅たちが追った気配は、妖魔の首領のものだった。ならば、琥琅たちはどこへ行った。集落の異変を察知し、駆けつけてくるはずではないのか。


〈あやつらなら、今頃は岩の下だ。運が良ければ生きておるかもしれんがな。さて生きておるかどうか……〉


 妖魔の首領は嘲笑する。無力な人間の希望を奪うことを楽しむように。

 雷禅の思考は完全に停止した。


 岩山は黙として何も語らない。誰も躍り出てこない。

 琥琅は雷禅を助けてくれない。――――――――こんなにも窮地なのに。

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