第19話 憎悪の鎖・一

「……?」

「? 雷禅らいぜんさん、どうしましたかー?」


 秀瑛しゅうえいに命じられ、集落を離れて周辺を偵察している最中。雷禅が不意に道を振り返ったのを見て、黎綜れいそうが首を傾げた。

 集落があるほうを見はるかし、雷禅は緩く首を振った。


「いえ、少し気になっただけですよ」


 そう、気になっただけだ。琥琅ころうがとても怒っているような気がしたから、振り返っただけ。洞窟の中へ調査しに行った彼女が怒ることなんて、あるはずないのに。


「‘人虎じんこ’なら大丈夫だろ。何かあってもうちの大将がついてるし、何より、あの‘人虎’があんたのところに帰ってこないわけがないからな!」

「……そうですね」


 絶対誤解されてますよね、と思いつつ、雷禅は同行してくれている兵の一人に棒読みで返した。いつものことだからもう慣れてしまって、修正する気にもならない。遼寧りょうねいがにやにやしているような気がしてならないのだが、これも無視する。


 雷禅からすれば、どこをどうすれば自分と琥琅の関係が色恋沙汰に見えるのか、と思えてならない。自分たちの関係はせいぜい、飼い主と気難しくて従順な雌虎である。天華れいせいには反論しているものの、冷静に見てそうとしか思えない。――――雷禅としては、それを切なく思ってはいるのだが。


 本当に、どうしてあんなけだもの娘なのか。自分の趣味の悪さに、雷禅はいつも頭を抱えたくなる。精神年齢が幼いどころではない、二年前まで神連山脈で鳥獣や賊を狩って養母と共に暮らしていた、真性のけだもの娘なのだ。一体今まで、何度名の通り雷を彼女に落としてきたことか。

 義叔父おじに頼まれて世話をしているうちにほだされてしまったとしても、あれはないだろう。自分に意気地がないだけで、その気になればどうとでもしてしまえそうなところが、余計に泣けてくる。


 ――――――――まあ、素直で従順で、一心に慕ってくれるところは可愛らしいと思うのだけど。


 そうやって最後には甘やかすから余計に懐かれるんでしょうねえ、とため息をついて、雷禅は強いて集落から視線を逸らした。代わりに、今朝強く胸に抱いたはずの思いに意識を集中させる。


 集落を出たとき――――琥琅と離れてからというもの、雷禅は気持ちが落ち着かないでいた。彼女に何か言わなければならなかったはずなのにと、後悔に似た気持ちが胸の奥でくすぶっているのだ。何故なのか、何を言えばよかったのかはわからない。だが、言わなければならない言葉があるということだけは強く胸に焼きついて、消えない。


 おかしな話だ。妖魔と幽鬼の襲撃があった翌日の朝から、朝、琥琅と会うたびに何かを伝えなければと思っては、何を言うべきなのかわからず、そのうちに忘れてしまい後で思いだすことを繰り返している。そしてさっきの、最終通告であるかのような胸のざわめき。この瞬間も胸に居座り続けている、焦燥と後悔。


 一体自分はどうしてしまったのだろうか。自分は、何を琥琅に伝えなければならなかったのだろうか――――――――


 言いようのない不安を抱え、渇いた風の音を聞いていたのはどれほどだったのか。突風が吹き、雷禅たちはとっさに目を瞑り口を固く閉じ、身を縮めて砂風をやり過ごした。風に含まれる砂が、外套では隠せない顔や首を撫でていく。


 耳元でいくつもの音をたてる砂混じりの風の中で、雷禅は異質な音を聞いたような気がした。

 風が止み、黎綜たちが何かを言いあっている。けれど雷禅の耳にそれは入ってこなかった。開けた目で、集落があるほうをまた凝視する。

 今はもう何も聞こえない。異変があるようにも見えない。静寂に包まれた、晴天が眩しい吐蘇とそ族の居住区そのものだ。滞在していた頃と変わらない光景。


 けれど雷禅は、さっきの異質な音が聞き間違いだとは思えなかった。あれは間違いなく、悲鳴や怒号、金属がぶつかりあう音だった。


「……」


 今、集落では秀瑛の部下たちが遺体の埋葬をしている最中だ。外れのほうへは、琥琅たちが調査に向かった。生存者が見つからなかった集落には、他に誰もいないはず。そう、誰も。


 でも――――――――


 嫌な想像が働いて、雷禅の背筋が寒くなったときだった。

 突如、轟音が鳴り響いた。地響きが雷禅の足元にまで伝わってくる。


「な、なんだ!?」

「おい、あの崖が……!」


 ぎょっとした顔で、年嵩の兵が崖を指差す。雷禅はその指が辿る先に目を向け、絶句した。

 吐蘇族の集落を足下に置く岩山の一部が突如、雷禅の眼前で崩落していた。むきだしの崖を成す岩や岩が、次から次へと崩れていく。土煙が黙々と立ち上り、一片の雲も見当たらない空に異物を混じらせる。


 あの方角は確か、琥琅たちが向かったはずだ。何か気配があるからと、白虎や秀瑛たちと共に。


「……っ! 遼寧、お願いします!」

〈はいよ坊ちゃん!〉


 矢も盾もたまらず、雷禅は遼寧に飛び乗るや、腹を蹴った。遼寧はそれより早く、集落へ向かって走りだす。黎綜たちも慌ててその後をついてくる。

 けれど雷禅たちは、琥琅たちが向かった場所へ辿り着くことができなかった。


「っ…………!」


 兵たちによって遺体が丁寧に埋葬されたはずの集落には、新たな死体がいくつも転がっていた。大半は秀瑛の私兵だが、幽鬼や真っ黒な妖魔も混じっている。

 その血の海には、返り血を浴びた幽鬼が何体か立ち尽くしていた。そして、独特の意匠の身なりを着た人々――――吐蘇族の者たちも。


 彼らはゆっくりと振り返って雷禅たちの存在を認識するや、うつろな、あるいはぎらついた目に殺戮の意思を宿した。そうして雷禅は、いつの間にか自分たちが幽鬼や吐蘇族の男たちに囲まれていたことにようやく気づく。


 何十人いるのだろうか。全員が民族衣装をまとい顔に赤い化粧を施して、幅広の武器を手にしている。武器を持つ姿は様になっていて、日頃からそうした鍛錬を積んでいる戦士なのだとすぐに知れた。


 一体いつから、彼らは雷禅たちを監視していたのだろう。彼らは、獲物が分散するのを待っていたに違いない。雷禅たちを手始めに襲わなかったのは、一番弱い集団だから後回しでも構わないと考えたからか。その代わり、自分たちの同胞を埋葬している兵を襲ったのだ。

 罠にはめられたと気づいても、もう遅い。


「くそ、囲まれた……!」

「秀瑛様はどこだ!」


 予想外の事態に、さすがの兵たちも動揺を隠せない。剣を抜き戦闘態勢をとりながらも、どう動けばいいのかわからないでいた。馬たちも異様な空気に怯え、興奮している。

 敵意の刃を向けてくる者たちの中に助けを求め、男たちを見回した雷禅は、割れた人垣の奥から現れた人を見て瞠目した。


伯珪はくけい殿!」


 後手に縛られ連行されてきた伯珪が、突き飛ばされてよろけた。黎綜が駆け寄り、傷つき疲れきった様子の伯珪を支える。傷ついた仲間の姿に秀瑛の私兵たちは色めきたつが、しかしこの状況では何もできない。悔しさに歯噛みするだけだ。


 人垣の穴を塞ぐように、三十代の男が姿を現した。戦士たちの中でも一際立派な身なりをしていて、頬に長い刀傷がある。地位の高い者であることは、一目でわかる。


 その男を雷禅は知っていた。この集落の住民で、吐蘇族の重鎮の一人だ。そう家の隊商が集落の外で滞在している間、雷禅は彼に、吐蘇族のことについて教わったものだった。

 彼もまた雷禅を覚えていたようで、痛ましそうに顔をゆがめた。


「何故ここへ来た、雷禅殿。追放令が廃止され、彗華すいかへ戻ったのではなかったのか」

「ええ、戻ってましたよ。でも、貴方たちの真意を確かめるために来たんです。……中原での商談から戻る道中、沙玻珂さはか殿たちが玉霄関ぎょくしょうかんに幽鬼を放とうとしているのを見つけましたから」


 そこで雷禅は言葉を切り、ぎゅっと両の拳を握りしめた。


「どうしてですか、朱利しゅり殿。何故こんなことを……!」

「何故、と? そんなもの、決まっているだろう」


 絞り出した雷禅の問いに、朱利はぎらりとした眼光を返した。

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